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第二章 薬師と剣 3


 両脇に荒れた田畑の広がるあぜ道。足元は悪く、小蝿が群れをなして時折視界を塞いだ。雨季の名残の水溜りをゆりかごにして育ったらしい蚊が、耳元で耳障りな羽音を立てている。
「はぁ……」
 ヒノトの手を引いて平屋への道を歩きながら、空いている手で耳元の蚊を適当に追い払いつつ、エイは深々と吐息を零した。
 どうやら、町でのひと悶着は、さして珍しいものでもないらしい。
 場所を変え、残りの薬草を全て売り払った後、これで恩義に報いたと城へ戻ろうとしたエイを、引き止める輩は後を絶たなかった。
 つまるところ、薬草の値段にけちをつけにくる輩が後を絶たなかったのだ。
 そんな状況に、少女一人を、置いていけるわけがない。
 だがヒノトも非常にこの状況には慣れたものらしい。相手にするなとばかりに逃げる少女に並んで、ひたすらエイも走ることとなった――初めて出逢った折に披露されたヒノトの逃げ足の速さや身軽さは、このようにして培われたらしい。だが全てに対して逃げ切れるわけもなく。その場合は、エイがどうにか追い返した。武術のたしなみはあるとはいっても、人を守るとなると話が異なる。事実、時折刃物を持っている相手も幾人かいて、この午前の間だけで、どれだけ肝を冷やしたことか。人を傷つけることよりも守ることのほうがはるかに難しいということを、身をもって実感させられた。
 城にも戻ることもできず、自分の非力さを自覚し、エイはつい自己嫌悪に陥りそうになる。
 城下の様子はこの二日でよく判った。この国の状態が、一体どのようであるのかも。
 かつて医療の国として名を馳せた国は今、薬の枯渇に喘いでいる。
 医術の枯渇に喘いでいる。
 貧しすぎて、知識がなさ過ぎて、空腹のために身体が動かないのだということすら、皆わかっていない。
 それは、ヒノトと関わったほんの一日程度で、よく判ったのだが。
(……陛下の命を投げ出して、私は何をやってるんでしょうね……)
 肝心の皇帝の命を、結果、投げ出す形となっている。
 曲がりなりにも、一国の正式な使者が、国についた翌日から行方不明になっていては面目も立たないだろう。ウルは優秀な男なので、どうにか取り繕っているであろうが。それにしても情けないことこの上ない。
「何をおかしな顔をしておるのじゃ?」
 強引にエイの手を引く少女は、薬草もとにかく全て売り払ったし、怪我一つこしらえることなく帰宅できるということでかなりの上機嫌であった。彼女の物言いから推測するに、打撲裂傷をこしらえることは日常茶飯事であるらしい。エイの手をぎゅうぎゅうと握って歩幅も大きくあぜ道を歩いている。
「……そろそろ帰りたいんですけど」
 というか、本当に、城に帰らなければいけない。帰りたい、というよりは、帰らなければならない。
 が。
「駄目じゃ」
 ヒノトは背中に負う空の行李を背負いなおして、あっさりといった。
「何でですかっ!?」
「おんし暇人の旅人であろう?」
「私はそれなりに忙しいんですよ!」
「大体うら若き乙女を途中で放置して男がすたらんか? 大体送っていくとおんしいうたであろう」
「ここまでくれば平気でしょう!? だって平屋まで目と鼻の先ですよ?!」
「目と鼻の先なら、最後までいくも行かぬも一緒じゃろうが。一度いったことは責任を持たねばならぬと、リヒトも口やかましいぐらいにいうておる」
「あのリヒトが口やかましいぐらいに物事いうとは思えませんが……いだっ」
 前触れなく思い切り頬をつねられてエイは顔をしかめた。背伸びをするヒノトの細い指がエイの頬を力いっぱい捻り上げている。頬を膨らませて口先を尖らせながら、彼女はさらにぐいぐいと頬を引っ張った。
「おーとーこーのー癖に物言いが多いぞおんし」
「いだだっ。五月蝿いですねぇどうせ愚痴っぽいとかよく言われますよっ」
「……いわれるのか?」
「……まぁ」
 皇帝とか、女官長に。
「どうでもいいですがこの手を放してくださいよっ」
 少女の手首を掴んで口元から外す。痺れた痛みがかすかに残る頬に手を当て、エイはまぁいいか、と気を取り直した。
 関わってしまったものはどうしようもない。例え彼女をここで放り出しても確かに後ほどきちんと帰れたかどうか気になって仕方がなくなるだろう。どうせもう、会うことはないだろう少女だ。関わった以上区切りをつけておくべきだと、どうにか自分を納得させる。
 空を見上げながら小さく嘆息して、エイはヒノトの手を引いた。
「じゃぁ早く行きますよ、ヒノト」
 平屋まではあと少し。だが平屋から城までは急いだとしても一刻以上かかる。急ぐに越したことはないのであるが、一方手を引かれた少女は先ほどとはうってかわった妙に頼りなげな眼差しでエイを見上げてきた。
「……どうかしましたか?」
「……エイは、別にすることがあったのか?」
「え?」
「……おんし、本当に別にすることがあったのか? 迷惑じゃったか?」
 エイの手を握ってくるか細い指先に力が込められる。突然そのようにしおらしくなられても。当惑しながら、エイは小さく首を横に振った。
「あちらのほうはどうにかなりますから」
 どうにか、なっていて欲しい。
 昨日の今日であるから、物事の進展があるとも思えないし、おそらく王宮の要職の人々との会食や会談も、今日の夕刻あたりからだろう。そのあたりは、ウルが具合よく調整をつけてくれていることをただ願う。
 少女はぱっと顔を輝かせた。
「ならいいのじゃ」
 花のような笑顔だ。無邪気で、屈託がない。
 どうのこうのいいながら、何ゆえこの少女に最後まで付き合ったのか、自分自身では理解している。
 つまるところ、彼女の裏表のなさと、貧しく荒れた場所であっても逞しくあるその生命の輝きに、惹かれたのだ。存外、自分はこの少女を気に入っているらしい。
 自分を学館へと老師が推薦してくれて以来、自分の周囲には嫉妬と軽蔑が渦巻いていた。宮廷への推挙の元ともなったフベート地方領主の交代劇に関わったときにも、気の休まることなどほとんどなかったし、得がたい君主であるラルトの元で働くようになり、それなりに気の置けない同僚を得た今でも、羨望と嫉妬の入り混じった眼差し、もしくは取り入って利用してやろうという悪意から逃れることはできない。
 だがこの少女は、本当に屈託なく、善意も悪意も何もなく、ただエイに接している。そのことが酷く新鮮で、エイを安堵させているのだ。
 気晴らしには、なった。
 明日からまた頑張れるだろう。
「それにしても毎日あのような輩から逃げ回っているんですか? ヒノトは」
「今日は特別数が多かったが、気にするな。最近特に多いのじゃ」
 エイの問いに、ヒノトはたいしたことでもないかのようにさらりと答える。だが、あの数は異常だった。今日も売り場を幾度変えたかわからない。エイがこの少女を放っておけなかった理由もそこにあるのだ。
「最近……?」
「値段を上げた。だからじゃと思っておる」
 少女は大きくため息をついた。いっそ滑稽なほど、肩を揺らして。
「こっちもこっちで、食い扶持が多いのじゃ。蠱毒が定まったというても、何一つ変わらんし、逆に貨幣が出回って、物々交換はできんようになるしものの値段は高くなっていくばかりじゃ。噂によれば、蠱毒はどこかに雲隠れしておるゆぅ話でな。それにつけこんだ阿呆が、好き勝手やっておるという話じゃぞ」
「……へぇ」
「……何をそんなに感心しておる?」
「いえ。何かヒノトからまともな話が聞けたなぁと」
 一瞬むっとした表情を浮かべたヒノトがすかさず回し蹴りを入れてくる。反射神経の鈍いエイはとっさに反応することも適わず、まともに腰に蹴りを受けた。
「っつぅ……」
 思わずその場にかがみこみ背中を押さえながら、エイは痛みを訴えた。
 これだけ見事な蹴りを繰り出せるのなら、護衛代わりの自分など要らないのではないか。
 少女は愛らしい容貌をしているが、まこと、短気である。
「馬鹿にしおってからに!」
 ふん、と鼻を鳴らしながらも、繋いだ手を放さないところが子供というかなんというか。やれやれと諦めの吐息を零しながら、エイは再び立ち上がった。
 今日は特に、襲ってくるものたちが多かったとヒノトは零していた。それについて引っかかることが一つあるが、あえて伏せておく。これ以上関わり合いにならないというのなら、追求するべきことでもない。
 だが、いくら逃げなれているとはいってもヒノトは非力な少女に過ぎない。獲物を携えた大の大人に追い回されて、恐怖を覚えないはずがないのだ。ヒノトがねだるまま、手を繋ぎ続けている理由もそこにある。少女のか細い手は、じっとりと冷たい汗で濡れて、冷えていた。少女の手の冷たさを思えば、責務から遠ざかっているという事実に覚える焦燥もどうにかねじ伏せることができる。自分のことは、どうにかなる。ただ、自分の面目を潰すことはラルトの面目を潰すことに等しい。それが、苦しい。
「この強欲くそババアが!」
 その叫びは。
「……?」
 エイを、思考の海から引き上げた。
 坂を上りきり、ヒノトの住居となっている平屋は既に目の前であった。その平屋から男が一人飛び出してくる。身なりはよくもなく悪くもなく。ただ、貧民窟にいることが多少不釣合いに見える、平民の男だった。顔を真っ赤に紅潮させて、憤怒の表情で戸布の奥を怒鳴りつけている。
「てめぇこそ医者の屑だ! 毒にあたって死にやがれ! どうせ俺たちに売りつけていた薬も、ろくでもないやつなんだろう? はっ。藪医者が!」
 その叫びは声すら裏返っており、拳は爪が食い込むほど強く握られて血の気を失っている。まさか平屋に戻ってまで。呆然とするエイの横で、ヒノトが鉄砲玉のように飛び出していた。
「ヒノト!」
 慌ててエイは、ヒノトの腕を手に取った。男は遠目にみてもわかるほどの傷を腕に負っている。一体何があったのか不明なままで、場に踏み込むのはよくない。
「エイ放せ!」
 暴れる彼女を背後からどうにか拘束したのもつかの間、彼女の代わりに外で作業をしていたらしい子供たちが次々と男に飛び掛っていった。さすがに身体一つで他の子供たちまで抑える余裕はないし、距離もある。あぁ、と頭を抱えたい気分になりながら、エイは脱力した。その拍子にヒノトがするりとエイの腕を掻い潜り、駆け出していく。平屋の戸口に、彼女は飛びついた。
「リヒト、無事か!?」
 子供たちに一斉に飛び掛られた男は、ほうほうの[てい]で平屋の前から逃げ出している。やめろ、と子供たちを制止しようと息を吸い込んだエイは、その姿のまま静止した。戸口に立つ、リヒトの冷ややかな眼差しに射すくめられたからだった。彼女は別段、自分を睨め付けたわけではないらしい。即座視線を子供たちと男のほうへと移動させていた。
「やめんか」
 リヒトの一言は、強力だった。
 声量はさして大きくはない。むしろしゃがれ声である分、聞き取りにくいはずである。が、彼女の声は距離のあるエイの元までよく届き、逃げ出した男たちにさらに飛び掛らんとする子供たちの動きを押しとどめた。
「リヒト、あの」
 子供たちの一人が抗弁の声をあげるが、リヒトの一瞥がそれを制する。蛇に睨まれた兎のようだ。
 ある意味、憤ったときの水の帝国の皇帝よりも、怖い。
 エイはただ足元を地面に張り付かせ、その場でことを見守ることしかできなかった。
「なんといわれようと、おんしに薬は売らん。妾の言うた値段が、払えぬのなら」
 リヒトが、手に携えていた小袋に視線を落とし、それを男のほうへと放った。布を、藁を編んだ紐で縛っただけの小さな袋には、砂に似たものが詰められているのか。それはしりもちをつく男の傍らに、とさりという音を立てて落下した。
 薬師は男に向かって吐き捨てる。
「解毒の薬じゃ。それをやるからどこぞへとゆけ。二度とくるな」
 まるで、氷の刃のように鋭利な声音だった。
 男はしばし茫然としながらリヒトを見返していたが、彼女の一睨みに、慌てて小袋を拾い上げ、足元を滑らせながら駆け出した。エイの横を通り過ぎ、彼は坂道を転がるようにして駆け下りていく。
 ふと、リヒトの視線が持ち上がり、エイのそれと合わさった。彼女の瞳からは冷ややかさは失せている。だが、僅かであるが助けを求めるような、何かを請う色が、その双眸に宿っていた。
 それは本当に、一瞬のことであったのだが。
 リヒトは無言のまま平屋の中へと姿を消していく。ぱさりと戸布が落ちる音を合図として、子供たちものろのろと起き上がり、平屋の中に入っていった。
 リヒトの後を追いかけてヒノトもまた平屋の中へと姿を消し、その場にはエイ一人が取り残される。何なのだ、と嘆息しかけたエイの視界を光が過ぎった、男のものと思われるちいさな血溜まりの中で、鈍く輝くものがある。
 歩み寄り、何気なくそれを拾い上げる。
 護身用と思われる、華奢な短剣だった。
 造りはこのような貧民窟の外れの平屋には、酷く不似合いなほどよいものだった。王宮に献上しても差し支えないほどに繊細で、凝った造りをしている。柄尻の部分に木と天秤をあしらった文様が掘り込まれ、鋼は細いが刃こぼれ一つ見当たらない。懐紙でひとまず血糊を拭えば、美しい青みを帯びた銀が太陽の光を照り返し顕わになった。
(……誰のものでしょうかね?)
 エイは、首を傾げた。
 あの、逃げ出した男のものでないことは確かだが。
「エイ」
「はい!?」
 唐突に手を引かれたエイは慌てて短剣を取り落としかけた。反射的にそれを懐に隠しつつ、声をかけてきた少女を見下ろす。
 手を引いたまま神妙な表情でエイを見上げてくるのは、無論ヒノトであった。
「行李……」
「あぁそうですね」
 背負っていた空の行李をヒノトに譲り渡す。それを腕で抱えながら、ヒノトがばつの悪そうに視線を伏せた。
「どうかしましたか?」
「……すまぬな。ここまでせっかく来てもらっておいて……その」
「いいですよ。帰ります」
 ヒノトの意図を汲んで、エイは頷いた。おそらく先ほどの騒ぎの件で、家族内々の話でもあるのだろう。
 元々ここには長居する必要はなかった。休憩は欲しいとは思っていたが。
 水はまだ残っているし、塩の粒もある。
 大丈夫だろう。
「エイ」
 ぎゅっと手を握り締めてくる少女は、不安そうに呟いた。
「また、会えるよな? いつだって、ここに来てよいのじゃから」
 それは――。
 期待できない、といいかけ、エイは懐に入れた刃物のひやりとした冷たさに口を噤んだ。
 懐紙で包んだ刃の部分を、指の先で触れて、えぇ、と微笑む。
「また」
 少女は嬉しそうにぱっと笑い、次の瞬間には行李を抱えたまま平屋の戸口のほうへと駆け出していた。
「きっとな!」
 笑った少女は夏の花のように凛として、その濃い緑の瞳は生命の息吹を感じさせる。
 その笑顔を好ましく思いながら手を振り、姿が見えなくなったところでエイは懐からそっと短剣を取り出した。
 気になることがある。
 そのために、また会えるかと屈託なく問うてくる少女に肯定を返したのだが。
 彼女の笑顔があまりにも眩しすぎ、何かを欺いてしまったような罪悪感に駆られ、エイは本日何度目かしれないため息をついた。


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