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番外 いつか全てが終わるとき 7


 出発の朝、宮廷に寄ると伝えたら、書斎の忘れ物をついでにとって来てほしいと頼まれた。早朝に出仕していたらしいのだが、その際にアズールに渡す予定だった物を、置き去りにしてきてしまったらしい。まったく、それぐらい宮城ではなくて、自分の屋敷においておけばよいものを。
 シノは怒り、というよりも呆れながらイルバの書斎を訪れた。主不在でも軽く扉を叩くのは、一応の礼儀だ。
 無人だと思っていた部屋からは、返事があった。
「はーい?」
 澄んだ、高い女の声。
 キリコだ。
「失礼いたします」
 挨拶を口上しながら扉を開く。右僕射の副官は、丁度棚から数冊の書籍を引き出している最中だった。
「あれ、シノ様」
 抱えていた書籍を机の上に置きながら、キリコは驚いたように瞬いた。
「どうなさったんですか?」
「イルバさんの忘れ物を取りに参りました。頼まれたのよ」
 キリコの問いに答えながら、シノは手前の戸棚に歩み寄った。玻璃のはめ込まれた扉を開けて、中を覗く。イルバの指示通り、そこにアズールへの土産物と思しき包みを見つけることができた。
「んもーなにやってらっしゃるのかなぁイルバさまは!」
「大丈夫よ。私も呆れましたけれど」
 仕事以外のことになると、突如大雑把、いい加減になってしまうのが彼の悪いところだ。このように使い走りさせられて小言の一つもいってやりたくはなるが、憎むことはできない。
「女性を小間使いにするのは最低です! と後で叱っておきますので安心してくださいね、シノ様」
 そう息巻く彼女に、シノは苦笑することしかできなかった。左僕射の副官が上官に対して口うるさいことは知っているが、右僕射の副官もいい勝負である。自分の小言にラルトがよく耳を塞ぐが、おそらく外からみた自分と彼の関係は、キリコとイルバに似ているのかもしれなかった。そう思うと、これからは少し皇帝に対して物言いを自重したくなる。とはいえど、皇帝や宰相が無理をするたびに、口を挟みたくなるのはもう習い性のようになってしまっていて、自分でも止めることなどできないのだが。
 ふとシノは、キリコの視線を感じて手を止めた。机の傍に佇む女は、どこか少女めいたあどけなさを宿す。眼鏡の奥に隠れる大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた彼女は、こちらの視線に我に返ったのか、恥じ入るように頬を紅潮させて笑った。
「御髪を解いていらっしゃると、また雰囲気が違われますね」
「そうかしら?」
「はい」
 大きく頷いた彼女は、まぶしそうに目を細めて言葉を付け加える。
「とっても、お綺麗です」
「……ありがとう」
 滅多にそのように評されることのない身としては、とても面映く感じる。たとえ世辞だとしても嬉しいことだ。
 ところがキリコは、シノの心中を読み取ったように慌てて手を振ってきた。
「あ、お世辞じゃないんですよ。本当です! なんかこう、とっても上品で。凛としてらっしゃって。白百合のお花みたい」
 意外な言葉に思わず息を詰めて瞠目したこちらに、キリコは表情を変える。どうやらこちらの反応に、彼女は失言をしたと勘違いしたらしい。
「えぇっと……すみません」
「いいえ。ありがとう」
 謝罪してくる彼女に、シノは頭を振った。本当に、謝られる必要などまったくなかった。
「そんな風に花に喩えられることなどないから嬉しいわ」
 滅多にないことだから、単純に驚いただけである。ところがキリコは疑わしげに目を細め、本当なんですか、と呻いてきた。
「それが本当なら、殿方みんな、見る目ないなぁ。大体イルバ様も、もうちょっと周囲の女性を褒めるということを学べばいいと思います。この間、ちんくしゃっていわれたんですよ! 泣いてたらちんくしゃが更にちんくしゃになるぞって! ひどいと思いませんか?」
 あの男の言いそうなことだ。様子が思い浮かぶようである。思わず口元を笑いに緩めたシノの表情を凍てつかせたのは、続けてキリコから吐かれた問いだった。
「シノ様はご結婚しようとは思われなかったんですか?」
 またもや、彼女からそんな質問が飛び出るとは思わなかった。彼女は基本、同じ質問を二度繰り返さない。何故イルバと結婚しないのか云々といった質問に対しては、ここのところシノは本当にうんざりしていた。
「あ、イルバ様と、とかそういう意味ではなくてですね」
 顔をしかめたこちらの意図を汲んで、キリコは言った。
「シノ様も、テウインのおうちの方でしょう? きっと縁談とかたくさんあったんじゃないかなぁと思いまして。そんなにお綺麗なんですもの」
「……そうね」
 綺麗かどうかはともかく、確かにキリコの言うとおり、フィリオルが鬼籍に入ってからも、縁談の話はそれなりにあった。シノの生家であるテウイン家は、祭事の舞いを司る名家の一つだ。本来ならば女官としての奉公もある程度の年齢で切り上げなければならなかったはずなのに、未だこの職務についている。結果、家督はとうの昔に妹に譲り渡していた。年に数回会うか会わないかの妹だ。
「今までのものはすべてお断りしてきたわ」
「これからのものは?」
「年増を引き受けようなどという酔狂はもういませんよ、キリコ」
「そうなんですかぁ……」
 少し安堵した様子すら見せて微笑むキリコを怪訝に思って、シノは首をかしげる。
「どうしたの?」
「いえ」
 こちらの問いに曖昧に笑ったキリコは、やや躊躇を見せながら言葉を付け加えた。
「イルバ様をしっかりシノ様に見張っていただくためには、シノ様がご結婚されると困ると思いまして……すみません」
 その回答に、シノは思わず呆れ返る。まったく、自分を彼の何だと思っているのだ。
 それでも、不快ではないことは確かだ。彼女の思いは、純粋にあの右僕射を思えばこそなのだから。
「貴方は本当にイルバさんが好きなのねぇ」
「はい! 大好きです!」
 揶揄すら込めて呟いたシノに、キリコは満面の笑みで答えた。臆面ない素直な回答に、逆にシノのほうが面食らってしまう。
「だからあの方には幸せになっていただきたいんですよねぇ」
 まるで娘が父親の幸せを願うような口調だ。しみじみとした呟きに、シノは噴出しそうになりながら言った。
「あの人がどうして貴女のような若い女性をひきつけるのか、不思議ね。どこにそんな魅力があるのかしら」
「えーそんなの、いっぱいありますよぅ! シノ様も、あの方のいいところいっぱいご存知だから、仲良くしていらっしゃるのでしょう?」
 シノはそうだとも違うとも答えず、ただ肩をすくめただけに留めておいた。彼の傍にいる本当の理由は、きっともっと浅ましい。けれど理由の一端は、確かに彼の美徳を数え切れぬほど知っているからだった。
「本当に大好きなのですね」
「はい。大好きです。大好きだから、幸せになってほしい」
 目を細めて、娘は笑う。本当に、心からあの男の幸福を祈っている微笑だった。
 ふと、シノは疑問に思った。確かにイルバは数多くの美徳を持つ男だが、どうしてここまで彼女に心酔されるのかがわからない。
「……どうしてそこまで、幸せになってほしいと、願うの?」
 疑問はいつの間にか、意図せずして唇から零れ落ちていた。耳聡く問いを拾い上げたキリコは、唇に指先を当てながら、そうですねぇ、と軽く思案する仕草を見せ、シノに向き直る。
「アタシの両親は、今はそんなことないですけど、長らくアタシに無関心でした」
 けろりとした笑顔でいうには、あまりに唐突で陰鬱な内容だ。息を詰めるシノに、彼女は微笑んだまま話を続けた。
「内部分裂を覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん、覚えているわ」
 あれを経験して、覚えていないものなど皆無だろう。まだ、ラルトが皇帝として即位して間もない頃の混乱。かつての主人、レイヤーナが、心を病む原因の一端ともなった事件だ。
「シノ様。あれ以来、陛下は貴族を疑い、距離を置かれるようになった。今は当然そんなことはありませんが、それでもあの時、いくら名家で中立を貫いていたとはいっても、ミラーの家も例外ではありませんでした。傍目には滑稽でも、貴族は皇帝に見捨てられて生きていけない。それは、シノ様もご存知のことでしょう? なのに距離を置かれて、私の両親の、貴族としての矜持は粉々に砕かれました。私の両親は、もう何もかもがどうでもよくなっていた」
 だからこそ、家督や家名に縛られず、私は好き勝手できたんですけれど、と皮肉にキリコは口を歪めた。
「皇帝の寵愛。それによって肥大していく自尊心。生まれながらにして手に余るほどの富、名声。貴族として生まれたものは、貴族以外になって生きられない。アタシの両親はアタシに無関心でした。それ以上に、互いに無関心だった。父は皇帝に見捨てられたことで自暴自棄になっていたし、母はそんな家に連れてこられたことを恨んでもいた。別に、ミラーの家以外も同じように陛下から遠ざけられてたんですけどねぇ」
 母の昔の馬鹿さ加減には、笑ってしまうと、キリコはあっけらかんと言った。この話が、一体どのようにしてイルバへの好意に繋がっていくのか。彼女の意図が見えず、シノは眉間に皺を寄せたまま耳を傾ける。
「アタシ、なんで人って結婚するのかなぁとか思ってました」
 過去に思いを馳せているのか、目を伏せて、キリコは言った。
「結婚なんてしなくてもいいじゃないですか。子供は所詮貴族の道具で、結婚も絆を強固にするための政略にしか過ぎなくて。男女、一緒に住む必要がどこにあるんだろうって思ってました。子供を生んだら母は実家に戻ればいいし、そうしたら父だって気に入らない女の顔を見ないですむでしょうに。結婚だけじゃないですよ。親も兄弟も、友人関係さえ、全てがただ家を富ませるだけの契約でしかない……って思ってたんですけど」
 そこで一度言葉を切り、キリコは面をぱっと上げる。
「イルバ様のお傍で働かせていただくようになって、考えがすっかり変わってしまいました」
 再び彼女は、その幼い顔を満面の笑みに彩った。
「イルバ様が、ずっとアタシの背を押してくださって。見守っていてくださって。時々、道を間違えそうになったら手を差し伸べてくださって、叱ってくださって、でも、褒めるところは褒めて、アタシのしたいように、アタシが成長できるように、ずっと、尽くしてくださっていて。アタシ初めて思いました。あぁ、こういうのが、人の繋がりっていうやつなんだぁって」
 はにかむように笑って、彼女は断言する。
「たくさんのことを教えてくださった。だから私はイルバ様が大好きです」
「そうですか」
 それはよかったと、シノはまるで自分のことのように嬉しかった。あの男がこの国に留まったのは彼の選択に他ならないが、やはり切欠を与えたのは自分だ。なんだかんだといっても、あの男に一番近しい場所にいるという自負はある。そんな男が誰かに心から好かれているというのは、嬉しいものだ。
「でもイルバ様がそんな風にアタシたちに尽くしてくださるのは、やっぱりシノ様がそうだからかなぁって、思うんですよ」
 控えめに付け加えられたキリコの言葉に、シノは首をかしげた。
「どういう意味ですか?」
 眉をひそめて見せたこちらに苦笑した彼女は、変な意味じゃないですよ、と前置く。
「イルバ様の前に、まずシノ様が、ずっとずぅっと、陛下とか閣下とか、ティアレ様とかシファカ様とか、女官のみんなとか、とにかく色んな方を見守って下さってるじゃないですか。でもそんなこと、一人でやってらっしゃったらぶっ倒れちゃいますよ」
 そういって笑った彼女は、人が倒れる様を手の仕草で表した。
「だから、そんなシノ様の手から零れそうな部分を、請け負ってるって感じなのかなぁとか、勝手に思ってます」
 キリコの言葉はある意味正しい。イルバがシノの傍にいる理由は、愛ではない。むしろたった今キリコが述べたことこそが、彼が自分の傍を離れぬ理由なのだと、シノは思う。
 オマエはあぶなっかしいんだ、と、イルバは言う。
 そして自分は彼のその優しさに、甘えているにすぎないのだ。
「そこを考えるとね、不思議なんですよ。どうして、シノ様は、身を削るようにして、アタシたちのことを見守ってくださっているんだろう? どうして、ご自分の幸せを、追われないのだろう」
 唇に指先を当て、視線を天井へと巡らせながらキリコが言った。
「それだけお綺麗で、才もあり、家柄も申し分なくいらっしゃる。見合いの話は数多かったでしょう。結婚がすべてだとは思いません。けれど、ご自分の幸せを探して、寄り添える誰かを見つけようともされなければ、イルバ様にそれを求めるわけでもない」
「私は自分の幸せを拒絶しているわけではないわ、キリコ。貴女を初め、陛下たち皆の幸せを見守っていくことが、私の幸せであるそれだけです」
「でも、自分だけを恃んで生き続けるのは、哀しすぎる」
 そしてそれを、貴女は存じてらっしゃるでしょう?
 確認の言葉さえ、どこか決然として囁いたかつての部下を、シノは意外さを込めて見つめ返した。
 彼女が女官として宮城に上がってきたころ、彼女はあまりにも他者に対して関心がなかった。彼女が好むのは紙に綴じられた物語、知識のみで、孤立して生きることこそを最上の幸福としてみているところがあった。だからこそ、奇人変人だのなんだのと、なんと言われようと、彼女は意に介していなかったのだろう。
 その彼女が、一人で生きることは哀しいのだと、シノに告げてくる。
「アタシ、カンウ様とヒノトを見ていて、思いました」
 驚きに立ちすくむこちらにキリコは微笑みに目を細めて、左僕射とその恋人である女の名を口にした。
「あぁ、自分だけを恃んで生きることはできるでしょう。でもそうすると、あんなふうに誰かと笑ったり喧嘩したり悲しんだり、人生の色んなものを共有していくことはできない」
「キリコ」
「シノ様。皆が誰かと寄り添って、手をとって、幸せに笑っている中、シノ様、貴女様はいつも一歩引いて、一人で微笑んでいらっしゃる。ご婚約者がお亡くなりになられたことは存じています。けれどもう、貴女様の幸せに踏み出しても、その方は何もおっしゃられないでしょう。貴女様を、祝福するでしょう」
「キリコ!」
 なのにどうして、と。
 まだなお、何かを言い募ろうとする彼女を、シノは声を張り上げて押し留めた。その声量に、我に返ったらしいキリコはばつの悪そうな面持ちで立ちすくんでいる。
「もういいわ。もういい」
「……ごめんなさい」
 しゅん、としょげ返る彼女に、シノは苦笑した。
「怒ってはいないのよ、キリコ。ただそのおしゃべりに、呆れただけ」
 そして巧妙にこちらの思惑を引き出そうとするしゃべり口に、感心しただけだ。
 話の止まらぬ己に少しでも反省しているのか、キリコは前で手を組んで項垂れている。シノは微笑んだ。そこまで知りたいと思っているのならば、話してやってもいいと思っていた。これが皇后や宰相夫人、部下達相手にならば、いくら追求されても話すつもりにはなれなかったはずだ。唯一の例外は左僕射の恋人である医者の娘だが、彼女はそもそもこちらに追求の手を伸ばしてきたりなどはしない。その他者の痛みへの聡さゆえに。訊かれもしないのに、話すつもりなどにはなれない。
「私は幸せを求めていないわけではありません」
 口を開いたこちらを怪訝に思ってか、キリコは恐々といった様子で視線を上げた。
「先にも言ったとおり、陛下や閣下たちの幸せをみることが、私の何よりもの幸せです。ティアレ様やシファカ様の、産湯のお清めを済まされたばかりのお子をこの手に抱くことができたとき、私は幸福でした。陛下がティアレ様と笑いあうとき、閣下がシファカ様の傍でお眠りになるとき、執務室から響く、あの方々の笑い声を聞くとき」
 宮城が、笑顔で満たされたとき。
 国が、富んでいく。その足音を耳にするとき。
 その一瞬一瞬すべてが、自分の幸福だった。それを見つめることができる。それが、自分にとっての幸福だった。
「けれど私は誰かと共に幸福を追い求めたいとは思わない。私の幸せは私の下のみにあればいい。誰かと共に、幸福を追い求めることができるとも、そもそも思っていない」
 こちらの言葉の意味を図りかねてか、キリコが小さく首を捻る。シノは微笑んだ。
「キリコ、一つ教えてあげましょう。一つだけ。これを知っているものはもうイルバさんだけになっている。当時、私を診た医師は死んだから」
「……なんですか?」
 このことを、話すなど。
 イルバ以外にないかと思っていた。そもそも彼がこのことを知ったのも、偶然と彼の洞察力が合わさっての結果だったのだから。
 シノは一息に言った。
「私は、子供を生めません。血を繋げていくことのないこの身を、誰かに預けたいと思ったことは、ありません。ただの一度も」


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