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番外 いつか全てが終わるとき 3


『望んでないんだろ?』
 彼と酒を酌み交わすことはすでに日課に近くなっている。その際に交わした話の内容がいつのものであったのかなど、正確には覚えていない。
 ただ、その日はとても寒い日だったことを覚えている。仕事も多かった。疲労した身体を引きずって歩いて、右僕射の書斎へと向かった。右僕射は権力者四人が集う執務室から書斎に戻ったばかりだったらしく、整理も為されずに部屋のあちこちに書類が放り投げられていて。当の本人は翌日の仕事に使う資料を本棚から探している最中だった。
『安心しろ』
 ようやっと見つけたらしい資料を捲る彼を、ぼんやりと眺めていた。温めた古酒で杯を満たし、その熱で手を温めながら。
『俺も同じだ』
 資料に視線を落としたまま、右僕射が浮かべたのは自嘲の笑みだった。
 しかし自分は安堵に微笑んだ。
 自分はこのまま、彼の傍にあることを、自分に許せる。ようやっと、呼吸ができる。
 そう思った、からだった。


 シノはイルバの個室に向けて歩いていた。傍目から見れば、かなりの早足であっただろう。苛立っているとすら見えたかもしれない。実際のところ、少し腹を立てていた。
(帰省に付き合うのはいいのだけれど)
 シノは嘆息しながら胸中で呻いた。
(予定は早めに教えてもらわなくては困るわ)
 何も忙しいのは右僕射だけではない。シノにも立場と都合というものがある。ほぼ一月近い休暇を取ろうと思うのなら、かなり早めに計画を立てなければ予定が組みあがってしまう。
 近頃イルバは多忙らしく、シノは彼の晩酌に付き合っていなかった。今日も執務室のほうに足を伸ばしたのだが、どうも入れ違いだったらしい。その場にいた宰相に、個室のほうへ向かったことを聞かされたのだ。
 雑然とした執務棟の一角、イルバの部屋の前に立って扉を叩いた。
「はぁい!」
 扉越しの返事は、男のものではない。しかし、聞きなれた声だ。
「失礼いたします。……キリコ?」
「あ、シノ様! どうもどうも!」
 部屋に足を踏み入れると、本棚の前で背筋を正し、伸ばした手を額に当てて、若い女が敬礼してくる。紅で刺繍の入った山吹色の袍に黒い帯を締めた文官だ。一筋だけ赤く染めた黒髪を耳の横で切り揃え、厚い眼鏡を掛けている。年は二十代半ばのはずだが、仕草の一つ一つが子供っぽく大仰で、その上表情がくるくるとよく移り変わるものだから、更に幼く見えた。
 キリコ・ミラー。左右の冢宰おして有能と言わしめる、イルバの副官が彼女である。
「久しぶりですね、キリコ。外交に出ていたのよね?」
「はいぃ! お久しぶりです!」
 シノの言葉に、キリコはこちらに駆け寄ってきながら応じた。飛び跳ねながら、といったほうが正しい表現かもしれないが。
「メルゼバに行ってました! 戻ってきたのは今朝でっす!」
「お疲れ様です」
「ありがとうございますっ」
 えへへ、と幼く笑う文官を、シノは微笑ましく思って眺めた。当初キリコが宮廷に入ったのは女官としてで、直属ではないにしろ、かつてはシノの部下の一人だった。しかし女官としてあまりにも向いていないように思われて、文官に転向させたのだ。結果を見る限り、シノの見る目は確かだったようである。イルバの部下として働く彼女は、とても生き生きしてみえた。
「イルバ様に御用事ですか?」
「そうなの」
 眼鏡の奥で大きな目を瞬かせるキリコに、シノは頷いた。
「閣下にこちらだと伺ったのですけれど」
「あぁ、それは入れ違いでしたねぇシノ様。イルバ様、つい先ほど下官に呼ばれて出て行かれたばっかりです。多分戻られるのは一刻過ぎると思いますよ」
「……そうなの? 困ったわ」
「どんな御用事ですか? もしよければアタシ、伝言承りますよ?」
「そう、ですね」
 シノはキリコの申し出を、ありがたく頂戴することにした。自分よりも彼女のほうが、イルバに確実に接触するだろうからだ。伝言さえ受け取れば、彼もまたこちらに連絡を寄越してくるだろう。
「じゃぁお願いしてもいいかしら。一体いつ、日程は教えていただけるのかしらと、伝えて頂戴。急いでいるの」
「日程?」
 シノの言葉を鸚鵡返しに口にしたキリコは、思い当たるところがあったのか、口元を手で覆って声を上げた。
「あ、もしかして、今度のお休みの?」
「えぇ。イルバさんから聞かれました?」
「はい、聞いてます! その予定ならアタシわかりますよぉ。 ちょっと待ってください! 書き付けましょう!」
 キリコはイルバの執務机の傍に引き返すと、書類が散乱した机の上から、彼女のものらしき本数冊を取り上げた。その中から薄い紙片と筆記具を取り出す。シノは慌てて彼女をやんわりと制止した。
「その必要はないですよ。口頭で教えてくだされば」
「ほえ? いいんですか?」
「えぇ。覚えられます」
 キリコは大きく頷いて、滑らかな口調でイルバの予定を諳んじた。シノは満足に頷く。予想通り、雨季の初めから終わりごろまでの日程を彼は空けているらしい。
「判りました。ではこの日程を私も空けておくと、イルバさんに伝えていただけるかしら?」
「任されました! 了解でっす!」
 快く伝言を受け取るキリコに、シノは微笑んだ。ここで彼女に会えてよかったと思う。これで部下たちと予定の相談をすることができるからだ。
「それでは」
 失礼する、と、退室の挨拶を口に仕掛けたシノを、キリコが手を伸ばして引き止めた。
「あ、あのですね、シノ様」
「……はい?」
「イルバ様を、怒らないであげてくださいね。予定、組みあがったの今朝なんです。シノ様に迷惑かけるって、朝もそれはもう気にかけてらっしゃったんですよ」
「あぁ、そうなの? でも、それならそれで、日程を組むのが遅れていると遣いがほしかったわ」
「う……本当ですよね。我が上官ながらなんて気の回らない……」
「この苦言は、伝えなくてもいいですよ。あの人が、この頃目の回る忙しさだということは、判っていますから」
「あの方、面倒面倒っていいながら、結局お休みとられないんですよね。もう少し余裕を持たれないと、シノ様に愛想尽かされちゃいますよっていっておこ!」
 腕を組みながらうーんと唸る女に、シノは苦笑する。
「結局、政治馬鹿なのですよ。あの人も」
「なんだかんだいって、お仕事大好きな方なんですよねぇ」
 皇帝と宰相、そして二人の冢宰。国の頂点に座する男達四人は、最高の権力を持ちながら、それを用いて何かに興じるといったことは皆無に等しい。道楽の時間全てを削り取って、彼らはあちこちを駆け回り、時に書類に埋もれて仕事する。政治馬鹿の集団だ。
「今度のお休み、イルバ様が休まれるように、しぃっかり見張っていてくださいね! シノ様」
「判りました」
 キリコの依頼を笑いながら請け負う。その一方で、胸中はひどく冷静だった。
口に出さずに自問する。
 果たして、そんな風に、ゆったりとした旅になるのだろうか。
「ねぇシノ様」
 小鳥のように首をかしげてみせる女に、シノは微笑んで応じる。
「なんですか?」
 キリコは、躊躇いを見せながら口を開いた。
「……シノ様は、どうしてイルバ様の帰省に、お付き合いしようと思われたんですか?」
「……どうして、って?」
 扉のほうへ傾けていた身体を、キリコの方へと向きなおさせる。右僕射の副官は、上目遣いにシノを見上げながら、だって、と続けた。
「シノ様とイルバ様って、お付き合いはされていないでしょう? わざわざイルバ様の帰省に、どうして付いていかれようと思われたのですか?」
 キリコの質問は至極真っ当なものだった。シノの周囲誰もが、イルバとの仲を勘ぐるような質問を口にしてくるが、確かに他者が最初に疑問に思うべきところはそこだろう。いままで誰も、尋ねてこなかったが。
(どうしてかしら)
 自分でも、わからない。
 ただ、付いていかなければ、と思ったのだ。
 彼が望む望まずに関らず、付いていかなければ、と。
「ごめんなさいシノ様。困らせるつもりはなかったんです」
 答えに窮しているこちらに、キリコは笑った。
「ただ……こんなこと、いうの、おかしいかもしれないんですけれど。シノ様とイルバ様が、かけおちするんじゃないかって」
「か、かけおち?」
 思いがけない言葉に、シノは驚きつつも笑った。この年齢の男女に、駆け落ちなどという言葉はあまりにも似合わないと思ったし、どうやったらそんな発想が出てくるのか、おかしくてならなかったのだ。
 しかしシノは、部屋に響いた震える声音に、眉をひそめた。
「おかしかったですか?」
「……キリコ?」
 部屋の中央に佇む彼女は、白い手で衣服の裾を握り締めている。眼鏡の奥に潜む双眸は暗い。こちらを見据えてくる彼女の目は、真剣そのものだった。
「シノ様、でも、アタシ不安なんです。イルバ様、どこかへ消えられてしまうんじゃないかって。時々、ふっと、イルバ様、遠い目をされるから。迷子みたいな目をされるから」
 キリコの訴えがわからぬわけではない。確かに彼の目は、時折現世から離れて遠いどこかを見つめている。何も宿さぬ虚ろな眼差しが、夜、杯に映る様を、シノは幾度も目にした。
 居場所を失って、途方に暮れている目を、する。
「ですけれどね、シノ様」
 キリコの呼びかけに、シノは我に返った。
「シノ様がいらっしゃるとき、あの方は、しっかりと地に足のついた、穏やかな顔をされるんですよ。ほっとした顔をされるんです。家に帰ってきた、みたいな、お顔です」
「キリコ」
 そのようなことはない。自分の前でも、あの男は途方に暮れた目をする。
 シノが口を挟む前に、キリコは続けた。
「こんなことを言われてご迷惑かもしれないけれど、でもアタシ、思うんです。シノ様は、イルバ様にとって、おうちみたいなものなのかしらって」
 そんな、ものではない。
 自分たちの関係は、決して安寧を互いに求めたものではない。決して、愛情を育むものではない。
 もっともっと。
 堕落した、何かだ。
「アタシ、愛とかそういうのって、よく判らないんですよ。恋愛する前に結婚しちゃったし、ダンナもアレですし」
 昨年末に夫として迎えた男を、満面の笑顔でアレ呼ばわりし、キリコは肩をすくめる。
「なので、イルバ様とシノ様が、愛し合っていらっしゃらないと仰るなら、そっかぁとしかいいようがないです。でも、イルバ様にとって、シノ様は、この国で生きるために、なくてはならない存在だと、アタシは思うから」
 だから、と、表情を消して、キリコは言う。
「シノ様をお連れになられたら、イルバ様、この国から、糸の切れた凧みたいに、どこかへ飛んでいってしまうんじゃないかって。もう、戻ってこられないんじゃないかって。それを、承知で、シノ様はもしかして、イルバ様に付いていかれることを決めたんじゃないかって。……アタシ、不安なんです」
「……そんなこと、ないわ」
 シノはキリコに歩み寄り、華奢な肩を撫でた。気丈な眼差しを向けてくる女の肩は、傍目に見てそうとは判らぬほどに震えていた。
「ねぇキリコ。イルバさんは、この休暇の理由を、陛下にこのように申請したそうよ。『諸島連国の様子を、見に行きたい』」
 こちらが何を話そうとしているのか、理解しかねたのだろう。キリコは怪訝そうな目をシノに向けた。
「イルバさんは、あちらに『帰省』すると、おっしゃらなかったの。もう、こちらがあの人の国なのよ。判るでしょう?」
 そのように告げて励ましながらも、シノは自らの言葉に違和感を覚えていた。キリコの危惧のほうが、むしろしっくりと来る。
 そう、あの人は、消えそうだった。
 だからこそ、自分は付いていくことを決めたのではないだろうか。
 もう、あの男の隣でないと、うまく呼吸ができないから。
「イルバ様、ちゃんと帰ってこられますよね。どこかへ消えてしまわれませんね。シノ様は、ちゃんとイルバ様を連れて帰ってくださいますね?」
「もちろんですよ」
 即座にシノが請け負うと、ようやっとキリコは笑った。彼女こそ、親に置き去りにされて迷子になることを恐れる子供のようだ。
 よしよしとキリコの頭を撫でながら、シノはふと、思った。
 イルバを連れ帰ってくるつもりではある。無論。
 それでももし彼が、そのままあちらに居を移し、自分を望むのなら。
 もう自分は、拒むことはできぬだろうと。
 そう思った。
 たとえ自分たちの間に横たわるものが、愛ではないとしても。


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