第五章 二人の後継 1
「下手にうろついては……私どもも困りますが貴方も困るでしょう」
暗闇の中、ランタンを手に先導する男はそういって笑った。
「まさかこんなに早く、行動を起こされるとは」
男が口にするのは皮肉だ。
「慎まれよ」
「えぇ、肝に命じておきますよ」
ウルは肩をすくめて頷いた。今回ばかりは、確かに肝を冷やした。そう思ったからだ。刃で貫かれて死ぬことに対してはさして恐怖を覚えないが、あてどない空間を、餓死するまで一人で彷徨い続けるのは、ぞっとしない。
「さぁ、もうすぐ出口です」
ランタンの橙の光に染められた、痩せた男の横顔が目に入る。
さて、彼についていくことは、鬼が出るか、蛇がでるか。
どちらにしろ、あの空間で彷徨い続けることはできなかった。自白剤を打つために自分を助けたという可能性を差し引いたとしても、この事態は喜ぶべきなのだろう。
ウルは男に笑った。
「感謝いたします……カシマ殿」
夜の会合から、与えられた客間に戻ったエイは、窓辺に立つ男から報告を受けた。
「間違いないのか?」
男は頷いた。
「間違いありません」
男は、ウルの片腕だ。ウルが、しばらく子供達の監視としてつけていた男も彼である。ウルがいなくなり、彼の捜索にあたるために一度下がらせていたのが仇となった。致し方ないとはいえ、その間に、ヒノトが姿を消したのだから。
カラミティたちと別れた後、エイは一度城に戻った。仕事に穴を開けるわけにも行かなかったし、自分がなれぬ町をうろつくより、そういったことに長けているウルの部下に探らせたほうが早いと踏んだのだ。
男は、一つの報告を携えて戻った。
絶対安全な――けれど人攫いの餌として用いられている、仕事の募集。それは。
「まさか、王宮が?」
王宮の、ものだというのだ。
「募集内容は清掃員や庭、薬草の農場の手入れの下請け、あたらしい女官など職種は様々ですが、経歴問わずで手を探しています。むしろ経歴のないものを歓迎しているようです」
「娘の捜索願を出した親は、知っているのか?」
「知ってはいたようです。が、恐ろしくて口に出せなかったと。王宮が本当にそのような形で娘を集めていると、口に出したくはなかったようです。だからまず、娘を探す届けだけを出したようですね」
新しき国府のことを悪く言い立てて、自分が捕らわれることを恐れたのだろう。王がようやく定まったとはいえ、国はまだ混乱と荒廃の最中。行方不明の娘を抱えた親の言い分を大人しく聞いて、捜索に乗り出すとは考えられない。むしろ、反逆罪として彼らを冤罪で捕らえるだろう。
「本当に、宮廷が? 国の権威を傘にかぶり、誰かが一人で糸を引いているのではなく?」
「実際はどうかわかりません。この短時間で、それを確認することはできませんでした。現に娘達は直接、城に向かったわけではなく、一度斡旋所に立ち寄った形跡があります。斡旋所の主人によれば、定期的に小船がでて城まで彼女らを送っているのだと。が、実際には城にそういった船が着けられた形跡はありません」
「なるほど」
いい案だ。国府からの依頼といわれれば、人の詐欺に対する警戒心は幾許か緩む。斡旋所の主も安心して仕事の募集を代行することができる。そして途中で小舟を消してしまえば、たとえ本当に、国府が娘を集めていたとしても、国府は名を騙ったほかの誰かだと主張することができる。
「行方はつかめたのか?」
エイはさして期待せずに尋ねた。だが男は、期待を裏切って優秀だった。
「見つかりました」
淡白な男の回答に、エイは満足して続きを催促した。
「それで?」
「貴族の一人が所有する小さな屋敷です。街の端のほうに位置しています」
「ここからの距離は?」
エイの問いに、彼が息を詰めて瞠目する。
「まさか、ご自分で行かれるおつもりですか?」
彼の声には、苛立ちが滲んでいた。
「もう十分ではないですか? あとはあの薬師たちに任せておけば。そこまでする必要はどこにあるのです?」
(確かに)
エイは静かに瞼を下ろした。
確かに、自分は十分に責を果たしたのかもしれない。役割からすれば、自分が自らヒノトを探し、助ける必要はどこにもないのだ。ヒノトは所詮、この国で成り行き上知り合った行きずりでしかない。
最下層の民として、この国でもがき生きる、子供たちの代表の少女。
(けれど)
エイは胸元を握り締めながら、胸中で毒づいた。
(この焦燥は、なんなのだろう)
胸焦がす、この焦燥は。
ここが水の帝国領内ならいざ知らず、ここは異国の地だ。動かせる手勢は限られているし、エイ自身、密命を負っているのだ。役割を投げてしまうことは、エイには出来ない。
それは判っている。
判っているというのに。
気持ちがはやるのだ。
自分には責務がある。投げてはならない責務。身寄りも後ろ盾もろくにない自分を重用してくれた皇帝。宰相が姿を消した、あの美しい春の日に、自分に託した何か。今、ヒノトを探してのこのこと危険な場所に赴いていくことは、自分が背負う全てを放棄することに通じる。
それは判っている。本当に、わかっているのだ。ウルの片腕の男が進言する通り、自分はこの場に残り、ウルの帰還を待ち、仕事をこなして、水の帝国に戻る日を待つべきだ。理性もまた、そうエイに告げていた。
沈黙するエイに、業を煮やしたらしい男が、嘆息を零しながら口を開く。
「確かに、貴方が請け負う命を考えれば、薬師と縁を作っておき、恩を売ることに越したことはないですが――」
「恩?」
男の言葉に、エイは弾かれたように面を上げた。エイのその動作に、ぎょっと目を剥く男の姿が見えた。
「違う」
エイは首を横に振った。
「それは違う」
恩。
そんなものの為に、今焦燥を抱いているわけではない。
それは断じて違うのだ。
一体どのような理由で娘達が集められているのかは知らない。だが十中八九、人身売買だろう。そこに、ヒノトがいるかもしれないという高い可能性。
あの、少し頑固で、けれど屈託なく、同じ孤児を見つければ手を差し伸べずにはいられない、面倒見のよい優しい少女が。
踏みにじられる。
エイは、その意味を知っていた。非合法の方法でかき集められ、捕らえられた少女達の末路を、知っているのだ。
自分もまた、最下層の民であったから。
生きるために、誘拐されてきた女達の競売の手伝いをしていたことがある。それを通じ、檻の中、鎖に繋がれて、帰りたいとすすり泣く娘達が、なす術もなく尊厳も何もかもを踏みにじられていく様を、直に見た。それだけではない。その手助けをしたこともある。娘達が、母に会わせて、帰らせてと、涙をこぼして懇願する。檻の狭間から伸ばされる、やせ衰えた白い腕も知っているのだ。
『また会えるよな、エイ』
鈴を転がしたように笑い、屈託なく自分を慕ってくれた少女が、あのように踏みにじられるという可能性。
そこに、背中を這い登る、何かがある。
悪寒といって差し支えないそれは、おそらく恐怖だ。
「自分の傍の人間一人守れずに、一体何が、できるというのか」
呟きながら、エイは確信していた。
今ここで、彼女を見捨てれば、自分は一生、後悔する。
永久に後悔し、そして、敬愛する皇帝にも、自分に何かを託して姿を消した宰相にも。
きっと一生、向き合えなくなる――……。
「明日の昼……いや、朝。夜明けまで、時間を欲しい」
エイは、男に向き直った。
「その時間までに、私は戻ってこよう。お前は、少し休み、そしてウルの捜索を続けてほしい」
「カンウ様」
男の声色には、信じられない、といった響が混じっていた。
だが、エイは引き下がらなかった。
「一生の頼みだと思ってくれていい。政務に穴はあけない。もし、何もなかったり、危険であると判断したら、すぐに戻ってくる」
「……部下の私に、貴方の頼みを拒むことができるとお思いですか?」
男が渋面になりながら呻く。
「護衛はどうなさるおつもりで」
人員は裂けない。今回の訪問は、実に少人数だからだ。
エイは微笑んだ。
「大丈夫。私一人で」
「そんなことをすれば、マキート様に殺されます」
「けれど人員は裂けないだろう」
「私が随行いたしましょう」
今度は、エイが目を瞠る番だった。
「これは、任務ではなく私情で」
「判っています。ですが、私の仕事は、かげながら貴方をお守りすることだと、マキート様に厳命されております」
いくらウルに厳命されているからとはいえ、そんなことに彼を巻き込むことはできない。大体、ウルが行方知れずになって以降、この男は休む間もなく働き通しなのだ。そろそろ休めてやらないと。
「スクネ」
申し訳なさに男の名前を呼ぶと、男は目を瞬かせ、そして柔らかく微笑んだ。
「私の名前をご存知で」
「当たり前だよ。共にこのような地に来た仲間なのだから」
雨季と乾季。妙薬に例えられる王と、毒薬に例えられる王。二つの激しさに翻弄される民人の生きる土地に、共にやってきた仲間を把握しないわけがない。
「私は暗部の人間だというのに、貴方は仲間だというのですか?」
「出身が、だろう? 私だって元は最下層の民人だよ。ウルも大切な仲間に違いない。出身の身分の差など、馬鹿馬鹿しい」
そのようなことを、自分は気にしたことがない。逆に貴族出身だのなんだのといわれるほうが、気を遣う。
そして何より。
「私達は、誰もがかの皇帝に仕える仲間以外の何者でもないというのに」
自分達は、自分達を、闇の奥底から拾い上げ、光を当ててくれた、皇帝を支えるべく集った仲間以外の何者でもないのだ。
「ならば私はますます貴方を死なせるわけにはいかなくなりました」
やはり随行しましょうと、男は繰り返した。
申し訳なさと、少しばかりの安堵に、エイは微笑んだ。やはり武の腕前に自信のない自分が一人で危険に歩み寄ることを、怖くないといえば嘘になるからだ。彼が共にいってくれるというのなら心強い。
「ありがとう、スクネ」
男は微笑み、では早速準備をしましょうと、先ほどよりも幾許か柔らかい声音で言った。
こつ、こつ、こつ、こつ。
規則正しい硬質の足音が、部屋の外を巡回している。
ヒノトはその足音が遠ざかったのを確認して、そろりと息を吐いた。次に、あの足音が扉の外に最も近づくのは、四半刻ほど後だと、予想をつける。
(……もう二度目の夜がきたのじゃな)
ヒノトは高い場所にある窓から月明かりを確認し、胸中で呻いた。窓はヒノトの頭の半分ほどしかない、明り取り程度のもので、そこにも格子がはめられている。石造りの牢は堅牢で、湿気が酷かった。おそらく、ここは半分ほど近くが水中に埋まっているのだ。足元は染み出た水で濡れていた。
ヒノトはちらりと傍らで上下する肩を一瞥した。娘の、痩せた肩は、ヒノトと共にこの場所へつれてこられた少女だ。ヒノトと共に仕事を求めて斡旋所へ赴いた、あの花街の娘。牢に入れられることに抵抗したため、彼女は酷く殴られて衰弱が激しかった。今日一日、彼女は牢の石畳の上に横になったまま、ぴくりとも動かずに眠り続けていた。
この牢に――正確には、この屋敷につれてこられたのは、ヒノトとこの娘だけではない。他にも十数人の娘がいた。最初はこの手狭な牢にひしめいて入れられていたのだ。それが数刻ごとに、一人、二人、三人と連れて行かれ、とうとうヒノトとこの娘二人だけになってしまった。
「リヒト……」
ヒノトは娘の傍らに腰を落として、膝を抱え、親代わりの薬師の名を呼んだ。
「心配、してくれているのかのぅ」
リヒトが取り乱す様を、ヒノトはいまだに見たことがない。彼女は滅多に感情を動かさないのだ。自分がたとえこんな風にいなくなったとしても、彼女は淡々とすり鉢と薬草を相手に、日々を送るのだろうか。その様を易々と想像することができてしまい、ヒノトを欝にした。
(エイは)
どうなのだろう。自分が無断で姿を消したということを、彼は知り得ただろうか。自分が最後に言葉を交わしたのは彼だ。彼と出かけたことは子供達も知っている。一体どこの宿に泊まっているのかは判らないが、イーザを介せば、連絡ぐらいは取れるだろう。
あの、お人よしの旅人は、自分の失踪を知ってそして、自分を、心配してくれているのだろうか。
気をつけろと、彼に言われたのに。
仕事をもらえる斡旋所。危険と隣り合わせだと判っていたのに。彼に、危険だからといわれたのに。一人で、そこを訪ねたわけではなかったことも、危機感をそぎ落としたのだろう。それでも、本当に迂闊で、甘かった。
エイはあんなふうに間の抜けた面を見せるけれど、きっと本当は優れた人なのだ。沢山の危険を潜り抜けてきた人なのだ。
その忠告を、自分はきちんと聞いていなかった。その末路として、自分は今こんな風に、暗い牢の中で膝を抱えている。
「リヒト……エイ……」
彼女らのように、一人で立ちたい。
立ちたいのに、失敗してばかりで。今の自分にはその気力も、術もない。
どうすれば、いいのだろう。
ふと、ヒノトは傍らの少女から、呼吸音が聞こえなくなっていることに気がついた。
「……だ、大丈夫か!?」
思わず声を上げて、彼女の身体にふれ、そして熱いものに触れたときのように、さっと手を引く。
痩せた身体は、石のように、冷たくなっていた。
ひどい打撲と、細かい裂傷。腫れ上がった顔。大丈夫、とヒノトに声をかけてきてくれた綺麗な顔は、見る影もない。薬を求めたけれど、当然といった様子で無視された。薬草の調合の知識と、基本的な医療の知識、応急処置は、リヒトによって叩き込まれているけれど、こんな場所では何も出来ない。彼女の顔に、破いたヒノトの衣服の裾を、濡らして当ててやるぐらいがせいぜいだったのだ。
ヒノトの手を、姉のようにそっと握り締めてくれていた花町の娘は、腫れた唇と目をを微かに開き、動かなくなっていた。
開いたままの瞳孔。その瞼を下ろしてやって、下唇を噛み締める。
リヒトだったらどうしたのだろう。もっと別の形で娘にきちんとした手当てをして、彼女を救ってやれたのだろうか。
『焦るでない、ヒノト』
金の為に、スリを働くたびに、リヒトは言った。
『主の身の軽さは認めよう。だがお前は、軽業師にでもなるつもりか。違うであろう。一人前の薬師になりたいと願うのなら、金のことは後でよい。お前に今必要なのは、学ぶことだ』
リヒト。
(帰ったら、きちんと勉強をする)
知らぬうちに、まなじりから零れ落ちていた雫を、手の甲で拭って、ヒノトは誓った。
(教えてもらうのじゃ。一つ一つ。今度こそ、きちんと)
リヒトに本当に認めてもらえるように。
こんな風に、助けられない悔しさを、二度と経験しないように。
だから。
(帰りたい)
ヒノトは強く思った。帰りたい。
きちんと、学ぶために。焦らずに、今は無理でも、未来で、リヒトの役に立てるように。育ててくれた恩を返せるように。
そのために帰りたい。
「帰りたい……」
鼻の奥に熱いものが集まり始め、視界が本格的に白く霞み始める。
泣いてしまう、と思った刹那。
こっ。
小石が、ヒノトの後頭部を打った。
「……なんじゃ?」
目尻を擦りながら、ヒノトは自分の後頭部を直撃した小石を拾い上げた。親指の爪ほどの石だ。上から降ってくるなどと。天井が、崩れ始めているのだろうか。あまり、丈夫そうには見えない牢だ。もしこの牢が崩れたら、自分は一貫の終わりである。
が。
恐々と視線を移動させたヒノトの目に映ったのは、押し殺した声を上げる、見知った少年の顔だった。