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番外 いつか全てが終わるとき 1


 館は、浜辺に程近い、丘の上に建っている。
 彼女はその館に向かって伸びる道を、息を切らして走っていた。館で暮らす老夫婦に、報告があるのだ。
「おい! 何そんなに急いでるんだよ!?」
 道から望む浜辺から、手を振ってくる少年がいる。自分と同じく、あの館の夫婦に世話になっている少年だ。年老いた父母と数人の兄弟を支えて働く彼は、館の夫婦に読み書きと計算を習っているのだ。近頃の彼は、彼女には理解できない本も読みきることができるようになった。時間が空いたときには、彼女に物語を読み聞かせてくれる。一昔前までは、自分の名前さえ書くことができず、よく商人たちに不都合な契約をさせられたりしていたのに。
 彼女は少年に手を振り返した。
「あのね!」
 そして叫ぶ。
「町のお屋敷に、奉公がきまったのよ!!」
 町に存在する数少ないお屋敷。それも中央議会から派遣されている『お役人様』のお屋敷だ。奉公の娘を募集していたのはつい先日だったが、様々な出自の少女がその募集に殺到した。応じた少女の中には、厳しくしつけられた、本島からやってきた商家の娘もいたはずだ。だというのに、そのたった一つの枠を、まともな教育を受けたことのない、貧乏な小作人の長女である自分が、勝ち得たのである。
 彼女は叫ぶ。
「これも先生と奥様が、礼儀作法を教えてくださったおかげよ!!」
 その声は、とても明るく空の下に弾けた。


いつか全てが終わるとき


「休ませてくれねぇか。半月ぐらい」
 右僕射イルバ・ルスがそのように申請してくることは珍しい。彼がその地位についた理由が、取引の一端だったということもあるのだろう。罪の意識だけで彼がこの国のために尽くしているとラルトは思っていないが、それでもこの右僕射は、そう思えるほどに、休暇の申請を出さない。必要最低限の休みを除けば。
「もちろん。暇な時期でいい。今年じゃなくてもいい。来年でも」
「それは構わないが……何をしに?」
「一度だけ、諸島連国を見に行きたい。だめか?」
 ラルトは沈黙し席に就いたまま、机を挟んで直立する右僕射を見上げた。窓から光が差し込み、部下の表情は読み取りにくい。いつもの大らかな笑みも余裕もない。逆に、感傷に浸っているような様子もない。彼の藍色の瞳には、静謐さだけが宿っていた。
「判った。いつがいいだろうな。雨季か」
「来年の?」
「今年でいいよ。半月で足りるか? 無補給船で……片道六日七日はかかるよな」
「あっちでの滞在は一日二日ぐらいでいい」
「そうか? あぁ、この件はジンに?」
「一応、もう言ってある。許可はラルトに貰えといわれた」
「判った。エイとも相談してみよう。あいつの予定があえば、休みをもう少し伸ばせばいい」
「すまん」
 神妙に頭を下げる右僕射に、ラルトは笑った。
「いい。もう何年も、あちらには戻ってないだろう?」
 外交とそれに付随する政策を請け負っているのは、主に宰相と右僕射だ。しかし、右僕射の出身地である諸島連国に対する外交は、宰相のほうが受け持っていた。諸島連国へは日数が掛かる。一日二日の休暇では戻れない。様々な負い目もあってだろう。右僕射は、その位に着任して以来、一度もあちらへ帰省していない。
 その彼が、一度だけでいい。帰省したいというのだ。何かあるのだろうと、ラルトは深く理由を追求しなかった。
「それじゃぁ」
「あぁ、もう一つ」
 会話を締めくくろうと口を開きかけたラルトを遮って、右僕射が付け加える。
「あのな」
 彼の表情が、急に険しいものに変わる。どこか緊張を孕んだ眼差しと歯切れの悪さ。ラルトは居住まいを正し、耳を傾けた。
「その旅に、女官長……借りていっても、いいか?」
 右僕射の、その申し出に。
「……はぁ?」
 ラルトは驚きに瞬いて、間抜けな声をあげることしかできなかった。


 一つ、忘れられない記憶がある。
 夜の海。死へと繋がる白い浜辺。
 そこに、立つ、女の背中。
 たった一人、佇む、女の。


「とまぁ、そういうわけだから」
 無事、皇帝に許可を取り付けたその足で、イルバは女官長の執務室を訪ねた。今日は一日中、春先に入ってくる新参の女官の選定と人事異動に悩むために、椅子を温めていると聞いていたから、部屋を訪ねることに迷いはなかった。
「付き合ってくれ」
「判りました。二十日間ですね」
 水の帝国の女官長、シノ・テウインは、書類に目を通したまま、こちらの依頼にあっさりと承諾の意を示した。そのあまりのあっけなさに、イルバは面食らう。
「おい、なんか他に反応は?」
「あぁ、ラナたちにがんばってもらわなくてはいけないわ。でもメイが産休から復帰するから、少しは楽かしら」
「……反論とか、理由の追求とか」
「してほしいのですか?」
「……うんにゃ。付いてきてくれるっつうなら、助かるんだけどよ」
 どうも予想していた反応と違う。こんな風に突然こちらの都合に振り回して、怒られることを覚悟していたのだが。
「理由は、また後で教えてくださるのでしょう?」
 シノは書類から目を離して、微笑んだ。イルバは彼女からの妙な信頼に、つい意地悪を口にしてみたくなる。
「教えないかもしれねぇぜ」
「貴方が教えてくれなくとも、行けば理由は判る。そういうことですか?」
 扉の枠に背を預けたまま、イルバは肩をすくめた。どうしたらそんな回答になるのだろう。
 時折思う。この女は、何故自分に、無防備ともいえるほど全幅の信頼を寄せてくるのだろう。
 自分は、過去、妻子すら売り飛ばしたような男なのに。
 ――その自問の答えを、自分だけがこの女が真に望むものを与えてやれるからだとするのは、傲慢が過ぎるだろうか。
「……まぁ、なんだ」
 頭を掻いて、壁から背を離す。
「またきちんとした日取りはおって話す」
「判りました」
 シノの了承をもってその場はお開きとなる。イルバとしてもこれ以上、仕事中の彼女を邪魔するつもりはなかった。


 イルバと入れ替わりに、女官が部屋に入ってくる。無論、よく知った女官だ。奥の離宮の女官の一人でもあり、女官の人事の責任者としての立場にあるヒウである。
「珍しいですね。こんな日中にイルバ様がこちらに来られるなんて」
 右僕射が閉じた扉を見つめながら、ヒウが呟く。シノは頷いた。
「えぇ。連絡事があったので立ち寄られたの。長居はされなかったわ。……はじめましょうか。そちらの席に、ヒウ」
「はい、シノ様」
 応接用の席にヒウを促し、シノは執務の席を立った。
 ヒウが持ち込んだものは、女官の公募に応じてきた子女達の資料だ。すでに部下たちによってある程度の選定は行われているが、さらにこちらで篩いにかけ、最終的に皇后に奏上して、決定となる。今年は結婚や出産、または定年で多くの退職者が出たので、公募数も多い。慎重に人を選んでいかねばならない。
「この時期は行事ごとが少ないですけれど、事務仕事が多くていやになりますね」
 ようやっとある程度まとまりを得たところで、ヒウが書類の角を揃えながらぼやいた。
「そうね」
 自分たちは基本、誰かに仕えることを喜びとする人間だ。特に奥の離宮を受け持つ人間は、女主人の世話をしていくことを好む。責任ある立場上、事務仕事は切っても切れぬものなのだが、国が富み、部下が増えれば増えるほど、こういった仕事が増えてくるのだから、皮肉としかいえなかった。
 それでも部下が増えれば楽になることもある。
「ヒウ、先日言ってた休暇ね。雨季になりそうだわ」
「あぁ、そうなのですか?」
 仕事を振り分けて、休みを取ることも難しくなくなった。
「何日ぐらいかお決まりになられたのですか?」
「半月は確実に休みます。多分、二十日ほど」
 以前ならばそのような長さの休暇、絶対に取ることはできなかっただろう。
「はい、判りました」
 ヒウは頷いた。
「シノ様はお休みあまり消化されていないですものね。ゆっくりされてください」
「ありがとう」
「いつも、私達の都合を優先されているのですから、こんなときぐらいは心置きなく休んでくださいね」
 部下の心遣いに、シノは微笑んだ。
 ヒウは既婚者だ。彼女だけではなく、宰相が結婚してほどなくしてから、奥の離宮の女官たちの間では結婚出産が相次いだ。世俗が落ち着き、政治も軌道にのって、憂いがなくなったからだろう。結婚をためらっていたものたちが、順繰りに家族を得ていった。そんな彼女達は、夫や子と過ごすために休みをきちんと消化していく。一方のシノは一人で気楽だ。部下達の都合に、休みを合わせてやることも多かった。
「シノ様は……結婚とかされないんですか?」
「しませんよ」
 躊躇をみせてそっと口にされた問いに、シノは苦笑しながら即答する。
「結婚するには相手が必要なのよ」
「でも、イルバ様は?」
「やだわ、ヒウ。貴女までそのようなことをいうのね」
 イルバと自分が恋仲だと噂するものたちは多い。噂好きの女官たちならばなおさらだ。確かに、うぬぼれでなければ仲はよいと思う。頻繁に晩酌を共にするし、休みを合わせてどこかに出かけることもあるからだ。
 しかしそれでも。
「私達は、恋人ではありませんよ」
 自分たちの間に挟まるのは、恋だの愛だのといった甘いものではない。
「ですけれど、今度のお休みも、イルバ様のご都合に合わせていらっしゃるのでしょう?」
「さぁ」
 ヒウの言うとおりだった。しかしシノは言葉を濁した。
「どうかしらね」
 わざわざ彼女らに詮索の種を与えてやる必要もあるまい。否定こそ、しなかったが。
 シノは微笑みながら、先ほどのイルバの顔を思い返した。突然にも関らず、二十日間も休みを要する帰省への同伴を承諾した自分に、彼は当惑していたようだった。しかしこちらからしてみれば、予兆はあったのだ。長期の休みをとることになるだろう。そのように、ヒウを含めた数人の部下には仄めかしてあった。
(判りやすいのよ、あの人も)
 数日前、諸島連国に住まう彼の友人から届いた一通の書簡。
 内容はわからない。しかし、蝋で封のされた正式な書簡と、それと合わせて届いた手紙に目を通してからというもの、彼は明らかにおかしくなった。
(もっとも、それが判るのは私ぐらいなものなのでしょうけれど)
 その程度には、自分は彼と親しい。
 だからこそ、いらぬ詮索と噂を引き寄せてしまうのだろうと、シノは皮肉に口を歪めた。


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