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第六章 陽動の終わり 1


「え、エイ、大丈夫なのか!?」
 抱えられたままのヒノトが、心配そうに声をかけてくる。だがエイには、その問いに応対する余力もなかった。今はただ、ヒノトを抱えて、走ることに集中することだけで精一杯だ。
(……こ、んなに、きついなんて!)
 エイは胸中で毒づいた。息が相当上がっている。小柄な上に痩せたヒノトの体重は、決して重いものではないのに。今回のこの国の訪問で、もっとも痛感させられたのは政治の技術ではない。体力不足だ。
 先導するスクネは、暗具が底をついたらしく、兵士から奪った剣で、道を切り開いてくれていた。彼もまた、体力の限界が近づいているのだろう。彼の顔に浮かんでいるのは苦渋だ。
 出口は、もうすぐだというのに。
 霞む視界に歯を食いしばったエイの思考を、ふと、鋭い痛みが引き裂いた。
 ざしゅっ……
「……っ!!」
「うわ!」
 均衡を崩し、その場に転倒したエイに続いて、ヒノトもまた床の上に放り投げられた。上手く受身をとる少女の身の軽さに安堵しながら、エイは左肩を襲う激痛に、咆哮せざるをえなかった。
「あぁぁぁぁあぁぁぁっ!」
 一度叫んでしまえば、少しは楽になる。床に蹲ったまま、エイは重い瞼をこじ開けて、痛みの元凶を確かめるべく視線を移動させた。
 みるみるうちに、赤い色が左肩の衣服に広がる。赤い雫が、床に零れた。
 弓矢だ。それが、エイの左肩を貫いている。廊下の向こうから今しがたこの矢を射ったと思われる兵士たちの駆け寄ってくる様が、視界の隅を過ぎった。
 背後に手を回し、ささった矢の柄に手をかける。が、矢を抜くために力を込めたエイの手を、ヒノトの手が押し留めた。
「抜いてはならん!」
 彼女が叫ぶ。エイの手を握り締める少女の手は、ひどく震えていた。
「抜けば、出血が酷くなる! 抜いてはならん!」
 ヒノトの叫びに、エイは嘆息した。
 そうだった。
 きちんとした治療のできる場以外で、ささった矢を抜いてはならない。応急処置の、初歩中の初歩だ。
「カンウ様!」
 エイの叫びを聞いて引き返してきたスクネが、剣を構えてエイの前に立つ。
 逃げられない。
 エイは朦朧とする意識の片隅で思った。
 自分達は、既に袋の鼠だ。
 無意識のうちに、懐から剣を抜いていた。常に携帯している、護身用の短剣だ。手負いの、しかも元々さして腕前があるわけでもない自分が、役に立つとは思えないけれど。
 エイはその腕にヒノトを庇って、息を吐いた。身体が熱い。
「この賊が!」
 にじり寄る兵士の一人が、剣を振りかぶった。それを、スクネが受け止める。だがすぐさま取り囲んでいる兵士達が一斉に跳びかかってきた。その人数は十指に余る程度の人数だが、今の状況ではさばききれない。
「エイ」
 脅えた少女を背に隠し、襲い来る鋼を視界に捕らえながら、エイは息を呑んだ。
 この距離、確実に殺される――……。
 ふと。
 ぎし、という耳障りな金属音と共に、剣戟が止んだ。
「あ……」
 背後のヒノトが、凍てついた時の中で一人、呻きを漏らす。
「長らく失礼をしていて、申し訳ございません」
 刃の数本を、細身の双剣で器用に受け止めて見せた男は、エイたちを振り返って微笑んだ。
 エイは、感嘆の声を上げた。
「ウル!」


「私を殺すなどと大層な口を利きながら、あまりにあっけない敗北ではないですか、陛下」
 数人の兵士に取り押さえられた少年王は、手足の自由を奪われたままドルモイを見上げていた。彼の口元に浮かぶ、ふてぶてしい笑いだけが変わらない。
「まだ負けていないよ」
「自由を奪われて何を言うのか」
「まだ、ヒノトが残っている」
 馬鹿が、と、ドルモイは嗤わざるを得なかった。この少年に残された最後の血族もまた、ドルモイの手中にあるというのに。
「僕の仲間が助けに行っている」
「王としての権力もまともに掌握できていない貴様に、ろくな仲間などいるものか」
 王として即位し、すぐさま街の中へ姿を消したイーザ。彼を真の王だと知るものは、自分と、カシマというもう一人の近習を除けば、酷く限られた人数しかいないのだ。貴族のものたちですら、自らの王を把握していない。
 兵を動かせるわけでもない、まだたった、十七歳の少年の仲間などと、たかが知れている。
「万が一、あの小娘が逃げおおせたとしてもだ」
 この厳しい警備を掻い潜り、屋敷から逃げ出すことができたとしても。
「あの、自分の出自すら知らなかった小娘に一体何ができる」
 あの娘は、自分がカ・エンジュであることも、王族の後継であることも知らなかったのだ。
 幼い頃から王子という立場を自覚していた、目の前の少年とは違う。母親のあの絶対的な医術の才を受け継いでいるようでもない、帝王学も、人を掌握する術も、何も持たない無知の小娘。
 その娘に、一体、何が出来る。
 その存在を潰すことは、小鳥をくびり殺すよりも容易い。
「まだ判らないの? 王よりも、この国の呪に囚われた、哀れな人」
 王はドルモイを嘲笑って言った。
「彼女はこの国の希望だよ」
「……何?」
 少年の、濃い緑の双眸は爛々と輝いていた。彼の瞳には、絶対的な確信があった。だが、とドルモイは思う。何が希望だ。この国は十分に疲弊した。ドルモイの両親は盲目的に定められた蠱毒に仕えたが、自分は決してそうはならないと思った。先王の犯した過ちが、自分の周囲から、友人、恋人、肉親、ありとあらゆるものを奪っていったその日に。
 自分は、王に頼らず、自分のやり方で、この国の復興を目指す。
 あるいは、それは、自分が揺るがぬ王になるという決意かもしれない。
「見ろ、ドルモイ」
 まるで演劇の役者ように、若い王は声を張り上げた。
「この国の為と[うそぶき]きながら、僕とお前が今日まで築いてきた屍の山を。渡ってきた血の川を。今日、僕はこの屋敷で、たくさんの人を切りつけた。ろくな医者もいない国では、あれだけの傷でもすぐに死ぬだろう。だが僕はすでにそれ以上の数の兄弟達を殺し、僕に差し向けられた刺客を殺してきた。この国に、この国の王族に、神がかけた呪いのその通りに」
 一つの壷に蟲を詰める。
 蛾、蜥蜴、蠍、蛇、蛙、百足。
 やがて互いの肉を喰らいし蟲は一つとなりて。
 血で贖いし、玉座に座する。
 この、太陽と雨の洗礼にさらされる国を受け皿に、蟲として放り込まれた王族の兄弟達は、互いを殺し合い、奪い合って玉座に登る。それが、この国に与えられた呪いだ。絶対的な。
「お前が王になったとしても、変わらない。僕達は共に同じ穴の[むじな]だからだ。僕たち王族を排除してお前が王座に上り詰めたとしても、血の川を渡る限り、お前はこの国の呪いに取り込まれていくだろう。お前は子をなし、その子供達はいずれ玉座を争うようになる」
「それは予言か?」
「違うよ」
 少年王は微笑んだ。
「それは、この国の摂理だ。一人、人を殺した時点で僕らは呪いの中に組み込まれる。それは、この国に限った摂理ではないのかもしれない。けれど、僕らは誰かを殺し、その中に既に組み込まれた……けれど、ヒノトは違う」
 兵士達に刃を首元に押し当てられ、今にも殺されそうな状況でなお、若き国王は笑って叫ぶ。
 この国には、希望があると。
「呪われた王家に生まれながら、誰かを殺す手ではなく、生かす手を持って彼女は生まれてきた。彼女に何ができる? 彼女は人を殺さないで生きることができる[・・・・・・・・・・・・・・・・・・・]。それ自体が、この呪われた国での奇跡であり、僕らにこの輪廻から逸脱するためのある種の希望だからだ!」
「では貴様が王位を降りてあの娘に手渡せばいい。私があれを使ってやろう」
「まだ判らないの? ドルモイ。その考え方こそ、この国を復興から程遠いものとしているもの。この国を、蠱毒の小国、たらしめるものだと」


 対峙する近習――今となっては、元、とその二文字につけるべきか――を、イーザは哀れに思った。
 この国の復興を真に願っているものであると認めているからこそ、当初、近い存在として据え置いた。が、その野心を看破できるほど、イーザ自身見る目を養えていなかったということか。
 男はこの国の復興を願ってはいたが、それは他者を利用するだけ利用し、廃絶するやり方だった。
 それでは、この国は救われない。
 救われないのだ。
「貴方が何を叫ぼうと、結局は勝ったものが摂理だ。利用できるものを利用して何が悪い」
 ドルモイが、イーザに対する嫌悪あらわに呻く。
「月光草にしてもそうだろう。この国には金が必要だ。綺麗ごとばかりでは何も成せん」
「お前のいうことはもっともだね。けれど、月光草の効果を宣伝するために、町の娘たちを誘拐する必要がどこにあるというの?」
「現実に効果を目にしたほうが、人は集まる。娘の一人や二人。人を百人救うために、犠牲にしなければならないこともあるだろう。その選択をしなければならないのが、為政者というのではないかね?王よ」
「そんな選択もしなければならないのは事実かもしれない。それでも、こんなやり方を僕は認めない。その選択は、ぎりぎりのぎりぎりでどうしようもなくなったときにするべきだ。……それに、お前は気付いているの? お前が他国に売っているのは、月光草だけじゃないんだよ」
 魔の草を売ると共に、この国は威信を売り飛ばしている。
 この国には、既に数多くの内偵が入っている。それはエイのように王宮付の人間もいれば、そういうことを生業にする一介の情報屋もいるだろう。どちらにしろ、彼らがこの国に抱く感想は、この国自体が他国を陥れようとしているというものだ。一度その風評が定着してしまえば、拭いさることは珍しい。
 医療の国という誉れを取り戻す。それはイーザだけではなく、ドルモイもまた目指していたものだ。だが、ドルモイのやりかたは、いずれこの国に誉れではなく、忌み名を与えるだろう。
 毒を与える国。蠱毒の小国、と。
 ドルモイは、判らぬ、というように静かに首を横に振った。
「私は私のやり方で、この国を変えていく」
「そして結局、この国は蠱毒の国となる。お前はきっと、血塗れた玉座で、己がこどくであることに、気付くよ、ドルモイ」
 蠱毒であることに、気付くだろう。
 孤独であることに、気付くだろう。
 蓋された闇の中に、一人取り残されていることに、気付くだろう。
 血に濡れてばかりの玉座は、誰も集わぬ。だが、それを覆そうにも、あの玉座はとうに血を吸いすぎていた。
 イーザ自身、既に人を殺しすぎている。これからも、殺していくだろう。
 けれど、かつての王たちがしてきたように、人を利用して切り捨てる真似だけはしないと誓っている。それはこの国を再び混沌に陥れるに他ならないと、イーザは知っている。
 そして最後に残された血族の血で、己が手を染めるまねだけはしないとも、誓っている。
 彼女がただ、人を生かす存在として生きていけるよう、呪われた玉座に自分は座するのだ。それが、この国の呪いを解く方法だと信じて、自分はあの位に腰を下ろすのだ。
 一介の貧民窟の少年としての人生も、自分は愛していたけれど――……。
「好きなだけほざくといい。貴方の戯言は聞き飽きた」
 首筋に当てられた冷えた刃たちに力が込められる。次の瞬間、死ぬだろう。
 だが、イーザは絶望していなかった。
 なぜなら。
「そこまでにしていただきましょう」
 ドルモイの背後に佇んでいた兵士が、ドルモイの首筋に短剣を押し当て、そう言ったからだ。
 周囲の兵士達が呼吸を止める。
 ドルモイは、驚きに幾許か目を見開いていた。気付いたのだろう。彼の背後に並ぶ数人の兵士達が、皆イーザに対してではなく、ドルモイに対して刃を向けていることを。
「あなた達も剣を収めなさい。大人しく投降しなければ、奪われるのはあなた達の命ではない。あなた達の目の前で、あなた達の家族がこの世の最も無残と思われる方法で殺されていくでしょう」
 ドルモイに短剣を押し当てている男が、冷ややかに宣告する。自らの命は問題ないが、家族となると話は別だ。兵士達が慌ててイーザから刃を引いた。
 兜を指先で、押し上げたその男は、細面の中に鈍く輝く、引き攣れた火傷の傷を歪めて笑った。
「遅くなり、申し訳ございません陛下」
「全くだよ」
 イーザは立ち上がり、首元を擦りながら肩をすくめた。
「お陰でものすごく時間稼ぎをするはめになっちゃった。カシマ」


「どう、なってるんですか?」
 思わず素が出た。
 部下に口にするような口調ではなく、平素のそれのまま、エイはウルに尋ねていた。屋敷が、大勢の兵士達に鎮圧されている。ウルが率いてきた兵士は、その腕にこの国の国章を身につけていた。
「月光草売買の摘発だそうです。私も、それに便乗した形でして」
「そもそも、貴方はどこにいっていらっしゃったのですか? マキート様」
 行方不明となっていたわりには、この場にいる誰よりも健康そうな面持ちで現れたウルに対し、スクネが怪訝そうに顔をしかめる。
「あぁちょっと。うっかり迷路にはまってしまって」
「迷路?」
「ドルモイ殿がどこかいくので、こっそり付けていたら、術にはまってしまいまして。カシマ殿に、助けていただいたんです」
 頭をかきながら答えるウルのその顔には、苦笑が浮かんでいた。エイは吐息を零した。安堵からだった。カシマとは、王のもう一人の近習だったか。会食で一度だけ席を共にした気安い男をエイは思い返した。顔が火傷で覆われた、赤髪の男。
「何はともあれ、無事でよかったよ、ウル」
「それはこちらの科白です。カシマ殿経由で、カンウ様たちまでこちらで乱闘をやらかしていると聞いた時はぞっとしましたよ。何せこちらはかくまわれている身ですから、先走ったりするわけにもいかなかったですし。よく間に合ったと思います」
 エイたちがここに来ることになったのは、かなり突発的だったはずだ。今夜、ここに進入すると決めたばかりで、一度は引き返しかけたのだから。何故、と問いかけ、おそらく監視がついていたのだろうと、エイは納得することにした。今は深く考えても仕方がない。ひとまず、助かったことだけに感謝するべきだ。
「礼ならスクネに」
 今夜の一番の功労者はスクネだろう。汗は乾いていたが、彼の顔に浮かぶ疲労の色は少しもあせてはいなかった。エイは彼の肩を叩いて、ウルの前に押し出してやった。
「よくやった。スクネ」
 ウルが微笑み、スクネもまた微笑んだ。
「お陰で、皆無事」
「ち、っ、と、も、無事ではない!」
 甲高い声が、廊下に響いた。


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