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番外 指に絡まる一筋さえも 7


「……ってよくない!?」
「えーそぉ!? どこがいいのよぉ!?」
「そうよあんた趣味おかしいー!」
「うそー!」
 学院において初めての進級試験も終了し、結果も発表された。これから次の学年が始まる一月程度の間、一回生は春休みに入る。落第者は荷物を纏めていたが、そうでないものたちの大半は帰省し、残りは集まって茶会めいたものを開くことが常だった。学院生には十代の者も多い。一同に会した少女たちは、それぞれが用意した茶菓子を口にしながら、学院生の中でどの異性が気になるか、色恋話によく花を咲かせていた。
(平和じゃのぉ)
 笑い声を上げる少女たちを少し離れた位置から見つめながら、ヒノトは胸中で呻いた。美味な菓子が出るからと、友人のリンに引きずられてきたはよいものの、あまり参加したい話題とはいえなかった。眺めているだけならば、楽しいのだが。
 菓子目当てだから、と部屋に入って早々宣言したヒノトは、少女たちの輪から少し外れた部屋の片隅と羽毛の詰まった腰当を確保し、芳香のよい異国の茶を口にしながら、借りてきた本を読んでいた。時折言葉を振られれば笑顔と相槌を返すが、積極的に話に加わることはない。また少女たちも、少し年嵩にあたるヒノトを、無理強いに輪の中に引き入れようとせず、意思を尊重してくれていた。気のいい少女たちだ。
 賑やかな娘たちの笑い声を聞いていると、奥の離宮を思い出す。優しく明るい女官たちの笑い声が響く、あの木漏れ日のような空間を。だからだろうか。会話に参加していなくとも、この場所にいることは不快ではなかった。
「ヒノト」
 頭上から降ってきた声に、面を上げる。すぐ傍らに佇んでいた女は、知った顔だった。
「アリガ」
 すとんと横に腰を下ろした女は、寮が同室の女だった。彼女も居残り組である。
「君は話に参加しないのかい?」
「菓子を食いに来ただけじゃ。アリガも食べるか?」
「うん。いただこう」
 絨毯の上に直に置かれていた菓子皿を、ヒノトはアリガのほうへと押し滑らせた。アリガは焼き菓子を一つ摘み上げながら、ゆったりと微笑む。
「ありがとう」
「どーいたしまして」
 彼女もヒノトと同じく、少女たちの会話に参加するつもりはないらしい。雅な茶碗を口につけながら、膝の上に乗せた書物の頁を繰っていた。
「アリガは何故、帰省せんかったのじゃ?」
 この場に集まる少女たちのほとんどが、帰省する必要のない者たち。つまり、学院近郊に実家があるものたちである。一方のアリガは、この学院から最も離れた地方、ランマ・ヤンマの出だと聞いた。
「うん。帰省したいと思わなかったから」
 あっさりとそう言って、アリガはもう一つ菓子を口に放り込む。
「ヒノトは?」
「うん?」
「ヒノトも、遠い地方の出だってきいたよ。帰省しなくてよかったの?」
「あぁ……うん。妾はよい」
「何で?」
 理由を追求されると思っていなかったヒノトは、少しばかり面くらいながらアリガに訊き返した。
「……おんしも、何故帰らん?」
「さっき理由をいったよね」
 アリガは肩をすくめる。
「帰りたいと思わなかったから」
「帰りたいと思わなかった理由は?」
「特にない」
「妾も同じじゃ。特にない」
「あ、そう」
 アリガのほうが尋ねてきたというのに、ヒノトの回答に釈然としない様子を見せることもなく、彼女はあっさりと引き下がった。興味を失ったらしい。付き合って一年になる友人だが、どうも調子の読めぬ女だと、ヒノトは思う。一緒に暮らす分には不自由をしないが、互いに一線を引いていることは間違いないだろう。
 理由を、追求してほしかったのか。
 ヒノトも皿から菓子を摘み上げながら、アリガの淡白さに少しばかり失望している自分を嗤った。
 学院に入学してから早一年。帰省を促す手紙が友人たちから届いたが、ヒノトは学院に残る旨を返事に記した。『彼女たち』からの返信はまだ来ていない。多忙だからか、それとも皆、憤っているからか。
 この学院に入学する理由を具体的に説明もせず、帰省すらしない自分を、彼女たちは見放すだろうか。それでも、彼女たちを友人として失う可能性があるのなら、帰る場所を失う可能性が、あるのなら、こういう形で失ったほうがまだ納得ができる。それは、自分の選択の結果だからだ。
 いつか説明するつもりでいる。けれどそれは今ではない。今説明してしまっては、彼女たちは動いてしまう。それだけの権力を、彼女たちは持っているのだから。
(エイからも、こないな……)
 ヒノトの後見をしている男からの手紙は、友人たちに先駆けて届くことが多い。一月に一通の割合で手紙をやり取りしている。しかし月末だというのに、今月分はまだ届いていなかった。
 彼にもまた、失望されたのだろうか。学院入学を決定事項として口にした際の、彼の激怒した顔が脳裏の隅を掠めていった。
「ヒノト、晩御飯どうする?」
「晩御飯?」
 アリガの問いに、ヒノトは瞬いた。
「あぁそうか。仕度せねばならんのか」
 長期休暇に入ると、昼は食堂が開いているものの、夜は各自で準備しなければならない。先日先々日と、友人の夕食会に呼ばれていたが、今日の夜は何も予定が入っていない。夕食の仕度のことを、すっかり失念していた。
「どうする? 私部屋に食材、何も買っておいてないんだけど」
「うっかりしてたな。今から買いにでる?」
「今からか……」
 アリガはちらりと窓の外を一瞥した。彼女に倣って、ヒノトも視線を動かす。この茶会が開かれた頃はまだ昼を少し回った頃だった。しかし日はすでに傾き始めている。学院から町までそう距離があるわけではないが、買い物に出かけるのならば、早めに出発したほうがいい。市が閉まってしまうからだ。
「そうしようか。とりあえず明日の食材だけでも買ってしまおう、アリガ。今日の夜は、外で済ませてもいいし」
「あぁいいね」
 ぱたん、と本を閉じて、アリガが賛成の意を示す。
「ちょっと行ってみたい料理屋があるんだ。そこに行かない?」
「賛成」
 ヒノトは微笑んで、立ち上がった。空になってしまった皿を流しに戻し、リンたちに挨拶をしてから部屋を出る。
 部屋から絶えず響く笑い声は、憂いもなにもない軽やかなもので――それが少し、羨ましかった。


「はぁ、立派ですねぇ。小さな町みたいですね」
 門の前で、副官が感嘆の声を漏らす。男は小さく頷いた。
「本当だね。改築中に一度視察には来てたけど、こんな風になったんだ……」
 あれは確か、傍らでいたく感心した風に首を振っている男が、副官として就く前だったか、と思い返す。そう思うとずいぶん前だ。あの頃は自分が少女を後見することになるとは思ってもいなかった。ましてや、その庇護する少女が、この場所で学び暮らすようになるなどと。
 正式名称は恐ろしく長く、口にする以前に、頭に思い浮かべるだけで億劫になる。ブルークリッカァ、ダッシリナ、メルゼバの三国の協定の元に設立された、学院、と呼ばれる医療の学び舎。
 門の入り口には警備用の小屋があり、その先には石畳の整備された並木道と庭が広がっている。芝生と芝生の間に点在する事務所らしき平屋。その更に奥には、石と木材を組み合わせて作られた、異国情緒のある楼閣が立ち並ぶ。あの何棟かは学校として機能し、そのほかは学生や教諭のための寮、そして、病棟だと聞いていた。標準的な村の規模よりも、はるかに広大だ。広さ自体は、都にある宮廷の本殿と変わりないのではないか。そう、思えるほどだった。
 皇帝がこちらに来たことがあるのかどうかは知らない。ただ、件の少女との『密約』の際、こちらを一応視察したらしい宰相は、圧巻だと述べて笑っていた。その言葉の意味が、今理解できる。
 日中は暖かくなったが、日が翳りはじめると風が出てくる。肌寒い陽気だが、人通りは多かった。車椅子に乗る老人と、それを押す白衣を着た青年。駆け回る子供たちと、保護者らしい夫婦。町の人間なのだろうか、犬を連れて散歩しているものもいる。敷地が、公園代わりなのだろう。
「……入ってもいいのかな?」
「いいに決まってるでしょうカンウ様」
「いや、この敷地にじゃなくて、奥のほうに」
「多分そこの警備でふつーに面会を申し入れればいいのだと思いますが」
「かなぁ?」
「何でそんな気弱なんですかまったくもう。塩振ったナメクジみたいですよ」
「塩っ、て、なんて嫌な表現を……」
「貴方に痛い目見させられている内外の官吏たちが今の貴方をご覧になったら、唖然とするでしょうね」
 大仰に天を仰いで見せる副官に、男は眉をひそめた。
「そんなに気弱だろうか」
「少なくとも、ヒノト様に関する貴方は、子供のように頼りないのは確かですよ。皇后陛下に接する陛下や、ご夫人に対する閣下もそうですけれどね! ほら参りましょう。日が暮れてしまいます!」
「え。そんなに気弱」
「行きますよ! 時間ないんですから」
 副官は男を置いてさっさと先へ進んでしまう。その背を見つめながら、男は嘆息した。
 強引に予定を捻じ曲げてこちらへ来ているものだから、時間がないのは確かだ。せっかくこちらまで来て、会えないのは空しすぎる。
 警備の小屋の窓口で何事か話し始める副官へ歩み寄るべく、男は黙って歩を進めた。


「思ったより遅くなっちゃったね」
 寮を出てすぐに空を見上げ、アリガが呟いた。買い物に出ると決めてから、少々時間が経っている。傾いていた日が、本格的に山間に沈みかけていた。町に着く頃には日が暮れているだろう。市が開いていればよいが、そうでなければ買い物自体は、明日になる。
 連日町に出ることは億劫だが、それでも全く食材が部屋に存在しないため、今夜は食事を取りに町には出なければならなかった。二人並んで小走りで門に向かい、ヒノトは苦々しく呻く。
「ツツミの阿呆が。人を引き止めるぐらいなら、女二人の護衛ぐらい買って出ればよいものを」
「食事ぐらいおごっても、バチはあたらないよね」
「ほんとにな!」
 買い物に付き合わせようとしたら、荷物持ちを命ぜられると思ったのか、理由をこじつけて彼は逃げ出してしまった。準備中に部屋に押しかけ、邪魔をしたのは彼だというのに。
 寮や病棟のほうへと戻っていく人々と逆行するようにして、門へと急ぐ。とはいっても、そのまま門を通過してよいわけではない。外へ出る場合は、門番に連絡をしておかなければならなかった。
「あれ、誰かいる……」
 弾む息の狭間で漏れたアリガの呟きに、ヒノトは門の傍に建つ小屋の前を注視した。見慣れぬ人影が二人分、小屋の前に伸びている。男だった。この時間に、来訪者とは。長期休暇中の面会は、朝から夕刻までだというのに、知らなかったのだろうか。男の一人は、警備の人間と、何か交渉をしているようだった。
 様子を見守っていた方の男が、ふと、こちらの気配に気づいたのか面を上げる。
 ヒノトは、思わず足を止めていた。
「ヒノト? どうし――……」
「エイ」
 驚いたように、傍らで同じく足を止めたアリガの質問に答えるよりも早く、ヒノトは呻いていた。
 エイ・カンウ。
 中肉中背、黒髪黒目の細面。皇帝と宰相のような、相手を圧倒する美貌を備えているわけではないものの、柔和な印象を与える風貌は、よく整っていた。長い黒髪をうなじの辺りで適当に一つに括り、町人に混じっても目立たぬようにするためか、老竹色の簡素な衣服を身につけている。派手さはないというのに、ただ佇んでいるだけで静かな存在感を放つ、そんな男だった。
 この国で、実質上第三位の決定権を持つ、冢宰<左僕射>。
 ヒノトの、後見をしている男。
 そして――……。
 ヒノトが息を詰めている間に、警備の人間と交渉していた男もこちらの存在に気づいたのか、向き直って大きく手を振ってきた。
「あぁ! ヒノト様!」
 明るく笑ってこちらに呼びかけるその男は、ウル――エイの、副官だった。もと諜報方出身で、エイの護衛も兼ねている文官だ。彼もまたエイと同じく、簡素な衣装を身につけていた。やはり袍では、目立ってしまうからだろう。一見しただけでは両方とも、この国の中枢を担う男たちだとは到底思えなかった。
 エイが、柔らかく微笑み、両手を広げる。
 おいで、と、彼が呟いたわけではない。
 それでもヒノトは無意識のうちにその場を駆け出して、男の腕の中に飛び込んでいた。
 ヒノトが腕を男の首に回す頃合を見計らったように、彼の腕がこちらの背中に回される。彼はそのまま、ヒノトの小柄な身体を抱き上げた。
「ヒノト……」
 ――そして、この男は。
 ヒノトがこの世で最も愛する男。
 耳元で甘く囁かれる男の声に、今、息絶えても構わないと、ヒノトは本気で、思った。


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