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番外 いつか全てが終わるとき 8


「え?」
 痴呆のような顔をして表情を凍てつかせた娘に、シノは淡々と続けた。
「フィル。フィリオル……私の、元婚約者。彼が死んだとき、私の中には子供がいました。誰にも告げていなかった。私も知ったばかりだった。できたばかりの命だった。そして、彼が死んだとき、私の悲しみ全てを吸い取って、その子は流れていってしまった。ひどい出血をしました。……それ以来、私に月の障りは来ていません」
「シノ、さ」
「キリコ、レイヤーナ様が狂われたのは私のせいだったのよ」
 震えるキリコの唇から同情めいた言葉が飛び出す前に、シノは切り出した。
 前皇后レイヤーナ。心に病を得、皇帝の腹心たちに毒を盛った。塔に一人軟禁され、雪の日に身を投げた。
 かつて、明るく笑いの絶えなかった無邪気なレイヤーナ。わがままだったけれども、それを許される慈悲深さと優しさがあった。傍仕えの自分を姉と慕い、両親を信頼し、そして、幼馴染の男たち、二人を愛した。
 愛しすぎて、狂っていった。彼女の人生を歪めたのは彼女の弱さに相違ない。
 しかし。
「あの時、あの方は一人寂しくあったのに、私は幸福で、浮かれていた」
 長く長く、好意を抱いていたフィリオルと想いが通じ、夫婦となることが決まった。
 自分一人が、あまりに幸福だった。
「私の結婚が決まったとき、私はレイヤーナ様に一番に報告差し上げた。レイヤーナ様は祝福してくださった。けれどその日から、少しずつ、レイヤーナ様は病んでいかれた」
 寂しかったであろう彼女を、決定的に孤独に叩き落したのは、きっと自分だった。
 ぎりぎりで理性を保っていた彼女を、狂気に引きずり落としたのは、きっと自分の言葉だった。
「シノ、様」
「だから私は、もう二度と、誰かと婚姻という関係を結びたいとは、決して思えないの」
 誰かと寄り添い、幸せを探そうなどとは、思えない。
 婚姻という二文字が、自分が愛した主人を地獄に叩き落した。地獄に叩き落された女は、自分が愛した男を、仲間を、生まれなかった命を、道連れにしていった。
 その過去は、消えない。あの時の悔恨も、悲哀も、絶望も、消えない。
 永劫に。
「なぜ……」
 キリコはシノの手を握り、その場に膝をついて呻く。キリコは泣いていた。何故彼女が泣くのだろうと、シノは思った。
「何故ですか!? 誰かとの幸福を求めないと仰りながらも、イルバ様といらっしゃるシノ様はとても安らいでいるように見える!! シノ様はただ怖いだけです! イルバ様の手をとられた暁に、その手が、泡のように消えてしまうことが」
「えぇ。そうですね」
 彼女の言うとおりだ。自分は、どんな形であれ、家族という存在を作ることを恐れている。
 それが、例え紙切れ一枚のことでしかなくとも。
「けれどそれでも私は、あの人の手をとりたいとは思わない」
 逆に、誰かまったく見知らぬ男と共になることを選んだほうが楽だろう。
 あの男だからこそ、自分は一線を踏み越える道を採択しない。
 怖いのだ。
 あの男の傍は、あまりに居心地がよすぎる。同じ喪失を経たために。同じ贖罪の仕方を選んだがゆえに。あの男が、とてもおおらかで、優しいがゆえに。
 踏み越えれば最後、苦悩し続けるだろう。苦悩し続けそうな気がする、などという甘いものではない。
 なるのだ。
 そうなるという、確信がある。
 せっかく、折り合いよく共存している過去に、未来全てを食われてしまう。またあのときのような絶望を味わうのかと、未来に恐れ慄く。そのようなことはないのだと、頭で判っていても身体に染み付いた絶望の記憶がそうさせない。
「そしてイルバさんも、同じ」
 あの男もまた、恐れているのだ。
 立場や取り巻く人々は昔とは違う。それでもまた、過去と同じことを、繰り返してしまうのではないかと。
「私たちは、所詮同じ穴の狢なのよ」
 恐れている。
 けれど一人で生きることができるほど自分達は強くはない。
 そのことを知っている。
 世界で、二人だけ。
 だから、周囲になんと言われようと悪戯に時間を共に過ごし、そして決して、その手を取り合って生きることを選ばぬのだ。
「イルバ様とシノ様のお二人が、アタシ、大好きですよ」
 鼻をすすりながら、キリコは言った。
「ずっとずっと、冷たいものだとばかり思ってた。人の繋がりは全部道具にしか過ぎないと思ってたのに、違うんだって、教えてくださった。イルバ様とシノ様、貴方様方お二人は、アタシにとって人のぬくもりそのものです。貴方様方ほど、情に深い人たちを、アタシは見たことがない」
「そんなことはないですよ」
 笑いを含めて呟いたシノを、キリコは頭を振って否定した。
「そんなこと、あるんです。……だからアタシは、アタシたちの幸せを見守るだけではなくて、貴女様方お二人に、幸せになってほしい。ほしいのに、どうして」
「勘違いしないで、キリコ。私は決して不幸なわけではないのです」
 下唇を噛み締め、泣き出す娘をそっと抱きしめる。彼女のように泣ければよかった。けれど自分も、イルバも、それが許されなかった。泣くべきときに、泣くことを、許されなかった。
 だからその涙が凝って、きっと楔のようになってしまったのだ。
 それでもこの人生を不幸だなどと思わない。
「ただ、他者が選ぶ道を、不幸にならぬように、選ばなかった。それだけなのよ」


 自分にとって途轍もなく大切だったフィリオルとレイヤーナ。あの二人を失ったとき、茫然自失となって泣き叫ぶことができればよかった。幾日も幾日も悲しみにくれていることができればよかった。けれどできなかった。
 同じぐらい、残されたラルトとジンが大切だった。そして国の状態は、予断許されぬほどに逼迫したままだった。彼らを悲しみの淵から引き上げて、政務へと駆り立てなければならなかった。
 婚約者の葬儀が終わり、密かに手に入れた彼の遺灰を海に撒いたときに、シノは甘い感情はすべて同じ海に捨てた。悲しみは人のぬくもりを渇望させるから。単なる人恋しさを愛情と誤解して全てを台無しにしてしまわぬために。
 レイヤーナが雪積もる大地へ身を投げた日、ラルトとジンが置き去りにされてしまった日、シノはフィリオルや腹の小さな命を失って胸の内に巣食っていた悲しみをすべて金繰り捨てた。生き残って途方に暮れたものを支えるためには、そういった感情すべてが邪魔だったのだ。
 ラルトとジンを支える。自分と同じように女主人を失ってしまった年若い女官達を。彼らに連なるものすべてを。
 支える。支え、続ける。
 それが贖罪だ。そう、決めた。
 悲しむのは、残された者たちが、本当の意味で笑う日を、迎えてからだ。
 もう誰も、未来を憂うことがない日を、迎えてからだ。
 そう、決めたのだ。
 だから自分の行動は、キリコがいうような、情の深さなどでは決してない。
 イルバが右僕射に着任すると決まった美しい黄金の初夏の日を覚えている。これで皆が楽になると柔らかく笑ったラルトの顔を。その顔を、レイヤーナやフィリオルに見せてやりたかった。その日のうちに予感がしていた。
 自分の贖罪が、終わる、予感。
 それからしばらく月日が流れて、ジンが初めての子供を抱き上げて、泣き笑いをしていた。一片の曇りもない、幸福さが滲み出ていた。彼らの未来に、なんの憂いもなかった。
 唐突に、思った。あぁ、自分の贖罪は、終わったのだ。
『どうして、幸せを追い求めようとなさらないのですか?』
 誰もが幸せになっている今、どうしてお前だけが、線を引くのだと、皆は問う。
 キリコの言葉を思い返していると、ふいに、イルバの手が伸びてきた。
 海の淵を映していた視界が、ゆっくりと隠れていく。温かい手だ。取り合ったこともない男の手。その手は時折、こんなふうにシノの視界を覆う。それが、心地いい。
 幸せを望んでいないのではないの。キリコ。
 望んでいない、わけではない。
 それでも。
(今はただ)
 男の手の奥で瞼を伏せながら、シノは思う。
(この悲しみに、浸っていたい)
 贖罪が終わった自分がまず願ったことは、悲しむこと。
 自らの幸福を追い求めるには、悲しみが、足りなかった。レイヤーナやフィリオルを失ったことに、ただただ意識の片隅で悲しみたかった。確かに、自分はキリコ達が言うように、ある意味で幸せを放棄している。けれど、どんな形であれ次の道へ力強く踏み出していくためには、悲しむことが、自分には必要だった。
 世界でこの男だけが、皆の幸福に水を差すようなシノの悲しみを、許したのだ。
 イルバだけが、自分が、はるか遠い昔に失ってしまった者たちを悼み悲しんで眠ることを、許したのだ。
 だから、自分はこの男の傍に、ずっといる。


 腕の中の女は何を思い返しているのだろう。シノが見つめる水平線は、闇色というよりも町の明かりなどに邪魔されることのない満天の星に薄められて、淡い紫紺の色をしている。シノの瞳の色だった。
 その瞳を、手で、覆う。
 無意識だった。けれどそれが、女の望むことであるように、イルバには思えたのだ。
 いつか見た、海に臨む女の背中を思い返す。強くまっすぐに伸びる背中。支えなど要らないと拒絶する背中。それは、もう失うことはご免だからと。
 叫ぶような痛々しさを、孕む背中。
 海に連れて行ってといった彼女は、海に捨てていた悲しみを拾い上げていた。ごめんね、と、いうように。おざなりにしたわけではないのよ、と。貴方達のことも、愛しているのだと。
 彼女は目を背けていた感情と向き合うために、海へ連れて行けと、自分にせがんだのだ。彼女にはそうする必要があった。足の膿んでしまった傷を見ないふりをしていた。けれどもう、走り続ける必要がなくなったから。だからそこにそっと、包帯を巻くのだと、いうように。
 皆はシノに歩けと急かすけれど、痛んだ足を抱えて蹲る時間を彼女は望んでいた。今更、彼女に告白などされなくとも判っていた。だからイルバはそれを許した。そうすることで、彼女は自分の元に留まると、知っていたから。
 シノの贖罪が終わった日、共に海を見た日。
 自分にもこんな日が来るのだろうかと思った。
 今、自分は贖罪のために動いている。贖罪が自分に眠る場所を用意している。生きている。生かしている。
 では、その贖罪が終わった後、自分はどうするのだろうか、と、イルバは思った。
 生きる意味なんてない。帰る場所も。ずっと。
 ずっと。
 革命の後、焼けた国土に別れを告げたときから。
 すべてを失ってしまっている。自分はシノと異なって、悲しむだけ悲しんだ。七年もの歳月をこの島で無為に費やして。そんな自分は、贖罪が終わりを告げたときに、果たして何を生きる意味と定めるのだろうかとイルバは自らに問うた。意味がなければ、もう、呼吸すらできそうになかった。自分はそれほど、強くはない。
 そして、その日が訪れたのだと、イルバはアズールからの書簡で知ったのだ。
 今も机の中に仕舞われている手紙。それは、かつての弟子が幸福を得て、この島を出たのだと、伝えてきた。
 彼が幸せになるまでが、自分の贖罪だ。来てほしいようで来てほしくない日がついにやってきたのだと、イルバは思った。
 そんな自分の見出した女が、シノだったのだ。
 彼女が悲しみに浸る間、自分を必要とするだろう。ならばそれを意味にすることができる。この女を甘やかすことを、生きる意味にできる。あの国に留まる理由にできる。あの国を帰る場所にする理由ができる。
 彼女は実に都合がよかった。自分と同じだったから。喪失に怯えて、もう、家族というものを持てなくなっていたから。必要以上に、イルバに踏み込んでくることはない。
 互いを甘やかすだけ甘やかせる、ぬるま湯のような関係。
(こんな馬鹿馬鹿しいものを、愛などと、呼べるはずがねぇんだ。アズール)
 彼は、愛と呼ぶのではないかといったけれども。
 そんな尊いものでは、決してない。打算と我が身可愛さに塗り固められた、浅ましい何かだ。
 自分達が、もう少し、出会うのが、早ければ。
 若ければ、過去を振り切って、彼女と愛を育んでいく道もあったかもしれない。皆が望むような幸福を、彼女とならば手に入れられるという確信がイルバにはある。むしろ逆にみっともないほどに溺れるのかもしれない。彼女にはそれだけの価値がある。
 だからこそ同時に、また失うのでは、という危惧が常について回る。明るい未来に目を輝かせて手を取り合うには、自分はあまりにも年を重ねすぎ、そして多くのものを失いすぎていた。心にこびり付いた恐れと同居する術を身につけすぎていた。人を愛することに臆病になっていた。そしてその臆病さを克服してまで、他者のいう幸福を追求しようなどとは、もう、思えなかった。
 そしてそれは、シノも同じだった。
 同じだと、知っていた。
「イルバさん」
 大人しく、イルバの腕の中に囲われている女が、尋ねてくる。
「この旅の目的はなんだったのですか?」
「本当に贖罪が全部終わったのかどうか、この目で見届けたかった」
 本当に、弟子が――息子だった、男が。
 この島を出て行ったのか。
 誰もこの檻に囚われていないことを、この目で確かめたかった。
「……私を、連れてきたのは?」
「知ってるだろうが」
 イルバは低く嗤った。
「お前が、俺を繋ぎとめる楔になる。それを、判ってもらうためだ」
「今更ですね」
 肩をすくめてシノは言う。呆れ混じりだった。そして小さく笑ったことが気配で判った。
「離れたりなどしませんよ。何度もいうようですが――貴方の傍でしか呼吸ができないのは、私も同じです」
「あぁ。そしてお前のそんなところを利用して、ここに立っているのは他でもない俺のほうだ」
「私が貴方の傍にいることを、私の意志にもさせてくれないのですね、貴方は」
「俺がそういう男だっつうのは、わかってるだろうが」
「えぇ。とても」
 イルバの手を、そっと目元から離した女は、首を捻ってこちらを仰ぐと微笑んだ。
 その顎を掴んで引き寄せる。彼女は抵抗しない。ただ、口付けられる間際に涙を流しただけだ。
 二人の間に横たわるものは、愛などではない。
 それでも、自分達はこんな歪な形であっても、傍にあることを望むのだろう。そして傍にあることを、互いに約束するのだろう。
 だからこの口付けは、その契約の証。
 最初で、最後の。
 独りは寂しい。独りで悲しむ。独りで嘆く。独りで悼む。その全てがとても寂しい。
 だから、傍にいる。
 愛しい人々を失ったときのように、独りで悲しまないように。独りで嘆かないように。独りで悼まないように。
 どんな形であれ、今は幸せなのだと主張したとき、そうかと、ただ頷いてやれるように。
 いつか、全てが終わるとき。

 ――……あなたが、独りで、ないように。


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