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第一章 不在の王 2


「確かに」
 エイは嘆息した。空は厚い雲に遮られ灰色で濁ってはいるものの、時折光が差している。その陽光をちらちらと反射しているのは舞い上がっている黄砂だ。雨季と乾季の狭間のこの時期、いくら舞い上がる黄砂の量が少ないとはいえども、なれぬ身にしてみれば、かなり目を傷める。外套を深く被りなおし、目を細めながら、再び嘆息。
「賑やかでは、ありますよね」
 ざわざわざわざわ。
 エイの呟きなど、容易に雑踏にかき消されてしまう。立ち並ぶ商店が作る庇の下に身を寄せて、人々の往来を眺めていたエイは、その活気に気圧されそうになった。病んだ国は人通りが少ない。その常識の元下見に来た自分を迎えたのは、予想以上の人の往来であったのである。
 この時期、一番活気付くのだ、と、城近くにある船着場から、城下町まで自分を渡した舟頭が述べていたが、予想以上だった。何せ道の通りを進むことに、困難を感じるほどなのである。
 道は全くといっていいほど舗装されておらず、船着場と同じようにいたるところがぬかるんでいる。衣服の裾をたくし上げ、裸足で歩いている人々が大半を占めていた。とはいえども、エイと同じ様相の人間が皆無というわけではない。使い込んだ外套を身につけて歩く人々も、雑踏に紛れていた。大抵彼らの容姿はこの国の人種とは異なっていて、黒髪に浅黒い肌の、大柄な女もいれば、子供程度しかない身丈の男もいる。彼らは旅人――その中でも特に、新しく王が定まった国をいち早く見に来た、他国からの尖兵、もしくは、物好きである。
「お兄さん!」
 ふと傍らで、声が響いた。
「お兄さんは歩かないの?」
 清んだ声に導かれて傍らを見下ろせば、木箱を前において座る少年の姿。銀の髪に浅黒い肌。瞳は宝石を彷彿とさせる美しい濃い緑で、擦り切れた簡素な貫頭衣を身につけている。身なりからして、この土地の人間だ。頬に泥をこびり付かせた顔で、少年は屈託なく笑った。
「さっきからそこで、何をやってるの? お兄さん」
「休憩です。かなり、歩き回りましたので」
 船着場からこの大通りにたどり着くまでに多少困難があったことは、口には出さない。 自分の情けなさに、苦笑を通り越して落ち込みたくなるからだった。
「休憩にしては、結構長く、そこにいるみたいだけど」
「人を、見ているのですよ。町ゆく、人を」
「人をみて、楽しい?」
「国の民の比率がわかって、なかなか興味深いものです」
「へぇ。民の、比率? ひりつって?」
「この国にはどのような肌と髪を持つ人が多いか、や、身なりがいいか悪いのか、そういったものです」
「へぇ……そういうことを知って、どうするの?」
「……国が立ち直っているようにみえたら、旅先で仲間に話すのですよ。よい仕事が、見つかりそうだと」
 事実、この国にきている『物好き』たちは、そういった理由でこの場所を訪れている。彼らは情報を売ることを生業としている旅人なのだ。誰よりも早く国の情勢を把握し、時に市井、時に王侯貴族に情報を売る。驚くことも、隠し立てもすることもない。公然とした事実であった。
「この国がいいってみんなが判断したら、沢山お客さんがくるんだね」
 少年は、嬉しそうにそう言った。そうですね、と微笑み返す。少年は外見から判断するに、さして幼くはない。十代半ばは確実に過ぎているだろう。けれども愛想のよさと、独特の涼やかな声音が、少年を幼くあどけなく見せていた。
 街並みに視線を戻しかけたエイの服の裾を、少年が引く。どうやら、彼も客が来ぬことに起因する暇をもてあましているらしい。
「お兄さん、丁寧な話し方をするね」
「……え? えぇ……まぁ」
 初対面の人間であるという理由も大きいが、この口調は、癖であった。丁寧で、穏やかと自分でも思う話の仕方は、母親譲り。この口調を揶揄されることもしばしばある。部下であるウルたちに対しては、侮られないように話し方をわざと変えている。エイの年齢は、二十一。年嵩の部下のほうが、多い。
 まさか少年に口調を指摘されるとは思わなかったエイは、苦笑いを浮かべた。
「おかしいですか?」
「ううん。お兄さんの声は、落ち着いていて、聞きやすいね。とても、気に入ったよ」
「……はぁ、それは、どうも」
 地元の少年に気に入られて、何か得はあるのだろうかとエイは打算する。
「手を出して。お兄さん」
「……て?」
 突然の少年の要求に、エイは警戒心を抱かずにはいられなかった。先ほどの、舟頭の言葉が蘇る。子供が、集団で襲い掛かってくることもある――。
「そんなに露骨にいやな顔しなくても大丈夫だよ。お兄さん、わかりやすいね。顔に出る」
 少年の発言を聞いて、警戒心を抱いているのか、いないのか、自分がどこか暢気に構えていることに、エイは呆れ返った。職務中は常に心中を読まれないように気を張っている。だというのに、町の通りすがりに過ぎない少年にあっさりと感情を読まれるというのは、いかがなものか。
 そんなエイの心中を知ることのない少年は、ひらひらと広げた手のひらを振りながら陽気な笑顔をエイに見せていた。
「ほら、みて。僕は武器を持っていない。しかもここは道の往来。僕が盗人なら、堂々と騒ぎを起こすなんて、自殺行為の何者でもないと思う」
 口達者な少年である。
 しぶしぶ、差し出したエイの手を、少年は何か恭しいものを扱うように、手にとった。
「……手に、何かあるのですか」
「出逢いがありますよ」
「……は?」
 少年の突然の発言に、硬直しているエイに、彼はにこりと笑った。
「かわいい女の子だ。年は貴方よりも下で、貴方をよく慕うでしょう。大事にするといいですよ。貴方の、宝となりましょう」
「……なんの話ですか」
 話の飛躍の仕方に、眉根を寄せながら訪ねるエイに、少年はからかいたっぷりの口調でこう述べた。
「僕、占い師なんだ。手を通して、未来が見えます。本当だよ」
 我に返ったエイの手から彼はするりと逃げ出すと、軽々と木箱を担ぎ上げ雑踏に紛れた。その間ほんのわずか。驚くほど俊敏な身のこなしである。
「ま、ちなさ!」
「僕の名前はイーザ!」
 少年は木箱を担ぐ肩とは反対の手を、エイに大きく振った。
「とりあえず外套は脱いだほうがいいですよ目立ちますしね! 土埃が嫌なら被り布を買うことをおススメしますよ!」
「余計なお世話です!」
「英雄の末によろしくねお兄さん!」
「えいゆうのすえって……えぇ!? ちょっとま! うわっ」
 イーザと名乗った少年の最後の一言に驚愕したエイは、近くの小間物を扱った露天の荷に足をひっかけるという失態をやらかした。ばらばらとぬかるんだ地面に散らばっていった数々の小物。露天商が憤り顕にエイを睨みすえてくる。慌てて自分が蹴り飛ばしてしまったものを拾い上げて、面を上げたエイは、視界のもうどこにも、あの少年の姿が見えないことを認めざるを得なかった。


 つまり自分は。
(要領が、悪いらしい)
 かねがね思っていたことだが、改めて自覚せざるを得なかった。自分は、酷く要領が悪い。何をするにしても、どこか鈍臭いのだ。認めたくなかった事実ではあるが。
 エイは、深々とため息をつき、再び通りを歩くことを再開していた。少年の忠告どおり、被り物を探すためである。外套は人目を引く。そして旅人を獲物として定めているものたちを、引き寄せやすい。エイが宮廷に上がる前に所属していた学館では、勉学のほかに武芸も修めなくてはならなかったから、多少絡まれたところで追い払うことなど造作もないが――やはり、目を付けられたくはない。
 目を付けられたく、ないというのに。
 最初に小間物屋でものをひっくり返したのが運のつき。そこの主人に散々言いがかりを付けられた。上手く逃げ出したかと思えば、次は柄の悪い男たちに財布を狙われ、追い払った後、老人に話しかけられ、無下にあしらうことができない性分であるから、つい、その少し呆けが入っていたらしい老人を迎えがくるまで相手にし。
 なんだかなぁと、嘆息せざるをえない。町の住人とはかなり会話を交わしたというのに、欲しい情報は何一つ拾えていない。判ったことといえば、皆、新しい王の誕生に期待と不安を寄せて浮き足立っている、ということだろうか。
 エイは軽く、腰の短剣の柄に触れた。今は軽く羽織っている外套を脱ぐとなると、この短剣を下げる場所もどうにかしなくては。直接他者の目に触れるようであっては、相手に警戒心を抱かせる。被り布を二枚ほど購入して、片方を頭に、もう一方を腰にでも巻けば、どうにか誤魔化せるだろうか。
 商店街はさして広くもないが、問題は足元の悪さである。なれないエイは、頻繁に泥に足をとられていた。靴を、履いているせいであろう。周囲を見ればなれない足場に顔をしかめているのはエイだけではなく、道を行く旅人らしき人々もまた同様であった。
 エイがようやく、被り布の類を取り扱っているらしい露天を見つけ出したのは、日暮れに近かった。どの布も決して鮮やかな色であるとは言うことができない。が、見た目清潔で、珍しい型の文様の刺繍が施されている。買い受けるのはもっぱら旅人だ。聞けば綺麗に洗いつくろえば、他国でそれなりに値がはるということであった。
 とりあえず、これを買うかとエイが意を決した、そのときだった。
「あ、すまぬな!」
 どん、という軽い衝撃と共に、胸元を布でくるんだ小さな頭が掠めていく。突然のことに顔をしかめてその頭を見送りかけ……反射的にエイは、その腕をしっかと握りしめた。
「……な、なんじゃ?」
 腕をとられ、怪訝そうに振り返ったのは、少女である。年のころ十を少し過ぎたころか。先ほど自分に絡んできたイーザという少年と同じように、銀の髪に、濃い色の肌をした、地元民であるらしい、少女だ。
 目の覚めるような美少女――というわけでは決してないが、愛くるしい顔立ちの少女だった。ふっくらとした頬に、厚めの唇。手足は細く長い。確かに貧しい国の子供にありがちなように酷く痩せているのに、華奢な印象がまるでしないのは、身体の輪郭のいたるところが緩やかな曲線を描いているためであろう。
 瞳は、緑。深い森を連想させる、濃い緑だ。ちょうど、城に食らい付いている榕樹に多い茂る葉を、エイは思い起こした。彼女の肌はまさしく榕樹の幹の色であり、瞳はあの肉厚の葉の色だった。イーザの色と非常によく似ているが、輝きが違った。彼の瞳の色は、宝石の緑に例えることができる。一方、彼女は玻璃の箱のなかで綺麗に飾られている色ではなく、もっと、自然ななにか……そう、たとえば、樹木の精を連想させる。
 とはいえども精霊のよう、と比喩するにはいささか。
「痛いぞおんし腕を離さんか! うら若い乙女を捕まえてなんとする! さては貴様人買いか!? 妾がそんなに愛らしいから攫ってしまいたいというのか! 妾を舐めるなその脛を盛大に蹴り飛ばし、再起不能にしてくれよう!」
 騒がしすぎる娘であったが。
「離してほしいのでしたら、その手にあるものをまず先に放してほしいですね」
「手?……!」
 少女がぎくりと身体を強張らせながら、ぐっと顔を己が手に向ける。少女の手は拳をかたどっており、そこから、紐が伸びている。
 エイの、首元へ。
 招力石をつるしていた、皮紐だ。
「……あは?」
「スリとして衛兵に突き出されたいですか? お嬢さん」
 とりあえず、手の中のものを離せ、と片腕をねじり上げたまま、少女の拳に手を伸ばしたその瞬間。
 ごっ。
「つだっ!」
 少女が宣言どおり、エイの右の脛を蹴り飛ばした。
 驚いた拍子に、手を放してしまったらしい。少女はひらりと身を翻し、通りの向こうへ全力疾走していく。エイは舌打ちしながら、ぶら下がる紐を握り締めた。その先は、ない。引きちぎられたのか、もともと紐の結び目が緩んでいたのか――おそらく後者だろう。少女の力量で、引きちぎられるような皮紐であるとも思えず、その痕跡もない。招力石は、あの少女の手の中。
「待ちなさい!」
 泥に足をとられ滑りそうになりながら、エイは少女の後を追って駆け出した。
 少女は、実に身軽だった。
 転倒した籠から散乱した果物を拾おうとした男の背を馬跳び[・・・]し、突如民家の壁にしがみつき窓枠に足をひっかけたかと思えば、ひょいひょいと屋根の上に上り、草葺の屋根の上を疾駆する。走りながらあっかんべ、と、エイを馬鹿にした表情を向けてきた拍子に、屋根から滑り落ちたときも、少女は物干しの縄にぶら下がって落下速度を落とすと、猫のように体勢を整えて地面に着地した。
 一方。
(な、なんて)
 少女の身軽さに舌を巻きながら、彼女を追いかけることを挫折したくなってきたのは、エイのほうである。
(体力ないんだ、自分)
 もともと運動は得意なほうではないが、ここまで体力がないとは思っていなかった。泥道が、足を取って体力を浪費させることを抜きにしても。どうやらここ一年、運動を怠っていたせいで体力が減退しているらしい。
 いくら疲労困憊とはいえども、ここで諦めるわけにはいかない。金銭と取られたのとはわけが違う。情けないかぎりだが、とられてしまったのは、あの招力石なのである。
 招力石にはそれこそ幅広い位がある。一番底辺に位置するものならば、市井が必需品として日常的に購入する。暖をとるための招力石や、水を浄化し、湯にかえるものなど。大抵は幾度か使えば壊れてしまう、消耗品である。
 が、エイが皇帝から預かっている、あの招力石は異なるのだ。
 あれは、半永久的に効力を持続させる、最高級の品である。
 そういった招力石の金額は他の宝石とは比較にならぬほど高い。小指の爪の先ほどしかなくとも、あれ一つで、人十数人の人生が買えてしまうほどに。おそらくあの少女があれを然るべき場所に売り払えば、一生貴族のような生活をすることができるだろう。
 渇いた土壁に手をついて、肩で呼吸を繰り返しながら、エイは唇を引き結んだ。
 体力が敵わぬというのなら。
 頭を使う、までである。


「もう、追ってきておらぬようじゃなぁ」
 背後を振り返りつつ、嘆息する。まったく、小さな玉一つで一体なにをそんなに必死になっているのやら。そんなに大事ならば首からさげなければよいのである馬鹿ものめ、とヒノトは存分にかの青年を罵った。
 首から提げてはいても、大事に服の中に隠されており、懐を探ったからこそ見つけられたのだという点においては、目を瞑っていて欲しい。
 ヒノトは木箱の上に腰を下ろすと、足をぷらぷら投げ出して収穫物を空に翳した。小指の爪の先ほどの玻璃の玉だった。装飾も何もないが、夕暮れの灯りにすかせば黄金[きんいろ]に輝く。宝石なのかどうかはヒノトの目には判別がつかないが、とても、綺麗だ。
 ぎゅっと玉を握り締めて、ヒノトは満足感に微笑んだ。綺麗な、玉だ。何かの宝石の原石かもしれない。売りに出せば一日自分たちを賄う程度の金額は、得られるだろう。
「干物と[ほしいい]と。むぅ。これ一つでは手に入らぬか。身なりがよかったから懐を探ったというのにあやつ」
 ぶつぶつと不平不満の繰言を漏らしながら、ヒノトは立ち上がった。あともう一働きしなくてはならないようだ。大体もとはといえば、午前の間、自分をこき使うだけこき使って碌々賃金を払わなかった、農夫が悪い。
 財布代わりの布袋の中身は、ちゃりちゃりという金属の触れ合う音を響かせてはいるものの、これっぽっちでは、責任を果たすには到底足りない。
 自分の非力さに、歯噛みする。
「……大人に、なりたいのぅ」
 ぽつりと漏らした呟きに。
「そうですかそれなら真っ当に働いてください」
 との、言葉が返ってきた。
 絶句したヒノトが弾かれたように面を上げれば、にこりと微笑む青年の姿が、あった。


 エイは胸中でほんの数刻前の自分を褒めてやりたい気分になった。自分は、この土地の人間ではないが、午前散々歩き回ったおかげで、商店街周辺ならば地の利を得ることができたのだ。一度船着場から商店街まで歩くときに、いまだ水の引いていない通路があちこちで見受けられて、迷子になってしまったせいであるとは、口に出しては言えない。自分は、決して方向音痴ではない。そして一度足を踏み入れたことのある通りならば、確実に把握する。迷子になってしまったのは行く手を阻まんとする、飛び越えるには少々骨が折れる水溜り――そしてそれは、こどもが溺れるほどの深さがある――の、せいである。午前中はそれで情けない思いをしたものだが、今役立ったのだから、過去の汚点は忘れよう。
 とにかく、そうして得た地の利を活用して、追いかけながら少女を追い込んだのは、袋小路だった。町の中心だからこそ、存在する、家の密集地帯。そこに少女を追い込んで、唯一の退路はエイ自らが絶っていた。彼女が先ほどの身軽さを発揮しても、屋根の上には上れまい。壁は高く、足をかける引っかかりも窓もなにもない。
 えへ、と笑った少女に、エイは再び、微笑を返し。
 飛び掛った。
「わ――――っっっ!!!!!」
「そ、れ、を、返しなさい!」
 少女を巻き込んで地面に転がった拍子、彼女が腰をおろしていた木箱が、壁にぶつかり派手な音を立てる。
 人の出入りが少ないであろう袋小路は、大通りほどぬかるんではいなかったものの、手足と衣服を泥で汚した。少女が暴れるものだから、また余計に。
 硬く拳を握り締めながら嫌だ嫌だ離せとぎゃんぎゃん喚く少女に閉口しながら、エイはどうにか彼女の両腕を捻り揚げて、地面にうつぶせに押し付けることに成功した。硬く閉じられた拳から、招力石を回収する。
「あー! 妾の!」
「馬鹿いわないでください!」
 招力石に皮紐を通し、首に下げる。少女はその際に解放したが、ふてくされたのか地面に突っ伏したままだった。水が引いて日数が経っても、日陰であるせいで、あまり乾いてもいない、地面の上に。
 泥の上にのの字を描く少女の、綺麗な銀のつむじを眺めながら、まったく、とエイは嘆息せざるをえなかった。
「スリをすることに対してどうこうはいいませんが、見つかったときの覚悟はできているからこその仕事でしょうが」
 衣服の袂を正しながら、呻く。服は暴れたおかげで泥だらけ。しかも微妙に湿っている。着替えないと、風邪をひくな、とますます陰鬱な気分を募らせたエイは、いつの間にか腕立てをする体勢でこちらをかえりみていた少女と視線をかち合わせた。
「……なにか?」
「珍しい男じゃな。スリを、仕事というか」
「真っ当な仕事ではないですが。一日生きのびるための糧を得るための仕事には変わりないでしょう。ただ、真っ当でないだけ、見つかれば怒鳴られたり殴られたり蹴られたり衛兵に突き出されたり強姦されたり」
「ひっ」
「しませんけど。私は」
 本気で少女がおびえた風であったので、こほん、とエイは間に咳払いを入れた。
「まぁそういうことをされても仕方がないということは、認識しておくべきです」
「……何を知った風な」
「私の時はぼこぼこに殴られて蹴られましたよ。今でも耳の奥に何か骨の欠片が入っているのか、からから音がしたりすることあるんですけどね?」
 少女はぱちくり目を瞬かせて飛び起きた。そしらぬふりをしてエイは立ち上がる。あぁ、この格好はさすがにウルに驚かれるかもしれない。地元民に混じるのはかまいませんが、少々やりすぎですよと。
 長い黒髪を紐で結い上げつつ、泥だらけになってしまったそれを切実に切りたいと思った。自国で官位を持っている人間は、祭典の際に髪を結い上げなければならないので、大抵伸ばしているのだ。そしてエイもまたその例外ではない。
 とりあえず城に戻るか、と踵を返しかけたエイの服の裾を、少女がくい、と引っ張った。
「……まだ、何か」
「おんし、スリを働いたこと、あるのか」
「ありますよ? 自慢にはなりませんが」
 今の経歴だけを知るものが聞けば、驚きに目を剥きそうな事実ではあるかもしれない。
 だが、エイは市井の、それも市井の八割を占める農民よりもさらに貧しい、農奴と呼ばれる階級の出身である。食うに困って、他人の懐を失敬した数は知れず、その幾度かは見つかって殴られる、という結果に陥った。卑しい行為ではあるが、それを恥じる気持ちは不思議とない。あの頃の自分に、余裕はなかった。誰にも口にしたことのない、もっと卑しいことも経験している。そして、他人の懐を失敬していた子供時代を語ったときの屈託ない皇帝の笑いが、それがどうしたという一言が、救いでもあった。
 エイは、首もとの招力石に服越しに触れた。手元に戻ってきて、本当によかったと思う。目玉が転がり落ちるほど高価であるとかそういう理由以上に、これは、皇帝からの借り物なのだ。きちんと、彼の手に返さなければならないという意識が、強かった。
「なら、おぬし間抜けじゃな」
「五月蝿いですよ。だいたいなんで財布でなくて、これなんですか」
 子供相手に向きになるのも酷く大人気ないのであるが、エイは苛立ちを込めてそう少女に吐き捨てた。少女はきょとんと目を丸めて、笑った。
「ぼっとしておるから、スリなんかに遭うのじゃぞ。馬鹿じゃなぁおんし。スリの経験があるわりに、間抜けじゃの」
「はぁ?」
 少女の言葉の意味がいまいちよくつかめず、エイは眉間に皺を寄せた。対照的に、楽しげなのは少女のほうだ。そのふてぶてしさに、逆に感心してしまう。今ここで、殴りつけられても文句は言えないだろう。
「何故、財布を? じゃと」
 少女は、立ち上がると泥だらけの指先で、エイの懐を指し示した。
「だって、おんしの懐、もうすられておるようじゃぞ?」
 慌てて、エイは懐を確認した。
「空じゃ」
 確かに。
 財布がない。
 思わず青ざめた自分の耳に、豪快な少女の笑いが弾けた。


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