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番外 いつか全てが終わるとき 4


 海に連れて行ってほしいと、女は言った。
 あれは自分が右僕射の任についた日の夜のことだ。
 その日、初めて自分たちは夜に酒を酌み交わした。招力石の明かりが、酒の肴と質のよい吟醸酒が並べられた卓を照らし出していた。
 奇妙な懇願だとは思った。この都自体が海に面している。この都に暮らしていること自体、海と共に生きているようなものだ。
 瀟洒な杯に酒を注ぎいれながら、女は笑って続けた。
 今でなくていい。
 いつか。
 いつか、自分が連れて行ってほしいと、言ったときに。
 どこか、遠くの海へ。


「いってらっしゃいませ!!!」
 仕事の合間をぬって見送りにきた、部下の女官たちとキリコに、シノは手を振り返した。太陽の光に照らされて、キリコの眼鏡にはめ込まれた玻璃が光り、その奥を覗くことはできない。眼鏡というものは便利だ、とシノは思った。赤く泣き腫らした彼女の瞼を案じながら。
 雨季であるにも関らず、その日は初夏を思わせる快晴だった。そしてそれは、海上の旅の最中、ずっと続いた。
 東大陸を出立し、無補給船に乗って海上を進むこと数日。無事、諸島連国のマナメラネア本島に到着する。港には、迎えが来ていた。シノも知っている男だった。
「やぁやぁご両人! お久しぶり!」
 侍従を引き連れ、軽く手を上げて歩み寄ってきた男は、アズール・イオ。この諸島連国の中枢、中央議会に所属する議員の一人だ。イルバの、かつての同僚である。
「わざわざわりぃな。出迎えありがとうよ」
 久方ぶりに会う友人に対して、たいした感慨も見せずにイルバは言う。ただ、表情は幾分か柔らかかった。懐かしそうに細められた彼の目を、シノは見上げた。
「いいよ。このために今日は非番にしたんだから。それにご婦人を歩かせるわけにもいかないだろうしね。お久しぶりです、フィルさん。……えぇっと、本名、違ったんでしたっけ?」
 挨拶の握手を求めてくる男の手を握り返しながら、シノは苦笑した。かつて愛した男の愛称は、この土地での自分の名前であったのだ。
「はい。改めまして、シノ・テウインと申します」
「どちらで呼ばれたほうが楽ですか?」
「どちらでも」
 突然呼び名を変えるとなっては、彼らにしてみれば戸惑うだけだろう。呼びやすいほうを選んでくれて構わない。そう思ってシノが口にした申し出は、思いがけず、イルバによって却下された。
「シノって呼んでやれ」
 荷物をアズールの侍従に手渡しながら、彼は口を挟んだ。
「俺もそう呼んでる。いまさらフィルなんて呼んだら、混乱しちまうだろ」
 誰が、どんな風に、混乱するのか。
 イルバは詳しく言及しない。しかしシノはそこに彼の優しさを感じた。イルバという男は、もってまわった形で 優しさを表現する。例えば、今がそうだ。記憶が戻っている今、失ってしまった婚約者の愛称で呼ばれるなど、シノにとっては皮肉以外の何でもない。それを、彼はやんわりと防いでくれたのだ。
「それじゃぁいこうか。あちらに馬車を停めてあるからね」
 そういって先行くアズールの背を見つめながら、シノは傍らのイルバに謝辞を述べた。
「ありがとうございます」
 イルバは首をかしげる。
「何の話だよ?」
 シノは微笑んだ。
「さぁ、何の話かしら」


 予定よりも長い休暇を頂戴したため、諸島連国滞在初日は、アズールの屋敷に厄介になることにした。屋敷に向かいがてら、馬車は観光をかねて街を回った。久方ぶりに戻ってきたというのに、一向に変わった様子を見せない土地がここ、諸島連国だ。海に囲まれた島国の時間は、他国と隔てられてゆっくりと流れている。
「ほんっとうに、ここは何もかわりませんのねぇ!」
 感嘆、というよりも、どこか呆れにも似た声音でシノが呻く。最後にこの土地に足を踏み入れたのはもう何年も前のことなのに、建物も人々の足取りも彼らの表情の明るさも寸分変わりがない。ただ、少年だった露天商が青年となり、公園に常に腰掛けていた老婆が姿を消し、若い男女が子を得ている。それだけだった。
 諸島連国が建国されたのは五百年ほど前の話だが、それからこの国は中立国として、火山の天災に時折見舞われる以外は平和を謳歌し続けている。かといって政治が腐敗することもなけれれば、劇的な改革が行われて領土拡大が為されたわけでもない。唯一の例外はバヌアだが、それを除けば後進もなく前進もなく、ただ、時を重ねている。
 それゆえに、この国に取り込まれたバヌアにも、なんら変化が訪れないのだろう。
「ここまで何も変化がないと、過去に戻ってきてしまったのではないかしらと錯覚してしまうわ」
 頬に手を当て、神妙な面持ちで呻く彼女を、イルバは思わずからかった。
「その錯覚から醒める方法教えてやろうか? 手鏡を覗き込めば否応がなしに時が流れてるって痛感させられるぜ」
「やめてください」
 げんなりとした面持ちでシノが嘆息を零した。
「自分がそんな年だということは当の昔に自覚しております。ティアレ様やシファカ様が出産されたときも、甥姪ができたというよりも、何か孫を得たような気分になって複雑だったのですから」
「がははは! そりゃいいな。白状すると俺もそんな感じだったけどよ」
「ひ孫を得たような感覚ですか?」
「いや、そこまで俺年食ってねぇって」
 とはいいつつも、実際、ひ孫を得ていてもおかしくはない年齢だ。水の帝国における自分の周囲は揃って晩婚。出産も遅いので、それが当然のように思えてくるが、市井に下りれば皆十代半ばで子を得、三十後半には孫を得る。自分のような、四十後半ともなればいわずもがな、である。
「休暇に入られると、ご自分の身なりに無頓着が過ぎるのは、本当にご隠居された老耶のようですけれどもね。イルバさん、少しこちらに寄ってください」
「あ?」
 言われるがまま、向かいに腰掛けるシノのほうに身体を少し寄せる。前のめりのような体勢になったところで、シノの両手が伸びてきた。白い手が、イルバの緩んでいた襟元を慣れた手つきで正していく。仕上げに軽くこちらの胸を叩いて、シノは背筋を正した。
「だらけすぎはよくありません」
「お前、細かい」
「最低限の身だしなみです」
「年食って口五月蝿さに磨きがかかったってラルト達にいわれねぇか?」
「年を得てぼけるよりはよくありませんこと?」
「悪かったな。よくすっとぼけててよ」
 シノの糾弾を、よく自分は呆けを装って故意に流すことがある。それは単なる軽口の応酬に過ぎないので、悪感情を抱いているわけではない。ただ、こうやって時折足をすくわれる。
 窓枠に頬杖を付きながら、イルバは向かい合う女を見つめた。仕事中は常にひっ詰められている長い黒髪は、今は解かれて背に落ちている。口元は微笑を湛え、目じりは緩んで下がっていた。そこに刻まれる細かな皺。世話をする上で人に触れることを考慮して、常に気を払われた、膝の上で組み合わされる滑らかな白い手。
 窓から差し込む光に照らされた女の輪郭は、年を重ねても、崩れるということがない。いつしか、黒髪から色が消え、皺の数がもっと増えていっても、この女は優雅な気品と相手を安堵させる柔和さを纏ったままだろう。
「まぁ、お前は年食っても綺麗なまんまだ。安心しろ」
「あら、ありがとうございます」
 女は面映そうに目を細めた。
「イルバさんも、初めて出会ったときより若々しく素敵に見えますわよ。あの時は本当に、お年を聞いたとき耳を疑いましたもの」
「お前、持ち上げるか貶めるかどっちかにしろよ」
 半眼で睨み付けると、シノは口元に手を当てて忍び笑いを漏らし始めた。過去のことを回想しているのかも知れない。瞳に宿る色は、懐古だった。そういえば、確かに彼女は、初めてこちらの年齢を耳にしたとき、派手に驚いていた。自分はそこまで、老いて見えたのだろうか。
「あのーもしもし?」
「あん?」
「はい」
 不意に、傍らに腰を下ろしていたアズールがイルバの眼前でひらりと手を振った。呼びかけに応じ、イルバはシノと揃って顔をそちらへと向ける。二人の視線が同時に注がれたアズールは、手を宙に浮かせたまま苦笑してみせた。
「お願いだから、僕を無視しないで」
「あぁ? 何いってんだお前」
 意味の判らぬ彼の言葉に、イルバは眉間に皺を刻む。
「俺がいつお前を無視したよ?」
「イルバさん、きっと会話に混ぜてほしいのですよ」
「あぁ、そういうことな」
「いや。うん。別に、会話に混ぜてほしいとかそういうのではあったりなかったり」
 妙に歯切れの悪い友人に、イルバは顔を突き出して凄む。
「どっちだ?」
 結局、何でもないよと肩をすくめた友人は、怪訝さにシノと顔を見合わせるこちらの横で、盛大に嘆息してみせたのだった。


 彼のため息の理由は、屋敷に到着し、寝室に引き上げようとして早々明らかになった。
「あれ? 熟年夫婦もびっくりの掛け合いに、思わず独り身として嫉妬のため息ついたのに、結婚してなかったの?」
「してねぇよ!」
 アズールの問いに、イルバは即答した。その襟首をひっつかみ、満面の笑みを浮かべてイルバは友人を詰問する。
「俺が、いつ、なんとき、どこで、どんなふうに、お前に、結婚したって報告したよ」
 彼はあは、と乾いた笑いを浮かべて呻いた。
「連絡、来てないだけかと」
「あほか!」
 アズールの耳元に怒声を叩きつけ、イルバは乱暴に彼の襟首を解放した。腰に手を当て、ため息をつく。
 夕食は外でとった。屋敷に到着したのは、夜更けというにはまだ早く、かといって夕刻は当の昔に過ぎている。そんな時刻だった。明日はポリーア島に向けて出発する。朝も早いということで、寝室に引き上げようとした矢先、その用意されている客室が、一部屋しかないことに気づかされたのだ。
 水の帝国で散々共にいるところを見ている宮城の人間たちならばまだいい。数年間会っていなかった人物にまで、勘違いされるとは。
 頭痛を覚えながら、イルバは傍らで事の次第をのほほんと見守っているシノに指示を出した。
「シノ、とりあえずお前がこの部屋入って先に寝ろ。俺は別の客室の用意が終わるまで待つから」
「よろしいのですか? イルバさんも疲れているでしょう」
「かまやしねぇよ。寝ろ寝ろ。明日は早いんだからよ」
「そうですか」
 判りました、とシノは頷き、寝室に足を踏み入れた。待つことしばし、シノはイルバの荷物をその細腕に抱えて駆け寄ってきた。重量のある鞄のはずだ。傍に控えていたアズールの従者が、慌ててそれを引き取る。
「申し訳ございません」
「いいえ。大丈夫。結構力持ちですのよ、私」
 荷物を引き取りながら申し訳なさそうに頭を垂れる従者に、シノは微笑んでみせる。彼女は嘘をついていない。女官の仕事は、存外、力を要求されるものばかりだからだ。
「それでは皆さん、おやすみなさいませ」
 そういって女は礼を取り、ゆっくりと寝室の扉を閉める。目の合った女に笑みで就寝の挨拶を返すと、イルバはさて、とアズールに向き直った。
「上等の酒を出せ。怒るぞ」
 アズールは肩をすくめ、項垂れた。
「もう、怒ってるじゃないか、イルバ」


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