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第二章 薬師と剣 4


 彼は、微笑んだ。
 こんな笑い方もするのだなと、純粋に感銘めいたものを覚えた。今にも泣き出しそうな、儚い笑い方だった。いつも彼は自信に満ちてみえたから、そんな愁傷な笑い方をするのだと、純粋に驚いた。
『しばらく留守にするけれど』
 彼の手が肩から離れるその間、胸中で彼の言葉を反芻する。留守。外交の仕事に出るのだろうか。だからそのような簡素な服装を身につけているのか。春の陽気に浮かされた思考は、霞みかかってまとまらない。
『後を宜しく』
 ひらひらと彼は手を振って、本殿のほうへと消えていく。礼をとり、自分は小さくなっていく背中に向けて、微笑み、お気をつけてとだけ声をかけた。
 後に。
 彼が自分に向けたたった一言が、自分を押しつぶさんばかりに重みを増すことを、知らずに。


「どこへ行っていたんですか。この二日間。心配しましたよ」
 長椅子に横たわり窓の向こうを眺める自分に、ウルが呆れの眼差しを向けてくる。彼は軽く額を押さえながら、まぁ、と言葉を続けた。
「無事に戻っていらっしゃったからよかったものの」
「心配かけたとは思っている。でも無一文になって帰って来れなくて」
「む、いちもん」
「……あー」
「……深く、追求はしませんけれども」
 彼の言い方から、どうやら察しはついているようだ。エイは軽く額を押さえながら、すまない、と謝罪した。
「さすがに迷惑をかけたとは思った」
「言わなくても判ります。事情がおありになったのでしょう」
 彼はそう述べながら小さく笑い、くるりと背を向けて卓の上の水差しを手に取った。
「……何か収穫はございましたか?」
 水差しから高杯に水を注ぎいれながら、ウルが尋ねてくる。なみなみと水の注がれたその高杯を受け取りながら、エイは苦笑した。
「町の中心は思ったよりも、かなり活気づいているな、と。けれども不安定ではあるね。一時的に浮き足立っているという感じで、危うい感じはある。貧民窟も見てきたけれども……どこの国も、荒れている時は、同じだ」
 そう。荒れている時は同じだ。無気力な大人たちの気だるい雰囲気。彼らの空気を汲み取ってか、逆に空元気を見せてみる子供たち。虚ろな眼差しの赤ん坊。日に焼け、皮膚が硬くなった裸足の足が、緩慢に歩を進める。明日に、怯えるように。
 汗のすえた臭い。病魔の臭い。時に葬られることなく忘れ去られた屍の腐臭。それに[たか]る蝿が、割れた壁を通して家々を出入りする。
 荒れた畑。枯れた水。濁った、空。
 見覚えのある、風景。かつては自分も、その中にいた。
「そっちは?」
 エイはウルを仰ぎ見ながら彼に報告を催促した。城の情勢を探るように要請していたのだ。
「王はいるにはいるらしいですが、姿を見せるのは近習たちの前のみだそうです。女官、兵士たちの前には、一切姿を見せない。見たものも、いない」
「同じことを町でも聞いた。少しも姿を見せず、そのせいで部下が好き勝手をしていると。即位したばかりで、暗殺を警戒しているのか……病は建前、ということかな」
「とりあえず病らしく薬師が出入りしているようですが、奇妙ですね」
「何故?」
「医師団とわずかばかり話をさせていただいたのですが、その前にその一団を廊下で目にしていまして」
「なるほど?」
 動くように指示はしていた。やはりウルはウルらしく自ら探りを入れに動き回っていたらしい。
「それで?」
「薬というよりも、血の臭いの漂う輩でしたね」
「……血の臭いがしているのなら、別段奇妙なことはないのではないか? ウル。手術のあとだったのかもしれない」
「そういう類の臭いではなく、あれは、殺し合いの臭いです」
「判るのか」
 感嘆を込めてそう問うと、判ります、と淡白にウルは返した。ウルがそうだというのなら、確かなのだろう。彼は訓練を受けた、元暗部の人間だ。血と戦場の臭いに対しては、ことさら敏感である。
「薬の臭いがしない医師、か」
 薬草の臭い、と聞いて、エイは昨夜一泊した平屋を思い出した。部屋中に薬草が乾燥の為に吊り下げられ、薬湯の臭いが充満した、平屋。朝起きたときは最悪だった。蹴り起こされたこともそうだが、身体のそこかしこに臭いが移っていた上、臭いが沁みて目がしばらく開けられなかったのだ。
「カンウ様のほうは、何か収穫が?」
 空になった高杯をウルに引き渡しながら、エイは彼に頷いた。
「これを」
 そっと布の包みを懐から取り出して、卓の上にそれを広げた。現れたのはヒノトらの平屋で拾った、あの短剣である。
「凝ったつくりですね。かなりいいものではないですか。どこでこれを?」
「薬師と知り合って、その伝手で」
 詳細は省いたが、ウルはあえて追求はしてこなかった。ただ、薬師の部分に反応したようだ。僅かに瞠目して、彼は声をあげる。
「薬師? 町のですか? うわ凄いんじゃないですか今は殺されるのを恐れて皆雲隠れしてるって聞きましたよ」
「……町に出てないのに耳が早い」
「そりゃそれで一時期食い扶持を稼いでいたことがありますからね。コツさえ掴めば情報網を張ることなんてどうってことはないんですよ」
「……コツって、そんなさばの味噌煮の造り方じゃないんだけどウル」
「え? 食べたいんですか? 造りましょうか? 魚介類は新鮮だから作れそうですよ」
「調味料がないだろう」
「持ってきてます」
 荷物がやけに多いと思ったらそんなものを持ち込んでいたのか。
 時々、この側近の行動がわからない。
 この国の食事にうんざりしたら作ってもらおうと心に決めつつエイは話の筋を思い出し、とにかくと口にした。
「これはその薬師の住居でちょっとした揉め事があって、そこで拾ったんだ。調べたいことがあって、悪いとは思ったけど持ち帰ってきた」
「調べたいこと?」
「これだよウル」
 言って、エイは短剣の柄尻を指差した。そこにあるのは木と天秤をあしらった文様だ。天秤の部分には、肉眼では確認しづらいほどに細かな文字が刻まれている。とても古い型の文字。そしてここまで精巧な彫り物を拵えようとするには、それなりの技量と道具が必要だ。鋼が奇妙に青く見えたので、調べてみれば毒が塗りこんであった。
『解毒の薬じゃ』
(リヒトは解毒と口にしていた。となると、どう考えても、この短剣は彼女が持っていたということになる……)
 あの男の持ち物だとも到底思えない。だがあのほうほうの体で逃げ出した男にしろ、貧民窟に巣食っている薬師にしろ、この短剣を手にするには非常に不釣合いな人間だ。
 エイの、記憶が正しければ。
「これは、医療の民の紋章ではないですか?」
「やっぱり、ウルもそう思うか?」
「それを確認したくて持ち帰ったので?」
「だって、私だけでは確認しきれないもの。資料は国においてきたし」
 ラルトがエイに貸し出した資料は、不出のものだ。こちらに持ち込んで万が一この国の密偵に見つかりでもしたら、侵略か間諜かと騒ぎになる。よって全て頭に入れることでしか情報を持ち出すことは不可能であったのだが、時間がなかったが故に記憶あやふやなものも当然ある。
 医療の民の紋章は、その一つだった。写し絵がかなり劣化していたため、細部まで覚えていなかったのだが、確かに覚えているものもあった。それが、樹と天秤。樹はこの国の榕樹を表し、天秤は薬師の象徴だ。
 この国の象徴としてあるはずの、医療の民。
 それがもはや幻になってしまったと知ったのは、町で住民の話を耳にしてからだ。
 医療の民は、蠱毒交代――つまり権力交代の内紛に巻き込まれ、皆殺しにされたと。
 ウルも既にそれを聞き知っていたらしい。
『この国にもはや医師団などはいない』
 あの、顔に深い切り傷をもつ王の近習の言葉の意味は、そういう意味だったのだ。
 この国は、きな臭い。医療の国でありながら、薬の臭いというよりもむしろ。
 血の臭いがする。
 王が定まっていてなお。
「調べてみる価値はありますよね」
「もう一度この短剣を持っていたと思われる薬師を訪ねて、仔細を問いただしてみる。簡単には、口を割らないだろうけれど」
「カンウ様が直々にいかれるんですか? 部下に探りを入れさせますよ」
「そうだなぁ……」
 こちらも使者の身。動かせる人数もそう多いものではない。エイが頻繁にこの場を留守にするにも問題がある。エイ自身、密命を受けてはいるとはいっても国交の使者としてこの国に足を踏み入れたからには、それなりの役目もこなさなければならないし、それを放棄するようなこともしたくはない。
 思案するエイの脳裏にふと、少女の笑顔が過ぎった。また会えるといったときの笑顔。初夏の朝のように爽やかな、そして明るい笑いだった。
 獲物を振りかざしてくる相手に、震えながらも臆することなく、生きのびられる道を模索していた少女の、冷えた指先の感覚が蘇る。
「ウル。探りをいれなくてもいい。護衛をつけてやってくれないか? こっそりと」
「……誰にですか?」
「その、薬師のところの子供たち、なんだが」
「人数は?」
「九人」
 あっさりとそう答えたエイに、ウルが呆れた眼差しを寄越した。
「……そんなに人手は裂けませんよ?」
「判ってる」
 エイは苦笑した。
「一人で十分だろう。私の勘が正しければ、おそらく子供たちを護衛することで、知りたい情報を持っている輩が尻尾を出すはずだ」
「心当たりがおありで」
 それは問いではなく確認だった。静かに頷くと、御意に、との承諾の言葉。
「ありがとう。後で詳しく話す」
「カンウ様はいかがなされます?」
「とりあえず、予定はどうなっているか教えてくれないか?」
 自分が留守の最中に、改めて滞在時にこなすべき外交関係の予定が組みあがったはずだ。王との面会が果たせなかった自分たちに対して、改めて調整をつけると王の近習は確約した。その日程が今日中に届いているはずである。
「今日は一日何もない様子ですが、明日は朝から会食が入っていますね。それから王宮の見学と施設と学者との討論……明々後日[しあさって]の昼にはドルモイ殿との会談が」
「ドルモイ?」
「最初に面会した、あの王の近習の方ですよ」
 記憶を探って、思い返す。大柄な体躯の、醜い切り傷によって顔を縦に分断されている男。
「あぁ……そうかそう名乗っていたな確か」
「あともう一人、カシマと呼ばれる近習の方がいらっしゃいます。名前、覚えておいてくださいね」
「現在の役人の目録、もしあったら貸して欲しい。名前だけでも一通り目を通しておくよ。……事前に手に入られればよかったのに」
「今は持っていませんが、すぐに用意します。まぁ側近大臣の入れ替わりが激しいみたいですからね。……で、結局どうするんですか?」
 決定によっては、ウルは予定の調整をつけなければならない。エイの意向を追求してくるのはそのためだ。エイは笑った。何気なく手に取った短剣の刃を、軽く蝋燭の火に翳して遊びながら。
「その薬師の元にはいく。この短剣の素性も、本当にその薬師のものなのか確かめておかなければならないし」
「あぁそうですね……まだ確証はないわけですしね」
「十中八九、間違いはないと思うけれども」
 短剣を再び布の上において、エイは嘆息する。これがリヒトのものでないということはまずないだろう。でなければあの場所で、血溜まりの中にこれが落ちていたことの説明がつかない。
「近日中が良いですよね」
「なるべく早いほうがいいに越したことはないけれども。明後日は?」
「どうにか」
「ありがとう」
 礼を言って立ち上がる。言ってはなんだがかなり疲れた。何せ久しぶりに身体も動かしたものだから、体中の筋肉が軋みを上げている。今日中に済ませておきたいこともあるのだが、このままではちっともはかどりそうもない。
「あぁそういえばカンウ様」
 仮眠をとるかと立ち上がりかけたエイに、ウルが思い立ったように声をかけてきた。
「ん?」
 何気なく彼のほうに顔を向けると、いやに朗らかな笑顔がそこにある。その裏に隠された意味を図りかねて、不気味なものをみた気分でエイは思わず一歩後ずさっていた。
「……何」
 にこりと微笑んでウルは言った。
「町に出る際には、くれぐれもスリにはご注意を」
 ぎしり、と石化し、渇いた笑いを貼り付けることしかできないエイに、ウルは意外に間抜けなんですから、と付け加えた。
「落としたかも、しれないじゃないか?」
「それならもっと間抜けです。……スリではなく、かわいい彼女でもひっかけてきてくださいませ」
「……遊びにいってるわけじゃないんだけれどねウル……」
 そういいつつ嘆息するエイの脳裏に、ヒノトの顔がふと過ぎる。
「……ひっかけたといえば、ひっかけた?」
「は? 何をです?」
 空になった高杯を手に持ちながら、ウルが首を傾げる。
 エイは呟いた。
「……女の子?」
 ひっかけたというか、ひっかけられたというか。
 いや、恋人にしたいとかそういう意味は、髪の毛の先ほどもないが。何せ子供だし。
 ウルが、高杯を取り落としそうになりながら、マジですか、と真顔で問うてきた。


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