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番外 いつか全てが終わるとき 2


『前略。君の噂はよく耳にしているよ。元気そうで何よりだ。君の噂が僕らのところに届けば届くほど、みんなが怒るんだけどね。いつも同じことを書くなって? これも挨拶のうちの一つさ』
 古い友人からの手紙は、いつも同じくだりで始まる。そこから、かつての同僚の話や、祖国だった島の現状について簡単に触れ、締めくくられる。しかし、最後に届いたこの手紙に綴られていた内容は、いつもと少し異なっていた。
『そう。君には一つ報告がある――……』
 こんこんこんこん
「はいよ」
「失礼いたします」
 扉を叩く音を耳にした身体は即座、手にしていた手紙を乱暴に机の中に放り込んだ。引き出しを閉じると同時に返事をすれば、開いた扉から丁寧な断りの文句と共に、見知った男が一人部屋へと足を踏み入れてくる。
「エイ」
 呼びかけに、男はにこりと微笑んだ。
「イルバさん、今お時間よろしいですか?」
「いいぜ。そっち座れ。茶でいいか?」
「お構いなく」
 イルバが顎で応接の長椅子を示すと、男は小さく頷いてそちらへと歩き出した。勝手知ったる、ということである。彼もこの部屋と同じ間取りの個室を、この宮城に持っているし、互いの部屋を頻繁に行き来するからだった。
 長椅子にくつろいだ様子で腰を下ろしたのは、年の頃三十、黒髪黒目の、温和さを滲ませる男である。端整な顔立ちをしているが、はっと目を引くような男ではない。しかしそこにいるという、静かな存在感を纏う男だった。その出自や表面上の温和さから彼を侮ったものは、ことごとく痛い目を見ている。
 この国で第三位の権威を持つ冢宰<左僕射>、エイ・カンウが、彼である。
「陛下から伺いました。休暇の件でお話を、と思いまして」
「あぁ、わざわざ来てくれたのか。ありがとうよ。迷惑かける」
「いいえ。お互い様ですよ。こういったことは、早いほうがいいはずですから」
 イルバはエイの向かいの長椅子に腰を下ろすと、盆ごと茶道具を円卓の上に置いた。水と茶葉と招力石を、まとめて急須の中に放り込む。シノに言わせればその淹れ方は実に横着で邪道だそうだが、もてなされる側は誰も文句を言わないので、そのままのやり方で通している。
「ずいぶん長い間、諸島連国には戻られてなかったのではないですか?」
 エイの問いに、イルバは頷いた。
「そうだなぁ。最後に戻ったのは、右僕射になる直前ぐらいだから……何年だ。今年で六年ぐらいか?」
「それぐらいです。早いですねぇ」
 しみじみと呟くエイに、胸中で同意する。そう。もう五年の月日が流れて、六年目に入ってしまったのだ。あっという間だった。同じぐらいの年月を諸島連国の無人島の庵で暮らしていたときには、一日一日がひどく長かったというのに。
「誰かが夢枕に立ちましたか?」
「あん?」
「急に、帰省したいなどと、おっしゃられた理由です」
 急須の中の様子を窺いながら、イルバはエイを見やる。彼は膝の上で手を組んで微笑んでいる。問いには何か意味があるのか。ないのか。彼の微笑の裏を読み取ることは、イルバでも難しい。
 ただ、いつだったか、故人が夢枕に立ったのだ、と言って、彼も唐突に故郷に帰省したことがあった。普段、休暇をとってまで帰省するような男ではないのに。
 そういった経験を踏まえて、その問いは彼の口から吐かれたのだろう。
「別に、ナスターシャだとかが夢に出てきたわけじゃねぇよ」
 急須を取り上げ、湯のみに緑茶を注ぎながらイルバはかつて失った妻の名前を口にした。
「一度、戻ってあっちがどんな風になってっか見てみたいと思ってはいたんだが、今まではそんな余裕もなかった。けど、周囲も落ちついてきたし、頃合がいいか、と思ってよ」
「なるほど」
「ほれ」
「あ。ありがとうございます」
 イルバから茶を受け取って、エイは破顔する。笑うと、年下の同僚は幼く見えた。年の差は十八歳。息子ほど違う、といってもいいかもしれない。失った娘が生きていれば、この男と非常に近い年なのだと、いまさら気づく。なんだか、妙な気分だった。
「今年か来年か。今行っとかねぇと、機会を逃しそうだと思ってなぁ。突然、キリコに子供ができちまったらそれこそ具合が悪くなるし」
「あぁ、そうですね」
 エイが、こちらの言葉に同意を示した。
 イルバの副官であるキリコ・ミラーが結婚したのは去年の暮れだった。上官の自分がいうのもなんだが、奇人変人で男の気配など欠片もない彼女が結婚した理由は、単純に政略だったからに他ならない。
 とはいえ。
「今はまだのようですが。なんだかんだで上手くいってるみたいですからねぇ」
 キリコの相手を思い浮かべて、エイが微笑ましく呟く通り、彼女の生活は政略結婚のわりに幸福なようである。犬も食わない夫婦喧嘩が日常茶飯事で、イルバ自身もほぼ毎日、彼女の夫の愚痴について聞かされてはいるけれども。
「お前んとこはまだか?」
「は? ……あぁ。えぇ、多分」
 そこで照れるな、と突っ込みたい気分を抑えて、イルバは苦笑するエイを見やった。まったく、仕事中の彼と私生活における彼の性格には、いろいろと差がありすぎる気がする。
「ヒノトには仕事がありますからね。そのあたりは彼女に任せてあります」
「なるほどなぁ」
 エイは恋人である娘と正式に籍を入れてはいない。入れるつもりはあるのだろうが、一時保留となっている。入れると、貴族の付き合いなどが付随してくるからだ。そうなると彼女が医者としての仕事を宮廷の外で続けていくことが難しくなる。それを、エイは好まなかった。紙切れ一枚が非常に重要なのが、この世界だ。
 とはいっても、彼らの仲は円満な夫婦そのもので――実際自分たちは彼らを、夫婦として扱っている――時折屋敷に邪魔するイルバ自身、その場から逃げたくなることすらある。子供もそう遠い未来のことではあるまい。
「イルバさんは、もうご結婚などなされないのですか?」
「しねぇなぁ。ラルトがしろって命令すりゃするけど」
 イルバは自分に茶を淹れながら答えた。エイが、苦笑する。
「シノ様とも?」
「お前な」
 イルバは、持ち上げかけた湯のみを円卓の上に置きなおした。
「お前までそんなこというのかよ。俺とシノはそういうんじゃねぇって」
「えぇ。知っていますよ」
 湯のみに口をつけながら、エイは言う。
「ですから、本当のところはどうなんですか、などと、私は一度も尋ねた覚えはありませんが」
「……そういや、そうだな」
 確かに彼の言うとおり、思い返す限り、彼が自分に女官長との仲に探りをいれてきたことは一度もない。周囲の人間が要らぬ噂を口にし、皇帝と宰相ですら、それとなく探りを入れてくるにも関らずだ。
「ですけれど、結婚してしまえば楽ではないですか? いらぬ詮索の目くらましになります。閨の中まで皆は覗くわけではない。真実は、誰にもわからぬのですから」
 のほほんと茶をすする同僚に、イルバは呆れた視線を投げた。こんな突拍子もないことを口にするから、左僕射は侮れないのだ。
「晩酌にしたって、同じ屋敷に住んでしまえば、移動の距離が少なくて楽だと思うのですけれど」
 いけしゃぁしゃぁとそんなことを提案してくるエイに、なんと言うべきか。イルバは紡ぐべき言葉を失った。
「あの、なぁ……」
「早くにそうしてしまえば、帰省の旅に、女官長をお連れする理由を考える手間が、省けたに違いないと、私は思うのですけれどもね」
 今度こそ、絶句する。
 同僚は実に旨そうに茶で喉を潤して、湯のみから離した唇を、嫣然とした笑みに彩って見せた。
「というわけで、わざわざシノ様をお連れする理由を、伺っても?」
「……えーっと」
「適当な理由でいいです。周囲に突っ込まれたときの、予行演習だとでも思ってくだされば。私自身は、気にしていませんので」
「誰が気にしてるんだ?」
「皇后陛下と宰相夫人。ヒノト経由で探りをいれてこいと命ぜられましたよ」
「正直な回答をありがとうよ」
 やれやれ、と嘆息しながらイルバは呻いた。予想していた回答ではあったが。
「陛下と閣下が、イルバさんたちの関係を勘ぐるのも、つまるところはシノ様が不幸にならないかどうか、気になるからでしょう」
 イルバに同情の余地すら見せて、エイは微笑む。
「あの方々にとって、シノ様は姉同然ですからね」
 だからシノが一人の男に弄ばれて不幸になることを、許せないのだ。端的に言えば、そういうことだと、イルバは思っている。皇帝や宰相は、決して自分とシノの関係がそういったものではないということを、知っているだろうけれども。
 彼女が幸福であってほしいという祈りからの行動だということは、とてもよく判るのだ。
「……どういう理由がいいんだろうな。なんか提案あるか?」
「シノ様が記憶喪失になってあちらにいる間に、イルバさんのご友人とも親しくなられたのでしたよね? その友人の方々が、シノ様に会いたがって圧力をかけてきた、ということにしておいてはいかがです?」
「あ。そりゃいいな。そうしておこう」
「では、そのようにヒノトに伝えますので。あとは彼女がいい具合に、ティアレ様たちをとりなしてくれますよ」
「ありがとうよ。ヒノトに今度なんか美味いもんでも持ってくって伝えてくれ」
「この間戴いた焼き菓子がまた食べたいって言ってました」
「……わかった。持ってく」
 本当に、油断のならない夫婦だ。普段は漫才のようだとか思うのに、夫婦揃って頭の回転が速く立ち回りが上手いものだから、侮れないことこの上ない。味方につければありがたいが、敵には決して回したくないと、イルバは心底思った。
 ひとまず、茶を飲みながら互いの予定と管轄を確認していく。イルバが留守の間に、仕事を進めていくのはイルバの副官を筆頭とした部下達だ。しかしいざというときのために、総括してみていく管理者が必要となる。
 イルバの仕事の大半を引き継ぐのは同じ外政を担当する宰相であるが、内政と管轄が被っていれば、エイも引き継げる。互いが長期の休暇を取る場合は、そうやって担当を振り分けていた。
「はー助かったぜ」
 あらかた相談が終わり、イルバは長椅子の背にもたれかかった。エイの予定が存外空いていて助かった。これで心置きなく、休暇を取ることができる。
「私今から執務室に戻りますし、これで陛下にも通しておきますので。後でまた陛下と閣下を交えて話し合いましょう」
 エイが書類を卓の上で揃えながら言った。イルバは頷く。
「そうだな。時間はいつ空いてる?」
「私今日の夜は会議なので。明日の午前は空いてます?」
「あーだめだ。朝議ぐらいしか午前はあっちにいかねぇ。マジェーエンナの使者と会合だ。明日の夕方は?」
「私は平気ですが、陛下が外に出られてましたよ。確か」
「明日の朝議で予定聞いて、ラルト達に時間空けてもらったほうがいいな」
「そうですね」
「わりぃ」
「いえいえ。気になさらないでください」
 雨季までまだ数ヶ月あるとはいえ、気を抜けば予定など、あっという間に埋まってしまう。皇帝に宰相、そしてエイたちの予定が組みあがる前に、全てを決めておく必要があった。
 休み一つ取るにしても、色々面倒臭い。自分が今まであちらへ戻ろうと思わなかったのも、自分の物臭さがそうさせていたのかもしれない。
「さて、私はこれでお暇させていただきますね」
 そういって立ち上がる左僕射を、イルバは椅子の背に重心を預けたまま見上げた。
「おー。悪かったな。わざわざ来てもらって」
「いいえ」
 エイは微笑んだ。
「早めに決めておいたほうがいいと思っただけですので」
「ヒノトには礼を言っておいてくれ」
「伝えます」
 伝言を承諾した同僚に、イルバは笑い返した。こうなれば、さっさとエイの妻ご所望の品を手に入れておかなければなるまい。彼女を本気で怒らせると、皇后と宰相夫人を怒らせる以上に厄介だ。
「イルバさん、一つだけ、確認しておきたいのですが」
「あぁ? 何だ?」
 部屋を出る寸前、何かを思い出したかのように面を上げ、足を止めたエイに、イルバは首をかしげた。けだるげに彼に応じたはよいものの、向けられた闇色の瞳の静謐さに、イルバは思わず眉をひそめる。
「イルバさんは、こちらに、帰って来られるんですよね?」
 エイの問いかけは、あまりにも、何気なかった。
 エイは自分を威嚇しても威圧してもいない。例えるなら、会議を終えた後、執務室に戻ってくるのか、それともそのまま屋敷へ戻ってしまうのか。そんな内容を尋ねているときと同じだった。しかし質問の内容は、イルバの動きを止めるには充分だった。
 彼はこう、尋ねているのだ。
 諸島連国へと戻って、そのまま姿を消すといったことは、ないだろうな、と。
「冗談はよせよ」
 イルバは笑って窘めた。笑うことしか、できなかった。
「戻ってくるにきまってっだろ。馬鹿にしてっと怒るぞ」
 エイは微笑んだ。
「ですね。すみません。失礼いたしました」
「ホントだよ」
「すみません」
 イルバの糾弾に、エイは苦笑して申し訳なさそうに丁寧に頭を下げた。そしてそのまま、彼は退室していく。
 閉じられた扉を見つめながら、イルバは嘆息した。普段は純朴天然鈍感を素でいくような男なのに、こういうときに限って、左僕射は鋭いのだ。あの男の年齢の頃、自分はすでに祖国バヌアで宰老という地位についていたが、彼のように、人の心臓をわしづかみにするような質問を投げかけることなどできていなかった気がする。
「戻って、くるか、か」
 そのような問いを、他者に投げかけられるなぞ露とも思わなかった。
「戻ってくる、つもりだ」
 そう。この国には、まだ意味がある。
 この国に、残る、意味が。
 それを忘れないために、この国に、戻ってくるために。
 自分はシノを、旅の道連れに選んだのだから。


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