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第三章 鈍さと幼さ 4


 足を踏み鳴らしてヒノトが場を立ち去った後、場を支配したのは少年の笑い声だ。イーザは堪えきれないという風に身体を震わせたのち、文字通り腹を抱えて笑いに身体を[]し折った。
「あはははははははっ。ひっひ、ヒノトがあんなに怒ったところ初めてみたよ!」
「笑いごとではないですよイーザ」
「笑うよ笑わずにはいられますかっておにーさん! あははははひあっはははあ、あ、あごっ、顎大丈夫っ?」
「それだけ笑っておいて、今更何を……」
 エイはその場に腰を下ろして、結っている髪を一度解いた。湿った髪は粘り気を含んでいる。泥を被るよりも質が悪かった。
「お兄さんって、かなりの鈍なんですね」
「そうですね。十五じゃ子供扱いされたくないのは当然です」
「え? いや、そうじゃなくて」
「は? なら何だというのです?」
 歩み寄ってきた少年を仰ぎ見ようとしたが、それも叶わなかった。引き攣るような痛みが、鉄拳制裁を受けた場所に走ったからだ。
 これは多少腫れるな、と、エイは思った。口の中を切らなかったのは幸いであろう。
 視線だけを動かして、目前に佇む少年を見上げる。彼は、困ったような表情を浮かべて、エイを見下ろしていた。
「筋金入りの鈍なんだ。おにーさん」
「……なんだかよくわかりませんが、[けな]されていることだけは判りました」
 唸るようにして呻けば、少年が再び笑い声を上げる。エイは、嘆息しつつ湿って額に落ちた前髪を掻きあげた。
 ヒノトを子ども扱いしたのは本当に悪かったとは思う。まさか十五などという年齢だとは思わなかったからだ。水の帝国では十八で元服を迎えるが、国によっては十五で成人とみなす国も当然ある。そしてこのリファルナも、その国の一つであったはずだ。
 だからこそ、ヒノトは責任に固執していたのかもしれない。金を自らの手で稼ぎたがっていたのも、成人を迎えてなお自立できない自分に苛立ちを覚えていたのかもしれない。
 下民の娘なら、身売りなりなんなりして、それでも一人で己を食わせている。それが、その本人の望んだ結果でないにしても。元服して間もなく、短い生涯を閉じることが頻繁にあるにしても。それでも、庇護され続ける己に比べれば、羨ましく映って見えたのかもしれない。
「それを、子供というのですよ」
 無謀を勇気と履き違えている間は、まだ。
 子供だ。年を重ねても。どうしようもないほどの子供の部分を、自分でさえ残している。
「それにしてもお兄さんはもう少し上手に嘘をつけるようになったほうがいいね」
「まったく皆私のことをどのように見てるんですか好き勝手ばかりいって」
 からかい混じりの微笑を浮かべる少年を、エイは大人気ないと思いつつも睨め付けた。ねっとりと肌にまとわりつく砂糖水が、なおのことエイの不快感を掻き立てる。最近、泥だらけになったり砂糖水にまみれたり、一体次は、何が待っているのやら。
「あーぁ。せっかくいい夢を見ていたのにヒノトのがちゃがちゃ五月蝿い声を聞いていたら目が覚めちゃった」
 後頭部に手をやりながら、エイの前を闊歩してイーザが言う。エイは面を上げて、何気なく彼に問うた。
「ここは貴方の家なんですか?」
「もちろん違うよ」
 もちろん、の部分を強調して彼は笑った。
「隠れ家の一つ。綺麗なおねーさんの添い寝をするのが、僕の仕事なんだよ。この場所ではね」
「……あ、そうなんですか」
 もう何もいうまいて。胡散臭い少年だという第一印象は、どうやら変わることがなさそうである。
「すみませんがイーザ、一つ頼まれてくれますか?」
「うん?」
 髪を結びなおしたエイは、湿り気を帯びた懐から小銭入れを取り出した。渡し舟の代金分だけ手元に残し、残りをそのまま彼の元に放り投げる。たいした金額は入っていない。持ち歩く額など、たかが知れている。宙に躍り出た小銭入れは曲線を描いた後、ちゃり、という貨幣の触れ合う音を立ててイーザの手元に見事に収まった。
「ヒノトのご機嫌取りをお願いいたしますよ」
「今のヒノトに無駄にお金を渡してもどうにもならないと思うよ?」
「誰がソレをそのまま渡してくださいといいました。果物の干物を買って渡してください。約束していたのですよ。後で買ってあげると」
「そういう中途半端な優しさは、やめたほうがいいと思うけどなぁ」
 イーザは受け取った小銭入れを軽く手の上で弄びながらそう漏らした。
「僕がこのお金を盗んじゃったらどうするの? 僕もこれでも年中貧乏な身なんだけど」
「ヒノトの追求から逃れるために片棒を担いだその賃金ということにしておきましょうか。けれどもその中には大して入っていません。小物の枇杷の干物を一つ、買えたらいいほうです」
「うわ。本当に貧乏」
 今日の僕の稼ぎのほうが多いよ、と彼は不平を口にする。添い寝、といっていたから、相手は娼婦か未亡人か。イーザは見目のいい少年だ。そういうことをして小銭を稼ぐ少年は、数多くいる。そして上手く気に入られれば、高給取りにもなりうるのだ。
「頼みましたよ。ご機嫌取り」
 エイはにこりと微笑んだ。
「うっわー本日一番嫌な仕事を依頼してきたね。怒ってるときのヒノトは本当に手が付けられないんだから」
「付き合いは長いのですか?」
「まさか。僕は生粋のこの町の生まれ。彼女は流れ者だからね。ここ一年ぐらいだ。仲良くなったのは」
「……流れ者?」
 イーザの発言から気になる言葉を拾い上げたエイは、小首を傾げた。流れ者である素振りは、微塵もなかったが。
 少年はうんと首を縦に振った。
「生まれたときから南大陸をあちこちふらふらしてたみたいだよ。リヒトと一緒に。彼女と仲良くなったのは、彼女らがこの町に入る手引きをしたのが僕の知り合いの一家だったのがきっかけ」
「……そうなんですか? でも彼女はこの国の人間であるようなことを言っていた気がしますが」
「多分、もともとこの国の人間なんだと思うよ。蠱毒が定まったから、戻ってきたんだね。結構いるよ。そういう人たち」
「なるほど」
 言われてみれば、そういうものたちは数多い。国が混乱している折、難民としてあちこちを渡り歩いて、母国が安定するのを待つものは確かにいるのだ。
「あの、他の子供たちもそうなんですか?」
 ヒノトはこういっていた。一緒に連れて行くと駄々をこねたのだと。その言葉から汲み取れる意味は一つしかない。旅先で瀕死にあった子供たちを介抱して、この国まで連れてきたのだろう。
「そんなことよりも兄さん。そろそろ行かないといけないんじゃないですか? 用事があるんだよね?」
「あ」
 エイは呻きながら空を仰ぎ見た。太陽の位置から今の時刻を推察する。時間は正午の前といったところか。もっともこの国では、正午を知らせる鐘がなるのかどうかは知らないが。
 なんにせよ、昼前であるということには変わりがない。早く城に戻らなければ。この国の文官たちに対する、ウルの言い訳の種が切れないうちに。
 視線を地上に戻すと、少年の緑の双眸と目があった。彼は屈託なく笑って、確かに頼まれましたよ、とヒノトのご機嫌取りを承諾した。


 腹立たしさの前に、悔しさがあった。
 拳を握り締め、土を踏み鳴らしながらヒノトは町を歩いていた。ここのところ晴天が続いているためか、水の引いた通りにエイと初めて出逢ったときのようなぬかるみは見当たらない。どこもかしこも乾燥している。日々着々と、乾季へと季節は移ろっているのだ。
「勿体ないことをした。普段なら到底飲めるものではないというのにのぅ」
 エイにかけてしまった砂糖水。ほとんど残ってはいなかったものの、口に入れることの出来るものを粗末にするなど普段なら到底考えられないことだ。リヒトの稼ぎによって生ごみを漁ることはせずにすんでいるものの、食糧に日々逼迫していることには変わりない。
 手についた砂糖水の甘さを舐め取って惜しみつつ独りごちたヒノトは、その呟きが思いのほか大きく反響したことにぞっとした。
 立ち止まって、背後を振り返る。望むものが追いかけてくる気配はない。建物の向こう遠くに砂の霞を被った、鬱蒼とした森とそれに抱かれた古城が見える。連なる建物を挟んで人々の喧騒が聞こえるが、どれもが遠いものだった。急に、孤独を感じる。どうしようもないほどの、孤独感が、身体を潮のように満たしていく。
「馬鹿が」
 蹴りだした土塊は、音もなく壁に当たり、砕けた。粉砕されたそれに視線を寄越しつつ、ヒノトは再び嘆息する。
 悔しい。
 そこまで自分は幼く映るのだろうか。彼の瞳に。
 エイという旅人は、端的に言えばおかしな男である。
 貧民の出身だというわりには身なりはいい。出自は法螺かと思うのであるが、彼の言の端々には、底の底を体験したものにしか判らないものが滲み出ていた。かと思えば、下民出身という割には、疑うことを知らず妙にお人よしだ。あれでは生きていけないのではないか、というほどに要領が悪い。
 見ていて面白かったし、飽きなかった。何よりも自分が知るどの男よりも誠実で優しかった。見下ろしてくれる目がふんわりと優しい。一緒にいたいと思う。
 一緒にいたいと、願っている。どうすれば彼を引き止められるのか判らない。頻繁に来る花街の女将たちからの誘いからも、自分に女としてのそれなりの価値があることも判っていたから、あぁ言ってみたのだが、どうやらエイにとってすればそんなものはないも同然であったらしい。困惑の表情で、ばっさりと一言の元に切り捨てられてしまったのだから。
 悔しいといえば、イーザの嘘を馬鹿正直に真に受けてしまったことに対してもそうだ。昼間、花町には灯りは灯らない。大体イーザとエイが知り合いであったのかどうかすら、疑わしい。
 こういう思慮の浅い部分を子供というのだろう。ヒノトは自分自身にうんざりするしかなかった。
 階段に腰を下ろして、裏路地を見つめる。詰まれた木箱や酒樽の狭間には、身を胎児のように丸めて老人たちが寝そべっている。赤子の、鳴き声が聞こえる。それはがしゃんという陶器のようなものが割れる音と共に、聞こえなくなった。
 目を、閉じる。陶器の割れる音は聞きたくはない。子供の泣く声も聞きたくはない。それらを耳に入れるたびに、ぞろぞろと肌を這いずり回るものがあるのだ。だからつい、口減らしにあって泣き叫ぶ子供を見ると、連れて行きたくなってしまう。その都度、リヒトが呆れた眼差しをヒノトに投げるのだけれども。
 子供の悲鳴を耳にするたびに、奇妙な感覚が身体を支配する。
 孤独がそれを、際立たせる。
 閉じ込めたなにかが、きつく締めたはずの蓋から這い出てくるような……奇妙な、感触。
『……がい! ……っ願い! この子を殺さないで……!』
「ねぇ」
 ぽん、と。
 不意に肩に置かれた白い手に、ヒノトは飛び上がるようにして背後を振り返った。梳いてすらいないらしい、だらしなくおろした髪を、気だるげに掻き揚げる女がそこにいる。
 幾度か花町で見たことのある女――少女といったほうが、正しい。ただ女の顔にこびり付いた疲弊の色が女をかなり年嵩に見せていた。骨の浮いた細い手首に、くすんだ銀の腕輪が揺れている。
 薄い衣装の裾を広げヒノトの横に腰を下ろした女は、ヒノトの前髪を掻き揚げるように手を寄せた。
「大丈夫? 顔真っ青だけど」
 唐突に伸ばされた手に困惑しながら、ヒノトはどうにかぎこちなく笑みを返す。
「……あ…あぁ、平気じゃ」
「水もらってこようか? ちょっとやばいよ。あんたの顔色」
 唇真っ青だし、と己の唇を指差しながら、娘は言う。ヒノトは首をかしげながら、確かに気分が悪いと胸元を押さえた。水を、と口にし、立ち上がる娘の服の裾を握り、ヒノトは彼女を引き止める。怪訝そうに振り返った娘を見上げ、ヒノトは訴えた。
「大丈夫じゃ。ただ……ちょっとそばにいてはくれぬか」
 こんな頼み、馬鹿げている。ただ今は一人にはなれないと、ヒノトは思った。一人になりたくはあるものの、何も聞こうとはしない事情の知らない他人が、今の自分には必要だった。花町の女はその役にうってつけであるといえる。日ごろ男たちの劣情を受け止め、彼らの愚痴に耳を傾け、時に髪を撫で微笑を売る。彼女らは人の孤独に敏感であり、かりそめの癒しを与える方法に長けている。
 この娘もまた、そういった花街の女の一人だった。浮いた鎖骨から甘い香りが匂った。体温が酷く高いところをみると、どうやら寝起きであるらしい。
「しんどいことばっかなのは、あんただけじゃないよ」
 細く長い嘆息の後、女は言った。独白のようだった。うんと頷く。苦しいのは誰もが同じだ。国の誰もが、貧困に喘いでいる。自分はまだ、恵まれている。
「花町に入れば、金が稼げるかのぅ」
 ぽつりと漏らしたヒノトの呟きに、女は僅かばかり驚いたようだった。
「何あんた、身体売りたいの?」
「金がほしいのじゃ」
 女はヒノトの髪に指を差し入れる。親愛の情を込めてゆっくりとヒノトの髪をすきおろした女は、やめておきなと冷たく言い放った。
「碌なことないから、やめときな」
「じゃが」
「あんた薬売りの子だろう。腕のいい薬師のとこの子だろう」
 女と目線を合わせる。ヒノトの姿を瞳に映して、女は微笑んだ。
「やめときなよ。病気だってもらって死んじゃう子沢山いるんだ」
「そんなこと知っておる」
「そうだろうさ。うちにも一杯薬売りにくるんだから」
 女は立ち上がり、ふらふらとした足取りで腰掛けていた階段を下り始めた。裸足の足首に付けられた鈴が、ちりちりと音を立てている。
「あたしはあんたに薬売りをやめてほしくないね。薬売りに来なくなったら困るもん。蠱毒が定まったって、国の薬師の皆はあたしたちのところには降りてこないし。……でも、金はほしいよね。金さえあったら、母さんたちのところに帰れるしさ」
 女は振り返り、あんたの家族は? と尋ねてきた。面倒を見てくれている薬師と、孤児の子供たちがいると答える。二人で頷きあった。金が欲しい。金でなくてもいい。塩や、果物や、魚の干物でいい。おなか一杯苦しいぐらいに食べて眠りたい。
「ねぇ」
「なんじゃ?」
「金がないんだったら、一緒に来る?」
「……花町へか?」
「違うよ」
 女は首を横に振り、笑った。綺麗に笑う娘だ。笑っただけで、うんと幼く見えた。
「友だちにさ、仕事があるっていわれたんだ。その説明を聞きに行こうと思ってた最中だったわけ。なんか人手がいるらしいんだけど、一緒に行く? 上手くいけば金が手に入るかもよ」
「本当か?」
 思わず上げた声は、弾んでいた。
「うん」
 女は大きく頷き、微笑んでいる。ヒノトは立ち上がり階段を飛ばし下りた。そして一足先に歩き始めていた女の背を追いかけ、隣に並んで歩き始めた。


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