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第七章 なにものでもないものたち 1


「まったく。なんだというのじゃ!」
 ヒノトの帰路。彼女は馬上でまだイーザに対して怒っていた。
「私は大丈夫ですから、その怒りを納めてください」
 ヒノトの背後にまたがって片手で手綱を引いているわけだが、その手綱ごしに馬が脅えているということがよく判る。それでも暴れださない、よい馬だ。エイは苦笑しつつ、ヒノトをたしなめた。
「大丈夫です」
「じゃがなぁ、横暴だとは思わんか? おんしは薬を飲んで、寝ておらなければならぬ」
「横暴かどうかはともかくとして、私はイーザ君に言われたとおりに、こっちに来てしまうカンウ様もカンウ様だと思いますけれどもね」
 歩きながら馬の轡から伸びる手綱を引いて、エイの馬を補助するのはウルだ。彼は嫌味とも取れることをさらりと口にし、悪意のない笑顔で微笑んだ。その笑顔が小憎たらしく、エイは嘆息しながら低く呻く。
「五月蝿いよ、ウル」
「はいはい」
「というか、おんしも止めろ! エイの相方なら! エイは本当なら寝ているべきなのじゃぞ!」
 医療に携わるものらしい、エイの無理を咎める発言だった。
 事情は説明していないが、ヒノトはウルのことをエイの旅の連れ、スクネを付き人と考えているらしい。あながち間違ってはいないが、さてさて、全てのことが終わったあとにどう説明しよう。
 そう考えかけ、エイは、いや、と頭を振った。
 説明する必要は、ないのだ。
 ヒノトをリヒトの元に送り届ければ、おそらく自分はヒノトと会うことはないだろう。頼んでいた処方箋はそろそろ出来ている頃合だと思うから、ヒノトを送り届けると共に引き取ればいい。もし終わっていなかったとしても、ここまで再びくる余裕が自分にはない。
 馬の準備をする間、すこしだけ会話したカシマが、王との面会を確約したのだ。一時は幻であるとすら噂された王だが、ドルモイのこともあるからだろう、ようやっと重い腰を上げて、自分達に面会するつもりとなったらしい。エイは、本来の仕事に忙殺されることとなる。処方箋が未完成の場合は、誰か遣いをやって、引き取ることになる。
 これで、おそらく最後だ。この少女と会うのも。
 そう思うからこそ、自分は無理を押してここまで来たのだろう。
「いいんですかぁ? そんなこと言って。薬師の卵でいらっしゃる、ほかならぬヒノトさんの頼みならば、仕方がないですねぇ。カンウ様、戻りましょうか?」
「卵は余計じゃっというか、おおおおぉおおんしというやつはぁぁぁぁ!!」
「……ウル、あまりヒノトを怒らせないでやってくれ」
 判っていて怒らせているのだから、ウルも相当人が悪い。完璧に余裕を持ってウルがからかっていることをヒノトもわかっていて、その上で腹を立てているのだ。
「あぁ、ヒノトさんは、いぢめがいがとってもある、可愛らしい娘さんですよねぇカンウ様」
「いぢめがいは余計じゃ!」
「ウル」
 あぁもう、本当に自分の身を労わっているというのなら、二人とも、少し大人しくしていてほしい。
 エイは思わず手綱を握ったままの手を額に添えて、深く息を吐いた。
「……カンウ様」
「今度は何?」
 次は、一体どんなからかう対象を見つけたというのか。ウルを見返すと、彼は思いがけず厳しい表情をしていた。
「……どうした?」
「血の臭いが」
 彼の言葉に、エイは顔をしかめた。前方を見つめようとして、馬が奇妙に脅えていることに気付く。ヒノトの剣幕に恐れをなしているだけかと思っていたが、牝馬が落ち着かないのは、もしかしなくとも。
 ウルが無言で暗具である細い双剣を抜いた。前方は静かだった。乾季間近の田園は既に干上がって早朝の暗がりに沈んでいる。地平の向こう、太陽の光だけが、先行して覗いていた。
 鳥のさえずりさえ聞こえない、不気味な空気の立ち込める農道を黙々と歩くことしばし、前方を指差して声を上げたのはヒノトだった。
「人じゃ!」
 枯れた田園の農道に、人が倒れている。死んだ赤子を抱いた痩せさばらえた女だった。それだけならば餓死と思っただろう。だが、女は明らかに刃で貫かれた跡と思しきものを背中に残し絶命していた。ヒノトが馬から飛び降り、女の遺体に駆け寄る。彼女は遺体の傍らに膝をつくと、悲痛そうな面持ちで唇を引きむすんだ。
「……近所に住んでいる親子じゃ……」
 ヒノトは女の抱える赤子の脈を取った。が、唇を一層強く噛んで、彼女は瞼を閉じた。
 その指先が、震えている。
 エイが馬から降り、ヒノトの傍らに並ぶと、彼女はエイの手を握った。酷く冷えた手だった。
「行きましょうカンウ様。とても嫌な予感がします」
 ウルの言葉に、エイは一もなく二もなく頷いた。
 この女は、物取りか何かに、殺されたかもしれないというのに。
 それだけでは終わらない、予感のようなものがエイの胸中にも漣のように襲ってきたからだった。


 お願い。
 リヒト、ごめんなさいね。
 貴方にこんなことを、押し付けてしまって。
 ――いいんです姉者。私は十分幸せでした。あの子に優しい顔は、ついぞしてやれなかったですが。
 私より、貴方が子守唄を歌ってあげて。貴方の美しい声で紡がれる歌に抱かれれば、私の薬臭い手の中よりも、あの子はよく眠れるでしょう。
 ――すみません姉者、あの子に子守唄を歌ってやることも叶いませんでした。喉を潰してしまいましたから。私の手も、結局薬臭くなりました。一度は、遠ざかった道に、結局戻ってきてしまいましたよ。
 薬の臭いをゆりかごに、あの子は結局育ってしまいましたが、兄弟を殺さぬ人間に育てることには、成功したようです。
 あぁ姉者。
 私も、あの子を置いていかなければ、ならぬようですよ。
 手に握った、羊皮紙の束を握り締める。
 リヒトはこの紙の束が、無事、あのお人よしの青年に届くといいと思った。


 賊の気配がないとわかると、ウルが言った。
「私は、近くの集落の様子を見てきます」
「うん」
 エイは土手を駆け下りていく彼を見送って、周囲を見回した。数日前まで、自分は時間を見つけてここに通っていた。のっぺりとした台地には人影はない。ただ、きな臭さだけが鼻につき、リヒトの庵だけが不気味な沈黙を保ってそこにある。
 ここまでの道中、数人が冷たく動かぬ身体となって倒れていた。この台地の、すぐ手前にも。屍たちは冷えていたが、血の乾き具合から、彼らが殺されてそう時間は経っていないということが判った。彼らを殺したと思える賊の姿は既にないが、足跡から十数人の団体がこの地を踏み荒らしたのだということは判別がついた。
 ヒノトが、強張った表情で、小屋へと歩き始める。惨劇が起こった場所としては、静か過ぎる、小屋のほうへ。
 エイは、重い身体を引きずってヒノトの前に出た。彼女を先にいかせるのは、あまりにも危うく思えたからだった。早足で歩を進めながら、エイは早鐘のように打つ心の臓を、どうにか落ち着かせることに集中した。この小屋が、もぬけの殻ならばいい。皆、逃げおおせて、後に再会したヒノトに笑顔を見せればいい。そう願って。
 破れかかった戸布に指をかける。布の重みを感じながら少しだけそれを持ち上げ、鼻についた臭いに、エイは瞼を下ろした。
 かつて、この戸布を開けた向こうに充満していたのは、薬草の臭いだった。ここで一夜明かし、戻ったエイに、薬臭いとウルが笑ったのだ。
 だが、今ここに立ちこめるのは。
 立ちすくむエイの脇を、ヒノトが通り抜けた。
「ヒノトっ」
 ヒノトはすたすたと小屋の中に足を踏み入れ、折り重なり倒れている彼女の兄弟達に触れた。慌てて、彼女の跡を追う。
 手狭の小屋の中は、密閉されていたためか空気がこもり、ひどい悪臭だった。かつて、エイをからかい、明るく笑い、そしてヒノトがいないと騒ぎ立てていた子供達は、皆、目を見開いたまま、物言わぬ存在と成り果てていた。
 ヒノトが、彼らを見下ろす。
 ただ、黙って、見下ろしている。
 彼女が、今にも倒れてしまうのではないかと、ウルは思った。


 なんの。
 悪夢だこれは。
 ヒノトは目の前に広がる光景に、呆然となりながら立ちすくんだ。
 毎日、自分が寝起きしていた小さな小屋の中、子供達が折り重なっている。皆、川べりで遊んだあとのように酷く汚れていた。ヒノトの足元に広がっている水溜りの中に、戸棚から零れた雫がぽたりと落ちた。それほど、濡れていた。
 子供達は祈りのように手を突き出し、皆目を見開いている。虚ろな子供達の眼差しの中に自分とエイの影が写ったが、子供達は焦点を合わして笑いかけてくることはなかった。彼らの表情は、この世の全ての恐怖をかき集めてきたかのように引き攣ったまま、凍り付いている。
 子供達の、悲鳴が、耳の奥で聞こえる。
 泣き声が聞こえる。
 たすけてたすけてたすけてたすけて。
 ころさないで。
 脳裏に木霊する子供の泣き声は、酷く現実的だ。まるで、間近に聞いたことがあるかのような。
(きいたことが、ある)
 ヒノトは口元を押さえながら、込み上げる吐き気に耐えていた。
(きいたことがある。だれかが、そう、泣いていたのじゃ)
 子供が街角で泣き叫ぶたび、自分は彼らを拾わずにはいられなかった。リヒトは常に呆れていたが、一度自分の理由を聞いてからは、子供達を拾ってくることを黙認するようになった。
 だれかが、ずっとないている。
 あかいどこかで、ないている。
 頭が痛い。水がほしい。
 眩暈がする、と思った瞬間、ヒノトの意識は、部屋に響いた女の小さな呻き声に引き戻された。


「……う……」
 静かな小屋の中に、小さな呻き声が響いた。ヒノトの表情が変わった。
 小屋の奥。薬壷や材料が収められていた戸布の向こうに、成人の女の足が見えている。僅かに動いたそれを、エイも、そして無論ヒノトも、見過ごすはずがなかった。
「リヒト!」
 ヒノトが悲鳴のように悲痛な声音で育ての母の名を叫び、奥へ駆け出していく。エイも、ヒノトに続いて、奥へと足を踏み出した。
「リヒト! しっかりせい! リヒト!」
 割れた壷に埋もれるようにして、リヒトはいた。彼女を抱き起こしたヒノトは、半狂乱でリヒトの名を繰り返しながらも、冷静に手当ての手順をふんでいた。地に転がる壷を押しのけて空間を作り、リヒトの身をそこに横たえる。気道を確保し、傷跡はどこか、出血の部位は、と確認している。割れた壷の中から薬を探し当て、同時に戸棚から取り出した比較的清潔そうな布で、彼女はリヒトの患部を押しやっていた。
「ヒノト、私が抑えていますから」
 リヒトの傍らに膝をつき、エイは止血の役を代わった。間に合え、という願いと、間に合わないだろうという予想が交錯する。ついた膝を濡らしていく生ぬるい血や、幾度も死を見取ってきた経験が、何よりもこの女は助からないと告げている。それでも願わずにはいられない。
 この女は、ヒノトの家族なのだ。
 ヒノトは手ごろな棒を探し、止血の手順をふみ始めた。布を、リヒトの腹部にも幾重にも巻いて。
「……のと……ヒノト、か……」
 覆面の隙間、淡い緑の瞳が薄く開かれる。崩れた覆面は、女の潤いを失った唇を顕にしていた。
「しゃべってはならん!」
「……い。……たすからん……ことぐらいは、わか……からだ」
 彼女の家族――今となっては唯一の――を助けんと、ヒノトは必死だった。元々荒らされていた戸棚をさらにひっくり返し、針と糸を引っ張り出してくると、ヒノトはリヒトの患部に飛びついた。彼女は止血を行っていたエイの手を押しのけ、傷口を確認した。そして、そこで手が止まる。
「……リヒトぉ……」
 リヒトの傷は、腹部を貫通していた。
 内蔵も、傷ついている。
 傷口を縫合した程度ではどうにもならないことはわかっていた。内蔵を縫合するとなると、より高度な技術が要求される。今のヒノトの様子から、そのような技術はまだ持ち合わせていないのだろう。手荒で確実なのは傷口を焼くことだが、それに耐えうる体力が、リヒトにあるとは思えなかった。
 見えた腸らしきものに息を呑んだエイは、泣くことを堪える少女を見つめた。噛み切りそうなほどの強さで下唇を噛み、今、死に逝こうとしている女を見つめている。
「エイ……どの」
「はい」
 リヒトに呼ばれたエイは、身を乗り出した。リヒトは握り締めていた黄ばんだ紙の束を、エイに差し出した。
「いらいの、もの、じゃ」
 月光草の処方箋。
 かつて、エイがリヒトに依頼していた。
 かさり、と紙の束がエイの手の中で音を立てた。血痕らしき雫が付着してはいるものの、文字ははっきりと読み取れる。この期に及んで、これをリヒトが最後まで守り通したのは明白だった。
 これで、おそらくこれから襲い来るであろう、月光草の余波から、水の帝国を守れる。
 歓喜と、そして申し訳なさがエイの胸中を潮のように満たした。おそらく、最後になるかもしれぬ、ヒノトとの短い時間を、こんなやり取りに使わせてしまったことに対して。
「リヒト……」
「リヒト! 妾はどこにもゆかぬ! リヒトと一緒におる!」
 ヒノトは叫び、リヒトに縋りついた。が、リヒトはヒノトを見据えると、はっきりと、力強く言った。
「いけ、ヒノト」
 リヒトは懐から、一本の剣を取り出した。エイにも見覚えのある、毒の仕込まれたあの懐剣だ。彼女はそれを鞘ごと、ヒノトの手に握らせた。
「……リヒト」
「学び、そして多くの民を救え。それがお前に架せられた役割じゃ」
「……リヒ」
 リヒトの手が、ヒノトの髪に触れる。
「無事で、本当に、よかった」
 若い、女の手。
 母親のように、柔らかく、それは少女の頭を撫でた。
「あぁ、お前は、私にとって……」
 薄い緑の目が、柔らかく細められる。それは微笑みだ――エイは、思った。
 滅多に、リヒトは感情を動かすことはなかった。覆面の下に、彼女の感情はいつも隠されていた。
 だがこの瞬間、リヒトは確かに、笑っていた。
 リヒトの目からは急速に光が失われていく。ヒノトの髪に絡んでいた女の指先がぱたりと地に落ちた。唇はかすかに動いたが、喉は声を紡がず、彼女が一体何を言おうとしたのか、判らぬままに終わった。
「……私にとって、なんなのじゃ? リヒト」
 地に落ちた手を取り上げ、頬に押し当てて、ヒノトが呟く。だが彼女の問いに、リヒトはもう永遠に、答えることはない。
「妾は、リヒトにとって、一体、なんじゃった?」
 ヒノトのまなじりに光が宿り。
 震えたヒノトの呟きと共に、零れ落ちた。
「……教えてくれんのか。リヒト」


 私は。
 確かにお前の実の母親ではない。
 それでもお前は。
 私にとって。
 自慢の、弟子であり。
 自慢の、姪であり。
 自慢の、娘だったよ――……。
 それらを、伝えることはとうとう。
 叶わなかった、けれども。


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