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第四章 失踪 3


「……なんなんですか。この、匂い」
 鼻を手の甲で庇い、顔をしかめる。腐臭といった類の臭いではない。もっと甘い、けれども酷く神経を逆撫でする匂いであった。医者が患者の早い快気のためにたく香に似ている気もするが、それよりもはるかに甘い――花街でたかれる香にもっと近いものだ。
 口から滑り出た問いに答えるかのように、密やかな笑いが周囲でさざめいた。
 踏み込んだ部屋は思ったよりも奥行きがあり、だが薄暗いために広さを断定することは難しかった。ほとんどの窓に布が下ろされ、外部からの光りを遮断している。くすんだ色の絨毯が敷き詰められ、等間隔に並べられた香炉から漏れる小さな橙の灯りが足元を照らしている。そして香炉を取り囲むようにして、幾人もの女たちが絨毯の上に重なりながら寝そべっていた。
 波紋のように広がっていく密やかな笑い声の主は、彼女らである。
(……娼館?)
 一見すると娼婦の置屋のようだ。エイは子供のころ嫌になるほど見た、格子越しの広い空間に、見世物のように並べられた女たちを思い出した。だが目の前の女たちは、幼い頃エイが知り合った花街の女たちと決定的に異なっていた。
 この部屋にたむろする女は誰も、幼子のような淡くそして無邪気な微笑を口元に浮かべている。だというのに瞳は暗闇の色を吸って、虚ろに見える。動きの一つ一つが、まるで幽鬼のように緩慢だった。
 ふと、女の一人がエイの足に触れた。細すぎるといっていいほどの指が足の甲に触れた瞬間、エイはその指先の冷たさに背筋を粟立たせた。
 死人の、冷たさ。
 見下ろした女は、少女だった。膨らみきっていない身体の曲線が、膝丈の貫頭衣の上から透けて見える。喉元から覗く鎖骨が、痛々しいほどに浮き上がっていた。痩せすぎた、華奢な肩。腕。
 少女は微笑みながら、その場に崩れ落ちた。まるで糸の切れた繰り人形のように、絨毯の上に仰向けになり微動だにしない。ただ、囁くような笑いだけが乾いた唇から漏れている。唇の淵から零れ落ちた透明な液体が、絨毯の上に染みを作った。
「やぁあぁぁああぁぁぁ……」
 無意識のうちに後ずさりしかけていたエイは、部屋の奥から突如響いた声に弾かれたように面を上げた。子供が癇癪を起こしたときのような泣き声が、部屋の奥、別の部屋へと続いていると思しき戸布の向こうから断続的に響いている。
 浜辺に打ち上げられた魚か何かのように、絨毯の上に折り重なる女たちを注意深く避けて歩きながら、エイは戸布の向こうへと歩を進めた。
「やーぁー! やーやーぁぁあぁ!」
「お兄さん手伝って!」
 女の悲鳴とイーザの切迫した叫びが、足を踏み込んだエイの耳朶を打った。
 戸布の奥は、先ほどの異常な空間と打って変わって、ごくごく普通の安宿といった風情だった。窓からは太陽の日が差し込み、舞い上がる埃の輪郭をあらわにしている。寝台が四台並び、そのうち二台には女が眠っていた。絨毯の上で夢見心地で微笑む女たちよりは、血色もよく比較的健康そうにみえる。
 が、彼女らの足首は左右どちらかが布で縛られており、その紐の先は彼女らが眠る寝台の脚にくくりつけられていた。
「お兄さん!!」
 イーザの声は悲鳴じみていた。窓の傍で、彼は暴れる女を羽交い絞めにしている。暴れる女の力はすさまじいらしく、体格が彼女とさして変わらない華奢なイーザの身体ではいかにも力量不足であることが目に見えた。
 慌ててイーザと女に駆け寄り、女を前から押さえつけながら押し殺した声で尋ねる。
「どうすればいいですか?」
「気絶させることはできっ……! あーなんでもいいよ!」
 力の限界に来ていたらしいイーザは、涙交じりの声を張り上げてエイに応じてくる。エイは女を前からイーザごと抱きしめると、深呼吸をして勢いよく手刀を女の頚椎に叩き込んだ。
「……っ」
 刹那、小さな呻き声を上げて女がくたりとエイにもたれかかってくる。首が折れたとかいったようすもないようだ。イーザが盛大なため息を零し、女を解放する姿を見つめながら、エイも内心安堵に胸を撫で下ろしていた。
(……う、上手くいってよかった……)
 口には出さないが、上手くいくとは思っていなかった。こういった特殊な技巧になると一か八かの賭けでしかない
(陛下と閣下って、そこの点凄いですよね……)
 水の帝国の皇帝と宰相は、学術一辺倒ではなく武術の類にもありえないほど秀でているのだから、血のにじむような努力を差し引いたとしても、彼らの持ち合わせる才能に羨ましさを覚えざるをえなかった。
 その場に腰を落としたエイは、改めて女の顔を確認した。面差しは随分若く、女、というよりは少女であった。彼女はサブリナ、と、イーザが呼んでいた少女に違いない。窓から、赤い布の花を投げ捨てた少女。遠目に見たときに思った通り痩せぎすで、硬く閉じられた瞼の縁には、涙と思しきものの跡。
「イーザ、この子は」
 面をあげながら尋ねる。イーザは女の足に布をよって作り上げた紐をくくりつけている最中であった。その紐の端を空いている寝台の脚に括りつけながら、ため息混じりに彼は答えてくる。
「サブリナ。まぁ僕の幼馴染なんですけどね」
「幼馴染……?」
「うん。あ、お兄さんすみませんけど、彼女抱きあげて寝台に乗せてくれませんか。重たくて、僕じゃ力不足なんだ」
 エイはイーザの言う通りに、サブリナの身体を横向きに抱き上げた。少女は完全に気を失っているらしく、腕に掛かった負荷は思いのほか重たい。
 しばらく運動らしき運動をしていなかったツケとして、筋肉が大きく軋んだ。
「……大人になりたいな」
 サブリナを寝台に横たえ、息をつくエイの耳に、イーザの落とした低い呟きが届く。見下ろした少年の身体は、成人と呼ぶには幾許か華奢だ。綺麗に整った顔に浮かぶ表情は、その女々しいとすら呼べる体格を裏切って、ひどく老成していた。
 繰り返し、己の非力さに苦渋を舐めてきたものの表情。
 エイは微笑み、少年の肩を軽く叩いた。
 見上げてきた少年も、エイに応じてか口角を淡い笑みに曲げる。一拍ほどそうしていた後、彼はサブリナに再び視線を落とし、頬に張り付いた少女の髪を指で落とした。
「……ここは一体どういった場所なんですか?」
 愛しげに、そして哀しげに少女を見下ろす少年の表情に憐憫を覚えながら、ひとまずこの状況を明白にさせなければという意識が働いた。
 エイは周囲を見回し、清潔にみえたこの部屋にも香炉が一つ設置され、甘い匂いが充満していることに気がついた。鼻が慣れてしまったことを差し引いても、この部屋を満たす匂いは先の部屋に比べればかなり希薄だといえる。だがそれでも、この甘い匂いは神経に障った。窓から吹き込んでくる土埃混じりの乾燥した風が、清清しく感じられるほどに。
 面をあげたイーザは、エイの問いに答えるためだろう、口を開きかけた。だがそのまま彼は瞠目し、口を開いたまま動きを止めてしまう。エイは首をかしげながら、少年の固定された視線の先を求めて、背後をかえりみた。
 女が、戸布を腕で捲り上げ、戸口に背を預けながら佇んでいた。
「……え」
「イーザ。誰だその男」
 女は緩く波を描く長い髪を気だるそうに掻きあげ、ゆっくりと歩み寄ってきた。土埃がうっすらと覆う床に、裸足の足跡を残しながら。彼女の身体に巻きつけられた色鮮やかな薄布が、薄暗い部屋の隅でひらりと踊る。闇の深遠にいた気分でいたエイは、その布の色の明るさに、太陽を直視した気分に陥り、思わず目を細めた。
「最近リヒトのところに出入りをしている人だよ、カラミティ」
「エイといいます」
 エイの会釈に、カラミティと呼ばれた女は軽く眉をひそめた。
「東の人間か」
「……は?」
「初対面の人間に会釈をするのは大抵東の人間だからな。で、一体どうして部外者がここにいるんだ、イーザ」
 初対面の人間に対してかなり不躾な女の物言いに、少々腹を立てながらも、エイはこの女が正常に動く思考能力の持ち主であることに安堵を覚えていた。エイよりも幾許か年嵩であるらしい女の瞳は澄んでいる。死んだ魚のように絨毯の上に横たわる女たちを見た後では、たとえカラミティと呼ばれた女が不遜な態度を多少取ったとしても許容できた。
「サブリナが落ちそうだったんだ」
 イーザは肩をすくめて女に応じた。
「窓から。足の戒めも解けてた。このお兄さんは彼女を支えるのを助けてくれたんだ。禁断症状が出てたし」
「……なんだって?」
「…カラミティこそ、一体どこにいってたの?」
 イーザの咎めに、女は明らかな渋面を見せた。腕を組んだ彼女は小さく嘆息し、サブリナの寝台に歩み寄る。カラミティはそのまま寝台に死んだように横たわる少女の顔色を確認し、今度は大きな嘆息を落とした。
「そいつは悪かった。ちょっと嫌な話を小耳に挟んでな。出先で長居せざるを得なかった。無礼な口を利いて悪かったな。えーっと」
「エイです」
「エイ」
 一応礼儀を欠いていたということは自覚していたらしい。彼女はエイの名前を確認するように舌先で転がして、女っ気の全くないからりとした笑顔で謝罪を繰り返した。
「悪かった。サブリナのことは礼を言おう」
「いえ……それはもういいんですけど、良ければ私の質問に答えていただけませんか」
「あん?」
「ここは一体」
 エイは再び周囲を見回した。寝台で眠る女たちは誰もが少女、もしくは童女といっても差し支えない。膨らみにかけた痩せぎすの身体を投げ出すようにして、寝台の上に横たわる娘たち。
「どういった場所なんですか?」
 先ほど流されてしまった疑問を口にしながら、エイは徐々に鈍い痛みを覚えるようになったこめかみに顔をしかめた。眉間に指先を当てて軽く頭を振る。すると傍らのイーザが腰に下げていた巾着から、親指の先ほどの大きさの木の実を取り出しエイに握らせてきた。
「御免お兄さん。これ食べて。気付けだよ」
「……は?」
「頭痛くなってきたんでしょ。大丈夫?」
「え? えぇまぁ」
「ひとまずここから出るぞ」
 イーザに言われるままに手渡された木の実を口に含んだエイの耳朶を、鋭いといっていい語調のカラミティの声が打った。その声音は、どこか焦りすら滲んでいるように思える。
 彼女は戸布を腕で押し上げながら、エイを振り返り、顎で付いて来いと合図を送ってきた。
「隣に私の住居がある。話はそこでしよう」
 先ほど笑っていたかと思えば、急に厳しい表情をする女の態度の変わりように、どうしたのかと首を傾げつつ口の中の木の実を噛み砕く。
 刹那、イーザが何故これを気付けといったのか判った気がした。
 一瞬意識を天の彼方へ飛ばしそうになるほど、痛烈な辛さがエイの舌を焼いたからだった。


 カラミティが住居としている部屋の間取りは、先ほどの部屋とほとんど変わりがないのだろう。窓全てが開放され傾きかけた太陽の日差しが部屋の間取りを露にしている。入ってすぐ右手には炊事場。細長い食卓と椅子が二脚部屋の中央に置かれていた。奥の部屋はおそらく寝室だ。戸布が下ろされている。
「水を飲むか? トトの実の辛さは最高だっただろう」
「……えぇ……お願いします」
 カラミティの有難い申し出を、エイは素直に受け取ることにした。まだ舌先が痺れている。辛いという言葉では言い表せない。文字通り口から火を噴いたようだったのだ。
 炊事場の傍らに置かれた巨大な[かめ]から柄杓で水を掬いながら、カラミティが不満そうな声を上げた。
「仕方がなかったとはいえ、やはり部外者を巻き込むのは感心せんなイーザ。耐性がなければ中毒になる」
「判ってるよ」
 不貞腐れた表情を浮かべ、肩をすくめるイーザを視界の端に捉えつつ、エイは首をかしげた。
「中毒?」
「水煙草だ」
 カラミティがエイに水の入った高杯を手渡してきながらそう答える。
 水煙草。エイは驚きを面に出さないように注意を払いつつ、唾を密かに嚥下した。いつの間にか汗ばんでいた手を、高杯に添え、カラミティの言葉の続きを黙って待つ。椅子のない彼女は壁に背を預け、どこからか取り出した煙管に火をつけると、それを気だるそうに一服した。吐き出され、虚空に解ける、白い煙。
「とはいっても、水煙草の草を一摘み、香に混ぜて焚いているに過ぎない。それでも頭が痛くなっただろう。幻覚症状を引き起こし、高い依存性、中毒性を持ち、人を廃人に追い込む。最近この国の貴族――つっても、『蠱毒』を失ってから特に何をやるわけでもなく奥に引っ込んで次の蠱毒を待っていた腰抜け共だが……奴らの間で流行り始めたやつだ。月光草[ルーメン・ルナエ]と呼ばれてる」
 ここにも、という思いが。
 エイの胸中を占めた。
 エイは、先ほどの部屋がある方向に視線をやりながら、呟いた。
「じゃぁ、あの部屋にいた[]たちは……」
「皆中毒患者だ」
「サブリナたちは、あれでも軽度なんですよ、お兄さん」
 卓の上に頬杖をつき、エイの背後、壁を真っ直ぐ見つめながらイーザが呟いた。
「もっと酷いひとたちは、動かない。お兄さんは、蝋人形って見たことあります? あぁいう感じですよ。サブリナには妹がいて。彼女は、助からなかった」
 壁か、その向こうで眠りについているはずのサブリナか、それとも網膜に焼き付いている過去か。
 イーザの眼差しは、ある一点に据えられたまま、動かない。
「僕がサブリナを見つけたとき、サブリナは椅子に座る彼女の妹の傍で、壊れたみたいに笑ってたんです。それでもサブリナは、声を上げてた。ゆっくりだけれども、動いていた。隣の手前の部屋で、折り重なってる子達みたいな感じですよ。彼女の妹は、綺麗な衣装を着せ掛けられて人形みたいに椅子に座って、夢を見ているみたいに薄く微笑んでました。でも、彼女は声を出さないし、指一本動かさない。呼吸しているのかどうかすらわからないぐらい」
「どれぐらい、長く?」
「そんなに長くはなかった」
 イーザの言葉を引き取って、カラミティが答えた。煙管の先を唇に当て、彼女は嘆息する。
「助け出しはしたがな。臓器が一つずつ死んでいった。隣の部屋は日に日に少しずつ煙草の量を減らしてるんだ。時間は掛かるが、解毒薬も何もない状態ではそうやって回復を図るしかない。だが、彼女を含め、末期に至った娘たちは体力が追いつかなかったんだろう。……エイ、隣の部屋の娘たちに触れたか?」
 彼女の問いに、エイは首を縦に振り、肯定の意を示した。冷たかっただろう。そう、彼女は言った。
「氷のように、冷たかっただろう。まるで冬眠する蛇だよ。身体機能が極限まで低下する。あれらはまだいいほうなんだ。サブリナも、禁断症状を起こせるまでに[・・・・・・・・・・・・]回復した」
「……カラミティは医者なのですか?」
「出身はバヌアだ。知ってるか? 今は諸島連国に併合されて存在しないがな」
 耳にしたことのある地名である。エイは脳内で地図を広げ、諸島連国の領内にその地名があることを確認した。学館にいたころ、古い歴史を持つ島国で国民による暴動が起こった。バヌアは、その暴動の結果王政が撤廃され、だが上手く政治が立ち行かず、そのまま諸島連国に吸収合併され消滅した国だ。
「そこで医者をやっていた。国を失って、世界中をふらふら歩いていたわけだ。が、この国にきて他にいくわけにはいかなくなった。曲がりなりにも医療の国との二つ名をもつ癖に、医者がいないんだぞ? この国には。この国を横断したが、どいつもこいつも栄養失調と脚気と熱病でくたばりかけてるし、それが当たり前すぎて指摘する奴もいない。貧しい国はそれなりに見てきたつもりだが、大抵土地の占いババァやら長老やらが医療の知識を持ち合わせてたりするもんだ。が、この国は最悪だ。医者狩りでもあったのかと思うほど医者がいないんだ。なのに月光草を含めわけのわからん麻薬はほこほこ湧いて出てくる」
 徐々にカラミティの語気が熱をおび、最後に彼女は一体どうなっているんだ、と忌々しげに言葉を吐きすてながら空いている拳を土壁に叩きつけた。剥がれ落ちた土がぱらぱらと地に落下していく。驚いてはいないにしろ、カラミティの怒気に押され僅かに身を引きかけたエイを見てだろう、彼女は都合[ばつ]が悪そうに煙管を口にくわえた。
「ともかく、水煙草だ」
「その水煙草ですが……」
 エイは切り出しつつも、僅かに逡巡した。水煙草について、そして自分に課せられた役目について。結局エイはどこまで語るべきか考えあぐねながら、慎重に言葉を選び声に乗せることにした。
「東の大陸で、流行っているんです。月光草。高い幻覚症状、依存性、やがて人を死に至らしめ……。以前目にした資料に書かれていたことと、先ほどカラミティが説明してくださったことは全く同じです。実を言えば私がこの国に来たのも、その関係で」
「なんだあんたも医者だったのかエイ?」
 早合点をしたらしいカラミティが、大きく目を瞠った。
「いえ……医者の方に依頼されて」
 医者に依頼されたわけではないが、皇帝を介して水の帝国の御殿医から依頼を受けていると考えれば、あながち間違いでもない。
 煙草の煙を吐き出しながら、カラミティは明らかに聞き取れる音量でもって舌を打った。
「医者ならいろいろ手伝ってもらいたいことがあったんだがな。首都のこの町でさえ医療に携わっているのは自分かリヒトぐらいだ」
「リヒトとは知り合いなのですか?」
「分野は違うが同業者だ。イーザとヒノトを通じて知り合った」
「そのヒノトなんだけどカラミティ」
 少年の硬質の声が、カラミティと自分の会話を遮った。
「昨日から行方が知れないんだ」
「ヒノトが?」
 信じられない、といった様子で、カラミティが眉間に皺を刻む。
「今リヒトのところの皆が大騒ぎで町中探してるけど、一向に見つからないんだ。僕もお兄さんも、彼女を探している最中でさ」
「お前達が総出で探して見つからない? 馬鹿な。お前たちほどこの町の裏道を網羅している人間はいないだろうに」
「馬鹿みたいな話だよ。死体が上がったっていう話も、まだないよね?」
 イーザが笑えない可能性をさらりと口にし、エイはぎょっと目をむきながら少年を見つめた。イーザは至極冷静で、真面目だった。たとえ、目を背けたくなるような残酷な可能性であったとしても、一つ一つ確認して状況を明らかにしようという姿勢は、貧民街の少年のそれではなかった。エイの主である皇帝の姿勢に、よく似ていた。
「ないな」
 イーザのそういった様子に慣れているのか、カラミティは顔色を変えずに答えた。
「ヒノトはこの界隈では有名な娘だぞ。殺されたなんていう話、あっという間に広がるさ。殺すだけなら簡単だが、死体処理を目撃者なしでやろうと思うと、この街では無理だな。この時期だ。人の数が多すぎる」
「誘拐されたといかいうそんな話は?」
 イーザの問いに、カラミティは今度こそ、顔色を少し変えた。
「ヒノトの件ではないが、なくもない」
 煙管を咥えて、彼女は億劫そうに付け加える。
「……ついさっき、若い娘が次々姿を消している、という話を聞いてきたばかりなんだ」
「若い娘が?」
 エイの問いに、彼女は頷いた。
「あぁ。丁度、ヒノトぐらいの年代の娘だ。仕事の話があるのだ、といって数人の娘が姿を消したらしい。捜索願が、親から出ている。聞いた話では五人程度だが、回覧に名が載っていないだけで、実際はもっと数多くの娘が姿を消しているだろう。花町でも数十人が足抜けし、いまだ見つかっていないというんだ」
 仕事を餌に娘を釣りだす。
 エイは、別れ際のヒノトとの会話を思い返していた。薬の値を吊り上げるリヒトに胸を痛めて、金が欲しいといっていたヒノト。そのために、エイに身体を売ってみせるとまで言い放っていたのだ。
 エイは思わず、イーザと顔を見合わせていた。彼もまた、同じ点が引っかかったらしい。
「……もしかして」
「もしかしなくとも、ですよ……」
 十中八九、ヒノトは、そこだ。
「どんな仕事なんですか?」
 一体どんな仕事の話が、餌として用いられたのか。エイがカラミティに尋ねると、彼女は静かに首を横に振った。
「判らんよ。だが、安全な仕事だと、娘たちは自信たっぷりだったらしい。仕事を餌に人を釣りだすなんてことは、この国では日常茶飯事で、彼女らも警戒している。それでも、安全だと、彼女らは言い放って家を出て、そのまま戻っていないというんだ」
 絶対に、安全だと確証の持てる仕事。
 そんなもの、この世にあるのだろうか。
 特に、こんな荒廃の激しい国で。
「イーザ。何か思い当たらないか?」
「え?何が?」
 薄く嗤うカラミティを見上げて、イーザがきょとんと目を丸めた。
「仕事を餌に、女達を釣る手口。そして、絶対安全だと言い放って出て行った娘達。いつかと同じ[・・・・・・]だといっているんだ。イーザ」
「……! まさか」
「何の話ですか?」
 会話の内容についていけないエイは、疎外感と怪訝さから眉間に皺を刻んで口を挟んだ。
 同時に振り向いたカラミティとイーザは、渋面だった。
「同じなのさ」
 最初に口を開いたのはカラミティだった。人が、重苦しく、思い出したくもない過去を語るときの面差しだった。
 イーザがエイの瞳を捕らえる。彼の眼差しはあまりにも冷え、そして暗い、憎しみの色が宿っていた。
 彼が、カラミティの言葉の続きを引き取って言った。
「数年前、サブリナたちが、姿を消し、人形のようになって僕らの前に姿を現したときと」


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