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第三章 鈍さと幼さ 1


 赤い日だ。赤く暗い日。鬱蒼とした樹木から伸びる枝葉が、太陽の光を遮っていた。まるで、空に蓋をするかのように。
 あの子を殺さないで、と女は言った。繰り返し繰り返し嘆願した。だが許せなかった。どうしても。この女は、毒を産んだのだ。
 つまらない闘争に巻き込まれて、どれほどの血が流されたというのか。自分の傍にはすでに親も兄弟も恋人もなく、生まれてくるはずの子供すら踏みにじられた。母となるべきはずだった女は、この女のように、殺さないで、と嘆願する余地すら与えられなかったのだ。
 この女が、毒を産んだばかりに。
 女は死んだが毒はどこかへと姿を消し、つまらぬ争いは終わることなく、田畑を焼き、大地を血で染める。乾くことのない血の染み込んだ土の中に眠るしかない人々に、誓った。
 もう、呪われた一族には頼らない。毒に頼るのではなく、毒を廃絶して、この世界を花で満たしてみせよう。
 そのためならば、どんな手段も厭うまい。
 女を貫き、哄笑を上げる。血で染まった瞼は世界をいつまでも赤く染め上げ続けていた。


「何をしておるさっさと食糧を中に入れんか!」
 油の入った壷を足元おぼつかなく平屋に運び入れ、ヒノトがまず飛ばさなければならなかったのは叱責だった。近隣の大人の手を借りてようやっと町から平屋まで運び終えた食糧品だ。中身を確認したい気持ちはわかるが、それよりもまず先に中に運び入れなければならない。
 子供たちは飛び上がるようにしてヒノトを振り返り、慌てて壷やら行李やらを、ふらつきながら抱えあげ始める。すれ違う彼らと対照的に平屋の外へと足を踏み出し、手を貸してくれたものたちに、約束の賃金を手渡した。髭に覆われた顔からは、暗い瞳が気だるげにこちらを見下ろしてくる。彼らは何も言わず踵を返した。裸足に踏みにじられて響く、じゃり、という砂の音。
(……また、値を吊り上げた)
 嘆息しながらヒノトは今朝リヒトに告げられたことを思い返した。薬草の値段。それをまた、吊り上げると。
 この町に滞在するようになって一年ほどが経つ。最初の値段がどれほどのものであったのか、知るものは多い。違法ながらも、この町で唯一の薬師。知らないもののほうが少ないほどだ。
(……そろそろ限界じゃなぁ)
 次の町へと移動しようと、言い出す頃合だ。大体これほどまで長く、この場に留まろうというほうがおかしかった。
 年下の、子供たちの笑いが聞こえる。子供が一人増えるたびに、値段を吊り上げなければならなかった。スリや盗みはするなと硬く言われている。身が軽いので、軽業を真似て金を稼ごうとしたこともあった。しかしヒノトのそうした行いは、リヒトにとっては許されざるものであるらしい。
 だが、そうもこうも言ってはいられないだろう。薬の値上がりに不平不満を漏らすものは多いし、客もまた払えきれなくなってきている。花町の女将からは散々文句を言われ罵倒された。救いは、先日のように刃物をもって追い回してくる輩がいなかったことだ。さすがに獲物まで持ち出されたら、いくらヒノト自身は身軽だといえども無傷ではすまない。
 先日、そうした輩に追い回されながら無事であったのは、ひとえにエイのおかげであった。
(ろくろく、礼もまだいうてなかった)
 東の大陸から来たという旅人。やけに身なりがよくおまけに見たこともないほどお人よし。あれでよく旅をすることができるものだ。厄介ごとに頻繁に巻き込まれて大変だろうに。
 人を子ども扱いする部分には腹立たしいばかりであったが。
 が。
 柔らかく、人を見るひとだった。
 柔らかく、手を握る人だった。
(……もういちど)
 また会えるかと問うた自分に、彼は笑って、また、と答えた。
 流れてばかりの人間に、「また」などという言葉がないことを、経験上知ってはいたけれども、それでもそのように答えてくれたことは嬉しかった。
「あいたいのぅ」
 白々とした光を雲の切れ間から注ぐ太陽を見上げ、ぽってりとした唇からどこか切実な響きする焦がれた呟きが漏れる。その言葉に次いでため息を落としたヒノトは。
「誰に会いたいのですか?」
 妙に間の抜けた男の声が背後から響いた。
「……エイ?」
 振り向けばすぐ背後に人のよい笑顔を浮かべた青年の姿。
 青年はたいした感慨も見せず、やけにあっさり尋ねて来る。
「リヒトはいます?」
「……」
 思わず唇をつぐんだリヒトは、無言のままエイの膝裏を蹴りつけた。
「いだっ……ひ、ヒノト?」
 振り返ったエイは訳がわからないとでもいう風に眉間に深い皺を刻んでいる。
「妾に会いに来たのではないのか」
「え?」
 聞こえなかったらしい。鈍いというかなんというか。
「何で怒ってるんですか? 何か嫌なことでもありました?」
「知らん! リヒトなら中におる!」
 自分など眼中にないという様子のエイが腹立たしいのか、それとも喜び損ねた自分自身が腹立たしいのか。ある種の情けなさに似た感情に唇を噛み締めながら、ヒノトは鼻息荒く平屋へと足を踏み出した。


「ヒノトは何を怒っているんでしょうかねぇ」
「さて」
 どうだか、と平屋を出て行く少女の背中を見送る薬師の女の声音は、笑みの響きを含んでいた。白い布に隠されて口元を確認することは叶わないが、滅多に感情の色を宿さないとみえる、冴え冴えとした緑の双眸に、小さな煌きがある。笑われているのは明らかだった。
 場所は平屋の奥。戸布に仕切られ作られた納戸の前は、リヒトの定位置であるらしい。彼女は今日も薬効があるらしい草を乾燥させたものや用途の判らぬ粉末の詰められた壷、そしてすり鉢を周囲に並べ、乳棒を手に薬の調合を行っている。
「それで、一体妾に何のようか。もう二度と来ぬと思っておったが」
 陶器の触れ合う音を響かせながら、リヒトが怪訝さの滲み出る言葉を落とした。
「えぇまぁ……実際そのつもりだったんですけど」
「正直な男じゃな」
 リヒトは感心したように大仰に頷き、エイは黙って懐に手を差し入れた。光沢のある布包みを取り出し、薬師の前に差し出す。そして、それを縛る組み紐を解き、布を開いた。
 姿を現す、銀色の刃。
 やはり白い布に感情の判別を邪魔された。が、驚いているのだろう。薬師の小さく唾を嚥下する音が平屋に響いた。
「……主が持ち帰っておったか」
「無断で持ち帰ってしまったこと、誠にお詫び申し上げます。今これをここにお返しいたします」
 薬師は無言で受け取った。失われた医療の民の紋が刻まれた短剣を。
 リヒトは立ち上がり、戸棚から鞘を取り出した。簡素な拵えの鞘に、女の白い手が短剣を収める。いつもは衣服に隠れる白い手は、意外にも若い女の手であった。
「一つ、質問させていただいても?」
 短剣を懐に収めた薬師はしばらく沈黙したまま、薬草の調合を始める。調合のための陶器が触れ合う硬質の音。沈黙は肯定と勝手に解釈して、エイは言葉を続けた。
「この国には、古くから王家に忠誠を誓う薬師の一族がいたそうですね」
 医療の民、カ・エンジュ。
 先だっての王位交代の内乱に巻き込まれ、皆殺しにされたという。
 リヒトは答えない。時折鬱陶しげに彼女は袖口をまくりあげる。その折に覗く腕には皺もなく、白く、細い。布に隠されていて判らなかったが、やはりさして年齢は重ねていないようだった。
 エイは断言した。
「この紋章は、その薬師のもののはずです」
 榕樹に庇護された天秤――それは王に抱かれる薬師を示す。実践用と呼ぶにはあまりに細く軽く、けれども強靭な鋼でもって作られた紋章入りの短剣は、おそらく一族がもつはずの護身具だ。これとよく似たものを、帝国の御殿医も持っているし、エイ自身も携帯していた。
「それは妾のものではない」
 リヒトは調合の手を止め、面を上げた。
「妾はおんしのいうところのその一族では、ない。何を期待していたのかは知らぬが、残念であったな。その短剣は、拾ったものじゃ」
「ならばどうしてそれを売らないのですか?」
 エイは昨夜戯れにランタンの明かりに翳した、短剣の輪郭を思い描いた。鍔の部分にはめ込まれた宝玉が、清んだ光を跳ね返し、床の上に紋章の影を刻み込んだ。純度の高い宝玉である上に、奥に彫刻が施してある。おそらくウル・ハリス産の、最高級の品だ。素人目に見てもわかるだろう。これ一つで、家と奴隷が買える。
「これを売れば、悠々自適に暮らせるでしょう。平和な国に逃げることもできるでしょう。 それぐらいの金銭にはなる。それが判らぬ貴方ではないと、思っていますが」
「買いかぶりすぎじゃな」
「なんにせよ。場末の薬師には不釣合いだと、私は申し上げているのですよ、リヒト」
 リヒトが指で柄尻の紋章をなぞる。苦渋すら滲む眼差しで短剣を見つめた彼女は、小さな嘆息と共に問いを吐き出した。
「こちらも一つ質問してもよいか」
「どうぞ」
「お主、他国の間者か」
「当たらずとも遠からずといっておきます」
「……そうか。……まだ、何かいいたそうな顔をしておるな。エイ殿」
 エイは微笑み、懐から小さな布袋を取り出した。親指ほどの大きさの布袋。紐を解いて、手のひらの上に一つまみ、中身を落とす。
 それをリヒトに差し出して、エイは言った。
「貴方が彼の一族ならば飛び上がって喜んだところですが、まぁあまり関係ないといえば関係ありません。貴方が、腕のいい薬師であることにはかわりがない。最初から、これを頼みたかった」
 リヒトはエイの手から、木屑のようなそれを受け取る。彼女は指先で感触を確かめ、鼻先に近づけると、露骨に顔をしかめて見せた。
「水煙草用の草じゃな」
「依存性の高い、ものです」
「知っておる」
 リヒトが布袋を床の上にそっと落としながらエイの言葉を遮る。
「幻覚症状を引き起こす。高い依存性、中毒性。人を廃人に追い込む、最近この国の貴族の間で流行り始めたものじゃ。月光草[ルーメン・ルナエ]と呼ばれておる」
月光草[ルーメン・ルナエ]?」
「月の光には強い魔が宿るというだろう。それに[ちな]んだものじゃろうて」
 確かに、月光は魔力を宿す光として、魔術師たちの間で重宝される。月の光を魔術発動の媒体として仕様する魔術師がいるという話も耳にしたことがある。また強すぎる魔は人の精神を病ませるという。その説話を所以にしているにしても、人々を狂わせる水煙草に対してあまりにも美しすぎる名前だった。
「なんにせよ、馬鹿馬鹿しい話じゃ。普通水煙草なんぞ、さして毒性のないものであるのにの」
 煙草、と一口にいっても様々な種類がある。
 紙や乾燥させた広葉で巻いた煙草が一般的だが、中には香料を練りこみ噛んで味を楽しむものや、煙管といった道具を使って楽しむ煙草もある。水煙草もその一種で、道具は玻璃製の壷を長い管で煙管と繋ぎ合わせたような形をしているらしい。らしい、というのも、水の帝国ではあまり普及しておらず、エイ自身実物を見たことは一度もなく、資料に添付されていた図画でその形を確認しただけに過ぎないからであった。
 元々水煙草は双獣の王国[ウル・ハリス]砂の帝国[アハカーフ]で茶と共に日常的に嗜まれているものであるらしい。死に至るような中毒性を持つものはほぼ皆無に等しく、むしろ普通の煙草より、毒性は低いといわれるほどだった。
 そのせいか、普通の煙草よりも規制の少ないものが水煙草。それを逆手にとるように、月光草は東大陸に一気に広まったのだ。
「……その、月光草ですが」
 リヒトの前に置かれた水煙草の小さな山を見つめながら、エイはため息混じりに口を開いた。
「今、私たちの大陸で流行っています。発祥はこの国です。私以外にも送り込まれた人々は数多いでしょう。この国に他国からの来訪者が急に増えはじめたのも、これのせいでもあると私は思っています」
 街を観察すれば、安定していない政治に反して、奇妙なほどに他国からの来訪者が多いことは明らかだった。確かに新しい王の即位は、情勢を見極めようとする情報屋たちの来訪を招く。だからといって国自体が病んでいるというのに、あそこまで人がひしめき合うことはないだろう。おそらく、水煙草の買い付けに来ているものもいれば、自分と同じように、各国の王や藩主から密命を受けてもぐりこんだものもいると考えたほうが妥当である。
「貴方が……正確にはヒノトたちが売っていた薬の中には、解毒の薬が混じっていました。私は詳しい医療の知識はありませんが、匂いでわかるものもあります。……この国でも、多少、種類は違うかもしれませんが、流行って、いるのでしょう?」
 エイの問いにリヒトは答えない。彼女は唇を引き結んだまま、軟膏の片づけを始める。陶器の触れ合う音の狭間に、皮肉めいた彼女の呟きが混じった。
「博学なことだ」
 エイは微笑みでリヒトの皮肉らしき言葉を流した。毒を学ぶのは必須なのだ。エイは胸中で呻いた。表面的には落ち着いてきているとはいえども、水の帝国の宮廷の中はある意味、魔の巣窟だった。
 特に下民出の自分に官位を抜かれ、妬ましく思っている輩は後を絶たない。そして毒は、かつての名残で手に入りやすくもあった。おのずとそれに対する耐性も、解毒するための知識も自然と身につく。
「それで、おんしは妾に何をさせたいというのじゃ」
「成分を分析して、解毒薬の処方箋を書いて欲しいのです」
「わざわざこんな場末の薬師に頼まずともよかろうに」
 エイへの同情かそれともリヒト自身への嘲りか。新しい王がたったとはいえどもいまだ滅びの淵にある国の、身分すら証明できない貧民窟の薬師に。
「どうして他国の人間が、わざわざこの水煙草の処方を探して右往左往しているのだと思います?」
「さてな」
 答えを知っている様子であるのに、あくまではぐらかす様子のリヒトに、エイは水煙草を包みごと手に取りながら続けた。
「この水煙草がこの国のものだとわかったのは、これがこの国ならではの草花で調合されているからです。この国の薬草の知識がなければ、ある程度の分析はできても、処方箋を書くに至らない」
 紐で勢いよく包みの口を縛りあげ、それをリヒトに差し出した。彼女の淡い緑の双眸が、エイの指先でつまみ上げられた包みをひたりと見据えている。
「引き受けてはいただけませんか?」
 エイの問いに、リヒトが衣擦れの音を立てながら手を伸ばした。
「期待はするなと先に言うておこう。報酬は?」
「処方箋ができたあかつきに望む金額を持ってこさせます」
「前金はないのか」
「逃げられてもこまりますしね」
「でたらめを書いたらどうするつもりじゃ」
「そんなこと、貴方はしないでしょう」
「なぜ、そう思う?」
「ただの、勘です」
「勘か」
「えぇ」
 エイの回答に、リヒトは小さく笑ったようだった。くっ、という喉の音が空気を奮わせる。
「何かおかしいことでも言いましたか?」
「いや。勘でこのような場末の薬師に頼むのかと思うてな。たいした男だと思うた」
「勘だけではありませんよ」
 明らかにからかいを含んだ女の物言いに、エイは肩をすくめながら応じた。そのエイの瞳を、リヒトの薄緑の双眸が絡め取る。
「エイ殿、何故妾にこの依頼を持ち込んだ?」
 冷ややかな、抑揚を押し殺した問いであった。
「貴方が腕のいい薬師だから、では理由になりませんか?」
 実際他にいい理由が思い浮かばず、エイは嘆息交じりに問い返す。
「先ほどもいいかけたが、それだけでは無理のある理由じゃな」
 リヒトは断言した。
「出会って数日と経たぬ薬師に頼む依頼ではない。密命を受ける間者ならばなおさらな。妾の薬の評判を聞いて妾を訪ねてきたわけでもあるまい。妾は所詮、貧民窟を根倉とする――」
「おっしゃりたいことは判ります」
 彼女の言葉を遮り、エイは頷いた。
 いくら彼女がこの国の草花に造詣が深そうな薬師であるとはいっても、確かに自分はまだリヒトという人となりを知るわけではない。この町では探してもなぜか彼女以外に医者が見つからなかったという事実を別としても。
 確かに彼女は腕の立つ薬師だ。それだけは自分にもわかる。だが例えそうであったとしても。
 どうして依頼するに足りる人物だと、出逢ったばかりだというのに判断してしまったのか。
「勘だけではないというたが、勘以外の理由とはなんじゃ」
 リヒトの追求に、エイは苦笑せざるを得なかった。
「結局、勘ということなのかもしれません」
「ふざけておるのか」
「いえ。ふざけているわけではありませんけれども」
 言ったところで何を愚かなといわれるだけだからだ。
 リヒトを信じるに値すると判断したのは、ヒノトという存在あってのことだった。
 ヒノトは多少ひねたところもあるものの、それでも真っ直ぐな気性の娘だ。彼女を育てたのがリヒトだというのなら、無条件で信じてもいいような気がした。
 そう思う自分を、皇帝は嗤うだろうか。
「まぁよいわ」
「それで、引き受けていただけるのでしょうか?」
「期待はするでない」
 呆れをそのまま吐息に載せて、淡々と煙草を弄ぶ彼女の指先に、エイは視線を落とした。取り扱う草で傷つけることも多いのだろう。小さな傷の目立つ指先だ――間近でみた彼女の指先を思い返しながら、エイは胸中で独りごちた。
「前金代わりに、頼みたいことがあるが。よいか」
 リヒトが思い立ったように面を上げて、口を開いた。
「無茶なお願いでなければ、なんなりと」
 リヒトの目元が、微笑に細められている。
 なんとなく、嫌な予感を覚え、我知らずのうちに一歩身を引いていたエイの耳に、彼女の提示する交換条件が届いた。
「子守を、頼みたいのだが」


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