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番外 指に絡まる一筋さえも 9


 店から飛び出したはいいものの、遠くに行くわけにもいかない。
 ヒノトは店を出てすぐの、別の路地に入ったところで立ち止まった。春になったとはいえ、夜は肌寒く呼気は白い。自分の肩を抱きながら、ヒノトは空を見上げた。空は思いがけなく明るい。月の美しい夜だった。
「馬鹿エイ」
 そして、馬鹿な自分。
 もう少し早く気づけばよかった。もう少し早く、確認すればよかった。甘かった。そう、彼が、仕事に手を抜くはずがないではないか。皇帝や宰相、そして右僕射に負けず劣らずの政治馬鹿。
 エイたちはダッシリナからこちらにやって来たのだ。学院のあるガラン地方は、いくら国境に近いからといっても一刻程度で来られるような場所ではない。どちらかというとメルゼバ寄りであるために、ダッシリナからでは確実に半日から一日は掛かる。
 まず、どの程度滞在できるのか、それを確認すべきだった。休みなど、急に取れる立場の人間ではないのに。
「ヒノト!」
 背後から、声が掛かる。
 ヒノトはエイを、振り返らなかった。
「……すみません」
 足音に混じって、謝罪が狭い路地に響く。ヒノトは鼻を啜って、空を見上げたまま問うた。
「何故謝る?」
「……怒らせたようでしたから」
「何故妾が怒ったのか、判っているのか?」
「……いいえ」
 判りません。
 そう答えて、エイは立ち止まる。男の気配は、ヒノトのすぐ真後ろにある。ヒノトが半歩、後退するだけで、触れてしまう距離。
 ヒノトは、盛大な嘆息と視線を、石畳の上に落とした。
「おんしなぁ。そんなに短い間しかおれんのじゃったら、こっちに来ずに、早めに帰ってゆっくり休まんか。酒で誤魔化さなければならぬほど、疲れておるのじゃったら」
「……お酒で誤魔化してなど、していませんよ」
「少なくとも顔色はよくなかったがな。昨夜も寝てないじゃろう。おんし」
「……判るんですね」
「馬鹿にしておるのか」
「……いいえ」
 月明かりによって石畳の上に落ちた男の影が、力なく頭を振る。
「すみませんでした」
 男の手が、躊躇いながらヒノトの手に触れる。
「本当に元気なのか、確かめたかったんです。手紙だけでは、判らない」
「元気じゃというておろう。妾はおんしのように、嘘をついたりなぞせぬよ」
 男が、苦笑したのが判った。それぐらい、顔を確認しなくとも、わかる。長い付き合いだ。
「そんな風に、無理をして会いに来られても、うれしくなど、ない」
 嘘だ。
「すぐ帰れ」
 帰らないで。
「早く帰ってゆっくり休め」
 帰ってなど、しまわないで。
「……すみません」
 背後から伸びた男の腕が、そっと、壊れ物を扱うようにヒノトを抱く。
 指が、絡む。温かい、指。そこに繋がる、男の身体。体温。
 ずっと渇望していたその熱に、泣きそうになりながら、ヒノトは下唇を噛み締めて呻いた。
「まったく、自分の体を労わらぬやつは大嫌いじゃ」
 ――愛している。
 息苦しいほど。
 気が、狂うほど。
 彼から与えられるこの優しさが、たった一人の女としての自分に向けられるものだったのなら、どれほど幸せだったか。けれどそうではないことを知っている。彼が自分に望む役割はそうではないと知っている。
「おんしに倒れられたら、妾が路頭に迷うであろうが」
 長い間、疑問だった。何故、彼は自分を女として見做さないのか。何故、こちらの恋情に、これほどまでに鈍感であるのか。
 見做したく、ないのだ。
 ヒノトを、女として、見做したくないのだ。
 なぜなら、彼が自分の望む役割は――……。
 ヒノトは男の手を握り返しながら、言った。
「しっかりせいよ、エイ。おんし、妾の後見人じゃろう?」
 彼がヒノトに望むのは、彼が、『庇護する少女』。
 彼の手助けなしには生きていられない、子供。
 ヒノトは目を閉じた。男の柔らかい声を、聞き逃さないために。この体温を、忘れないために。
 それだけのために、神経を集中させた。
 しばらくして、男の、困ったような呟きが、ため息と共に落ちた。
「えぇ。そうします、ヒノト」


 店に戻ると、料理はウルとアリガの二人に平らげられてしまっていた。戻りが遅いことが悪いと言い放つアリガに喧嘩を売りかけたヒノトを、エイとウルが慌てて止める。追加の料理を注文すればいいというエイの勧めを、ヒノトは辞退した。食欲が、湧かなかったからだ。
 エイとウルの馬車は、学院の傍で待ち構えていた。この町で休憩をかねて暇を潰すよう言い渡されていたらしい。馬車の御者は、都の宮城務めの男のようだ。見覚えのある顔をしていて、目礼でもってヒノトは挨拶を交わした。
「ありがとうございました」
 門の前でまず頭を下げたのは、アリガだった。
「ご馳走様でした」
「いいえ」
 エイが微笑んで応じる。
「これからも、ヒノトとよくしてあげてください」
 彼の言葉にアリガは曖昧に笑い、小さく頷いた。
「もちろんです。よくされる側ですけれど。よく助けてくれますよ、彼女は」
 意外な発言に瞬いて、ヒノトは傍らの友人を見上げた。アリガはつい先ほどの発言なぞ忘れてしまったかのように、さぁて帰ろうかなぁと、踵を返す。彼女はそのまま数歩、先を行ったところで、ヒノトを待つためか立ち止まった。
「ヒノト」
 男の呼びかけに、ヒノトは視線を動かし、彼に向き直る。
 エイは、眉間に皴を寄せ、複雑そうな表情を浮かべて立ちすくんでいた。
「……すみませんでした」
 そんな彼を、ヒノトは笑った。
「なんかもう、今日は謝ってばかりじゃな、おんし」
「すみません……あ」
 つい謝罪を重ねて口を押さえる彼に、ヒノトは思わず噴出してしまう。腹を抱えて一頻り笑った後、呼吸を整え彼に言った。
「はぁ……もう。馬鹿じゃなぁ……」
 馬鹿すぎる。
 自分が。
 そんな風に彼を困らせたくて、存在しているわけではないのに。
「ゆっくり、休めよ、エイ。無理をしすぎるなよ。あまり酒には頼らんように。身体を大事にして働けよ」
「身体に関することばかりですね」
「そりゃぁな。妾は医者じゃからな」
 苦笑するエイに、ヒノトは肩をすくめた。
「エイ、来てくれて、ありがとう」
 瞼を閉じて、ヒノトは微笑む。両手を前で組むと、ヒノトはそれを強く握り締めた。彼に縋りたくなる腕を封印するように。
 視界を閉じたのは、これ以上、彼を見ていられなかったからだ。
 見てしまえば、行かないでと、叫びそうで。
 そんな我侭を言うべきではない。この男は優しいから。きっと叶えようとする。
 庇護する、子供の我侭を。
「……ありがとう。本当に、嬉しかった」
 せっかく忙しい時間を縫って会いに来てくれたというのに、感謝の言葉をまだ述べていなかった。会えて嬉しかった。本当に嬉しかった。それだけは本当だった。
 砂利を、踏みしめる、音がする。
 目の前の、気配が、動く。
「ヒノト」
 呼びかけに逆らえず、ヒノトは目を開き、いつの間にか距離を詰めていた男を見上げた。
 温かい指先が、耳を掠めて髪に差し入れられる。産毛を撫でるように動くそれに、背筋が粟立った。何をしようというのだろう。唇を引き結んで身体を強張らせる。
 黙ってヒノトが見上げていると、エイの闇色の双眸が、ゆっくりと細められた。
「……あぁ」
 指が、銀の髪を、梳く。
「髪、伸ばして、いるんですね……」
 今気づいたとでもいうような口調で、エイは言った。
 さらさら。
 さらさら。
 男の指に絡みついて、そして零れる。
 銀の髪。
「……うん」
 学院に入るまでは、ずっと髪を、短くしていた。
 願掛けというには、あまりにも陳腐だ。けれど伸ばしてみようか、と思った。
 皇帝や宰相の、愛しい人の長い髪に触れる手を、眺めていることが好きだった。羨ましかった。愛情の証だと、思ったのだ。
 さらさら。
 さらさら。
 惜しむように。
 零れていく。
 男の指から。
「お館様」
 馬車の傍から、ウルが躊躇いを見せながら呼びかける。エイは指の先からすべて髪が零れたことを見届けると、手を引いた。
「今行く」
 ウルを振り返って、エイは言った。
「……それじゃぁ、行きます。ヒノトも身体に気をつけて」
「うん」
「また、帰ったら手紙を書きますよ。この間の返事を」
「うん」
「ヒノト」
「エイ」
 彼がまだ何か言いかけるのを制して、ヒノトは呼びかけた。
「気をつけて。皆に、よろしくと」
 エイは微笑み、頷いた。
「はい。伝えます」
 その言葉に納得して頷くと、ヒノトは彼の身体の横からひょいと顔を出した。馬車の入り口に立っているエイの副官に、大きく手を振る。
「ウル! エイがぶっ倒れぬように見張るのじゃぞー!」
「任されました!」
 ぐ、と拳を握って応じるウルに、ヒノトは笑った。
 踵を返し、馬車のほうへと歩み寄る男は、一度だけ立ち止まって振り返った。ヒノトは彼に呆れ顔を見せると、早く行けと手振りで彼に乗車を促す。苦笑したエイは、そのまま素早く馬車に乗り込んだ。
 最後にウルが一礼してエイの後に続いた。ヒノトの心中を察するかのように、最後に目を合わせた彼は先ほどまでと一変して、悲痛そうな面持ちだった。
 御者が馬に鞭を打ち、月明かりに照らされた道を車輪が滑る。
 手を振り馬車を見送ったヒノトは、その姿が道の角を曲がって見えなくなると同時、耐え切れなくなってその場を駆け出した。
「ヒノト」
 待ってくれていたアリガを置き去りにして、一心不乱にその場を離れる。肺が引き絞られ、悲鳴を上げたが、構わなかった。この、胸苦しさを、紛らわせてくれるというのなら。
 慣れた道を行き、寮に入る。廊下を駆け、階段を上り、また廊下を走る。鍵を開けることももどかしく自室の扉を開いて、居間を抜けた。寝室へ踏み込み、寝台に勢いよく倒れこむ。
「う……」
 掛け布団を握り締めて、顔を枕に埋める。
 胸苦しさに、窒息しそうだった。ヒノトは思った。このまま息絶えられれば、よかったのに。
 彼の指先の熱を覚えているその間に、息絶えることができれば。
 否、彼の腕の中で、息絶えることができたのなら。
 自分はとても、幸せだったのに――……。


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