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第二章 薬師と剣 2


 彼の手が、自分の肩に、触れる。
 その手は冷えていた。体調が優れないのかと顔色をうかがったが、彼はいつもの通り、あの、どこか飄々とした、不敵な微笑を浮かべているだけだ。血色もよく、別段変わった様子は見られない。
 似ているな、と思った。皇帝に、その表情が。親戚同士であると聞いたから、似ている部分があったとしても、決して間違いではないのだけれども。
『どうかいたしましたか?』
 彼は答えない。ただ、春の風が頬を優しく撫でていた。


「まぁ、当然といったら当然ですよね……」
 嘆息し、ぼんやりと空を眺めやると、傍らから鋭い声が飛んできた。
「当たり前じゃ」
 傍らに佇む少女を肩越しに見やれば、つんとすましたあどけない顔。彼女はてきぱきと手元の薬草を分別していきながら、先ほどと同じ鋭い声音で言葉を続けた。
「働かざるもの喰うべからずというであろう。一宿一飯は労働で返せ」
「……異論はありませんけれども」
 控えめに肯定を示して、エイは再びため息をついた。ウルになんと言い訳しようか、そればかりを考えながら。
 夜明け前にヒノトに蹴り起こされ、連れ出された場所は昨日も嫌というほどに歩き回った、市場として役割を果たしている通りである。まだ日も昇りきらないというのに、通りを往来する人の数は多い。皆少しでもよい場所があれば、自らの陣地だといわんばかりに小脇に抱えていた敷物を、舗装の為されていない道の端に広げ、売り物であろう果物や野菜、小間物を並べていた。
 ヒノトが店を構えた場所は、意外にも奥まった目立たぬ空間だった。商売に向いていそうな場所が空いていたにも関わらず、ヒノトは路地裏といってもいいような場所を迷わず選んで茣蓙[ござ]を広げている。他の商売人たちと同じように、売り物――リヒトが作ったらしい薬の数々を綺麗に周囲に並べる彼女を見下ろしながら、エイは問いを投げかけた。
「何故このような場所を選んだのです? よさそうな場所は他にもあるでしょうに」
「薬を売っているところなんて見つかってみぃ。兵士にひっぱっていかれてしまうからの」
「……はぁ?」
 何故薬を売っていると兵士に捕まってしまうというのだ。首を捻るエイに、ヒノトは渋面になりながら言葉を続けた。
「この国では、薬を売るにも免許がいる。リヒト曰く、むかぁしむかし、この国で医学が栄えてたころの名残じゃそうじゃ。藪医者があっちこっちで商売するのを防ぐためだったと、リヒトはいうておる。そのかわり昔は医者になりたいいう奴には、王様が金を出して勉強させてくれていたそうじゃ。今は医者どころか、藪医者すらおらんというのに、古い法律だけは残っているということじゃな」
「……そんな馬鹿げた話」
「まったく、馬鹿じゃの。蠱毒が定まったいうても、まったく何も変わっておらんし」
 盛大にため息をつく少女に、エイは思わず同情した。かつて、医療大国だったからこその制度。だが現在では逆にその制度が、医学に携わるものがその職を全うすることを難しくしているなんて。
「……おかげで薬の値段を吊り上げても、買うてくれる奴は沢山いるけれどのう」
 自嘲ぎみのヒノトの呟きに、なんと言葉をかけるべきか逡巡していると、最初の客がやってきた。ヒノトと年はそう変わらない痩せた少女が、無言で茣蓙の前に佇む。ヒノトは少女を一瞥しただけで迷わず薬を選びだした。少女の拳が伸びて、宙で静止する。ヒノトの代わりにエイは少女の拳の下に手を伸ばす。ややおいて、泥だらけのくすんだ貨幣の重みを手のひらに感じた。
 少女が踵を返すと同時、次々と客がどこからともなく姿を現した。背を曲げたみすぼらしい老人から、年端のいかない子供、少しばかり身なりのいい婦人と、客層は様々だ。だが誰もが疲労を目元ににじませ、おびえた目でヒノトを見下ろしている。薄汚れた金銭をエイの手に残して、彼らはヒノトが次々に用意する薬を引き取っていった。
「……誰も、何も言わないのに、売る薬をどうやって選んでいるんですか?」
「皆同じ面々じゃ。一年も相手にしておれば、何を売ればいいかぐらい嫌でも覚えるからの」
 薬を捌きながら、少女は答える。いつものあどけなさはなりを潜め、その横顔は酷く大人びて見えた。
「一年?」
「この町に来たのは一年前じゃ。その前はあちこちを転々としていた」
「衛兵に捕まるからですか?」
「多分な。ようは知らぬ。ある日突然リヒトがいうのじゃ。行くぞ、と。そうしたら、妾らは移動する。じゃが一年も同じ場所に留まっておるのは、珍しい。……が、そろそろまた行くぞというかもしれん」
 嘆息交じりに呟く少女の横顔には、哀愁が漂っていた。かける言葉を失って口ごもったエイは、ふと頭上に指した影に面を上げた。体格の良い男が、自分たちを見下ろしている。ヒノトは冷めた表情を男に向け、ひさしぶりじゃな、といった。
「しばらくではないか。金は持ってきたのか」
「貴様、唯一の薬売りだからって調子にのるなガキの癖に」
 男の顔には明らかに憤りが見られる。男と小柄なヒノトとでは、熊と猫ほどの差があった。が、ヒノトは臆することもなく、冷ややかな眼差しを男に投げかけている。
「金を出さぬのなら薬はやれん」
「ふざけんな! 毎回毎回値段を吊り上げやがって!」
「他の者たちにはきちんと代金を払ってもらっておる! 何ゆえおんしだけ特別に安く薬を売らねばならんのか!」
 身体を震わせ威嚇する男に、ヒノトが立ち上がって対峙する。顔を紅潮させて憤りをあらわにする男の拳の震えを見たエイは、ヒノトと男の間に割って入った。
「どけ! 何なんだお前は!」
 間に割って入ったエイに、男は怒りの矛先を向けたようだった。エイと比べると一回りほど大きな体躯に圧倒されると同時に、頭は酷く冷えていた。ヒノトを背に庇いながら、エイは嘆息する。
「彼女の手伝いをしています。……薬代を持ち合わせていないのなら、お帰りになられたほうがいい。そのようにして怒鳴ったところで、体力を消費するだけですよ」
「あぁ?」
 エイはざっと男の身なりを観察しながら、彼が日ごろ碌なものを口にしていないことを見当づけた。体格に任せて暴力を揮いなれてはいるようだったが、動きは雑で、武芸に長けていることは決してないだろう。それだけ確認して、エイは無造作に男のほうへと手を伸ばした。骨の太い手首を掴みねじり上げる。
「っ……!」
「だからほら、早く行ったほうがいいですよ」
「な、何なんだおま……その力!」
「別に力は強くないんですけど……」
 掴んでいる手首の角度を少しばかり変える。男の顔色が完全に変わり、彼の口から漏れるのはもはや威勢のよい怒声ではなく、悲鳴交じりの呻きばかりだった。
 実際エイは非力である。学館で武芸を習った際、自分は長剣や斧といった重量のある武具一切に嫌われていた。今行っていることに、さして力は必要ではない。護身術の一種だった。
「体力を消費しますし、痛いことばかりで、いいことがない。お帰りになられたほうがいい」
 男はとうとう両膝をその場につき、エイではなくその後ろに隠れるヒノトに恨めしげな視線を叩きつけた。骨のきしむ痛みにか、顔は苦渋に歪んでいる。その表情に圧倒されたらしいヒノトが、背後で小さく震えている。気配で、エイはそう感じ取った。
 もういいだろうと男のねじり上げている手首を離してやると、男は解放された勢いでそのまま地面に顔を埋めた。手をその場に突き、荒い呼吸を繰り返した後、こちらを一瞬だけ睨みすえてその場から駆け出す。
 男の背中を見送りながらほっと一息をついたエイは、背後から響くまばらな拍手を耳にし、振り返った。
「……どうかしましたか?」
「いや……」
 呆けた様子でぱちぱちと拍手を打っているのはヒノトである。彼女は妙に感心した面持ちで男の消えた通りのほうを見つめていた。怪訝さから首を捻るエイを見つめ返してきた彼女は、むぅと唸った後に感嘆の声を上げた。
「おんし、意外に強かったのじゃな」
「……意外にって何なんですか意外にって」
 がくりと肩を落としながら、エイは思わず呻き返していた。
 自分が非力であることは自覚している。外見からも、武芸を嗜んでいるようには見えないだろう。少女の翠の目に映るのは、明らかに年若でやせぎすな男だ。エイ自身の目から見てすら、強さからはかけ離れているように思える。
 もう少し体格がよければなと思うことが多々ある。決して貧弱だというわけではないのであろうが、精悍というよりも繊細という形容のほうがしっくりくる容貌。いくら技術を磨いても体技が得手でない分、体格の不利を感じることはままある。
 実際、絡んできた相手がさして武術の心得のないもので助かったと思う。一人で危うい状況を逃げ切る自信はあるが、人一人を守り抜いて、となると状況が少し異なっているからだ。
「いつもこんなことやってるんですか?」
「いつもではないが、最近多くなったな。エイ、手伝え。店じまいじゃ」
「店じまい?」
 手早く荷物をまとめ始める少女に、エイは驚きの視線を投げかけた。薬はかなり売りさばかれていたが、まだ店じまいには早い気もする。
「人が集まりすぎたのじゃ」
 ひとまず腰を折り、少女に手を貸しかけたエイは、彼女の目配せと潜められた声に視線だけを動かした。
 先ほどの騒ぎを聞きつけて、確かに人が集っている。先ほどの薬を得るために来たものたちとは明らかに違う気配をもつ野次馬という名の人々が、通りの影から、建物の窓からそっと顔をのぞかせこちらを見ている。
 砂避けの薄い布を頭から被った少女に続き、エイも荷を背に背負った。路地裏の奥のほうへと逃げるようにして駆け出す少女の後を追いかけるため、姿勢を低くし。
 ふとエイは、背中に突き刺さるような痛みを覚えた。
 明確に述べるならば、それは痛みと呼ぶにはあまりにも実体を伴っていなかった。背中に突き刺さったそれは、いうなれば、空気である。捕食者が獲物を視界に納めた瞬間に放つような、鋭い視線とでもいおうか。殺意とはまた異なった種類の、鋭い何かが、エイの背筋を焼き、振り向かせた。
 刹那。
 エイに向かってか放たれた何かと、エイの視線がかち合った。
 一瞬であった。
 白い外套を頭から被っていたがために、その何かを放っていた主を確認することは容易く。エイは雑踏の中にすぐに紛れた人影に顔をしかめた。被り物のために容貌は確認できなかったが、おそらく男。影法師のようにさりげなく雑踏に紛れていくその様子は、ウルの身のこなしをエイに思い起こさせる。
「エイ? 何をしておる?」
 追いつかないエイに痺れを切らしたのか、いつの間にか戻ってきていた少女が袖を引いてきた。頬を膨らませる少女にどこか微笑ましいものを感じつつ、彼女を庇うようにして背に手を置いた。
「エイ?」
「行きましょう」
 急かすエイに対してだろう、頭上に疑問符を浮かべる少女は、口先を尖らせて低く呻いた。
「おんしがさっさと来ぬのが悪いのじゃ。ばか者め」


「そうか。見つかったか」
 主君のいない玉座。
 玉座は血塗られてある。何時の時代も。どの国も。だが時に血塗られず温和に譲り渡されることもある。そうして繁栄する国も数多くある。
 だというのに。
 この国の玉座は常に血で贖われる。平和に、互いの理解の下に譲り渡されたことなど、築かれた歴史の中で一度たりとも存在したことがない。
「この国は病んでいる」
 報告を終え、礼をとって面を伏せている部下が、怪訝そうに面を上げる。太い木の根が景色を割るように中央に走る窓を見つめる。樹木に、森に、抱かれ、太陽の熱に焼かれ、雨の洗礼に遭う国。
「おかしなことだ。この国は、かつて医療の国と、讃えられたというのに」
 たとえ熱と水の洗礼に遭い、森に他国との国交を閉ざされていても、作物が十分に育たずとも、この国は生き延びてきた。うちに巣食う毒を薬に変えて生き延びてきた。
 だが。
「病みすぎて、毒を薬に変えることなど、到底できそうにない」
 手の内にあるのは、古い遺産そればかり。
 毒を薬に変える力はもうこの国には存在しない。
 静かに瞼を閉じ、潰れた片方の瞼に指を寄せた。耳の奥に、女の悲鳴がこびり付いている。
『お願いあの子を』
 それは、無理な願いというものだ。
「毒は、潰さなければならない」
『ころさないで……』
 女の嘆願を記憶の底に沈める。
 鼓膜に年月を経てなおこびり付く酷く悲痛な声音は、この国の呪いに喘ぐものの悲鳴そのものだった。


(ここの人たちは、身体に傷を持つものばかりだ)
 城の内部の案内役を引き受けてくれている男は、赤毛を短く切りそろえた顔の半分に酷い火傷を負った男だった。醜く引き連れた肌と潰れた瞼が顔の半分を隠す覆いから零れてみえる。人の傷など見慣れてはいたが、この城の中で働くものは頓に酷い傷を負っているものが多かった。そのどれもが日常生活に支障をきたすことがないほど癒えてはいても、往々にして目に入る醜い傷跡は否応にして目立つ。そして、その傷が疼くのか、それともこの広くも薄暗く陰鬱な石造りの城のためか、行きかう人々の顔全てに暗い影が差している。
(……病んでいる)
 こういった空気に、ウルは覚えがあった。前を行く背中を見つめ、周囲に気を配りながら、そっと過去を思う。
 染み付いた腐臭。重くのしかかる過去からの負の遺産。愛した者たちの慟哭が何時までもこだまのように反響する。
 この国は。
(陛下、この国は、病んでいます)
 かつての水の帝国のように。
「どうかなさいましたか?」
 いつの間にか足を止めていたらしい自分を勘繰って、案内役の男が問うてくる。名を、カシマといったか。顔の傷を裏切って、穏やかな面差しをした男である。こちらも王の近習だという。あの、王との面会を拒絶したもう一方の近習――ドルモイと呼ばれていた――とは、随分と対応の仕方の異なる男だった。何も、と首を振って返すと、穏やかに微笑まれた。
「つい、珍しくて」
「根がですか?」
「えぇ。このようにして、建物を侵食している巨大な根というのも……噂には聞き及んでいましたけど、やはり凄いなと」
 広い広い、広間のような空間が回廊として機能している。小国ではあるが、遺跡といっても差し支えない城の規模だった。歴史の長さの分改築を幾度か重ねており、周辺諸国とは比べ物にならぬほどの広さを誇る水の帝国の宮廷とは、また違った荘厳さがある。人の身丈ほどの石を積んで作られた城に網の目のように絡みつく巨木の根は、ある種の威圧感を持っていた。
「榕樹のなかでも、とりわけ古く、神がまぼろばの土地から直に下ろされたと言い伝えられている神木です。エンジュといいます」
「エンジュ」
 医療の民の名前は、この巨木から来ているのだろうと、エイは思った。
 カシマの言葉を反芻しながら、ウルは改めて天井を見上げた。びっしりと何かが掘り込まれた石の天井。そこを貫いて、絡みつく巨木の根。それは壁にも細い根を伸ばしている。古い石が、崩れ落ちないように支えている。その根の影に時折見え隠れする、傷の跡。
 鋼によって、付けられた傷。染み込んだ、赤黒い何か。
「この国の王を蠱毒と呼びます」
 表情を変えていたつもりはない。だがさすが王の近習の位置に就くだけあるのか、カシマが再び歩き出しながら口を開いていた。
「お聞きになりましたか?」
「えぇ。面白い……といっては失礼でしょうが、変わった呼び名ですね。ど……薬に王をなぞらえるなど」
 毒、といいかけて言葉を改める。蠱毒は医の学のあるものなら一度は耳にしたことのあるだろう、幻とも呼ばれる妙薬だ。大抵、人を呪い殺す折に使われるという。
 壷にありとあらゆる蟲を詰め、最後に残った蟲を材料として使う、妙薬。
 それに王を準えるなど、とても正気の沙汰とは思えない。むしろ呪われているといってもいい。
 その意を汲み取ったのか、カシマは自嘲のように笑って見せた。
「血塗られた国です。御手をご兄弟の血で染めあげたものが、玉座に腰をつけることができる。先王が崩御なされたときは、本当に酷かった。新しく思える壁の傷や血の染みは、そのときのものです」
「はぁ」
「私たちの傷のほとんども、そのときのもので」
 気付かれていたか、と内心舌をだし、ウルはカシマに苦笑を零した。カシマはウルの苦笑を笑い飛ばし、かまいませんよ、といった。
「あの時、城で内紛が起きまして。それに巻き込まれたものは何かしら傷を負いました。女子供も多く死にました。……病んでいると、お思いになられたでしょう」
「……えぇ」
「この国が医療の国であったのは、もはや遠いことなのですよ」
 苦笑しながら呟くカシマに笑みを零しかけ、ふとウルは彼の背後を横切る白い集団を視界に入れた。
 白い外套に身を包んだものたちがぞろぞろと、通路を横切り再び暗がりへと消えていく。一見医師のようにも見えたが、それにしては。
(血の臭い)
 暗部特有の、血の臭いを、纏いすぎている。
「……ですから、わざわざお体もそう強くないのに、海を渡られてこられて。カンウ様もお気の毒です」
「は……? はぁ……」
 会話の筋を失っていたウルは、慌ててそうですね、と相槌を返す。そういえば今朝、エイは船酔いの影響で体調を崩しているということにしているのであった。
 何も連絡を寄越さず、あの責任感の強いエイが帰ってこないとは珍しい。皇帝に与えられた命を、簡単に放棄するような青年ではないからだ。彼が町に下りたのも、予想外に空いた一日を何もせず潰すことを、責任感が彼自身に許さなかったことに起因すると、ウルは考えている。
(何にも、巻き込まれていなければ)
 エイも学館で十分に武芸を嗜んでいる。護身用の短剣も渡してあるし、何かあったとしても自分ひとりの身を守る程度のことはできる男だが。
 彼の場合、他人が絡むとそうはいかなくなるのだ。
 目の前で彼に助けを請うものを、捨て置いていけない気性だから。
(あの人は、優しすぎるんですよね)
 カシマの後について歩きながら、ウルは嘆息する。エイは自覚こそしていないものの、非常に高い政の才を持っている。おそらく他国に赴けば、宰相としてその腕を揮えるのではないか。けれども水の帝国には政における天才がいた。
 皇帝ラルト・スヴェイン・リクルイト。
 そして今は外交のためにという建前でもって国を留守にしている、宰相ジン・ストナー・シオファムエン。
 彼ら二人には遠く及ばぬかもしれない。だがエイの政治の才が劣っているとは決してウルは思わない。
 エイに決定的にかけているものがあるとすれば、それは唯一つ、覚悟と、矜持だ。
 皇帝は、国を立て直すこと、出来る限り家臣を、民を愛することに心血を注いでいる。だがそれと同時に、目的のためには、いらぬ物事は全て切り捨てている。ただ一人の妃――ティアレ・フォシアナ・リクルイトについては別格であるが、それは彼が人としてあるために必要なことであろう。
 今どこぞの空の下とも知れぬ宰相は、ウルが知る限り皇帝を守り抜くこと、支えぬくことを矜持としていた。それを守り抜くためならば、どこまでも非情になれる男だった。皇帝の婚儀にすら出席しなかった彼を、もう戻らぬものとして扱うものは数多い。だがウルは外交にでたという空々しい皇帝の嘘を信じる気になれた。彼は、戻ってくるひとだ。皇帝が窮地に陥ったならば、安寧をたとえ得ていたとしてもそれを振り切って皇帝の下に戻ってくるだろう。暗部として宰相の下でしばらく働いていたことのある自分は、そう思う。
 ならば、エイの矜持は?
 エイは目に入るもの全てに全力を投じようとする。それが、彼の力を損なっていると、ウルには思えた。いらぬ厄介を彼が引き受けがちなのも、それが原因なのだ。彼には矜持がない。彼持ち前の強い責任感、生真面目さ、優しさ――そういったものが、今の彼を駆り立て動かしている。人としてこれ以上清清しいものはないが、矜持と覚悟のない彼にとっては、それらは彼に危うい橋を渡らせる危険因子でしかない。
(本当に、何もなければいいのだけれども)
 窓の外を見やる。日が、天高く昇っている。
 既に、昼を回りかけていた。


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