BACK/TOP/NEXT

第二章 薬師と剣 1


「こっちじゃ」
 エイの手を引いて少女が案内した先は、町の奥に位置する貧民窟だった。
 平屋が軒を連ねているのは町の中心街と同じであるが、壁のいたるところが剥がれ落ち、今にも崩れ落ちそうな風体をしている。その壁に寄りかかるようにして、日に焼けた老人が何をするわけでもなく、煙草をふかしていた。時折、老婆のような姿の娘が、あちこちに穴の空いた籠を肩にのせ、緩慢な動作で歩いている。戸布すらかかっていない玄関口には、腹を醜く膨らませた幼児が転がされている。
 視界の端にいれるだけで気だるさを呼び起こすその光景は、エイの脳裏に幼い頃の記憶を呼び起こした。
 日も既に落ち、無一文になってしまった今では、朝日が昇ってから徒歩で城に向かうしかない。遠い向こう、暗い森は夜の闇を吸い取って広がっている。その狭間にぽつぽつと見える明かりは城のものだ。あの距離を歩くのかと今から思うだけで、エイは悄然となった。
「何をぼっとしておるのか。転げ落ちるぞ」
 少女に叱咤されて、エイは苦笑しながら、階段を上った。階段とはいえど、段差もある傾き急なあぜ道の斜面に平たい石がはめ込まれただけのものだ。その道は細く、周囲は当然土で滑りやすい。枯れた草が、まばらに生えている。エイが一歩踏み出すたび、小石がからからと音をたてて落下していった。
(どうして、こんなことになったのだか)
 先を行く少女の背を眺めながら、エイは胸中で独りごちた。
 少女は、ヒノトと名乗った。
 無論、自分にスリを働いた、あの少女である。
 無一文になったという事実を知って衝撃をうけるエイを、あの袋小路で散々笑った彼女は、何を思ったのかエイをいたく気に入ったらしかった。宿に泊まることもできないエイに、寝る場所だけならば提供すると申し出たのだ。街中での、野宿は酷く危うい。眠らずに一晩過ごそうかと思っていたエイにとっては、半信半疑ながらもありがたい申し出だった。もっとも、自分にスリを働いた相手に宿を求めるという状況に、いささか苦笑したくなるが。
「あー! ひーのーとー!」
 思考に割り込んだ声にエイははっと面を上げた。あぜ道を登り終えた自分を迎えたのはさらなる丘陵であり、そのふもとに建てられた、ありふれた平屋の一軒家だった。その家の前に、子供が数人[たむろ]している。彼らはヒノトの存在に気付くと、手放しに歓喜を示して彼女に駆け寄った。
が。
「ばかがー! 売りものをなげるでない!」
 一方ヒノトは腰に手を当ててその子供たちを一喝した。剣幕自体は大して恐ろしくもない。だがその声の甲高さは、隣に立ったばかりのエイの耳を貫き頭蓋骨の中で反響するに十分だった。
 耳を押さえ、思わず蹲ったエイの顔をヒノトが腰を落として覗き込んでくる。
「……お? どうしたのじゃ? 腹痛か?」
「違いますよっ」
 一体どういう理屈でそんな結論に陥るのだろう。今もきんきんと彼女の声の余韻が残る耳を押さえながら、エイは嘆息した。
「オイ、ヒノト、誰だそいつ?」
 ヒノトの元に駆け寄ってきた一人である少年が、エイの姿を認めて眉をひそめる。
 彼だけではない。子供たちが次々と駆け寄ってきてエイの周囲を取り囲んだ。エイは立ち上がり、ざっと彼らの数を数えた。ヒノトを含め合計八人。見たところ、ヒノトが最年長のようである。
「こやつはエイじゃ。今日うちに泊まるでな」
「げー!」
「せまっ」
「ちょっとまてよなぁ一日泊まるって」
「えー飯もだすの?」
 子供たちが不平をあらわに口先を尖らした。彼らの言葉から察するに、全員がヒノトと生活を共にしているらしい。自分を泊まらす余裕など、存在しないということか。判らない話でもないが。
 子供たちの視線に苦笑するエイの視界の端で、ふと、影が揺らいだ。
「何を騒がしくしておるのか」
 平屋から戸布を揺らして現れた影は、騒がしかった子供たちを一瞬にして黙らせた。誰もが、わずかばかり表情を強張らせている。ヒノトもその例外ではなく、先ほどの溌剌[はつらつ]さはどこへやら、唇を引き結んでいる。
「リヒト」
 子供たちのうち誰かだろう。幼い声が、ぽつりと名前らしき言葉を零した。
 女、なのであろう。体中を包む白い布が、性別や年齢を判りにくくさせている。ただ僅かに衣服のふちから覗く手の線や、布の上からでも判る華奢な肩の線などが、リヒトと呼ばれた人物が女であると示していた。覗く双眸は淡い灰色がかった緑。冬の凍てついた、湖のような。
 瞳に宿るのは、冷ややかさではない。
 ただ無感動だった。
 その、白い衣装に身を包んだ人物は、緑の双眸をエイに向け、しゃがれた声を紡いだ。
「……客人か」
 瞳が動き、冷たい視線が品定めのようにエイを舐めた。たじろぐエイを庇うようといったら可笑しいか、少女の小さな身体がエイの前に躍り出て、リヒトを見据える。
「……とめても、よいか?リヒト」
 ヒノトの問いに、リヒトは答えなかった。
 ただ衣服の裾を翻して平屋の中へと戻っていく。子供たちもそろそろと先ほど投げ出したものを拾いながら、リヒトのあとに続いていた。
「行くぞ、エイ」
 ヒノトがエイの服の袖を引いて、歩き出す。
 その背中を見つめながら、エイはどうやらとんでもないところに来てしまったのではないかと、嘆息せずにはいられなかった。


 あれは、春もようやく冬の名残を残さなくなったころだった。
 その人は、簡素な深い藍の袍に、山吹色の帯を締めていた。珍しいことだと思った。かつて遠目にみていた彼は、常に目を見張るような派手な色合いのものを身につけていたものだから。そのように簡素なものを身につけているのは、実に稀なことだった。
 派手な色目のものを身につけて、ふざけた言動を取っていた彼を、道化のようだと思っていた。事実、彼は道化を演じていたのだろう。
 全ては、皇帝のために。
 その日、空は澄み渡り、春らしい陽気で、花は咲き乱れ、柔らかな匂いが当たりを満たしていた。執務室のある塔と本殿を繋ぐ渡り廊下。その一角に彼は佇み、自分を待っていた。


「阿呆じゃな」
「じゃろじゃろじゃろ!? 阿呆であるよな!」
「阿呆阿呆と連呼しないでくださいよ……」
 平屋の奥に席を進められたエイは、ヒノトによる多少誤解の混じった事情説明にこめかみを押さえつつぐったりため息をついた。
「阿呆じゃろ?」
 が、間髪いれずに微塵の邪気もなくヒノトが確認の問いを投げかけてくる。素直に頷くわけにもいかず、エイは再び嘆息を零して天井を仰ぐしかなかった。
 外見に反して平屋の内部は思ったよりも広く、けれども子供八人が暮らすには手狭に見える。狭い空間では、今子供たちが賑やか――というよりもむしろ騒々しく、食事の準備に取り掛かっていた。数人が部屋の中央部に人が集まれるだけの空間を造り、残りの子供たちは外との出入りを繰り返して、鍋や器等を持ち込んでいる。
「阿呆というか、間抜けじゃな。財布をすられるにしろ、落とすにしろ」
「……私自身も、そう思います」
 丸めて脇に置いた外套に、ごまかしのように視線を落としつつエイはリヒトの言葉を肯定した。明日、城に戻った折に、ウルから呆れの視線を受けることは必死だろう。普段、水の帝国[ブルークリッカァ]で、このような失態を演じることはまずない。いや、ないと、思う。
 妙に間がぬけている。人の目から解放されて、気が、ぬけているのだろうか。
 一年年前、『外交』のために国をあけた宰相、ジン・ストナー・シオファムエンの政務の大半を引き継いだ自分に、周囲は冷ややかだった。役を拝命することは身に余る光栄であったが、当時自分は学館を卒業したばかりで、年は僅か十九だった。皇帝であるラルトが玉座に登ったのは十八、宰相家の末弟であったジンがその地位に着いたのは十九。それを考えれば、決して若かったわけではない。だが妾腹であったとはいえ、地位を持っていた二人と、農奴という自分のもとの身分は比べ物にならない。風当たりは、強く、人目のあるところでは、一瞬たりとも気をぬけないのが実情だった。
 敵意の目から解放されて、気がぬけているのだろうか。たとえそうだとしても、自分でも情けないほどの気のぬけようであるが。
「ヒノト、何をしているのですか?」
 ふとエイは、ヒノトがリヒトの斜め後方に向かって、猫が伸びをするように手を伸ばしている姿を見て取った。どうやら、リヒトの後ろに積まれているすり鉢の一つを取ろうとしているようである。ヒノトの片手には既に乳棒が握られていて、あと少しで彼女の小さな指先がすり鉢に届こうかというその瞬間、白い布に包まれた手が鉢を更に遠くへと追いやった。
「リヒト。妾はエイに薬を作ろうと……」
 首を傾げるエイの目の前で、ヒノトがリヒトの突然の行動に対して抗議の声を上げる。一方リヒトは白い覆面の下から鋭い視線をヒノトに投げかけ、一言の下に彼女の抗議を切り捨てた。
「ならん」
「じゃがリヒト」
「ヒノト。またスリを働いたであろう」
 リヒトはそういって、すり鉢のうち一つを手に取り、更にヒノトの手から乳棒を取り上げた。ヒノトは胡坐をかき、拳を膝の上に並べ置いて、下唇を噛み締めている。
「三日は触るでない」
「三日も!? 触らなければ勘が鈍るゆうたのはリヒトであろう!」
「触れなくとも学べることはあろう」
 傍らに座るヒノトは唇を噛み締め、眉根に不快皺を刻んでいた。泣いてはいない。が、不満という文字があどけない少女の顔に張り付いている。その表情があまりにも同情を誘うものであったので、エイはつい、二人の口論に口を挟んだ。
「リヒト、会話の内容はよく見えませんが、ヒノトは自分なりに収入を助けようとしたのでは」
「確かに貧しくはあるが、人の懐に手を出すなと妾はいうておる。この娘は物乞いでもなければ、家なきものでもないのじゃ。食べるものも少ないとはいえどある。妾の下から離れるのなら、好き勝手すればよいがな。……奇妙な男じゃなお主。懐を探られたのはむしろおぬしではないのか、エイ殿」
 エイは肩をすくめて隣のヒノトを一瞥した。呆れ交じりのリヒトの言葉に、つい納得させられてしまったからだった。確かに懐を探られた自分が、スリの少女を庇うというのも奇妙な話だ。
「……一応、私が前に叱りましたから」
 人の懐に手を突ける限り、見つかればどんな制裁を受けても文句は言えないと、そう脅した。一度叱れば十分だろう。そう思うことで、エイは自分自身の行いを弁護した。
 ふと、リヒトの無感動な薄い緑の双眸がエイの姿を映し出した。細められる双眸に、ぎくりと身体を強張らせながらエイは女に対峙する。やがてリヒトは手近の壷をいくつか引き寄せると、その中から乾燥した葉や草の根、色のくすんだ花弁などをつまみ出し、すり鉢の中に放り込んで、静かに乳棒でそれを混ぜ合わせ磨り潰し始めた。
「その前に、妾はヒノトに言いつけておる」
 ごり、という陶器同士をすり合わす音を響かせながら、覆面の女は言った。
「ごめん、なさい」
 ヒノトが、俯いたままそう謝罪の言葉を零した。彼女の頬は紅潮し、眉根には皺が刻まれたままである。別の壷から軟膏らしきものを指で掬い取っている女は、謝罪する少女に一瞥すらくれることもなく、淡々と言葉を口にした。
「薬学書の覚えておらぬ部分を読み返せ」
「……はい」
「あなた方は……師弟、なのですか?」
 少女と女のやり取りに耳を傾けながら彼女らの関係について考えていたエイは、達した結論を確認の意味も込めて疑問の形で口にした。
 同時に面を上げた二人から視線を外して平屋をざっと見回す。壁中に吊り下げられた乾燥した草花は、足を踏み入れたときから目についていたものだ。リヒトの背後、平屋の最奥は戸布で仕切られているが、風がそれを揺らすたびに、土壁を削って作られたと思しき戸棚にずらりと並んだ小壷が覗き見える。リヒトの周囲に積み上げられた道具類、そして彼女らの会話を鑑みれば――リヒトと呼ばれる女はどう考えても、薬師だ。
「そうであるともいえるし、そうでないとも、いえよう」
 リヒトはそう、なんとも曖昧な返答をエイに寄越した。
「エイ殿は、東の大陸の方か?」
 追求しようと口を開きかけたエイに先制して、リヒトが尋ねて来る。エイは喉まででかかった問いを口の中で転がしてから、えぇ、と頷いた。
「判りますか?」
 なるべく身を明かさないほうが良いに決まっているが、ここで否定しても仕方がないことだった。国はともかく、どの辺りの出であるのかは、癖を知る人間にとっては隠し立てしたところでいずれ判ってしまうことである。言葉や数の単位などは統一されているが、文化風習は大陸ごとに差異がある。宗教も主神の信仰が一般的だが、地域によってその信仰の仕方も大いに異なる。暮らした土地の慣わしを通じて身に染み付いた癖とは、意外にぬけず、隠そうとしても隠し切れないものだ。生まれてこの方一度も水の帝国から出て定住したことのない自分ならば、なおさらである。
「名前の響きが知り合いのそれに似ておる。あと、言葉の発音などでな。この国は、蒸し暑くはないか?」
「あっちの夏も、まぁ……こんなものです」
 汗で張り付いた服の襟元をつまんで肌から引き剥がしながら、エイは苦笑した。この国よりは幾分ましだとはいえど、水の帝国の夏もまた湿度が高い。今、あちらは初夏。まだまだ今から暑くなろうという時期だ。
「……あぁ、東には四季があったのじゃなそういえば」
「リヒト、四季とは何じゃ?」
「季節が四つあるということじゃ」
「雨季と乾季だけでなく?」
「春夏秋冬という言葉をご存知ですか、ヒノト。他の大陸でも地域によってはそうですが、東の大陸は特にはっきりと季節が一年に四回移り変わります。冬は寒く、夏は暑い。春は冬と夏の間に、秋は夏と冬の間にやってきます。どちらも過ごしやすく似通った気温ですが、どちらかといえば、やはり春のほうが暖かい」
「……よう、わからぬな」
 エイの説明に目を輝かせ聞き入っていた少女は、腕を組んで怪訝そうに小首を捻った。やはり、体験しなければ感覚的に判らないものがあるのだろう。
「エイ殿」
「はい?」
 ヒノトに微笑ましいものを感じて口元を緩めていたエイは、突如リヒトに呼ばれ弾かれたように振り返った。彼女の声音は別段厳しいものというわけでもなかった。が、しゃがれているというのによく通るその響には、ある種の強制力が宿っている。
 振り返ったエイに、リヒトが合わせの貝を投げて寄越した。
「……え?」
「打ち身の薬じゃ」
 つい先ほどまで使っていたと思しきすり鉢を、布で丁寧にふきながらリヒトが呟いた。
「自分で気付いておらぬのか。泥を落とせばお主おそらく酷い有様じゃぞ。腕や首は痛んでおらぬか」
「え? あぁ……」
 指摘されたエイは、首に手をやりながら納得した。首や腕、そして腹部のいたるところを蝕む痛みに気付いてはいた。リヒトに指摘された通り、打撲。おそらくヒノトともみ合った際に負ったのだろう。気付かぬほど鈍感でもない。だが、自分は痛みを忘れることに長けていた。
 昔とった杵柄、と褒められたものでもない。幼い頃殴打されるのは毎日のことで、それでも仕事を求めて彷徨わなければならなかったから、痛みをあえて無視する方法というのも自然に身についた。ただそれだけの話であるが。
「リヒトの薬はよく効くぞ! 妾の薬も打撲のならよく効くがな」
「ヒノト」
 誇らしげに胸を張った少女を、リヒトが静かに[たしな]める。ヒノトはふてくされたように口を閉ざし、そのぽってりとした唇を尖らせた。
「まぁゆっくりとしていくがよい」
 道具類を小さな行李に収めながら、リヒトが言った。
「丁度食事もできたようじゃ」
「リヒトぉー。コイツにも飯だすのかよ」
 エイとヒノトの背後から、ひょいと顔を覗かせた少年が不満あらわに呻いてくる。リヒトは小さく頷いた。彼女の動作は常に最小限で、淡白だ。
「客人はもてなすべきであろう」
 リヒトの言葉に舌打ちを零して少年が踵を返す。痩せたその背中を見送ったエイは、薬師の女に向き直った。
「別に、夕食を分けていただくほどのことではありません。一晩屋根の下を貸していただけるだけで」
 城に戻れば食事も出る。一晩抜いたところで餓死するわけでもない。日々倹しい食事を取っている育ち盛りの子供たちから分け前を預かるなど、罪悪を覚える。
 だが傍らでヒノトが眉をひそめ、怪訝そうに小首を傾げた。
「つくづくおかしな男よの。おぬしに粥を分けたところで、妾らは餓死せぬ。案ずるな」
「……はぁ。ありがとうございます」
「飯の準備できたぞー!」
 変声前の少年の声が平屋の中に響き渡り、リヒトが衣擦れの音をさせながらゆっくりと立ち上がる。エイとヒノトに先立って歩き始めたかに見えた彼女は、何かを思い立ったように足を止め、エイを振り返った。
「ようこそ東の客人」
 覆面から覗く目元が、ゆっくりと緩められる。どうやら、微笑んでいるようだ。
 彼女は小さく腕を広げると、まるで祝福するかのような厳粛な声音で、言葉を続けた。
「ようこそ、この南の土地へ。見ての通り何もないところであるが、ゆるりと休まれよ」


BACK/TOP/NEXT