第八章 こどくの王 2
談笑を挟みながらの長い会合の最後、エイはイーザに尋ねた。
「リヒトたちを襲った人間は、権力争いに関係する人間でしょうか?」
イーザは頷いた。
「おそらく、ドルモイの手のものだと思います。彼自身は、口を割りませんけれどね」
「彼は今」
「裁きの審査中なので、何人たりとも面会は許されません。それが、お兄さんであったとしても」
きっぱりとした物言いだった。エイは頷いた。
「ヒノトは、事実を知っているのでしょうか?」
「……多分、知らないと思います」
イーザは窓の外を見つめた。乾いた土が舞い上がって、空気が白く濁っている。榕樹に抱かれている王城は、比較的ひんやりとしているが、それでも暑さとこの乾燥で、喉が酷く渇いた。
多分、知らない。
知っている、可能性もある。
知らないほうがいいと、エイは思う。そしてイーザもそのように思っているのだろうと、エイは思った。知らないと思う。そう紡がれる彼の呟きは、まるで祈りのように響いたからだった。
「最後にもう一つ」
「何? お兄さん」
少年の無防備な表情に、こんなことを尋ねてもよいのだろうかと、エイは逡巡した。だが、確認しておきたいことではあった。
彼が、本当に信頼に足る王なのか、探るために。
「イーザ、貴方はリヒトが殺されることを知っていましたね?」
イーザが、呼吸を止める。
部屋には既に自分とイーザ以外にいない。広い静かな部屋に、彼が唾を嚥下する音がはっきりと響いた。
「……知ってたよ」
彼は正直だった。
「一番非力で、一番後ろ立てのなかった僕が、何故星の数ほどの兄弟達を押し分け、王になれたのか。お兄さんは、もう知っていると思うけれど――、それは僕に不安定ながらも、先見の力があるからだ」
「……えぇ」
エイの出自を知っていたのは、彼が王だったからであるが、先見の力があるのは本当なのだと、先ほどの談笑の中で、イーザは口にしていた。
「僕はリヒトと、あの子供達が殺されることを知っていた。ヒノトが姿を消したその日に、僕は宣旨を受けたんだ。僕はリヒトに通告もした」
「リヒトは、自分が殺されることを、知っていたというんですか?」
エイは驚愕から、思わず声を上げていた。イーザがしっかりと頷く。
「知っていたよ。彼女は、僕の先見の力についても知っていたんだ。それでも、彼女は逃げなかった」
「ならば何故、彼女に助けを差し伸べなかったんですか!」
エイの糾弾に、イーザが弱々しい微笑を返す。
「人手がないって、いったでしょう? お兄さん。……僕が人員をあちらに裂けば、ヒノトを救えなかった。月光草売買の制圧も失敗した。そういった事柄も、僕には同時に、視えていたんだ」
王は時として、決断を迫られる。
誰かを犠牲にして、誰かを助ける。
究極の、二者択一。
「僕も、助けたかった。けれど、それはできなかった。どうにかして人員を避けないか、何度も検討だってした。でも、カシマと二人で出した結論は、不可能。その結論に尽きた」
イーザは、己の両手を掲げて眺めた。リヒトたちが死んだあと、ヒノトがしていたように。
「王様っていったって、非力なんだ。動かせる人がいない。人を雇うためのお金もない。お金を稼ぐための技術も、知的財産もない。全てはこれからで、いつも非力さと、それを嘆くことのできない重圧に、倒れそうになってる。おかしいな。誰かを守る力が欲しくて、僕は王になったのに」
ないこと、ばっかりだ。
少年の呟きの悲痛さを、エイはよく理解することができた。
自分もまた、常に非力さと重圧に向かい合っているものの一人だからだ。
「それでも、僕は一人ではないと思うから、なんとか耐えられているんだと思う。カシマとかサブリナがいなければ、僕はとっくに気狂いになってた。だって、兄弟で殺しあうんだよ? 気持ち悪いったらない」
幼い頃の人生全てを、兄弟殺しに捧げなければならなかった少年が、疲れた吐息と共に言葉を吐き出した。
「ねぇお兄さん。玉座って凄く冷たいんだ。国で、たった一人しか座れない椅子。僕はそこに腰を下ろすたびに、世界で、僕だけが、こんな重圧と非力さに、耐えているんじゃないだろうかって、錯覚しそうになる」
そんなことないのにね、と、イーザは言った。
「この国の王様を、皆は蠱毒っていう。僕はその呼び方が大嫌いだ。孤独だって。一人ぼっちだって、言われているみたいで。初勅では絶対、王を蠱毒と呼ぶなって、いってやる」
暗い壷の中に押しこめられて。
たった一匹しか残らない、蟲。
確かに、その蟲の姿に、一人で玉座に腰を下ろす王の姿が重なった。
「この国は、おまえたちの国だって、いってやる。僕をひとりぼっちにするなって。僕を助けろって。そうやって、皆でこの国を作るんだって、いってやる」
少年は拳を強く握り締めて、言葉を搾り出した。この国の象徴である榕樹の肉厚の葉によく似た美しい緑の双眸には、強い光が宿っている。
決意の、光だ。
「お兄さん。僕は貴方の主君が、羨ましい」
「……うちの、陛下がですか?」
「うん」
皇帝ラルト・スヴェイン・リクルイト。
政治において天賦の才に恵まれた、稀代の名君。
だがそれゆえに、彼に掛かる重圧は、エイのそれの比ではない。
イーザは、笑みに目元を緩めた。
「僕は、お兄さん達が好きだ。ウルさんも、スクネさんも、そしてお兄さんも、皆とてもいい人たちで、そして主君を愛している。あなた方の皇帝は、一人ぼっちではないって、とてもよくわかるから」
「ですが、私達は陛下の力に、なれているかどうか」
姿を消してしまった宰相の穴は、あまりに大きすぎるから。
自分達では、力になりきれていないと、いつも思うのだ。
「力になれているとか、そんなんじゃないんだよ。僕ら、王に必要なのは」
イーザは、向かい合って座るエイの手を取った。少年の手はかさついていたが、温かく、そして思ったよりも大きな手だった。恭しくエイの手を握るその仕草に、そういえば初対面のときもこのようにして手を取られたと、エイは思い出していた。
「傍にいてくれる。理解しようと、思ってくれている。それが、重要なんだ。ねぇお兄さん。もし、貴方の皇帝が、一人ぼっちに嘆くようなことがあるのなら、貴方が、いるといってあげてください。貴方だけではない。ウルさんもスクネさんも、力にはなれないかもしれないけれども、いるのだと」
「イーザ」
「お兄さん。貴方みたいな人が、皇帝の傍にいるのは、皇帝にとって、救いで、祝福です」
イーザが、エイの手を握り締める。
「僕にとって、カシマたちが、救いと祝福であるように」
あぁ。
エイは、泣くことを堪えるために、目を細めた。
救い。
祝福。
そんなふうに。
思ったことなど、なかった。
エイの頭は常に皇帝の役に立ちたいとは思っていたが、それはいかに政治の面において役立つかだった。皇帝の視る世界を、共有できないことを歯がゆく思っていた。いくら学んでも、追いつけない壁があったのだ。
だが、そんなことを、皇帝は自分に望んでいるのだろうか。
皇帝が真に自分に望んでいるのは、一体何であろう。その時初めて、皇帝の望みが何であるのか、エイ自身知らないという事実に気付かされた。彼の役に立ちたいと本当に願っているのなら、それを真っ先に知るべきであったというのに。
皇帝が望んでいること。皇帝が望まずとも、彼に必要だと思えることを、見つけ、進言していくこと。
傍にいるということ。
あぁ、なんて、単純な。
『後を宜しく』
宰相の最後の言葉が脳裏に蘇った。彼の言葉の意味するところは、まさしくこれであったのではないだろうか。宰相は頭の切れる人間で、人を見る目も確かだ。エイに、彼と同じ政治の才を、望んでいたわけでは決してないはずだ。
どうして今まで、そのことに、気付かなかったのだろう。
「僕は、僕なりの方法で、この国をいつか、よみがえらせてみせます。呪いの
イーザの目は真っ直ぐにエイを射抜いていた。決然とした意思を湛えたその深い緑の目に、エイは未来を見た。
この国は、彼の手に引かれて、人々を救う国として、よみがえるだろう。
いつか、よみがえるだろう。
「だから、貴方の皇帝に、どうか伝えてください」
「……なんと?」
「一緒に、頑張りましょう、と」
皇帝は一人ではなく、自分達のように寄り添って歩くものもいれば、同じ路を選び別の土地で歩き始めた仲間もいる。
エイは瞼を閉じて微笑んだ。
「それは、我らが皇帝にとって、幸いの言葉です」
そしてその言葉を持ち帰ることのできる臣である自分は、とても幸せだと思った。
ドルモイはエイの問いに答えはしたが、それ以上口を閉ざしていた。そろそろ、行かなければならない。幽閉の決まった王の元近習の下で潰せる時間など、もともとさほどあるわけではなかった。
踵を返しかけたエイに、男は言った。
「笑えるだろう」
「……何がですか?」
エイは足を止めて振り返った。窓辺に座る男は、エイを見てはいない。窓の外を見下ろしたままだ。
「私に望まれた刑だ。あの甘えた考えの陛下の治世を、見続けることが刑だという。馬鹿げた話だとは思わないか?」
「殺して全てが収まるという時代を、終わらせたいだけでしょう」
あるいは、己に対する戒めか。
なんにせよ、イーザはこの男を、殺さなかったのだ。
「私を詰らないのか? 何故、と問わないのか?御仁。リヒトを殺したものたちを派遣したのは、確かに私だというのに」
「いいです別に」
エイは、肩をすくめた。
「確認したかった、だけです。いつかヒノトが知りたいと、強く思ったときに、答えられるように」
「……そうか」
「あぁそうそう……留学の件ですが」
エイの言葉に、ドルモイが首をかしげる。それに苦笑して、エイは続けた。
「貴方がいっていたことですドルモイ殿。うちの国に、医療を学ぶための留学生を派遣する件。あれ、決まりましたから」
ドルモイが驚愕に目を瞠る。まさか本当に提案が通るとは思っていなかったのだろう。
ドルモイが言ったとおり、この国の書庫には大量の医学書が眠っていた。招力石で国と連絡を取ると、それの写しと引き換えに、という条件で、是の返事がきたのだ。
「ドルモイ殿、イーザのいうことは確かに甘いことかもしれない」
利用できるものは利用し、力なきものは切り捨て、合理的に実現していくやりかたも、ある意味賢いやり方なのかもしれない。
けれども。
「それでも私は、イーザのような甘い方法を採る王のほうが、好きですよ」
ドルモイは何も言わない。
彼の部屋の扉を、エイは静かに閉じた。