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番外 いつか全てが終わるとき 9


 かさり、と、紙の音がする。
 その紙面に視線を落として皇帝が内容を黙読したのは、瞬きする間もなかったように思える。それほど、短い時間だった。
 彼はその手紙をそっと机の脇に避けて、こちらを見上げてくる。
「会ったのか?」
「いや。会わなかった」
 二度と目の前に現れるなと、弟子はかつて言った。
 例え会ったとしても語り合うべきことなど何もない。彼が歩き出した。それを確認できれば十分だった。
「ゆっくりできたか?」
 アズールからの――もっと正確に言えば、諸島連国からあの件に絡んだ各国に出された正式な――書簡について感想を口にすることもなく、ラルトはそのように尋ねてくる。それに少々面食らいながら、イルバは曖昧に肯定した。
「……まぁなぁ」
「それはよかった」
 ラルトは微笑んで、首をかしげる。
「報告はそれだけ?」
「……あぁ」
「なら戻っていいぞ」
 そういって彼は執務を再開する。イルバは思わず口を開いた。
「おま、なんか言うことないのか?」
「お前の贖罪が終了したことについて? おめでとうとしかいえないけどな」
「……いやだから」
「お前がこの国で働く切欠は確かにお前の弟子だが、もうそれだけの理由でこの国で働いているとは、俺は思っていない」
 一度は握りなおした筆記具を、再び薄い金属製の受け皿の上に置いて、ラルトはこちらを見上げてきた。
「それとも、この国を出て行きたい?」
「……そんなんじゃねぇ」
「ならいいだろう? あぁ、バヌアの復興に尽力したいから国を離れるっていうなら、きちんと申し出てくれ。人員確保と大臣たち納得させるために走り回らなければならないから、下準備がいる」
「ちょっとまて! いいのかそんなんで!?」
 万が一、自分がこの国を離れようとするならば、半ば脱走のような形になるだろうと覚悟していた。禁固される可能性が高いからだ。もうイルバはこの国の中枢に深く食い込んでしまっている。そんな人間は、通常では他国で生きることを許されない。
 ところがラルトは、バヌアに戻りたければ構わないという。イルバは皇帝の正気を疑った。
「俺はお前がこの国の秘密を他国に漏らすなんて思っていない。現にお前は、バヌアのことも諸島連国のことも一切こちらに漏らさないだろう? あぁもちろん、仕事をやめるなら以後、政治活動に関らないといった念書は書いてもらうことになるが」
「そりゃ……」
「仮にバヌアへ戻ったとしても、煮詰まったときにはいつでもこちらに戻ってくればいいわけだ。国としてではなく俺個人としてなら出来る範囲で援助もする」
「……どうしてそこまでする必要がある?」
「どうして? 不思議なことを訊くな」
 不思議なのはこちらだ、と、叫び返したい気分をイルバはぐっと堪えた。
 こちらを見上げてくる皇帝は、確かにイルバの反応が不思議で仕方がないというように、目を丸めている。この皇帝は聡明だが、感性が人とずれていて、考えの読めぬことが多々ある。それも結論を聞けば、納得できることのほうが大半なのだから末恐ろしい。ようするに、一つ跳びに物事を見てしまうのだろう。
「だってこの国はもうお前の国で、お前は俺にとって家族みたいなものだろう?」
 ごく当然に皇帝の口から吐かれた言葉に、イルバは今度こそ言葉を失った。
「四六時中顔を突き合わせていて、言いたいこといって好き勝手に言い返されて、それに腹も立ちやしないんだ。いや、腹は立つし苛つくんだが……憎まない、という意味か。祝賀は共に祝うし、子供はなついてるし……そういうのを、家族っていわないか?」
「……いうな」
「だろう」
 そういって笑う皇帝は少し得意げだった。子供が、親を言い負かしたときのような笑い方。
「昔、ジンが旅をしていたときの、こんな話を聞いた」
 机の上で手を組んだ皇帝は、唐突にそう切り出した。
「旅の情報屋の男が、国がばたばた倒れられては、その国に立ち寄って旨い酒も飲めやしない、と愚痴たそうだ。それを聞いていてな、なんとなく思ったんだ。この世界には己の国を持たぬものは多くいるが、そういうものたちにとっても、この国は祖国のようなものであってほしいと」
 己の国を確固としてもつ人の数は、意外にも少ない。
 西大陸は先の大国メイゼンブルが崩壊したことにより数々の国が倒れ、また新しく生まれた。一番近い北大陸に流入した難民は数え切れぬほどだろう。北大陸はもとより多民族の大陸ということもあって、内乱の絶えぬ土地のほうが多い。南は落ち着いてはいるものの、繁栄を享受する国と滅亡に瀕する国がくっきりと分かれる。
 東はまだ安定しているほうだった。メルゼバとブルークリッカァ、西のほうではマジェーエンナと、大国が方々を固め、良好な関係を保っているからだろう。
 なんにせよ、国が長い歴史を刻むことは珍しい。生まれたときにあった国が、成人したころには滅びていることなどよくあることだ。結果、民人は故郷を失い漂泊者となる。
「多分、こんなことを考える皇帝は俺ぐらいだろう。けれど考えざるをえない。俺に近しい人間は、ジンとシノ、そしてエイを除けば、ほとんどがブルークリッカァ出ではないのだから。俺達は離れられぬ地位にいるから実際には動くことはないが、それでも立場を置き換えて考えるんだ。もし平民だったら、もしかしたら俺はティーの生まれ故郷をどうにかしようと動いているかもしれない。ディスラは内乱の地だからな。ジンはシファカさんの故郷にそのまま居ついていたのかもしれない。エイはヒノトと南に渡っているのかもしれない」
 それでも、と、ラルトは言う。
「別の国で生きていても。きっと、ふとしたときに帰りたくなる。ジンも言っていたんだ。旅をしていたけれど、この国に帰ってきたかったのだと。例え俺やジンやエイがこの国を出ていたとしても、この国で酒を飲みたいと思ったときに、快く迎えてくれたらいいと、そう思った。……この国は、この国で生まれぬものに対してもそんな国であってほしい。別にこの国で生きていてほしいというわけじゃない。ただ、この国は変わらずあって、旅に疲れた漂泊者が、あぁあそこに行けばうまい酒が飲める、みたいな。……前置きが、長くなったが」
 この国は、お前にとっても、そんな国であってほしいと、皇帝は言った。
「お前の弟子に関する贖罪なんてこの国では当の昔に終わっている。それだけの働きをこの六年お前はしてきて、十分すぎるぐらいに俺に色んなものをくれているんだよ、イルバ。……そして、その積もりに積もったお前への借りを、どうやって返していこうかと考えたら、お前に故郷を用意してやることぐらいしかできないんだ」
 ラルト個人の援助はその範疇らしい。
 帰る場所を探している。
 帰る場所を探していた。
 ずっと。
 ずっと。
 ――アズールに自ら言った言葉を、今更ながらに実感する。
 国も、仕事も、仲間も、帰る場所も、主君も。
 姿を変えて、今、この手の中に。
 自分の以前の主君がこの男のようならよかった。この男のようであってほしかった。ただただ、尊敬できる主君であってほしかった。
 けれど彼はそうならなかった。
 シノと自分を引き合わせたのは、妻と娘の魂なのではないかと、思っている。
 ならば目の前で微笑むこの男を自分に用意したのは誰だろう。
 きっと、不器用で、ただ狂っていくことしかできなかった、あの繊細だった、イルバのかつての王だろう。
「ただ、万が一お前がバヌアに行きたいと言い出したとして、問題が一つあるんだ」
「問題?」
「あぁ。シノのことだ」
 鸚鵡返しに尋ねながら、補完するための人材かそれとも大臣達との折衝かと思考を巡らせていたイルバは、まったく見当違いなラルトの回答に口元を引き結んだ。
「お前と彼女が、宮中の女官達が無粋に噂するような関係ではないと俺もジンも知っているさ。ティーとシファカさんがどう思っているのかは知らないが」
「お前らちょくちょく探りをいれてきたじゃねぇか」
 左僕射は完璧に傍観者を貫いていたが、皇帝と宰相は互いにそれとなく、こちらの関係に探りをいれてきていた。それに気づかないとでも思っていたのか。
「あぁ、そうだな」
 皇帝は悪びれもせず、小さく苦笑を零しただけだった。
「だけど俺達は避けたかったんだ。またシノが、たったひとり取り残されてしまうということだけは。シノは婚約者を亡くし、本当に小さなころから面倒を見ていた主人を亡くした。それだけじゃない。彼女は俺やジンを支えるために、家族を自ら捨てたんだ」
「……どういうことだ?」
 皇帝の言葉の意味を考えあぐね、イルバは眉間に皺を寄せて問い返した。
「天涯孤独が多い俺達の中で、シノの家族は生きている。テウイン家の大奥とは俺も時折顔を合わせるし、現在の家の主はシノの妹だ。その下にも数人兄弟姉妹がいる。シノは別に家族と仲が悪かったわけじゃぁない。シノと彼女らの折り合いを悪くさせてしまったのは……結局のところ、俺達の存在が大きいのさ」
 そこでようやく、イルバはラルトが何を言わんとしているのか悟った。自らの察しの悪さに、呆れてしまう。
 シノは、ラルトとジンを傍で支え続けるために、女官長であり続けた――血の繋がった人々のいる家を、捨てたのだ。
 彼女は舞の名手であり、女官長としての采配にも狂いがない。家の繁栄を望むテウイン家の人間からすれば、彼女こそ夫を得て家督を継いでほしい人間だっただろう。
 それでも、シノは家に戻らなかった。皇帝と宰相から望まれていれば、テウイン家の人間もそれを呑むしかない。彼女の選択が、姉妹たちの人生を多少狂わせたことも否めぬだろう。
「俺にはティアレがいる。ジンにはシファカさんが。けれど、彼女は、一人だ。いつまでも」
 いつまでも、独りでいるということは、彼らが乗り越えた過去に、彼女だけが取り残されているということを意味する。
 ラルトとジンを引き上げるために若い時分を駆け抜けた女は、今、置き去りにした悲しみを一人で拾い上げている。その傍には、ラルトにとっての皇后のような存在は、いない。彼女がそれを拒絶したのだ。
 そこまで、皇帝は気づいていたのだろう。
「シノは、お前には気を許しているようだったから。けれどお前たちは夫婦でも、ましてや恋人同士でもない。……万が一、お前がバヌアに行くとなったとき、彼女がどうなるのかだけは知りたかった」
 また、独りで取り残されてしまうのか、どうかだけは。
「けれど杞憂だったな」
「杞憂?」
「あぁ。今回、連れて行くっていっただろう? それで納得した」
 シノは独りになることはない。自分がいるからだ。
 小さな、約束だった。臆病なもの同士が交わした、小さな約束。
 すべてが終わるまで――死ぬまで、自分たちは傍にあるのだろう。夫婦とはまた違った、傍目には少し歪に映る形で。
 それが、自分たちが狂わずに共に生きるための、ぎりぎりの妥協点だったのだ。
「連れて行く。お前たちの望む形でないにしても」
「当人たちが幸せならどんな形でも構わないさ。友情でもなんでもいいんだ。彼女が、そしてお前が、独りでないのなら」
 そういって微笑に口の端を引き上げた皇帝は、話したい内容を全て吐き出し終わったのか、再び筆記具を取り上げる。
 未処理の書類を取り上げる皇帝を見つめながら、イルバは一礼した。その場を去るべく踵を返しかけ――呼び止められる。
「イルバ」
「あん?」
 その場に静止して皇帝を振り返る。墨壷の蓋を筆記具の先で押し上げながら、皇帝は言った。
「一つ言い忘れてたことを思い出した」
「言い忘れていたこと?」
 小さく頷いた皇帝は、机に頬杖を付きながら、こちらを見上げて言った。
「お帰り」
 皇帝の口から落ちたのは、あまりにも何気ない、迎えの言葉だ。
 左僕射からも。
 指摘された。
 シノに聞けば、副官からも危惧されていたらしい。
 諸島連国を訪ねたまま、もう、戻ってこないのではないかと。
 彼らですら想像した。そういった空気がにじみ出ていたのだろう。この聡明な皇帝が、それに気づかぬはずなどない。
 それでも、彼は何も言わなかったのだ。
 イルバはラルトに向き直り、居住まいを正すと、丁寧に礼を取った。
「――……この先、何があったとしても」
 閉じた瞼の裏に、残像が去来する。
 黒い噴煙に空を染め、人々の熱気に焼かれて滅びた国土。
 笑いながら、血の海に沈んでいった、王。
 本当は、貴方に帰る国を用意してほしかった。
 愛しい人々と生きる国を、用意してほしかった。
 この場においてすら、そんな風に思う自分を、ただ受け入れる皇帝に。
「私の永遠の忠誠は、貴方のものだ――……」
 この命、尽きるまでの、忠誠を。
「――……皇帝陛下」
 バヌアへの心の折り合いがつき、あの国へ足を運ぼうと思ったとしても、それはきっと、この男の傍にいる必要がなくなったときのことだろう。イルバはそう思った。
 面を上げると、ラルトは静かに微笑んでいた。
「あぁ」
 小さく頷いて、彼は言う。
「シノを頼む。大変だと思うけどな」
 扉に向かって歩き始め、イルバは苦笑しながら返した。
「知ってるって」


 執務室を出て書斎へ向かって歩いていると、道の向こうに副官の女が立っていることに気がついた。
「何んなところでぼっとつったってんだ通行人の邪魔だキリコ」
 書類を胸に抱いて、キリコは少し頬を膨らませながら呻く。
「ひっどいですよぉイルバ様、せっかくお待ち申し上げていましたのにそんな言い方ないじゃないですか!」
「邪魔に邪魔っつって何が悪い。ってかお前いい年してんなガキ臭い表情はやめろ! そんなだからダンナに馬鹿にされんだぜ」
「人の家庭に口つっこまないでくださいぃ!」
 イルバはキリコの脇をそのまますり抜けた。一歩分距離を置いて、キリコもまた付いてくる。
「留守中何もなかったか?」
「はい! 全ては予定通りつつがなく。イルバ様の留守中にありました交渉の首尾につきましてはもうみんなを褒め倒してくださいって感じです。詳しくはお部屋に戻ってからでよろしいですか?」
「いいぜ。歩きながらはめんどくせぇしな。土産持って帰ってきたし、報告次第じゃぁ近々酒宴だな」
「やったー! イルバ様最高です!」
 諸手を挙げて喜ぶ副官に、イルバは少し肩を落とす。同じことを部下たちに言えば、彼らもまた万歳三唱するだろう。何ゆえ自分の部下はこんな人間ばかりが揃っているのだろう。左僕射のところの大人しめな人間を分けて――くれなくてもいいか。あそこはあそこで得体が知れず扱いづらい。
 結局、寂しがり屋な自分には、騒々しい部下が揃っていたほうがいいのだろう。キリコを初めとする部下たちを付けた、ラルトは本当に人のことをよく判っている。
「でも本当によかった」
「何がだ?」
「イルバ様が戻ってきてくださって」
 少し足を止めて背後を顧みる。唐突に立ち止まったにも関らず、先ほどと同じ距離だけを開けて佇む副官は、いつもとは異なる、老成した微笑を浮かべていた。
「シノ様は、約束通りイルバ様を連れ帰ってきてくださった」
「あいつは俺の楔だかんな。離れねぇよ」
 ラルトが、故郷としてこの国を用意してくれている。
 けれど結局のところ、自分がこの国に残るのは、彼女がいるからだと思う。
 自分と同じ傷を持つ、強がりで、実はよく泣く、女。
「そうですね。そしてシノ様も貴方様の傍を離れることはないでしょう。ですから、もう迷子みたいな目をなさるのはやめて、しゃっきっとしていてくださいね」
「あぁ? どういう意味だ?」
「そのまんまの意味ですよぉ」
 くふふ、と意味深に笑う副官に、イルバは正直な感想を告げる。
「気色悪ぃ笑い方だなぁオイ」
「ひっどぉぃ! 気色悪いだなんて!」
 大いに憤慨した様子のキリコは、口に手を当てながら叫ぶ。
「あ、思い出した!」
「何を思い出したんだ?」
「イルバ様、ご旅行の出発の日に、シノ様を小間使いにされたでしょう!? 駄目じゃないですか忘れ物ぐらい自分で取りに来てくださいよ! イルバ様はもうちょっと女性を丁寧に扱うっていうことを学ばれたほうがいいとおもいまーす!」
「小間使いぃ? あぁ。城に用事があるっつうからついでに忘れもんとりにいってくれっつっただけだろうが! てかなんでお前んなこと知ってるんだ!?」
「シノ様と私だけの秘密ですぅ」
 いつの間に、何、仲良くなっているんだこの二人は。
 イルバは嫌だ嫌だと耳を塞ぎたい気分に駆られながら、再び歩き出した。
「おら行くぞキリコ」
「あっ。話の途中なのに!」
「話なんざ歩きながらでもできるだろうが」
「そういうゾンザイな扱いがどうかって申し上げてるんです! あともう少し女性を褒めるということも学んでください! 綺麗な人には綺麗だという! ちんくしゃっていわない!」
「ちんくしゃなんはお前だけだ」
「あーまたちんくしゃって言った!」
「俺の性格で甘ったるい文句口にしろとかいうのは無理だジンじゃあるまいし」
 何せ、その点においては、夫の教育に熱心だったかつての妻も匙を投げたぐらいだ。
「シノ様に愛想尽かされちゃいますよ!」
「尽かされるかっ! んなことで!」
「尽かされます尽かされます尽かされます! 褒めてもくれない殿方の傍に、結婚もしてないのになんで一緒にいなきゃいけないんじゃないですかぁ!? 男の人って本当に乙女心がわかってない!」
 それは彼女とその夫のことを言っているのではないのか、いやお前に乙女心があったのか、と、突っ込みたい気分をイルバは堪えた。彼女にその話題を振れば泥沼になりそうであったし――そもそも、何故キリコにシノとの仲を心配されなければならないのだ。
 イルバは急に面倒くさくなって、本格的に両耳に手を当てた。キリコが付いて来られぬ速度まで、歩を早める。
「あ、イルバ様待ってくださいよぅ!」
「うっせーもう俺は先にいく!」
「人の話はちゃんときくってアタシにいっつも仰るのイルバ様じゃないですか! シノ様にいいつけますよ!」
「いーから黙れ!」


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