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番外 いつか全てが終わるとき 6


 暁の頃にシノを伴ってアズールの屋敷を出る。ポリーア島へ出る船が、この季節その刻限にしかないためだった。また翌日には再会するのに、わざわざ港まで見送りにきたアズールは本当に律儀だと思う。彼はそのまま議会に出仕するつもりだとイルバに告げた。
 ポリーア島に降り立つと、イルバの顔を知る昔なじみが次々と声を掛けてきた。ポリーア島は、マナメラネア本島に輪をかけて変化のない島だとつくづく思う。皆、年を重ねていたけれど、六年という空白が嘘のように話しかけてくる。彼らと軽い挨拶や近況を交わしながら、町を進んで、目的の島まで舟を出してくれる行商を探す。昔なじみの老人は二年前にこの世をすでに去っていた。結局自分達を運ぶことを承諾したのは、イルバ自身勉学を見たことのある、老人の孫だった。
 舟の繋がれた浜までの道のりの最中、イルバは蜘蛛の巣が張り、木製の窓枠と雨戸が朽ち掛けた、店の前を通りかかった。見覚えのある色あせた看板が、傾いた扉の取手に掛けられている。鍵屋の看板。今は、誰もその空間を使っていないようだ。変わっていないようで変わってしまったこともある。この国でさえ。
 かつて、閑古鳥の鳴いていた店の奥で、笑顔でこちらを迎えてくれていた旧友の姿は、そこにない。


 シノはこの旅の理由をイルバに尋ねたことはない。この旅の目的地を確認したこともない。ただ、彼が望むままに付き従った。そうあるべきだと思っている。
 イルバがシノの祖国に残ったのは彼の都合。けれど、彼があの国を訪れる切欠となったのは、自分に他ならないのだから。
 ポリーア島から小舟に乗って海を進む。記憶喪失の間のことは、記憶が戻ると忘れてしまうとよく耳にするが、シノに限ってはそういうこともなかった。あの、海の最中にある無人の島で、イルバと生活を共にした短い日々のことはよく覚えている。
 諸島連国の海は、水の帝国のそれと違って、深淵に緑を、表層に澄んだ青を宿す。発泡酒のように細かな銀の泡。時折、太陽の光を照り返す色鮮やかな魚の鱗。
 空は絵具で塗りつぶしたかのような鮮烈さ。水平の端を陣取る巨大な山脈のような白い雲。雪のような砂浜と、椰子の葉が作り出した、そこに落ちる闇色の影。
 頬を撫でる潮風も、時折戯れに手を浸した水の温度も、記憶と寸分変わりがなかった。
 そして。
 舟がその舳先を停めた、砂浜の光景も。
「イルバさん、ここは」
「降りるぞ」
 シノが何かをいうよりも先に、イルバは小舟を降りていってしまう。彼は降りがけに、舟商に明日の朝迎えにくるようにと言い置いた。シノは唇を引き結び、遠ざかりつつある背中を急いで追った。
 予想していたことだ。かつて、イルバが贖罪のときを過ごし、そしてシノを海から拾い上げた、この島に降り立つことは。
 ポリーア島へ行き、舟を探した時点で、確証を持っていた。
 しかし一つ、シノを困惑させたのは、この島に、人の気配がないということであった。
 そんなはずはなかった。この島には男が一人、暮らしているはずだ。隣国ダッシリナに仕官し、水の帝国デルマ地方にて暴動を指揮した、イルバのかつての弟子が。その男はアズールに引き渡され、以後、この島でイルバの代わりに周囲の島民に手習いを教えていた。そう、聞いている。
 シノはイルバの足跡真新しい砂浜を進み、彼がかつて住居としていた平屋に足を踏み入れるべく、階段の板に足をかけた。ぎしぎしと、板がたわんで音を立てる。階段を上りきった先、開け放たれた家屋は、潮風にさらされながら沈黙していた。
「シノ」
 イルバが、手前の寝室から顔を出した。
「何やってんだ? 入れよ」
「え、えぇ」
 シノは風通しのよい家屋の中を窺うようにして、足を踏み入れた。床板に、砂が埃のように積もっている。イルバの足跡だけが残る、床板。
 寝室では、イルバが砂避けの布を、寝台から取り外している最中だった。
 他の家具も皆、布が被せられている。窓にも雨戸が嵌って、室内は暗い。シノは一歩下がって顔を動かし、奥の居間の気配を探った。
 誰も居ない。
 潮騒だけが、響く家屋。
「……終わった、の、ですね」
 シノは呟きながら、今年の年明けに、イルバの元に届いた手紙を思い返していた。
 アズールからの、二通の手紙。一通目はイルバも普通に目を通していたけれど、もう一通の封蝋の為された正式な書簡は、おそらくまだ彼の机の中に仕舞われているのだろう。
「あぁ」
 呟きの意味を汲み取ったイルバは頷き、シノに向き直った。
「終わった」
 彼の弟子は、何かしらの生きる意味と幸せを見つけて、この島から出て行った。
 イルバは、彼の弟子の刑期が終わるまで、つまり、彼がアズールの許可の下、この島を自らの意思で出るまでの約束で、シノの母国で贖罪を行っていた。
 その、全てが。
 終わった。
「終わったんだ」
 終わって、いたのだ。
 そういって、彼は微笑む。
 シノは静かに目を伏せた。イルバをあの国に繋ぎとめるものは、もう何もないのだ。
 ならば何故彼は、アズールから届いた、刑期終了の通知を未だラルトに提出せずにいるのだろうと、シノはふと思った。


 夕食は砂浜で海を眺めながら取ろうという話になり、早速仕度に取り掛かる。居間から埃をかぶった椅子を二脚引っ張り出していたら、通り雨に降られた。びしょぬれになったお互いに年甲斐もなく笑いながら、こんな生活もやはり悪くないと、イルバは思う。
 風邪を引かぬように着替えだけ済ませ、イルバは焚き火のために木材を組み、招力石で火を起こした。火が安定した頃に、シノが下ごしらえを済ませた食材と酒を盆に載せて現れる。香草と野菜と米を入れ込んだ鶏肉を、濡らした布で厳重に包んで焚き火のそばに埋め、塩を振った魚を棒で刺して火の近くに立てかける。背を伸ばしながら振り返ると、シノがポリーア島で手に入れた酒を、高杯に注ぎいれているところだった。
「どうぞ?」
 差し出された酒は、沈む夕日を映し琥珀色に輝いている。その向こうで笑う女の顔を見つめながら、イルバは礼を言った。
「ありがとうよ」
「それじゃぁ乾杯いたします?」
「そうだな。乾杯の辞は何にする?」
「長旅お疲れ様です、でいいのではないですか?」
「あぁそうだな。じゃぁ、ご苦労」
「えぇ。乾杯」
 玻璃の触れ合う高い澄んだ音が、潮騒に混じる。二人で一息に中身を飲み干して、笑いあった。
「あぁ、休暇中のお酒っておいしいですわねぇ」
「本当になぁ。一番不味いのは仕事中の酒だよな」
「あら、私は仕事中にお酒などいただきませんけれども?」
「あぁそうだろうよ。すっかり忘れてたぜ」
 自分は会食の席で酒を頂戴するが、奉仕する側の女官であるシノにはそれがない。どんな美酒でも不味く感じさせてしまうあの席の経験がないのは結構なことだ。
 微笑んで次の酒を注ぐ女に、イルバは尋ねた。
「シノ、どうして俺についてきた?」
 シノは答えない。無言のまま、酒の瓶を軽く掲げ、お替りは、と尋ねてくる。イルバは嘆息し、空になった杯を女に差し出した。
「では何故イルバさんは、私をこちらへ連れてきたのですか?」
 真っ直ぐにこちらを見返してくる紫紺の瞳。イルバは渋面になりながら呻いた。
「質問に質問で返すのは反則だぜ」
「答えられませんか?」
「いや。答えられる」
 そしてそれは、と回答を口にしようとしたこちらを、女の白い指が押し留めた。
「私から答えましょう」
「オマエが質問してきたんだぜ。答えるなら普通に最初から答えろよ」
 ふてくされるイルバを、おかしそうに笑って、シノは椅子から立ち上がった。
 まだ水平の向こうに残照を残すものの、東の空はすっかり闇色に塗り替えられている。ぬるい風がシノの肩にかけられた薄布を揺らしていた。寄せて返す波。その先を見つめる紫紺の双眸は暗く、虚ろだった。
「シノ」
「存じていらっしゃるくせに。私がもう、貴方の傍以外で、呼吸が上手くできないということ」
 他者がいれば、それは、甘い睦言のように聞こえたかもしれない。
 けれどそのようなものではないと、イルバは知っている。
「昔もこんな風に、二人で海を眺めたことがありましたね」
「……あれは確か、シファカが出産した後だったな」
 皇帝にも宰相にも、新しい家族が生まれ、宮城は一層賑やかとなった。誰もが、あの国の未来の幸福を、確信していた。
 そんなときだ。女は言った。かねての約束通り、海に連れて行ってほしいと。
 国内でも、都から一番離れた場所の海に女を伴って行った。秋も終わりに差し掛かったころだった。雪がちらついていた。女の家族になるはずだった男の命日だった。
 女はそのときに言ったのだ。私の贖罪は、終わったのでしょうかと。
 途方に暮れた顔で。
「私は、走り続けてきました。フィル達を失ったその日から。レイヤーナ様を狂わせて、そして罪を犯させてしまったあの時から。陛下や閣下を叱咤し、励まし、そしてあの方々が本当の意味で幸せを掴み取るまでの日々を見守ることが、私の贖罪だった」
 守らなければ、ならぬのだと。
 女はかつて、力強く言った。
 真っ直ぐに前を向き、怪我を負ってもなお、皇帝の下に、馳せ参じなければならないと。あの国を平らかにすべく命を削る人々を、守り通さねばならないのだと。
 彼女のその力強さが、そのひたむきさが、イルバを過去に向かい合わせたのだ。
 しかしその屈強さのすべてが、真実というわけではなかった。
 彼女は、強くあろうとした。
 それは、彼女が罪を重く見ているが故、だった。
 それは、彼女があまりに多くのものを失いすぎた故、だった。
 イルバが罪を直視することを恐れてこの島に逃げ込んだのと同じように、彼女は贖罪に逃げ込んだのだ。彼女はそうすることで、愛する人々を失った悲しみを振り切った。力強く笑ってみせるのは、彼女が愛する人々を、励ますため。そして自らは大丈夫なのだと、暗示をかけるため。
 水の帝国に腰を落ち着け、数え切れぬ夜をこの女と酒を酌み交わしながら過ごした。それは男女が肌を重ね合わせるよりも、互いの心中を裸にする。イルバはそうやって、女のうちに未だ巣食う、深い悲しみを知ったのだ。
 この女は、大丈夫などでは、なかったのだ。
 もうずっとずっと、大丈夫などでは、なかったのだ。
 皆が幸せになった。そして彼女の贖罪は終わってしまった。彼女を生かしていた柱が、崩れ去ってしまった。
 だからといって人生を終わらせるわけにはいかない。長年染み付いた習性、責任感、人間関係、相手への情、自尊心。様々なものが絡み合って彼女を生き長らえさせる。
「贖罪が終わって、悲しみを思い出しました。あの時、振り切ったはずの感情。海の底に、重石をつけて沈めたもの」
 遺灰と共に海に撒いたはずの、失った人々への、愛しさ。
 そういったものが、贖罪の終焉と共に甦る。
 シノは、酒のためか、頬を紅潮させて、饒舌だった。
 あの海では女は無言だった。贖罪は終わってしまったのかと尋ねてきた女に、イルバは気の利いた言葉をかけてやることができなかった。イルバの胸中を、恐怖が支配していたからだった。
 あぁ、自分もいつか、そんな日がくるのだろうと。
 贖罪が終わり、生きる意味を失い、全てを放棄したくなる。そんな日が。
 そんな、未来への恐怖が。
「贖罪が終わって、私はようやくわかった。私は、悲しみたかった。あの人たちを失ってしまったことを。フィルを、同じ日に失われてしまったたくさんの人々を。レイヤーナ様を。私は、忘れてしまいたくなんて、ない。幸せに埋もれて、あの人たちを、忘れてしまいたくなんて」
「シノ」
 手を伸ばす。背後から腕を回し、その華奢な身体に寄り添った。互いの体温を伝えるには、十分な距離。女は凍えているようだった。この、ぬるい風の吹く常夏の島で。
 イルバの手を握り締めて、シノは言った。
「あの人たちが失われてしまったとき、私には悲しむことが許されなかった。悲しみに沈む陛下や閣下、大勢の女官たちの代わりに、私が動かなければならなかった。私が、動かなければ。だってあの人たちを狂わせたのは、私だったから」


 背中が、温かい。
 男の身体はその空気でいつだって優しく自分を包む。自分達は肌を重ねたことなどなかったけれど、その温度が互いに心地よいものだとは知っている。それを知っていてさえ、自分達はこれからも、一つになることはないだろう。
 イルバの温度に泣きたくなりながら、シノは胸中で繰り返した。
(そう、あの人たちの運命を最初に狂わせたのは私だった)
 すべてを狂わせたのはレイヤーナだ。彼女が狂った。罪を犯した。
 しかしそれ以前に、決定的に彼女を狂わせたのは、自分だった。
 だから二度と、もう家族を持つことは許されない。否。
 自分に、それを許すことができない。
 シノはふと、キリコとの会話を思い出した。
 この諸島連国へ向けて出発する当日の朝、キリコと交わした会話のことを。


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