BACK/TOP/NEXT

番外 指に絡まる一筋さえも 8


「たく! 来るなら来るで連絡せんか!」
 ぱくぱくと野菜炒めを口に運びながら、ヒノトは憤慨に呻いた。
「すみません」
 苦笑しつつ謝罪するのはヒノトの隣に腰掛けるエイだ。彼の前にも料理の載った皿が並んでいるが、それに箸をつけた様子はない。彼の指に触れているのは、酒が入った杯だった。
「こっちも急に決めたので、早馬を出すよりも私たちが来るほうが早いと思ったのです」
「それでもなぁ」
 ぴし、と指をエイの額に押し付けて、ヒノトは呻く。
「妾たちがあそこを通りかからんかったら、どうするつもりだったのじゃ? 怪しい人間としてしょっぴかれるのは目に見えておったぞ!」
「すみませんでした」
 降参とでもいうように両手を挙げて謝罪を重ねるエイに、ヒノトは口先を尖らせる。彼の顔が、ぜんぜん悪びれたものではなかったからだった。
「まぁ、ヒノト様、それぐらいにして差し上げてください」
 口を挟んだのは、対面の席に就くウルだった。
「ダッシリナの仕事が早めに終わったので……本当に急だったのです。それだけ責めてしまっては、お館様も、立つ瀬がありませんよ」
「そうだよヒノト」
 ウルに同意を示したのはアリガである。ウルの隣の席で彼女は吸い物の椀を手に、微笑んで言った。
「せっかく会いに来てくれた上に、買い物の荷物持ちまでしてもらっといて。感謝の言葉が先だろう?」
「う……」
 確かに、アリガのいう通りである。
 学院の門の前でエイたちと再会したヒノトは、彼らがそこにいた理由を尋ねなかった。彼らの襟首を引っ張り、無言のままアリガと連れ立って、市へと向かったのである。幸いにもまだ店仕舞には至っておらず、店主たちが重い腰を上げて片付けに入る中、市場を回って明日以降の食材を確保した。その荷物はすべて、道中エイとウルの二人に押し付けられていたことはいうまでもない。
 買い物を終え、四人が移動した先は、アリガと行こうと約束していた小料理屋である。市が立つ通りから一本外れた通りの路地にある小さな店は、大勢の客で賑わっていた。店内の角の席を陣取り、料理を注文した後、ヒノトはアリガにエイとウルを紹介した。料理が運ばれてきたのは、それから間もなくのこと。
 そして、現在に至る。
「いいですよ、ヒノト。私が連絡しなかったのが悪いんですから」
「阿呆! お前が妾を弁護したら、妾がますます悪者じゃろうが! 馬鹿かおんし空気を読め!」
「すみません?」
「もう謝るでない! お願いじゃから!」
 あぁ、と頭を抱えたヒノトの顔を、エイは困惑したように覗き込んでくる。その顔を押しのけて食事を再開したヒノトの耳に、アリガとウルの会話が滑り込んできた。
「いっつもあんななんですか?」
「えぇ。いっつもあんな感じです。漫才ですので、気にしないで差し上げてください」
「漫才なんだ……」
「ウル、変な誤解を与えるような発言は控えて……」
「申し訳ありません、お館様」
 エイの苦言に、ウルは満面の笑みで応じた。
 彼がエイをカンウと呼ばないのは、アリガがいるためだ。エイの姓はことのほか珍しいもので、名前と繋げると彼の職を言い当てるものも皆無ではない。学のない人間ならば左僕射の名の前に、そもそも職を知るものすらいないだろうが、何せアリガは貴族から後見を受ける、医者志望の娘である。貴族階級の人々はどれほど地方にいたとしても、皇帝と宰相、そのすぐ下の人間の噂に対しては常に意識を払っているものだ。後見人たちからエイたちの話題を耳にしていないとも限らない。
 ヒノトの後見人が、それほど身分の高いものだと知れることは、あまりよいこととはいえなかった。
 ウルはかつてのエイとヒノトの様子を面白おかしく口にし、アリガからこちらの近況を引き出すことも忘れてはいなかった。あまり口数が多いほうとはいえないアリガも、雰囲気に酔っているのか、珍しく饒舌である。ウルの質問に楽しげな雰囲気すら纏って応じていた。
 ヒノトは箸と口を動かしながら、エイを見上げた。彼はゆっくりと料理に箸をつけ、間で酒を口にしていた。量はさほどでもないが、水代わりという程度には飲んでいる。目が合うと、エイは微笑んだ。ヒノトのよく知る、いつもの彼だった。
「……酒、そんなに飲む方じゃったか?」
「え? あぁ……いえ。そんなには飲めませんよ」
 ヒノトの質問に、エイは手元の杯に視線を落として答えた。
「ただ最近、イルバさんに付き合っていたので、飲める量は増えたかもしれません。あの方、大酒呑みですし。ヒノトもご存知でしょう?」
「うん……」
 よく一升瓶を空にする、右僕射を思い返してヒノトは頷いた。
 以前、エイは酒を口にしただけで多少顔に出ていたものだったが、今はそんな様子微塵も見られない。蝋燭の明かりのせいもあるのかもしれない。彼の端整な横顔を眺めながら、ヒノトは思った。
 それでも、いくらあのイルバにつき合わされていたからとはいえ、たった一年でそんなに酒に強くなるものなのだろうか。第一、彼の一番の晩酌の相手は、女官長である。その席に、エイが頻繁に招かれるとは思えなかった。
 毎日口にでもしていなければ、こんな風にはならないのではないだろうか。
「疲れを紛らわせるために、酒に頼ってはおらぬよな?」
 ヒノトの質問に、エイは驚いたように目を瞠り、静かに首を横に振った。
「いいえ、そんなことしませんよ」
「本当に?」
「はい」
 エイの微笑は穏やかだ。その笑顔の裏に、たびたび嘘が隠れていると、ヒノトは知っている。
 よく見れば、疲労の跡が伺える男の顔色。
「……忙しい?」
「相変わらずです。でも以前よりは、国外に出ることが少なくなりましたので。それは楽ですね」
 今回のダッシリナも、久しぶりでしたと、エイは付け加えた。
「仕事が予定よりも一日早く終わったんです。ダッシリナでもこちらよりの国境で仕事をしていたものですから、少し寄り道しようという話になりまして。連絡もせず、驚かせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「……いい。そんなの」
「ヒノト」
 エイの呼びかけに、面を上げる。男の指先が、眼前にあった前髪の束を払った。
 男は、微笑む。
「よかったです、会えて」
「……うん」
 エイに同意しながら、ヒノトは俯いた。
 本当は。
 会いたかった。会いたかったのだ。ずっと。
 だから、会いに来てくれて、本当に、嬉しかった。
 照れくささを誤魔化すために、ヒノトは話題の転換を図った。
「皆は元気か?」
「えぇ、元気です。ヒノトが戻らないと知って、寂しがっていましたよ。手紙の返事は届きましたか?」
「妾が戻らんと書いた手紙への返事? まだ来ておらんが……」
「ではもうすぐ届くでしょう。私が本殿を発つ頃に、ヒノトへの手紙を書かなければと、皆、息巻いていましたから」
 そのときの『友人達』の様子を思い返しているのか、エイはくすくすと忍び笑いを漏らす。ヒノトは安堵した。自分はまだ、『友人達』に嫌われてしまったわけではないらしい。
 ヒノトは窓の外を見た。夜の帳は落ちて、すっかり暗くなっている。
「エイ、そういえばおんしら、いったいどこに宿を取ったのじゃ?」
 何気ない疑問だった。急にこちらに来たというのなら、予め宿を取ってきたというわけではあるまい。宿場町でもないこの町に、宿の数は限られている。
「あぁ、泊まりませんよ」
 案の定、といったところか。宿は取れていないらしい。
 嘆息しかけたヒノトの耳に続けて滑り込んできたエイの言葉は、更に驚愕を招くものだった。
「これから帰らなければなりませんので」
「……これから!?」
 がたん、と。
 ヒノトの叫びに混じってその場に響いた音は、椅子が倒れる音だった。
「これから帰るって……どういうことじゃ!?」
「どういうって……そのままの意味ですが……」
 困惑したように、エイが答える。
「予定が早まったのは一日分だけなので。ヒノトを送ったら、そのままここを発ちます」
「都に向けて?」
「えぇ」
 エイは、何かおかしいことでもあるのかと言わんばかりの様子だ。
 ヒノトは震える手の指先を握りこみながら、彼に怒鳴り声を浴びせた。
「――っ!! 馬鹿!!!!!」
 そしてそのまま、人を掻き分けて店を飛び出す。
「ヒノト!?」
 店の扉が閉まる音に混じって、エイの痛切な叫び声が響いて消えた。


 嵐のような勢いで店を出て行ってしまった男女に店内の客たちは首をかしげながら、それでも食事と会話に戻っていく。
 友人とその後見をしているという男の背を呆然と見送ったアリガは、慌てて追いかけようとしたところを、隣の男の声に引き止められた。
「大丈夫です」
「ウル、さん?」
 エイの付き人だという男は、アリガの手首を強く引いた。
「席に座って待ちましょう。大丈夫。何かあれば、わかりますので」
 そういって彼は、食事を再開し始める。アリガは困惑しながらも、彼に促されるまま席についた。
 まだ熱の残る鶏肉の香草焼きに箸をつけつつ、先ほどまでのヒノトたちの様子を回想する。自分もウルと会話していたので、彼女らの話の内容までは記憶していない。しかし思い出す限り、ヒノトとエイは和やかに話を楽しんでいたように思えた。それが、突如一転し、ヒノトは椅子を倒して立ち上がると、エイを怒鳴りつけて店から出て行ってしまった。
 何が、あったのだろう。
 思案していたアリガの耳に、独り言とも取れる、聞き取れないほど微かで、低い呻きが届いた。
「あぁ……カンウ様。あんなに馬鹿正直に答えられたら、当たり前でしょうに」
「当たり前?」
 アリガの問いに、ウルは瞠目したようだった。しかしそれも一瞬だ。彼は目を細めて、困ったような微笑を浮かべた。
「ヒノト様です。あんなふうに、ヒノト様が怒り出すのは、当たり前です。せめて宿を取って、夜明け頃に出発する、ぐらい、嘘をついて差し上げればよかったのに」
 馬鹿ですねぇ、あの方は、と、妙に愛情の篭った言い方でウルは主人を貶した。
「……あの二人、恋人同士なの?」
「いいえ、違います」
 傍目からには想い合っているように見えるというのに、ウルはアリガの言葉を即答で否定した。
「なんといったら、よいでしょうかね。……まぁ、いろいろ、難しい立場にいらっしゃいますので。お館様は」
「……馬鹿なんだ?」
「えぇそうです」
 アリガの問いに対して、ウルは大きく頷いた。
「馬鹿なんです」
 そう繰り返し、小さく笑ってすら見せた彼は、瞼を伏せてしみじみと呟く。
「ですからヒノト様も、こちらに来ることを、お選びになったのでしょうね……」


BACK/TOP/NEXT