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第五章 二人の後継 2


「イーザ!」
 天窓から顔をのぞかせる少年の名前を呼んだヒノトに、彼は唇に人差し指を当てて叱責した。
「静かに。声が大きいよ」
「……う……む。すまぬ」
 慌てて口元を押さえて、ヒノトは耳を澄ませた。扉の向こうから、まだ巡回の足音はしない。それを確認して立ち上がり、ヒノトはイーザに向き直った。
「イーザ。よくここが判ったのじゃな」
「まぁね」
 言葉を濁したところをみると、お得意の占か、先見の力だろう。ヒノトは追求することをやめた。今は彼らがどうやってここを知ったのかよりも、彼らが自分を助けにここにいるという事実のほうが重要である。
「あぁ、でも、間に合ってよかった」
 イーザが、安堵の吐息に胸を撫で下ろした。
「ヒノト。怪我はないのか?」
 口を挟んだのは、女だ。イーザの隣に顔を寄せた女は、無論ヒノトの顔見知りで、この狭い町における、リヒトの唯一の同業者だった。
「カラミティ。おんしも来てくれたのか?」
「夜中にイーザにたたき起こされて、小舟を出せといわれただけだ」
 気だるげに嘆息して、カラミティはそういうが、きっと進んでイーザを手伝ったに違いない。粗野だが、情に厚い女なのだ。
「ヒノト、今の状況を手短に説明して。僕らは君が、斡旋所の仕事経由で、拉致されてここにつれてこられたんだってことまでは、判ってるんだ」
 イーザの口調には焦りが滲んでいる。小舟をこの牢屋のある壁に着けて、彼は会話しているのだろう。月の明るい夜だ。警備に見つからないとも限らない。そこまでの危険を冒して、ここまでやってきてくれた彼らに、ヒノトは今すぐ飛びついて口付けを贈りたいところだが、そういうわけにもいかないだろう。
「仕事の説明は詳しくは城でするといわれての。城に向かう舟に乗せられた。変な香が焚かれていて、意識を失ったのじゃ。気がついたら、ここにおった」
「香? 甘い奴なの!?」
「何人連れてこられたんだ?」
「ちょ、おんしら、同時に訊くな! 香はすっとするやつじゃった。甘くはなかったな」
 ヒノトの回答に、何故かイーザが大きく安堵の吐息を吐き出していた。どうやら彼の言う甘い香に、何か問題でもあったらしい。
「つれてこられたのは、妾を含めて、十五人ぐらいじゃった」
 カラミティの問いに、ヒノトは記憶を辿りながら答えた。十五人。そう、確かそれぐらいの人数だった。
「が、一人二人と連れて行かれて、最後に残ったのは、妾一人じゃ」
「そちらの、娘さんは?」
 イーザの問いに、沈黙で以って答える。イーザはヒノトの意図を汲み、そう、と頷いて瞼を伏せた。
「そこから抜け出せそうか? ヒノト」
「無理じゃな……扉も、とても堅牢じゃ。ぴくりともせん。四半刻ごとに、巡回の兵が……」
 こつん。
(来た)
 徐々に近づいてくる足音に、ヒノトは背を粟立たせた。
「警備じゃ! 警備が来る! 二人とも隠れておれ!!」
 ヒノトの注意に従って、二人が天窓から顔を引っ込める。ヒノトは再び瞼を擦って、動かなくなった少女に縋った。
 早く、行ってしまってくれ。
 だがヒノトの祈りとは対照的に、金属のこすれあう音が部屋に響いた。鍵を鍵穴に差し入れる音だ。
 がちゃり、という錠の開く音。鎖の落下音。それらと少し遅れて、部屋に光が入る。
 兵士を数人携えた男が、ランタンを掲げて、眩しさに目を細めるヒノトに命じた。
「出ろ」


 あぁ、とうとう。
 とうとう、長かった古い争いに、先んじることができるのだ。
 蠱毒を滅するその一歩に、踏み出すことが叶ったのだ。
 男にとって蠱毒とは、この国を腐食させるものの象徴だった。
 蠱毒は大人しく、人の手に収まって、使われるだけの立場でいればよいのだ――呪われた、薬らしく。
 その結晶ともいえる娘が、今目の前にいる。かつて男自身が手にかけた女の手により遠くに逃がされた呪われた赤子が。
 目の前に引き出された少女を見て、男は微笑んだ。


 連れて来られた場所は広い部屋だった。絨毯の上に放り投げられ、這い蹲りながら、ヒノトは部屋を一瞥した。
 見たこともないような綺麗な調度品が納まる部屋だ。燭台の上で三本の蝋燭に灯された明かりが、煌々と部屋を照らして揺れている。敷き詰められた光沢のある絨毯。壁に掲げられた古い絵画。
 そして部屋の中心に、男が一人立っていた。
「……久しぶり、と言っても、お前はわからぬであろうな」
 感慨深げな呟き。懐かしそうに細められる目。だがその奥に収まる瞳は冷ややかで、ヒノトは恐怖に下唇を噛んだ。
「妾に何のようじゃ。他の娘たちはどうした?」
「今頃競売だろう。お前があの中に混ざっていてくれたことは、幸いだった。何時どのようにして、お前を捉えようか考えていたのだ。まさか、わざわざネズミ捕りのなかに、はまり込んでくれるとは」
 男は、偶然によってこの場所に居合わせたヒノトを、当初から狙っていたとでもいう口ぶりだった。久しぶり、と挨拶されたが、このような男を、今まで一度も見かけたことすらない。
「改めて自己紹介しよう。私の名は、ドルモイ」
 顔を縦に割るようにして、醜い傷跡。
 それを歪めて、男は嗤った。
「会いたかったよ。ヒノト・カ・エンジュ・リファルナ」


「見たか?」
 エイは草葉の陰に隠れながら、同じく傍らで息を潜めているスクネに尋ねた。スクネは小さく頷いて、見ました、と一言だけ返してきた。
 裏の水門から屋敷に吸い込まれていく、一人の男。
 今見た光景は、幻ではないらしい。
「ということは王宮がらみ確定か」
 ドルモイ。
 顔に傷を持つ強面の、王の近習だ。つい昨日もこの国の未来についての憂いを必死の様相でエイに語ってみせたというのに。嘘をついているようには見えなかったが、上手い演技だったのだろうか。それとも、両方とも真実で、面と裏、二つの面を使い分けることに長けているだけか。
 やっかいなことになった、とエイはこっそり舌打ちせざるを得なかった。この騒動が、王宮を騙った賊であるほうに、自分は賭けていたというのに。本当に王宮がらみだとしたら、危険の度合いが跳ね上がる。
「私が一人で参りましょうか?」
「いや、いい。一度城に戻ろう」
 エイは嘆息混じりに提案した。スクネが怪訝そうに首を傾げる。
「よろしいので?」
「仕方ない。もし自分達の片方が捕まりでもしたら、陛下に迷惑どころの話ではない」
 賊ならば逃げて誤魔化してしまえばすむが、王宮がらみ、しかも顔見知りが屋敷内にいるとなれば、話はまた違ってくる。水の帝国からの特使が、隠密行動を現行犯で抑えられるのだ。取引の材料にでも使われかねない。
 いくらでも、それだけは避けたい。我らが皇帝に負担をかけることだけは。
「いざとなれば命を絶つぐらいは」
「簡単に死ぬとかいうものではないよ」
 エイはスクネの言葉に憤慨して、言い咎めた。
「暗部出身を馬鹿にするわけではないけれど、君達の嫌いな部分は命を粗末にしようとする点だ。何がなんでも逃げおおせてみせます、ぐらい言って欲しい」
「……はい」
 スクネが頷いたことを確認して、エイは頭痛にこめかみを押さえた。いくら立場が上だとはいえ、年上に説教するということには、いつも辛労を伴う。
 一度、戻らなければ。この場所に本当にヒノトがいるのかどうか、可能性がかなり高いというだけで、確証はないのだ。万が一ここに連れ去られていたとしても、どこかに移動した可能性も在り得る――……。
 いこうか、と腰を上げかけたエイたちを。
「エイ!」
 声量の抑えられた、甲高い少年の声が呼び止めた。


「……カ・エンジュ?」
 リファルナ。
 何の話だ、と、ヒノトは、男の話に首を傾げざるを得なかった。
 リファルナはこの国の名前だが、ドルモイと名乗った男の口ぶりからして、どうやら苗字であるらしい。カ・エンジュ・リファルナ。そんな長ったらしい苗字は、自分の名前にくっついていたりなどしないというのに。
「その様子からすると、あの女から聞いていないのだな?」
「あの女?……っ!」
 ドルモイはヒノトに歩み寄り、髪を握って顔を引き上げた。髪の付け根に走った痛みに思わず顔をしかめて、ヒノトは間近にある男の顔を睨みすえた。
「お前の育ての親のことだ」
 リヒト。
「リヒトがどうしたというのじゃ?」
「あの女は罪人よ」
 かか、と喉を震わせ男は嗤った。
「十五年前、罪の証である赤子と医療の術を城から抱いて逃げ去った、元は城付の歌姫だった」
「う、たひめ?」
 嘘だ、と思った。
 リヒトの声はいつもしゃがれて、まともに歌えるような喉ではない。声を出すことすら、時折辛そうにしているというのに。
 男は嗤いながら、淡々と言葉を続けた。
「その声は誰もを魅了せずにはいられず、美しい黒い髪を背に流した美姫であった。一族と、一度は縁を切っていた女だ。大人しくしていれば平和に暮らす道もあったものを」
「……一族」
「リヒト・カ・エンジュ。医療の民と呼ばれたカ・エンジュに生まれながら、あまりに優れた姉を持ったために医療から遠ざけられた妹。姉の罪を抱いて逃げ去った、罪人中の罪人」
 医療の民については、聞いたことがある。
 かつて、この国の医療全てを支えた、優秀な医師を輩出する一門。王の傍に侍りながらも、決して王と血を混じらせることのなかった、貴族や王族とは隔てられた階級にあった存在。
 カ・エンジュ。
 今はもういない、医療の[しもべ]
 その、末裔?
「……リヒトが……?」
「何を呆けた顔をしているのだ?」
 おかしくてたまらないという風に、男は声を上げた。
「お前も、そのうちの一人だといっているのだ。カ・エンジュの名前を受け継ぐ娘よ」


 美しく、冷徹で、そして誰よりも慈悲深かった一族の長。
 ヒノトの、母。
 そして、リヒト最愛の姉。
「姉者」
 リヒトは閉じた瞼の裏に、美しい女の姿を思い描いて呟いた。
 彼女の医療の才能は、天賦のものだった。誰にも真似できなかった。おそらく一族の史上で、最も優秀であっただろう。彼女の腕をもってすれば、癒えぬ病などないのではないか。そう思えるほどに優秀な女だった。彼女の才能に期待するものは多くいた。彼女の指導によって、荒廃の道を着々と突き進む国に、医療の国の銘を取り戻せるのではないかと。
 彼女の医療の才を、妬んだことは確かにある。彼女と自分の確執を危惧して、一族のものたちはリヒトを一族の技から隔てた。それを、恨まなかったわけではない。
 だがそれを補う歌の才能と声が、自分には与えられていた。何よりも、姉を愛していた。
 周囲にも自分にもとても厳しくあった姉。リヒトにだけ、秘め事を打ち明ける、優しい姉を。
 誰よりも優れ、誰よりも優しく、誰よりも誠実で、そして誰よりも孤独であった姉。
 そんな姉にも、治せぬ病はあったのだ。
 恋。
『あの人を、愛してしまったの』
 姉は、あの薄暗い城の奥で、同じ孤独を見出してしまったのだ。
 自らの兄弟の血で手を濡らし、玉座を一人で温め続ける、男の中に。


「……妾が、カ・エンジュ?」
「先ほどの私の話を聞いていなかったのか、ヒノト・カ・エンジュ・リファルナ。お前は先王とカ・エンジュの指導者であった女の、唯一の落とし子だ」
 落とし子、の意味を咀嚼し、理解するために、ヒノトは時間をかけなければならなかった。
「……えぇ?」
 ヒノトは顔を歪め、首をかしげ、鎖に繋がれて自由にならぬ手足に閉口し、ようやっと、口元から漏れた呻きは、そのような、言葉を成さぬものだった。
 先代の蠱毒と、カ・エンジュ最後の指導者の。
 娘。
 自分が?
「カ・エンジュと王族は、血の交わりを持つことは禁じられているのではなかったか」
 ありえない、と思いながら、ヒノトは呻いた。
 医療の僕は、国を支える一族に相応しい、ありとあらゆる特権を許されていた。だが彼らに許されないことが二つあったのだ。
 一つは、政治に係わらぬこと。理由は子供のヒノトにも判る。ただでさえ相当な特権を許されている民が政に係われば、王族の地位を脅かすだろうからだ。
 そしてもう一つは、王族と、婚姻関係を持ち、子供を持つことだ。
 医療の民と王族の線引きが曖昧になれば、国をやはり脅かすのだと、かつてカ・エンジュについて語ったリヒトが言っていた。
「禁じられていたとも」
 ドルモイは大仰な響きで言った。
「王族と医療の民は、もっとも近しいもの同士だ。長い歴史の中、そういったことが決してなかったとは言えない。だが、大抵は王太子が医療の民の娘に懸想するか、その逆か。どちらにしろ、万が一子供が生まれたとしても、殺せば済む話だったのだ。王子の代えは、いくらでもいるのだから」
 この国の王は、大抵数え切れぬほどの王子と姫を抱え持つ。そして彼らのうち、たった一人が、兄弟を殺して玉座に登る。
 禁忌を犯した王子、もしくは姫も、医療の民も、生まれた子供も、皆殺されても、問題はなかったのだろう。
 それを想像してヒノトは吐きたくなった。王という機構を維持するためとはいえ、なんてそら恐ろしい行為だろう。
「だが、お前の両親だけはそういうわけにもいかなかった。片や、この国の蠱毒。片や、失ってはならぬ、史上最も優れた医療の民の長。そうして生れ落ち、生き延びてしまった、姫君。お前一人の存在で、国は荒れたよ罪深き子供。お前の存在に脅えた他の王子達が一斉に蜂起した。医療の民は皆殺しにされ、この国から医療の根幹が全て取り払われてしまった」
 男は微笑み、子供に寝物語でも聞かせるような、優しい声音でヒノトに告げた。
「貴様のせいで、この国は今貧窮に喘いでいるのだ」


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