第六章 陽動の終わり 2
和やかな会話に割り込んだのは、ウルが率いてきた兵士の一人と連れ立って、この場をしばし離れていたヒノトだった。彼女は両手に小ぶりの箱らしきものを抱えてやってきていた。ヒノトに引きずられていった兵士は、たらいを抱えもって、大またで歩くヒノトの横についていた。
「おんしら、この様子のどこが無事だというのじゃ!」
「は?」
「エイ! おんし肩をだせ!」
肩、といわれて、エイはそのとき改めて自分の肩が、弓で貫かれていたことを思い出した。ヒノトの助言に従って、いまだやじりが食い込んだままの肩。ウルの登場に気を取られすぎて、すっかり忘れていた痛みが、今更よみがえってくる。叫びだしそうな、じくじくとした痛みが襲い、エイは顔をしかめてその場に蹲った。
「つぅ……!」
「鈍感じゃなおんしは!」
呆れたヒノトの眼差しに、エイは反論することができなかった。むしろ、彼女に同意した。全くだ。先ほど叫んでようやく堪えた痛みの存在を、忘れられるなどと鈍感が過ぎる。
「湯を」
「はい」
ヒノトの命令に従って、つき合わされている兵士が差し出したタライの中には、視界が白くなるほどの湯気を立てた湯があった。いかにも、今沸騰しました、といった様子の。
「そこの。えーっと」
「ウルですよ」
ウルはヒノトのことが気に入ったらしく、始終人のよい笑顔を向けていた。毒気のない彼の笑みに、ヒノトの険しい顔が一瞬緩みかけるが、彼女はすぐに表情を引き締めて、指示を出した。
「すまぬが、エイのこれ、抜いてやってはくれぬか。妾ではぬけぬ」
時間が経ち、矢は盛り上がった筋肉に挟まれていた。もともとそう深く食い込んでいなかったことが幸いした。それでも、これだけ肉に挟まれたやじりは簡単にはぬけない。
いいのか、とウルが目線でエイに問うてくる。抜くこと自体はかまわないが、今それをすることが正しいのか正しくないのかは、医者でもなんでもないエイに、判別はつきかねた。ただ、薬師として教育を受けているヒノトが抜けというのだ。おそらくよいのだろうと思い、エイはひとつ頷いた。
「ではカンウ様。歯を食いしばってください」
エイが頷くやいなや、ウルは遠慮の欠片もなしにエイの肩口から矢を引き抜く。今まで断続的に襲っていた痛みをさらに上回る激痛がエイを襲った。思わず、舌を噛み切りそうになるほどの。
「っ……あ!」
どうにか堪えたと思ったのも、つかの間。
衣服が破られ、傷口に盛大に液体をかけられた。すっとした感触と共に、傷口に染み込んでいく茶色いそれ。
消毒液だ。
肌が焼けるような感覚が神経をなぶる。腰がぬけたように、その場に膝をついてエイは絶叫した。
「あぁぁぁあぁぁぁぁぁっ!!!!!」
「食いしばれエイ! すぐ終わる!」
きれぎれの意識の向こうで、ヒノトの声が聞こえた。
「すまぬ。すまぬな。本当はもっと綺麗な場所で手当てをしたいのじゃが、兵士がうろうろしていて落ち着かん。じゃが、これ以上放置しておいてもよいことがない」
ヒノトは、涙ぐんでいた。彼女が怪我をしているわけでもないというのに、何故彼女が泣いているのか。
「ヒノト……ぐっ」
軟膏が肌に擦りこまれると同時に、痛覚が薄くなる。布一枚を隔てた向こうのような感覚が、傷口を中心に肩に広がった。続いてあるのは、何かが皮膚に突き刺さる感覚と、引っ張られる感覚。エイの前に佇むウルとスクネが、顔をしかめてエイの背後を凝視していた。
最後に布で、肩口を拭かれ、清潔な布で固定される。終わったのだ、と嘆息したエイは、ヒノトを振り返った。
そこには、血まみれの両手で、目を擦る少女がいた。泣くことを必死に堪え、食いしばった歯の狭間から、彼女のしゃくりあげたような声が漏れる。
「すまぬ。妾が、妾が。勝手に」
彼女の手を染めるのは、エイの血だ。矢を抜くときに、傷口から噴出した血。
エイは、傷口に触れた。痛覚を失った肩は、右手の指先の感覚で、縫合されたのだとわかった。そんな、こともできるのか。エイは感心した。
「ヒノト、大丈夫です」
傷から、発熱しているのかもしれない。呼吸が荒くなり始めていた。それでもエイは、なるべく呼吸の荒さが出ないように努めて言葉を紡いだ。
「大丈夫ですから」
「じゃが妾が勝手をしなければ、おんしだって怪我をせずにすんだであろうに」
ヒノトが屈んで、エイの胸に頭を押し付けてくる。その小さな頭を空いた片手で撫でてやって、大丈夫、とエイは繰り返した。
「大丈夫です。傷の縫合までできるのですか。助かりました」
「跡が残るであろう。リヒトじゃったら、もっと痛くないように、もっと綺麗なように、上手くやる」
「今、貴方はできる最大限のことをしてくださいました。それだけで十分ですよ。ありがとう」
確かに、リヒトならばもっとうまくやるのだろう。あるいは、外でまつカラミティ。彼女は異国の医者だ。外科もできるのかどうかは知らないが、もしできるというのならば上手くするはずだ。
だが、彼女らと今のヒノトの実力を比べて何になるというのだろう。要は、彼女がここにいて、精一杯の処置をしてくれた。応急処置にしてみれば、十分に及第点だ。あとは、また落ち着いた場所で医者に診てもらい、処置をしなおしてもらえばいい。
そこまで考えて、ふと、人のことはいえない、とエイは自嘲の笑みを浮かべざるをえなかった。
皇帝をあらゆる意味で支え続けた宰相と、己を比べても、得られるものなど、ない。
エイは感覚のない肩に右手で触れていた。無意識だった。その場所は、宰相が去り際に触れた場所だったと、今更ながら思い出した。
「大丈夫ですよ、ヒノト」
ヒノトの髪を撫でながら、エイは再び言葉を繰り返した。
「本当に、大丈夫です」
その言葉は、彼女だけに向けて紡がれた言葉ではないのだろう。
おそらく、それは自分を奮い立たせるための。
「お兄さん!」
突如、廊下に響いた少年の声に、エイたちはほぼ同時に面を上げた。
『イーザ』
廊下の向こう、兵士を分けてやってくるのは、カラミティを伴ってやってくる、イーザだった。
エイは、ヒノトとほぼ同時に彼の名前を呼んだ。その傍らで、ウルとスクネが目礼をする。イーザは彼らに微笑み返し、まず、ヒノトに歩み寄った。
「ヒノト! 無事でよかったです」
「なんじゃそのひどい格好は! 怪我は!?」
ヒノトが轟然と立ち上がり、つかみかかる勢いでイーザに取り付いた。ヒノトに歩み寄るイーザは、確かにひどい様相だった。衣服のあちこちにどす黒いものが付着している。血だということは明白だった。
「僕の血ではないから、安心して」
イーザはそう言って肩をすくめるが、首筋や手足に、刃の跡と見られる赤い線が浮き上がっていた。まったく無傷というわけではないだろう。
警備の撹乱役を務めたイーザのことが、ずっと気に掛かっていた。その道の人間であるスクネでさえ疲弊していたのだ。一介の少年に過ぎないはずのイーザが、よく生き残っていたものだと、エイは感心した。
「無事だったか」
カラミティは安堵ともとれる呟きを漏らしたが、エイを一瞥するなり、口を歪めた。
「そうでもないか。皆傷だらけ。汗と血まみれ、か」
「カラミティ、スクネを診てあげてください」
スクネがぎょっと目をむくのもかまわず、エイは言った。
「カンウ様」
「大きな傷はないようですが、念のため」
「もちろん診させてもらう。だがその前にお前だ、エイ。お前の肩が一番酷そうだ」
大丈夫です、と口にする前に、イーザがエイの右肩を掴んで、傷口を彼女に向かせた。
「っつ」
かなり手荒だった。
「ひどい有様だ」
カラミティは懐から出した煙管を加えながら、エイの傷口をみるなりそういった。
「お前がやったのか、ヒノト」
ヒノトは唇を引き結んだまま頷いた。その縫合の仕方を、咎められるとでも思ったのだろう。カラミティは火の入った煙管を口にくわえたまま、ふむ、と顎をしゃくった。
「こんなこともリヒトはお前に教えていたんだな。薬は? この屋敷のものか?」
「材料だけあったので、作った」
ヒノトの言葉に驚愕したのは、エイも無論だが、ウルとスクネのほうだった。
「作った!?」
「んですか!? あれを!?」
「道具はあったから借りた。じゃが、薬はどれかわからんかったからの。この屋敷、薬草だけはあったから、妾で作ったほうが早い」
何かおかしいか、と小首をかしげるヒノトを、呆然となって見つめる。ヒノトが兵士と連れ立ってどこかへ姿を消し、ここに戻ってくるまでそう時間はたっていなかったはずだ。あの間に、作ったのか。
驚愕する一同を差し置き、おかしそうに笑い声を上げたのはカラミティだった。
「ま、さすがリヒトの手中の玉、か。だがお前、縫合は練習しろ。まぁ、焼いて塞ぐよりはまし、といった程度だ」
矢傷なのでそれほど大きなものでもないはずだ。だがカラミティの意地の悪い微笑を見る限り、あまり綺麗に縫われているというわけでもないようだ。ろくな道具もないあの状況で、縫合がなされただけでもましというべきか。
「エイ、服は着替えてきたほうがいい。貴族の屋敷だ。清潔な衣服ぐらいは、あるだろう。盗んで来い」
「借りて来いといえないんですか?カラミティ」
「でも確かに、早く着替えたほうがいいですね。身体も拭いたほうがいいでしょう。手配してきます」
エイが制止するまえに、素早く身を翻して副官は行ってしまう。
「では私も」
「あぁあ、お前は待て」
そのあとに続こうとしたスクネは、カラミティに引き止められていた。
「お前も怪我だらけだろう。深くはないが診させろ」
「いや」
「診てもらっておいたほうがいい、スクネ。カラミティは医者だ……バヌア出身の」
この国の医者に対してあまり信用がないのはいたし方がない。あえて違う国出身だということを告げると、スクネは少しばかり安堵したようで、眉間に皺を寄せたままカラミティの指示に従い始めた。
「お兄さん、動ける?」
「え?えぇまぁ」
今すぐ眠りたい気分であったが、動けないわけではない。エイの回答に、イーザは納得したように頷いた。
「じゃぁ、ヒノトをすぐにリヒトのところまで送ってあげてください」
「イーザ!?」
驚愕に叫んだのは、エイではなくヒノトのほうだった。
「阿呆かおんし!家に帰るのは明日でもよいし、一人でも帰れるわ!大体、エイには休息が必要じゃ。何をいうておる!」
「それは僕だって、わかってるよ。もちろん。今すぐにとは言わない。衣服を着替えたら、すぐに」
「それをすぐに、というんじゃ!!!」
頭に血を上らせているヒノトとは対照的に、エイの思考は酷く覚めていた。それは身体が既に熱を持ちすぎているせいかもしれないし、イーザが理由もなく無理を告げてくる少年ではないと、知っているせいかもしれなかった。
先見の力があるという、貧民窟の少年は、どこか悲痛そうな面持ちで深い緑の目を細めて、怒るヒノトを見下ろしている。
まるで、彼女の何かを悼む、兄弟かなにかのような眼差し。
「イーザ?」
エイの呼びかけに応じて、イーザが微笑んだ。
「無理だっていうことはわかっています。ウルっていう人が戻ってきたら、ついていってもらってもかまいません。ただ、ヒノトは貴方が送っていってあげてください。お兄さん」
妙に持って回った彼の言い方に、エイは尋ねた。
「何か理由があるのですか?」
イーザは頷く。
しかし彼の返答は、実に曖昧なものだった。
「ヒノトには、貴方が必要だと思うからです」
夜更けだというのに、酷く外が騒がしかった。
(来た、か)
時が、来た。
「皆、起きよ」
リヒトは寝床から起き上がり、傍で眠っている子供達を起こしてやった。どうにかしてこの場所から引き離そうとしたが、駄目だった。ヒノトが戻ってくるかもしれない。そんなことばかりをいって、この場所を離れようとしないのだ。
「りひとぉ?」
「どうしたの?」
夜明けにはまだ少し時間がある。いくら普段から早起きである子供達といえ、このような時間にたたき起こされても、身体が追いつかないのだろう。寝ぼけ眼を擦りながら一人二人と起き上がる子供達に、リヒトは急きたてた。
「早く起きるのじゃ」
騒音は、徐々に近づいてきている。時折、遠くに聞こえる、絹を裂くような悲鳴。
それがはっきりと判り、目を覚ました子供たちも徐々に脅え始めた。
「な、何?」
「リヒト? 何なの?」
「いいから早く……!」
出なさい、という言葉は庵のすぐ傍で弾けた悲鳴にかき消された。
こんなことならば、この子たちを拾うのではなかったと、激しくリヒトは後悔した。