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第四章 失踪 2


 ヒノトが。
(いなくなった?)
エイは絶句した。
 少年が掠れた声で、言葉を続けてくる。
「いなくなっちまった。昨日の昼から、戻ってないんだ。あんたと一緒に出かけてからだ。こんなこと、今まで一度だってなかったのに」
 ヒノトをどこにやった、と唸るようにして問いただしてくる少年に、エイは頭を振りながら、わかりません、と返した。
「判りません。私とヒノトは、昨日の昼に別れたきりなんですよ。イーザを見ませんでしたか? ヒノトを送るように頼んでおいたのですが……」
 ふと面を上げたエイは、もう一人、そこに顔見知りの少年の姿を認めた。頭を布で覆った少年は、美しい深緑の双眸をエイに向け、小さく微笑んだ。だが次の瞬間、その表情が氷を切り出し作られた人形のように冷ややかなものに代わる。
「イーザ」
 ぎくりと身体を強張らせていると、彼は淡々と事情を述べた。
「昨日アレから僕もヒノトを見ていないだよ、お兄さん。追いかけたんだけど、見当たらなかった。ご機嫌取りの言いつけどおり、家に行ったけどヒノトはまだ帰っていなかった。そしてそのまま、どうやら家に帰っていないようなんだ。……一体……」
 最後の言葉はため息にとって代わられ、その消えてしまった言葉を引き取るようにしてエイは胸中で呻いた。一体どこに行ったのだ。いくらなんでも、思い余ってあのまま花町に身売りしに行くような、気の弱い娘だとも思えない。
「大丈夫か?」
 背後から掛かった低い声に、エイはドルモイを振り返った。彼の顔の傷に、腕の中の少年がたじろぐのがわかる。エイは彼を庇いながら、小さく頷いた。
 だが、どうするべきか。少年たちの様子からすると、本当にヒノトが無断で姿を消すというのはただ事ではないのだろう。今すぐ、彼らについて彼女の捜索に力を貸したい――だが、それは許されない、とエイは臍をかんだ。自分は水の帝国の、特使なのだ。ドルモイとの面談を放り投げて、そちらへ行くことは許されない。
 どうすれば、と口を引き結び、逡巡するエイに、ドルモイが声をかけた。
「行ってはいかがか」
「……ドルモイ殿?」
 ドルモイは相変わらずの仏頂面で、ちらりと少年達を一瞥した。
「彼らには、どうやら貴方が必要なようだ。行ってはいかがか。これ以降、会合は夜半まで入っていないはずであろう。私は、かまわぬ」
「しかし」
「先の返事は、後々聞かせていただければよい」
 エイは少年達の上に交互に視線を投げ、ドルモイの提案に従うことにした。
「申し訳ありません」
「かまわぬ。ただ、道中は気をつけていかれよ」
 ドルモイは僅かに微笑んだ。彼の強面の雰囲気が僅かに和らぐ。
 そのまま、ドルモイが車に再び乗り込む。後ほど。そういった小さな呟きがエイの耳に届くと同時に、車はエイを残して、再びゆっくりと動き出していた。
 詳しく事情を問いただされなかったのは幸いだった。後ほど、詰問が待っているのかもしれないが。
 車を見送って、エイは少年の肩を小さく叩いた。
「とりあえず、戻りましょう」
 もしかすると今頃リヒトの元に、ヒノトが戻っているかもしれない。
 だがそんな淡い期待は、抱かないほうがよいかもしれないとエイは自嘲に薄く笑った。
 ウルに続いてヒノトまで。関連性は全くないにしろ、自分の周囲で何かが動いていると今更のように自覚せざるを得なかった。


「今日は来ぬと聞き及んでいたが違うたか。エイ殿」
 ヒノトが戻らぬという事態に、錯乱しているのかと思いきや、エイを迎えたリヒトは至極落ち着きを払っていた。平屋の奥で、壷やすり鉢を並べて、いつもと同じように薬の調合に励んでいる。エイは嘆息した。彼女の前に腰を下ろし、責めるように睨め付ける。
「ヒノトが心配ではないのですか?」
「心配ではある」
 エイの問いに即答した女は、それでも羊皮紙に何かを書きとめている手を止めなかった。さらさらと、墨が筆記具の金具を伝って紙の上に文字を描く。その筆記具の金具の先を目線で追いかけながら、エイは尋ねた。
「何を」
「貴殿の依頼を優先させているだけであるよ。……あれのことは確かに心配ではある。気が狂わんばかりに。じゃが妾にはどうすることも出来ぬのだ。妾に何をしろというか。うろたえれば、あれが姿を見せるわけでもあるまい。人海戦術にでるには、すでに人数は足りているであろう。子供たちは皆あれを探しに出ている」
 リヒトのいうことは真に正論であるが、かといって納得できるものでもなかった。淡々といつもと変わらぬ手際で薬の調合を進めていく彼女は、どうみても“気が狂わんばかりに心配している”ようには見えなかったからである。
 とりあえずこの平屋にヒノトがまだ戻っていないことを確認して、エイは立ち上がった。子供たちのほとんどはヒノトを捜しに町の方々に散っていて、いつもは賑やかな平屋を、沈黙が支配している。平屋の入り口には一人、イーザが佇んでエイを待っていた。
「エイ殿」
 不意に呼ばれ、エイはリヒトをかえりみた。顔と頭を覆う布地の狭間、静かな光を湛えた双眸がそこにある。
「少し落ち着かれよ。エイ殿が慌てたところで、どうなるものでもないであろう」
「私の勝手ではないですか」
 確かに少し慌てているかもしれない。落ち着きを払いすぎているリヒトに対する苛立ちもあれば、何も出来ない自分への無力感もある。ウルの件に対しても、このヒノトの件に対しても、自分が出来ることが、あまりに限られている。そこに、焦燥を覚えざるを得ない。
 だが、それをリヒトにたしなめられるいわれはない。
 苛立ちと共に吐き捨てた言葉に、リヒトは特に気分を害した様子も見られなかった。ただ彼女は、ほんの少し厳しさの篭った口調で、落ち着かれよ、と言葉を繰り返した。
「おんしは少し、物事を抱えすぎなのではないか」
「……なんですって?」
 彼女の言葉の意味がわからず、眉根を寄せたエイは、白い布地の狭間でまるで作り物のように微動駄にしない冷えた双眸を見た。そこには、憐れみすら篭っていた。母親が、行き場所を失った子供を憐憫でもって見つめるときのような。
「何を焦っておるのか。何に苛まれているのか」
「……焦って」
「エイ殿」
 彼女の淡い緑の双眸は、鏡のように人の心を見透かす。しわがれた声は呪縛のように、エイの足を竦ませた。
 彼女は小さく嘆息すると、再び手を動かし始めた。
「自分の立ち居地を見極めよ、エイ殿」
 布に隠れて見えぬ唇から、淡々と言葉は紡がれる。
「出来ることがある。出来ぬこともある。選んだ道に、力がそぐわぬこともある。だが焦ってはならぬ。無力を感じる必要もない。そこにあるだけで意味あることもある。重要なのは、自分を過小評価も過大評価もしないことなのであるよ――英雄の末治める国の民人よ」
 しばし。
 乾燥させた薬草をすりつぶす音のみが、狭い平屋の内部に響き渡る。
 エイは拳を握り締め、薬師の女を見下ろした。言うべき言葉を捜して、奥歯を噛み締める。舌を傷つけたのか、ほんの僅かに鉄の味がした。
 唾を嚥下したエイは、自分でも震えていると判る声で彼女に尋ねた。
「それは……自分の実力以上のことは、してはならないということですか?」
「そうは言うておらぬ」
 薬師の女は頭を振り、エイを見据えてきた。彼女の眼差しは、深い森のようだと思った。
 城の背後で悲しみも孤独も何もかもを飲み込んで、ただ静かにある森のようだと。彼女の持つ緑の双眸が、エイにそう思わせるのかもしれない。
 その、眼だけをみるのなら、リヒトとヒノトは互いによく似ていた。
「なぁエイ殿」
 たしなめるように呼ばれたエイの名前は、余韻をもって平屋に響いた。
 エイの視線を絡めとったまま、ゆっくりと細められていく、淡い緑の眼。
「人には、それぞれの役目というものがあるのであろう。星を詠むものは、時にそれを運命[さだめ]と呼ぶ」
 彼女の声音にはどこか皮肉が混じっている。瞼がゆっくりと下ろされ、まるで月食のように淡い緑の光が欠けていく。何かを、回想している。静かに瞑目するリヒトを見下ろしながら、エイはそう思った。
「その役目を、違えてはならぬ。ただ、それだけの、ことじゃ」
 窓から吹き込んだ生ぬるい風が壁につるされた薬草の束を揺らし、壁を叩くそれらの茎が、かさかさと乾いた音を立てた。
「たとえば、樹に魚になれというても無理であろう。エイ殿。主は樹であるのに、魚になりたい花になりたい鳥になりたいというて、嘆いているようなものじゃ。樹は水中を泳ぐことはできぬ。樹は花を咲かせることはできるやもしれぬが、花そのものになることはできぬ。樹は空を飛ぶことは出来ぬ。出来ぬことに対して無力を覚える必要はない。大事なのは、果たすべき役割を違えぬこと。その役割を全うすること。その役割を間違[たが]えることのないよう、迷うのはかまわぬ。樹よりも魚よりも花よりも、多くのことができる人の身であるから、役割を選ぶために迷うことは仕方がなかろう。だが、選んだ道以上の何かを求めては、結局お主が全うすべき何かまでおろそかになってしまう。妾が言いたいのは、そういうことじゃ」
「貴方の全うすべき役割は、ヒノトを探し出し、抱きしめてやることではないのですか」
 リヒトはヒノトの保護者であり家族だ。実際の母子であるのか、姉妹であるのか、それともヒノトがリヒトの単なる養い子であるのか、エイは知らない。
 だが、ヒノトはリヒトを慕い、リヒトはヒノトを家族として慈しんでいる。子守をしてくれでないか。笑んでそう、エイに依頼してきたときのリヒトの声音は、慈愛に満ちていた。
 リヒトの目が再び見開かれ、彼女の前に佇むエイの姿を映し出した。彼女はしばらく口を閉ざしていたが、やがて、小さく笑ったようだった。布に隠されていない唯一の部分である目元が、泣き歪んだような微笑に緩んだ。
「残念ながら、違うようじゃ」
 同じだ。
 目じりの落ちたリヒトの緑の双眸を眺めながら、エイは思った。
 同じだ。
 春の始め、自分に、後を頼むといって、霞の向こうに消えた男の微笑と。
 何か、とてつもない痛みを伴うものを飲み込んだ者の微笑。
 何か、とても大事なものを諦めざるをえなかった、そうして諦めることを受け入れた、者の微笑。
 泣きたいのか、笑いたいのか、怒りたいのか、それすらも判らない、途方にくれたものの浮かべる、微笑。
 会話はこれで終わりだとでも言わんばかりに、身体のほとんどを白い布で包んだ薬師は乳棒を手に取り、黙って薬の調合を再開した。
 エイはため息をつき、行きますよ、とリヒトに声をかけた。彼女は答えない。頭と肩が、薬の調合をする手にあわせてゆっくりと動いている。
 その彼女に背を向けて、エイは歩き出した。
「たとえ、今行おうとしていることが、貴方のいう、私がすべき役割でなかったとしても、無力で、どうしようもなかったとしても、私は、関わった何かを放りだすことなど、できないんです」
 政治も、行方不明のウルもヒノトも。
 そのどれも、今となっては放り投げることはできない。引き受けた密命は敬愛する皇帝からのもの。ウルは、若さと不器用さゆえに周囲に敵を作ってばかりの自分に、よく尽くしてくれている、側近。ヒノトに対しては、責任を感じていた。甘く見ていた。あの時、ヒノトを追いかけて、平屋まできちんと送っていれば。
 いくらこの町がヒノトの根城だとはいえども。地元の人間ですら、一歩間違えれば人攫いにもあうし、意味もなくなぶり殺されることもある。この国は、まだ、そういう国であった。
 戸布を引き上げ外へとエイは足を踏み出し、噛み締める歯の狭間から声を絞り出した。
「放り出すことなど、できないんです」


「若人よ」
 リヒトは乳棒を置いて、天井を見上げた。雨漏りの跡の残る天井。所々がひび割れ、つなぎとして土に練りこまれた藁の切れ端がかけた部分から覗いている。リヒトは目を閉じた。瞼を閉じれば、そこには見たくもないものが見えるというのに。
「迷い迷うて得た道は、決して無駄ではない」
 そう。決して無駄ではない。たとえ無力に打ちひしがれようと、築いてきた軌跡は決して無駄ではない。
 瞼の裏に見える、見たくもない、けれども向き合わなければならないもの。
『リヒト』
 綿の御包[おくる]みに包まれた赤子を、差し出した女の手。血の赤によって、青くすら見えるほど、肌の白が際立って、森の暗がりに浮かび上がって見えていた。
 首を振った。横に振って拒絶した。出来ないと。そのようなこと、出来るはずがないと。
 かつてないほどの無力感に身を焼かれながら、泣いて懇願した。けれどもそれは許さないと、薄く濡れた緑の双眸が告げていた。
『生きよリヒト。この子にはお主が必要なのだから』
「姉者」
 姉者。姉者。姉者。姉者。
 自ら潰した喉を押さえながら、リヒトは繰り返し呻いた。
『ヒノトが心配ではないのですか』
「心配であるに、きまっている」
 姉者の手から生まれて間もない赤子を引き取って十五年。全てを失った自分の唯一のよりどころであった。
 喉を潰し、髪を焼き、流転を繰り返したのも全てあの小さな娘のため。
「じゃが」
 だがそうまでしても。
「姉者。どうやら妾は、もうお役御免のようであるよ」
 主神は自分が最後まで彼女の傍にあることを望まなかったようだ。
 思い返す。昨日の夕刻。太陽が水平と地平に溶けるその間際に、下された宣旨。
『もうすぐ――でしょう』
 リヒトは手元の薬を見つめた。そして同時に、その横に書き付けを行っている黄ばんだ羊皮紙の束を。
 これを終わらせることが、見ることの敵わぬ未来で、一つの国とヒノトの幸福を約束するのだという。
 ならば、自分はただ、与えられた運命[さだめ]というものを。
 全うするのみ。


 平屋から最後にヒノトを見た場所に向かって逆行しながら、出会う人々全てに彼女のことを尋ねてはみたものの、誰一人として明確な回答を返すものはいない。結局、ヒノトと最後口論になった――というよりも、彼女が一方的にエイの何かに腹を立てていたのであるが――場所まで来てしまい、エイは壁際に積まれた木箱の一つに腰掛けて盛大に嘆息を零した。
「本当に、変なことに巻き込まれていなければいいのですが」
「どこいってしまったんだろう。この町は、そんなに広くないのに」
 エイの傍らに佇むイーザも、腕を組んで眉間に皺を寄せている。あどけなさの抜け切らない少年の顔を見下ろしながら、エイは尋ねた。
「得意の[うら]で彼女の居場所は判りませんか」
「僕のは占ではなくて、先視だといいませんでしたっけお兄さん。それにそんなに万能なものじゃありませんよ。視えるものは限られているんだ。これから起こること全てが見通せているのなら、ヒノトをあのまま行かせたりしませんでしたって」
 大した期待をかけていたわけではなかったが、内心、落胆したのは確かだった。イーザの先視がどれほどのものなのかは知らないが、確かに彼から宣旨を受けたのち、自分は彼の言う通りに少女――ヒノトに出逢ったのだ。エイの宝になった、というところまでには至っていないが。彼女に慕われていたのは確かだったと思う。
 いくら前回の先視が当たっていたとはいえど、イーザの言う通り、先視や星視とは、そのようなものかもしれない。自由に未来[さき]が見えるというのなら、彼は貧民窟で燻っていたりはしないだろう。本当に未来が見えるのなら、諸侯に取り入り貴族さながらの生活をすることも夢ではないのだから。
 これから町中を歩き回ってヒノトの行き先を尋ねたところで、得られるものが無きに等しいであろうことは明白だった。他者に関心を寄せられるほどの余裕を、この地域の人間が持ち合わせているとは思えない。
 完全に、お手上げだ。
 太陽の傾きかけた空を仰ぎ見たエイの顔面に、不意にぼさりと音をたてて覆いかぶさってくるものがあった。
「ぶっは……!」
「花?」
 顔面を覆ったそれを引き剥がすエイの横で、イーザが首をかしげながら呻く。
 そう、花だ。エイはイーザの言葉を胸中で肯定した。エイの手の中にあるそれは、赤い薄布で作られた、薔薇を模した大振りの花だった。
「一体どこから……?」
 呻きながら空を見上げたエイは、その視界に家屋の二階の窓から伸びる白い腕を収めた。遠目に見てもそうだとわかるほど、痩せた腕だった。その腕に、長い赤い髪が絡みついている。風になびき青い空に一条の色の筋を描くその髪の狭間から、女の青白い顔が見えた。
「サブリナ」
 その女を見るなり、血相を変えたのはイーザである。エイにすみませんと断りを入れた彼は、何の説明もなしに突如踵を返して、その場を駆け出した。
「一体どうしたんですか?!」
 反射的に続いて駆け出しながら、少年の華奢な背中にエイは疑問を投げかけた。が、回答が帰ってくる様子はない。黙って少年を追いかけながら、そういえば花を投げ入れた女がいた部屋は、先日イーザが添い寝をしていたという部屋であったということをエイは思い出した。
 網の目のような細い路地を右へ左へと進み、たどり着いた場所は先ほどの家屋の正面であるらしかった。イーザは外付けの階段を一段とばかしに駆け上がり、叩扉[こうひ]することなく手前の部屋に飛び込む。彼の後に続き部屋に足を踏み入れたエイは、鼻についた異様な匂いに、思わず身をすくませた。


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