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番外 指に絡まる一筋さえも 10


 寝室に光が差し込んだのは、どれほど経ってからだろう。
 アリガが、戻ってきたのだ。
「あぁ、重かった」
 ヒノトが置き去りにした買い物の荷物すべてを運ぶことになってしまったアリガは、肩を回しながらヒノトの寝室に足を踏み入れて低く呻いた。少しだけ身じろぎし、ヒノトは戸口に立つ彼女を確認すると、消え入りそうだと自分でも思う声音で謝罪した。
「……すまぬ」
「いいよ。おいしいものいっぱい食べれたしね」
 微笑んだ彼女は部屋の明かりを灯すことなく、床板を軋ませて歩み寄ってくる。ヒノトの傍らに膝をついたアリガは、ヒノトの髪をそっと指先で払いのけた。
「……泣いているの? ヒノト」
 アリガの問いに、下唇を噛み締めてヒノトは頭を振った。泣いているかどうかなど、自分では判らなかった。
「行ってほしくないなら、言えばよかったのに。行かないでって」
「……そういう、訳ではない」
「……じゃぁどうして泣いているの? 何が辛いんだ?」
「……会いに、きて、くれたことが……」
「それが辛いの? 嬉しかったのではなく?」
「嬉しかった」
 嬉しかった。嬉しかった。彼の姿を見つけたとき、脳裏が白く焼けてしまうほどに。
「うれしかったけど、つらい……」
「無理をして、会いに来てくれたから? ……いいじゃないかヒノト。愛されているっていう、証だ」
 頭を撫でながら呟く友人に、ヒノトは違う、と呻いた。
「何が違うの?」
「あいつは、妾を愛してなどおらん」
 鼻を啜って、ヒノトは息をついた。そこでようやく、確かに自分はアリガの言う通り、泣いているのだと悟った。
「愛してもいない女の様子を、わざわざ無理して見に来たっていうのかい? 男っていうのはそんな優しい存在じゃないだろう」
「あの男は、自分が庇護する少女の存在を確認しに来たにすぎん。いわば自分の存在意義を確認しに来たにすぎんのじゃ。妾のためではない。妾の、ためでは――……」
「庇護する、少女?」
「守るべき何かを持たなければ、立ってられんのじゃ。あれは強くて、弱いから」
「ウルさんが、あの人、難しい立場なんだって言ってた」
 ヒノトの顔を覗き込んで、アリガが問う。
「たとえば子供の生活を支えていかなければならない親であると、君で確認して、自分の立ち位置を定めてる。そういう感じ?」
 聡い友人に驚きながらも、ヒノトは頷いた。これに気がついているのはおそらく、自分と、そしてエイの傍にずっと付き従っているウルだけだ。
「難しい――……立場……エイ……カンウ?」
 何かを思案するように一人繰言を口にしていたアリガは、不意に、手を止めた。ヒノトもまた驚愕に息をつめ、友人を見返す。
「……エイ・カンウ」
「おんし、その姓をどこで」
「ウルさんが、一度だけカンウ様って呼んでたんだよね。無意識だと思うけど。……本当にそうなの? 彼が、あの、毒の智将?」
「どくの……なんじゃそれは?」
「左僕射エイ・カンウ。物腰の柔らかさから侮って、組し易いとうっかり手を出すと、手が爛れるような痛い目を見るっていう。美酒を装った、毒のような人間だってね。聞いたことがある」
 そんな風に評価されているのかと、ヒノトは瞬いた。中枢にいると、エイを初め、皇帝や宰相、そして右僕射といった面々の、貴族たちによる風評を聞き逃しがちである。それにしても、毒、とは。彼の間の抜けた面をよく見ているヒノトにとっては、奇妙な気すらした。
「若いって聞いてたけど……本当に若い人なんだ……」
 感心したように頷いて、アリガは呻いた。
「言い方悪いかもしれないけど、ヒノトに手を出さないのって、そういう関係?」
「……どういう関係じゃ?」
「だから、権力闘争にヒノトを巻き込まないため、とか」
「……違う……」
 そういう理由だったのなら、まだ希望が持てた。そうではない。そうではないからこそ、追い詰められてヒノトはここにいる。
「違う。エイはな、本当に、妾を女として、みたくないのじゃ」
「そんな馬鹿な」
 ヒノトの発言に、嘘だろうと、アリガは眉をひそめる。
「女として、見たくない、だって? 君の勘違いじゃないのかい?」
「勘違いじゃない!」
 ヒノトは起き上がって叫んだ。虚を突かれたらしいアリガは、身をわずかばかり引きながら口元を引き結ぶ。その彼女に縋って、ヒノトは続けた。
「勘違いじゃない! 三年以上も、一緒にいた! 一緒にいたのに、あやつはあのままだった! どれほど妾が心を掛けても……気づかない。気付こうと、しない!」
「ヒノト」
「最初は、ただ鈍いだけかと皆で笑うた。あの様子じゃからな。けれど違う。断じて、あの男は、妾に女でいてほしく、ないのじゃよ!」
 エイは、恋情に鈍感なのではない。
 ヒノトが、『庇護される少女』であると、思い込もうとしている。
 ヒノトが女であると、気づいてはならないと、ずっと目を閉じている。
 それに気が付いてしまったのだ。彼が望むヒノトに望む役割は、ヒノトの望むものとはかけ離れたものだった。
 理由はわからない。ヒノトも知らぬ、彼の過去がそうさせるのかもしれない。笑顔の裏に、計り知れないものを押し殺している人だから。
 掛け値ない優しさの裏に、それこそ、毒のような歪みと、膿んでしまった傷を抱えている人だから。
「妾はあの場所にいたらいつまでも半人前のまま。エイに望まれる、ただ庇護されるばかりの存在で。そんなものは嫌だった! そんな、中途半端な存在では……いたくなかった!!」
 宮城でも医学は学べただろう。しかし、ヒノトに定着した印象は拭い去れない。エイがヒノトに、『天真爛漫な少女』を望んだ。庇護され続ける、存在を望んだ。
 望まれるまま演じた印象は、周囲の目にまで定着してしまっていた。このままでは自分が駄目になる。
 そして、いつまでも、エイの目に、女として映ることはないだろう。
 そう思ったからこそ、ヒノトはこの学院にくることを選んだのだ。一種の、賭けのようなつもりで。
「妾は――私は、庇護される子供ではなく、あの人を支える女でありたい」
 アリガの胸に頭を押し当て、彼女の衣服を握り締めながら、ヒノトは呻いた。
 あの場所を離れ、せめて医学に自信を持ち、自分の足で立てるようになれれば、何かが変わると思った。変わってほしかった。
 アリガの手が労わるように背を撫でる。優しい友人の手。だというのに、その手に感謝するどころか、あぁ、この手が、彼の手ならと思う始末だ。
 狂っているといわれてもいい。それでも、この愛おしさを止めることができない。
 アリガの膝の上に、泣き崩れる。
「私、あの人を、愛しているの――……」
 友人は何も言わず、ヒノトが泣き止むまで、ただ優しく、一晩中背を撫で続けた。


 ヒノトの立場を知ったアリガは、エイについて言いふらすようなこともなく、態度が変わるわけでもなかった。いや、微妙に、変化はあった。その日を境に、アリガから壁が消えたのだ。
 彼女もぽつぽつと、この学院に来た事情を、ヒノトに漏らすようになった。
 彼女の事情もヒノトに負けず複雑だったが、それはまた、別の話。


「それにしても、よくそんだけ文通が続くよね」
 手紙が届いていると連絡を受け、事務に寄った帰り、傍らを歩いていたアリガがヒノトの手元の手紙を見て呆れたように呟いた。
「キリコさんに手紙託けたの、ついこの間だろ? もう返事届いてるってどうなの」
 アリガの手元にもまた手紙がある。彼女の後見人である夫婦からの手紙だ。しかしこちらは三ヶ月ぶりの手紙で、彼女らのやり取りの頻度と、ヒノトとエイのそれとは比べるべくもない。
「確かに、今回は少し早いのぅ。暇でもできたんじゃろうか?」
「いや、暇とか以前に、一月に一回それだけの量の手紙を書ける気力がすさまじいよ。だいたい、そんだけ頻繁にやり取りしてたら、話題も尽きるだろう。普通」
「……そうか?」
「……都にいる君の周囲の人々の気持ちがよくわかる。なんなんだこの妙な徒労感は」
 これ見よがしに嘆息を零して肩を落とす友人に、ヒノトは眉をひそめた。
「なんじゃその嘆息?」
「べっつにー。帰省、楽しみだって書いてある?」
「え? ううーん。まだ流し読みじゃからわからんよ」
 アリガが手紙を受け取る間に、内容に少し目を通したが、特別変わったことは書いてなかったような気がする。読んだ部分は冒頭だけなので、判らないが。
「帰省まで、もう日取りがないね」
「準備せねばなぁ。あぁ、でもユーマたちの体調が気になる!」
「私がしっかり診とくから、安心して帰りなよ」
「借りは必ず返す!」
「じゃぁ今日の予定が終わったら、町でご飯奢って。あと食べたいお菓子があるんだけど」
「……前言撤回してもいいか?」
「だーめー!」
「だっておんし奢りじゃゆーたら、品書き片端から頼むではないか!」
「そりゃ私のお金じゃないときに、試したいもの全部試しておかないと」
「アリガ! おんしはもう少し遠慮というものを知れ!」
「ははははは!!」
 笑い声が廊下に響く。その声を耳にした友人たちが、手を振りながら駆け寄ってきた。
「何々、何の話?」
「今日はヒノトに晩御飯奢ってもらおうかって話」
「えーいいねそれ、乗った!」
「乗るな!」
「硬いこというなってヒノトぉ」
「いやじゃー! いやじゃ奢らん! 貧乏人に縋るな期待の目を向けるなぁぁあぁぁ!」
「あはははははっ!」
 ――学院に来た、その選択は、間違っていない。
「あ、せんせーぃ! こんにちはー!」
「おー。散歩中? 体調はいいのかー!?」
「はぁーぃ!」
 友人と共に学び暮らし、医者としての存在意義を覚えるとき、本当にそう思うのだ。
 この学院に来た当初、これでよかったのかと幾度も自分に問うた。けれど今は、微塵の後悔もない。帰省した折、三年ぶりに顔を合わせる友人たちに、責められるのかもしれない。帰る場所をまた失うのかもしれない。それでも自分は、もう迷わないだろう。もう、嘆かないだろう。
 三年近く、離れていた。かつての自分の印象を一掃するには十分な月日だろう。自信をつけて、自分だけの足場も持った。これで、エイに向かい合うことができる。
 たとえ自分の『賭け』が、負けだったのだと、帰省した暁に思い知ったとしても。
 自分の選択を、嘆くことだけはしない。
 軽やかな笑い声に包まれ、秋の日差しに照らされながら、ヒノトはそう、思った。


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