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番外 いつか全てが終わるとき 10


「つまらないですわ」
 シノの隣を歩きながら、嘆息混じりにそのように呻いたのは部下の一人であるヒウだった。今回の休暇の内容をシノから歩きがてら聞いた彼女は、心底不服そうである。
 シノは苦笑しながら彼女に言った。
「私は貴女たちにおしゃべりの話題を提供するために休暇を取ったわけではないのよ」
「もちろん存じておりますわ。けれどこう、ほんっとうに何もない様子ですと、とてもつまらなく思えてしまうのです」
「これはいよいよ婚前旅行なのかしらって、大騒ぎしてましたのにねー」
 冗談めかした口調でそんなことを告げてくるのは、同じく部下の一人であるメイ。産休から復帰したばかりの彼女は、出産以前よりも少し頬をふっくらとさせて、飛びぬけに明るい笑顔を浮かべていた。
「あなたたちねぇ……」
 怒る気にも、諌める言葉を吐く気にもならない。シノは傍らを歩く二人を半眼になって視線を投げかけながら、大きく肩を落とすことしかできなかった。
「もちろん、冗談ですけれど」
「冗談でなければ怒りますよ」
 肩を落としながら、だいたい、とシノは言葉を繋げた。
「たとえば本当に、私とイルバさんが恋仲だったとしてよ? 何故否定したり秘密にしたりする必要があるの?」
「それは……」
「おっしゃる通りですが……」
 もし仮に、自分たちが恋人同士だったとしたら、それこそ遠慮も何もなく、さっさと籍を入れているに違いない。いちいち先延ばしにするだけ、手続きだのなんだのと面倒が増える。イルバがエイに指摘されたようだが、ほとんど日課のようになっている晩酌の席だって、共に暮らせば寝室に入る前に設けるだけでよいのだ。
 今更恋人ができたから気恥ずかしいといった年でもあるまいし。
 叱咤するような気分で、シノは早口で二人に言った。
「無意味な憶測ばかりに気をかけていないで、もう少し建設的な方向に意識を持っていきなさいな。同じように噂をするのでも、本当に片恋をしている若い子たちにその老婆心を向けたほうがよほどよいと思うけれども」
 シノの指摘に一度は押し黙ったかに見えた部下二人は、次の瞬間には口先を尖らせてつまらないと連呼し始めていた。まったく、若い娘ではあるまいし。シノは彼女らの行動に呆れ返る。
「何故そんなに私とイルバさんのことを気にかけたがるのかしら」
 天井に視線を向けながら、思わず独りごちる。
「それはもちろん、シノ様にもぜひとも幸せになっていただきたいと思っているからです」
 耳聡くシノのぼやきを聞きつけていたメイが、素早く応じた。彼女を半眼で睨み付けながら、シノは呻く。
「独り身が幸せでないと誰が決めたの」
「確かに今が幸せそうに見えないかっていったら、そんな風にはぜんぜん見えないですけれど……」
「でしょう?」
 ほら見なさい、とシノはヒウを一瞥した。こちらの視線に目を合わせた彼女は、不満げに唇を歪めて引き結ぶ。
「他者に自分たちの幸せの形を押し付けるのはよくないわ、二人とも。それでなくとも、幸せな人間は他人にそれを押し付けたがるもの。気をつけなさいな」
 まるで分別のわからぬ子供に説教しているようだと、肩を落とす二人を横目で見つめながらシノは思った。ヒウもメイも長い付き合いであるし、役職を拝命する上級女官達である。仕事の上ではこのように注意することなど長らくないのに、ことイルバと自分のことに関しては余計な口を挟んでくるものだから、つい物言いが多くなって仕方がない。
「押し付けたつもりはないんですよ、シノ様」
 口を開いたのは、メイのほうだった。
「ただ、嫌だったんです」
「何が、嫌だったの?」
 シノは足を止めてヒウとメイを見つめ返した。嫌だった、と口にしたものの、その先の言葉を捜しかねているメイは視線を泳がせて俯いてしまう。代わりに彼女の言葉を引き取ったのが、ヒウだった。
「お休みのこともそうですけれど、シノ様は、何につけても、皆のことを優先させておしまいになるでしょう?」
「そんなことないわ」
 買いかぶりすぎているだろうと、シノはヒウの主張を一笑した。しかし彼女は真剣な面持ちで、シノの笑いを諫める。
「そんなこと、あるのですよ、シノ様」
「シノ様はいつも私達にいろんなことをお譲りになられてしまいますねって、皆で話していたんです。イルバ様とご結婚なさらなかったのも、単純に私達離宮の女官が次々に結婚したり出産したりで、遠慮して時機を逃してしまったんじゃないかしら、とか」
「勘ぐりすぎですよ」
 メイの憶測に、シノは思わず笑い出しそうになる。確かに、彼女の言い分には一理ある。しかし自分とイルバの間柄は、本当にそのようなものではないのだ。
 ――自分たちがもう少し若ければ、早く、出会っていれば、あながち間違いではなかったのかもしれないけれど。
 自分たちはもう、そうならない。
「けれど私達はやっぱり一番に優先すべきことはもう子供や夫ですとか、あとは家のことになってしまっていて、シノ様に甘えてばかりですから」
 僅かな躊躇を見せながらヒウが言う。
「ですからせめて、何事においてもシノ様を優先される方が、シノ様のお傍にいてほしいねって、皆で言っていたんです」
 祈りのように胸の前で組み合わせた両手に、視線を落としながらメイがヒウの代わりに言葉を続けた。
 ね、とメイはヒウに同意を求め、ヒウはこちらの顔色を窺いながら小さく頷いて彼女に同意を示す。
「別に、恋人とか夫とか、そんな方でなくてもよいですから。どんな方でもいいですから。何よりも、シノ様を優先される方。いつまでも、シノ様のお傍においでになられる方」
「でもそうなると、やっぱり普通では難しいって思うんですよね。ですからシノ様が早くご結婚されたらいいのになぁって、皆で言い合っていたんです」
 その皆で騒いでいた頃のことを思い返したのか、二人はくすくすと忍び笑いを漏らす。
 その二人に呆れたいような、同じように、笑ってあげたいような。
 泣き出したいような。
 複雑な気持ちで、シノはその場に立ち竦んだ。
「ありがとう」
 結局、彼女らに返せる言葉は、それだけだった。
「大丈夫よ。大丈夫。私はね、一人では、ないの」
 目を閉じて、思う。
 あぁ。
 あの絶望のときに悲しみに引きずられて死ぬことができていればよかったと、思ったときもある。そうすれば周囲の幸福感に挟まれて、窒息することもないだろう。そんな風に、月の明るい夜空を一人で眺めていて感傷的になることもあるのだ。
 それでも自分は死ぬことはできないと思う。いつかは前に進んでいく。
 こんな風に、温かい人々が、自分の周りにいる限り。
「ひとりではないのよ。もう」
 ずっと。
 一人ではない。
 贖罪が終わってなお、この国で生きることを選んだ男を思う。自分たちは恋人ではないけれど、手を繋いでいくわけではないけれど、その契約の元、ずっと傍に在る。それだけが、わかっている。
 それだけで、もう、十分だ。
 きょとん、と目を丸めた二人は顔を見合わせ、意味深に笑う。
「ちょっとシノ様それどういう意味ですか?」
「え? どうって?」
「一人ではないって、いう意味です。どういう意味です?」
 にやにやと笑みを浮かべ、何かを期待する眼差しを向けてくる彼女らに、シノは内心舌打ちをしながら、笑顔を取り繕った。
「あなた達のように、私を心配してくれる人がたくさんいる限り、私は一人ではないっていうこと」
 全く、油断も隙もない。こちらを心配しているように見せかけて、彼女らは実は単純に、野次馬根性をさらけ出しているだけではないのか。
「そうなんですか?」
「つまらないですわ! ねぇヒウ!」
「さぁさ、おしゃべりは終わり」
 ねー、と頷きあう部下達の言葉に被せるようにして、シノは声を張り上げた。
「行きますよ、二人とも」
 はい、と返事をするものの、その声色は幾分か精彩を欠いている。まったく、何が不満なのだと苦笑しかけたシノは、背後からかかった声に思わず目を見開く。
「シノ!」
 こちらを呼び止めたのは他ならない、件の男だったからだ。
「右僕射閣下、ただいま勤務中なのですけれども?」
 ヒウとメイが彼を迎えるための会釈に腰を折る中、シノは腰に手を当て、苛立ちをこめてわざと役職名で呼んでやった。早足でこちらに歩み寄ってきた男は、頭をかきながら謝罪してくる。
「悪いな、女官長。ヒウとメイもご苦労さん。実はちょっと頼みが」
「頼み?」
「あぁ実は……」
「もー! イルバ様速く歩きすぎですよ!!!」
 イルバの背後から、甲高い声が弾け、シノは思わず彼の背後を窺った。廊下の向こうから袍の裾をからげて駆けてくる女の姿がある。
「キリコ、廊下は走んな! てめこけるんだからよ」
「イルバ様が私を置いていかれるのが悪いんです! ご自分にご都合悪くなると、すぅぐ逃げ出すんですから!」
 右僕射の副官は彼の隣に並び立つと、にこりと微笑みこちらに対して優雅に礼をとった。
「お帰りなさいませ、シノ様。ヒウ様、メイ様もお疲れ様です。……イルバ様! ちゃんとヒウ様たちにもご挨拶しましたか!?」
「あーもー結婚したらちょっとは落ち着くかって思ったのに相変わらず口うるせぇこの小姑!」
「ひっどぉい!」
 漫才のような二人の掛け合いに、ヒウとメイが思わずといった様子で噴出す。口元に手を当てて笑いを堪える二人を尻目に、それで、とシノはイルバに依頼の続きを催促した。
「頼みごととは何なのですか?」
「あぁ、お前明後日の夜空いてるか? そっちのご婦人二人もだ。離宮の残りの女官達も合わせて」
「……どういう意味です?」
「留守の間を労ってこいつらと酒盛りやるんだけど、俺の部下の女共はこいつを見りゃ判るが、ぎゃーぎゃ五月蝿くてかなわねぇ」
 そんなこといっていると言いつける、と同僚の女の名前を出しながら騒ぐ副官を無視して、イルバは続けた。
「で、ちっとは大人しい女を連れてきてくれって皆がうるせぇんだよ。お前の権限で女官貸してくれ」
「わぁ、楽しそう!」
「ぜひぜひ参加させてくださいな!」
「ヒウ、メイ!」
 手を合わせて喜色を浮かべる部下達を叱咤し、シノは半眼で男に呆れの眼差しを叩き付けた。
「……もう。女官は酒場の給仕の女ではありませんのよ」
「わぁってるって」
「ついでに言わせていただくと、私の部下にも大人しいものはおりませんので」
「……は?」
 間抜けな呻きを漏らして、イルバが首を捻る。シノの背後で、ひどいですわ、と笑い混じりの糾弾が響いた。
「明後日の夜ですね。離宮の子たちだけではなんですから、若い子たちにも声を掛けてあげても?」
「かまわねぇよ。何人でも」
「あぁでは全員で」
「おま! 酒代全部俺持ちなんだから少しは遠慮しろ!」
「冗談ですよ」
 夜勤の娘たちは参加できぬだろうし、個々の事情で遠慮するものも出るだろう。酒盛りといってもイルバ側の人間も出席者が限られているであろうし、それを上回ってしまうのもよくない。さて、誰に声をかけてやるべきか。
 つらつらと考えを巡らせていると、キリコが意地悪げな微笑を浮かべてイルバの顔を仰ぎ見ていた。
「そうですよぉ! 大体女官の方全員にお酒一杯奢ったところで破産なんてするわけないじゃないですか! イルバ様無趣味でお給料ぜんぜん使われないのに! 趣味ないと老後退屈ですよ!?」
「てめぇに酒奢るのやめるぞ!」
「えー! ごめんなさいごめんなさい! お酒ほしい!」
「てかお前もうガキ作ってさっさと産休に入れ!」
 もう堪えきれぬといった様子で、ヒウとメイが笑い出した。背後で弾ける明るい女たちの笑いに、シノはその場を諫めるべきか逡巡する。しかし本気でうんざりとした様子のイルバを見つめながら、まぁいいかとシノもその場で笑い出したのだった。


「先生きっとびっくりするぜ」
 黍(きび)の茎を棒のように振り回して少年は顔を綻ばせる。つい先日、彼が商家の下男として雇われることが決まったときの、老夫婦の顔を思い返しているに違いない。あの時も彼らはとても喜んで、とっておきのお茶を淹れて少年を祝ったのだ。
「喜んでくれるといいなぁ」
「喜んでくれるに決まってるって! すごいじゃんお役人のお屋敷なんだぜ! なかなか働けないんだぜ!?」
「夢じゃないかって、眠れなかったのよ。まだどきどきしているの。契約書を持ってきたから、先生と奥様に一緒に見てもらわなきゃ」
 彼女も少年と共に学んで、文字が読めないわけではない。しかし契約書などというものに初めて目を通し、その難解さに、何か読み落としがあってはならないと危機感を抱いて持ってきたのだ。何せ彼女の周囲の大人は誰も文字が読めぬものだから、丘の館の老夫婦に頼るしかない。
 ふと、彼女は背後から響く馬車の音に瞬いた。珍しい。こんな場所を、馬車だなんて。
 少年も気づいたらしく、同じく歩を止めて背後を振り返る。自分たちがまだ生まれてもいない頃、とても大きな内乱があって、この土地は一度綺麗さっぱり焼けてしまったのだという。ひび割れた石畳の狭間から黍が覆い茂る、ろくに舗装のなされていない道には、自分たちの通った跡だけが残されている。砂利を跳ね飛ばしながら道を来た馬車はやがて速度を落とし、彼女らの傍らでその動きを止めた。
 彼女らが日ごろ目にする馬車の形といえば、廃材を組み合わせた隙間だらけの荷台を駄馬が引くだけのものである。しかし真横に停められた馬車は、この界隈では驚くほどに立派な造りの馬車だった。
 幌がかけてあるどころか、しっかりと屋根のついた箱型の馬車。窓に玻璃がはめ込まれている馬車など、彼女は初めて見たし、無論少年も同じだろう。あんぐりと口をあけて、馬車を凝視している。
 御者台に腰掛けているのも、いかにもといった身なりの良い紳士だったが、彼は口を閉ざして真っ直ぐに道の先を見据えている。代わりに動いたのは、客席にはめ込まれている小さな窓だった。
「こんにちは」
 窓から顔を出した男は、柔らかく微笑んだ。
「こ、こんにちは……」
 たじろぐ彼女と少年に、壮年も半ばを過ぎた頃の男はさらに微笑を柔らかくし、白い手袋のはめられた手を振って言った。
「すみません。道を尋ねたい。――……という方々が、このあたりに暮らしていると聞いているのですが、道は正しいだろうか?」
 男が訪ねてきたらしい人物は、彼女と少年が今まさに訪ねようとしている老夫婦だった。彼女は思わず隣の少年と顔を見合わせる。
 一体どういう用件なのか、一応前もって訊いてから返事をしたほうがよいかもしれないと、少女は思った。男の身なりが良すぎるからだ。あの老夫婦が人里はなれた場所に暮らしているのは、本人たち曰く、海が一番よく見えるから、だそうだが、村の人間の中には彼らが罪人か何かなのではないかと勘ぐるものもいる。いつか、お役人が捕らえに来るよ。そんなことを頭の固い大人が口にするたびに彼女は憤っていたが、あまりの男の身なりのよさに、つい嫌な考えが過ぎったのだ。
 例え本当に先生達が何か悪いことをしていて、お役人が捕らえに来たのだとしても、あの人たちに逃げてって私はいうけど。
 うんうんとあれこれ彼女が考えている間に、頭の後ろで手を組んだ少年があっけらかんと男に肯定を示していた。
「そうだぜ? なにあんたお客さん?」
「――っ!!」
 ばかばかばか。彼女が叫ぶ間もなく、男は安堵らしきものに胸を撫で下ろしていた。
「良かった。間違えていなかった。このあたりは黍で道があってないようなものだから」
「そりゃぁ馬車でくりゃ道なんてないも同然だよ。この先の道も、俺達が踏み固めて作ってあるんだ。馬車であっちまでいくのはちょっとしんどい。別の道通らなきゃだめだよ」
「別の道?」
「うん。ここまでくるのに、途中分かれ道なかった? 下の海岸線沿いに行く道。あっちからだったらまたぐるっと丘を回るんだけど、馬車でお屋敷までいけるんだ」
 大きな荷物をあの家に運び入れたとき、少年の父親が駄馬と荷台を借りてきて、その道を通ったことを、彼女も知っている。
 男は小さく首を傾げると、奥に引っ込んでしまった。ぼそぼそと話し声がする。どうやら小窓を通して、御者と話をしているようだった。
 ほどなくして、御者が台から降りて、客席の扉を開けた。男が、降りてくる。
「道案内を頼んでもかまわないだろうか? 私は歩くことにしたので」
「いいぜー。俺達もどうせあっちにいくつもりだったし! な!?」
「え? あ、う」
 少年から同意を求められて、彼女は思わず口ごもった。ここで頷いたら得体の知れぬ男を先生たちの下に案内することになる。しかし彼女が躊躇っている間に、少年はまた黍を振り回しながら、男を連れて歩き出してしまっていた。
「夫婦? あのひとたちは、ご結婚はされていないときいているけれど?」
「あーなんかそんなこと先生たちも言うけどいいんだ。俺達難しいことわかんないし!」
「君はこのあたりの子?」
「うんそう。あっちの村の……」
 少年と男は、いつの間にやら打ち解けて、談笑しながら道をゆっくりと歩いている。馬車はどうやら少年のいう道を探しに行くらしく、もと来た道を戻り始めていた。
 その場に取り残された彼女は、先ほどのどきどきした気分とは一転して、些かの憤りを覚えながら、少年の後を追ったのだった。
「もー! まってよ!」
 黍が波打つ丘の向こうでは、深い紺碧の海が太陽の光を照り返しながら、澄み渡った蒼穹と入り混じっていた。


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