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番外 いつか全てが終わるとき 5


「結婚してなかったんだねぇ」
「してねぇよ。ついでに言うと、男と女の関係でもなんでもねぇからな?」
 必要に迫られたときを除けば、手を握ったことすらない、と口にしかけて、一度だけあるなと、イルバは思い直した。昔、まだ自分がポリーア島に近い名もなき島で暮らし、シノが記憶を失って流れ着いて、共に暮らしていたときのことだ。昔の夢を見て、震えが止まらなかった。自分は、思わず傍にあった女の手にすがったのだ。
 あの時ぐらいなものだ。長い間、女の手を握り締めていたのは。
「じゃぁ、友人ってこと?」
 アズールの問いに、イルバは顎をしゃくった。
「まぁ、それが一番近いか」
 卓を挟んで向かい合うアズールは、眉をひそめた。こちらの回答に、納得がいかないといった様子だ。
「友人ねぇ。そんな風には、見えなかったけど」
「んなこといわれてもなぁ……」
 友人、という言葉にイルバ自身、違和感を覚えないわけでもない。友人というには近しすぎる。しかしそれ以外に当てはまる言葉を自分達は持たない。
 愛ではない。自分達の間に、横たわるものは。
「イルバ、僕は男女の友情がないとは言わないよ」
 運ばれてきた酒を口にしながら、アズールは言った。
「僕にも女性の友人は数多くいるからね。その中には、男女の仲を頻繁に疑われるような間柄もいる」
「ならなんでそんな納得いかねぇような顔してんだ」
「もちろん、納得がいかないからだよ」
 たん、と音を立てて高杯を卓の上に置いた友人は、笑みを消して言葉を続けた。
「僕には女性の友人がいる。だからこそ、友人である男女を、夫婦だなんて間違えたりしないよイルバ。君達の関係は、そんなものではないだろう? 君達のものはもっと――……」
「俺はシノを抱いたこともねぇよ」
「抱いていないだけ? 抱かないのか。抱けないのか」
「どれでもねぇ。そんな選択肢すら」
 自分達の前には存在しない。
 酒を呷るイルバを瞳に映して、アズールは小さく苦笑した。
「今日、一日、君達を見ていた」
「観察なんて趣味わりぃ」
「うん。そう思ったけどね。確認したかった。この島を出て行った君が、果たして、幸せであるかどうか」
「幸せだよ」
 イルバは即答した。反語を挟ませる余地のない口調で。
 押し黙ったアズールに、イルバは続けた。
「幸せだ。これ以上、何を求めたらいい? 地位、財産、名誉、君主、同僚。俺がかつて失ったもののほとんどが、形を変えてとはいえ、今この手にある」
 いつだったか、左僕射に語ったことがある。
 これ以上ないほどよくできた君主。同僚。自分を慕ってくれる部下達。地位、財産も、特別望んだわけではないが、それなりに。やりがいのある仕事。
「幸せすぎて、窒息しちまうよ」
 これ以上、望めば窒息してしまう。
 恐ろしさで、窒息してしまう。
「うん……幸せなのだろうな、と、思った」
 アズールは卓の上で手を組み、複雑な色を瞳に宿した。
「軽口をやりとりする君達は、とても幸せそうだった。あぁ、寄り添って生きているんだな、って、思ったよ。だから君達は、夫婦なんだと、勘違いした。謝るよ」
「謝罪は最初にしろ」
「うん。ごめん」
 アズールの謝罪を最後に、沈黙が降りる。しばらくの間、酒を口元に運ぶ音だけが部屋に響く全てとなった。杯が空になれば、傍に控える従者が静かに中身を注ぎ満たす。滑らかな金色に色付いた酒は音もなく、玻璃でできた杯の空虚を埋め、そしてイルバとアズールの胃の中に収まっていった。
「どうして結婚しなかったんだい?」
「友人だっつってっだろ」
「君たちは夫婦よりも夫婦らしく見えるけどね」
 軽口を言い合い、愚痴を零し、仕事の悩みを打ち明け、喜びを分け合い、笑いを共有し、時に酒を酌み交わす。
 確かに、その関係は夫婦以上に夫婦のようだ。自分達は就寝と仕事以外の時間ほとんどを共にしている。
「だからこそ」
 アズールは杯の中に揺れる波紋を見つめながら、言葉を吐いた。
「男女の関係に踏み出そうとすらしていないことに、違和感を覚える」
 まるで。
 恐れるように。
 アズールは囁くように尋ねてくる。
「ナスターシャ様たちに、遠慮している?」
「んなんじゃねぇ」
 ふいに出された、失った妻の名前に、イルバは眉間に皺を刻んで否定した。
「死者は何ものぞまねぇ。うらまねぇ」
「そうだね。君が新しい幸せに歩みだすことを、ナスターシャ様が喜ばないはずがない。なのに君は恐れている。君は幸せだという。けれど君が失ってしまった、最大のものを取り戻していないじゃないか」
 愛を。
 そして、家族を。
 帰る、場所を。
「それで君は、本当に幸せだといえるのかい?」
「幸せだ」
 断言する。
 幸福だ。
 これ以上、何も望まない。
 望ませないでくれ。
 イルバは瞼を閉じた。組んだ手を、口元に押し当てる。
 そしてふと、出立前に、エイの副官と交わした会話を思い出した。


「幸せを望んでいらっしゃるわけではないのでしょう?」
 出発の日の早朝だ。視察のためにロッセルマ地方へと赴き、宮城を留守にしているエイに手渡す報告書がある。それを引き取りにイルバの個室にやってきた左僕射の副官は、そのように言った。
「あぁ失礼いたしました。いえ。イルバ様とシノ様のお二人が、不幸だというわけではなくてですね」
「じゃぁどういう意味なんだ?」
 イルバは執務用の席についたまま、己の発言を後悔している様子の男を見上げた。
 柔らかい印象を与える淡い茶の髪に、墨色の目。緑の袍を身につけ、黒い帯を締めた文官である。年は壮年に差し掛かっているが、まとう温和な雰囲気のせいか、はたまた童顔というにふさわしい顔立ちのためか、まだ三十路に手が届くか届かないかに見えた。エイの部下には、このような男が多い。
 名を、ウル。元暗部出身の、非常に有能な内政官である。
 その彼が、どうして『イルバが幸せを望んでいない』などといったことを発言するに至ったのかといえば、イルバがそろそろシノとの仲を追求されることにうんざりしてきたと、愚痴たことが発端だった。
 自分が右僕射として着任して一年ほどは、露骨に探りを入れられたものだが、晩酌も五年続けば誰もそんなものかと納得して沈黙する。しかし今回の旅行の件は、彼らの好奇心というか野次馬根性に火をつけてしまったらしい。そもそも、公にしているはずではないのに、どこから情報は漏れていくのだろう――自分達の部下からであろうが。
 ややおいて、ウルは答えた。
「二人は幸せを望まれていますが、二人での幸せは望まれていないという意味です。妻を得て、子供を得て、命を、繋いでいく。そのような形の幸せを」
 ラルトや、ジン。そしてこの宮城に勤める、否、この国に生きる多くのもの達が、ごく当たり前に望む幸せの形。
 それを望んでいない。確かに、その通りだった。
「どうしてそう思う?」
 シノと恋人関係にないことに疑問を抱くものは多くいたが、そもそも何故、彼女を女として望まないのか、疑問を抱いたものは居ない。ましてやウルのように、回答に掠ったものは皆無だ。どうしてそのような結論に至ったのか、イルバは興味から質問を重ねた。
「厳密な理由は判りません。無論」
 ウルは人のよさそうな垂れ目を細めて、頬を掻いた。
「強いて理由をいうならば、私もそうだから、としか言えませんね」
「お前も?」
「えぇ」
 大きく頷く左僕射の副官を、イルバはやや驚きの目でもって見つめ返した。彼は既婚者だ。例え家族を得た経緯が宮廷人にありがちな政略的なものだとしても、彼が築いている家庭は、それなりに平穏を享受し、傍目に見て幸福と思えるものだからだった。
「今でこそ私も、女房という存在を得ているわけですが、私の最上の幸福は見守っていくことでした。いえ、今もそうなのでしょう。カンウ様とヒノト様が、閣下とシファカ様が、陛下とティアレ様が、その、周囲の方々が、幸せであるかどうか見つめ続けていくために、私はこの国の、この宮城に立っているのだと思います」
 ウルが、どんな経緯を経てこの国で働くことになったのかイルバは知らない。元は暗部の諜報方であるという彼が、人間というものに絶望したのは一度や二度ではないだろう。その彼に幸福であることを祈らせる人々が、この国には存在している。
「そして、イルバ様やシノ様も同じなのではないかと、思っております」
「お前は、俺達を怠惰だと思うか?」
 幸せに歩き出す人々の姿を見守ることが最上の幸せだ。
 それと同時に、自分達も彼らと同じ幸せを求めて歩かなければ、ならないのだろうか。ただ、見守ることだけを幸せと定めて、生きてはいけないのだろうか。
「いいえ」
 ウルは否定に首を振った。
「そんなことはありませんよ。私には恋愛感情というものがわかりません。私は男色ではありませんが、それでも女を愛するという感覚が判らない」
 その台詞を耳にして、イルバは少し笑ってしまった。彼の妻も同じことを口にしていたと、思い出したからだった。彼らは実に似たもの夫婦だ。
「だから私にはカンウ様たちが手に入れた幸福と同じものを得ることはできませんし、求めたいとも思わない」
 抑揚を抑えた真剣なウルの口調に、イルバは笑いを収める。
「何が最上の幸せであるかは結局自分が決めるところです。愛しい誰かを幾万の人々の中から探し出そうとすることのない私は、他人の目から見れば自分の幸福をないがしろにしているように見えるのかもしれない。妻と愛を築かない私を、他人は怠惰と見るのかもしれない。しかし私にとっては余計なお世話です。何が私にとっての幸福かは、私が決めます」
 決然とした口調だった。黙って彼の言葉に耳を傾けるこちらに、ウルは微笑に目を細めて続けた。
「他者にとっての幸福が、当人にとっては苦痛でしかないこともあるでしょう。ならば無理にその苦痛でしかない幸福を、追い求める必要はない」
 まるでこちらの心情を読み取ったかのような言葉だ。イルバは言葉を詰めながら、彼になんと言葉を返そうかと考えあぐねる。しかしイルバが思案している間に、ウルは淡々と言葉を続けた。
「たとえ、貴方様の慕わしい人々に、その生き方が歯痒く、痛々しく思われるものだとしても」
 彼らの目に、その生き方が、不幸にしか、映らなくとも。
「ですから他人がどうこう言うことは、気にされないほうが、よろしいかと」
 副官という役務を請け負う男らしい助言に、イルバは微笑んで礼を返したのだった。
「ありがとうよ」


「妻を得ろと命令されりゃするさ」
 以前、エイにも答えた。ラルトに命ぜられれば、仕事と割り切って妻を迎えることなど造作ない。それが政治家というものだ。自分には、骨の髄までこの生き方が染み付いている。
 だが。
「それでも、シノだけはご免だ。誰になんと言おうと、俺はあいつと結婚するつもりはねぇし、そもそも、俺の女にするつもりもねぇよ」
 彼女は自分に一番近いところにいる。だからこそ、手に入れようなどとは思わない。
 そしてそれは、彼女も同じなのだろう。
 最後の一線で自分を拒絶する女の背中が、杯の中で波紋を描く酒の中に浮かぶ。イルバはその陶器を取り上げ、中身を飲み干し、静かに告げた。
「俺はあいつと一線を越えるつもりはねぇ。その行く末が、あまりにも不幸だとわかっているからだ。……他者の目に幸福として映るより、俺達は俺達なりの形で幸せを選ぶさ」
 蝋燭の明かりに照らされたアズールの表情は、どこか痛ましげなものだった。イルバは嗤いたくなる。不幸でないと告げているのに、何故そのような目でこちらを見るのだろう。
「……何故、彼女を連れてきたんだい?」
 アズールは、眉根にきつく皺を刻んだ。彼のほうこそが、痛みを堪えているような様相だ。
「何故、彼女を連れてきたんだい、イルバ? 彼女を連れてくる必要など、どこにもなかったはずだよ」
「意味はある」
 空になった器を見つめたまま、イルバは言った。ごく普通に答えたつもりだったのに、自分でも驚くほど強張り擦れた声音だった。
「あいつを、連れてきたのは、わすれねぇためだ」
「忘れないため?」
「そう」
 アズールの、鸚鵡返しの問いに頷いて、イルバは続けた。
「俺には、まだ、生きる理由ややるべきことがある。……それを、忘れねぇ、ためだ」
 まだ、大丈夫だ。
 まだ、生きる理由がある。
 そう思えている間は、呼吸ができる。
 立ち止まらなくていいのだ。
「僕が君に、手紙を出したのは、それが君を解放するからだろうと思ったからだ」
 卓の上で組んだ手に視線を落として、アズールが切り出す。彼のいう手紙とは、定期的に近況を交わすためのそれではない。
 あの、蝋で封のされた一通の書簡のことだ。
「君はいつだって自由が好きだった。何かに縛られることを厭っていた。君はもっともっと、強いのだと、勝手に思っていた」
 でも違うんだね、と、アズールは哀しげに笑った。
「君はもう、こちらに戻ってこない。君はもう、君を縛る代わりのものを見つけてしまった」
 アズールは淡々と言葉を紡いだ。こちらのことを惜しんでくれる声音。申し訳ないと思っているのだ。彼の好意に甘えている。その恩義に報いるために、本当ならば、水の土地を辞去してこちらに戻ってくるべきだった。
 けれど、自分はその道を選ばない。
 選ぶことは、できない。
「君はシノさんを女として手に入れるつもりはないのだという。その境界を、踏み越えるつもりはないのだという。愛しているわけでは、ないのだという」
 身体に入れた酒が睡魔を呼び起こしていた。友人の静かな声は、子守唄のようだ。
「それでも彼女は君にとって、あの国に君が残る意味なんだろう」
 目を閉じる。彼の悲しげな表情をこれ以上目に入れぬために。
「それは、愛と呼ぶのではないだろうか」
 あるいは、彼の言葉を、拒絶するために。


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