BACK/TOP/NEXT

番外 指に絡まる一筋さえも 6


「せんせーぃ!!」
 がば、と背にのしかかってくる重みに、ヒノトは顔をしかめながらそのまま立ち上がった。
「これ、どかないか。危ないぞ」
「大丈夫ぅ! しっかりつかまってるー!」
 きゃははははと笑い声をあげる童女は、ヒノトが診ている患者の一人だ。内臓に生まれながらの疾患を抱え持っていて、悪いときは起き上がることすらできない。今日は、具合がよいのだろう。仕方がないので、ヒノトは背に負う童女の腰に手を添え、次の寝台の傍へと移動した。
「いいなぁ、ユカ」
「えへへーいいでしょー!」
「ユカ、ちょっと静かにしておれ。ナナキ、今日の気分は?」
「うん。すこしだるいけど、平気」
 寝台の上に横になり、微笑んでいる少年もまたヒノトの患者の一人である。彼らだけではない。この部屋にいる子供たちが皆そうだ。学院には病棟が併設されていて、ヒノトたち学生は、一日の半分をこちらで過ごす。三年次ともなれば、一日の半分どころか、一日中こちらにいることも珍しくはない。実習を兼ねた、勤務といったところだ。
「頭は痛くないか?」
「いたくないよ」
「腹の傷は?」
「大丈夫」
「聴診するぞ。服をあげて」
「うん」
 少年に指示する間も、部屋の子供たちは賑やかだ。いつの間にか、ユカを羨ましがった子供たちが、ヒノトの足元に群がっている。ヒノトは嘆息して、ユカを背から落とした。
「これ! 静かにせんか!」
「ごめんなさーぃ!」
「せんせー、お昼に蹴鞠しようぜー」
「わかったから! 回診終わったやつらは外へ出ておれ!」
『はぁーぃ』
「これ! ジーマ、お前はまだ安静にせねばならん。外へ出るな!」
 比較的健常な子供たちに混じって抜け出そうとする少年の襟首を引っつかみ、ヒノトは彼の耳元で叫んだ。
「うー! 耳きんきんする! ひでぇよ先生!」
「いやなら寝ておれ。少なくとも昼までは!」
「午後からはー?」
「また回診に来て、具合がよければ許可しよう。ともかく、朝は寝ておれ。薬は飲んだか?」
「飲んだー」
 やいのやいのと騒ぐ子供たちに、ヒノトは思わず天井を仰いだ。最初、この部屋は葬式でもしているかのような様子だったが、手術を受け、疾患から回復するにつれ、徐々に笑い声が響くようになり、いまとなってはこの有様である。賑やかなことはよいことだとはわかっていても、こう仕事が進まないと頭が痛い。
 ようやく担当の階すべての回診を終えたのは、昼を少し回ったころだった。
「ヒノト!」
 欠伸をかましながら食堂へと向かっていると、廊下の向こうから、白衣の裾をはためかせ、手を振って駆け寄ってくる男がいた。ツツミだ。
「おー、ツツミ。おんしも昼か?」
 立ち止まって友人を待つ。追いついてきた彼は肩を回しながら、渋い表情を見せた。
「そうそう! うー、ガキ共に蹴鞠つき合わされた!」
「あぁ、おんしが付き合わされたのか」
「聞いたぜ。ホントはヒノトが約束してたんだろー?」
「仕方なかろう。その代わりといってはなんだが、夜、本の読み聞かせにいくことを約束させられたよ」
「人気だなぁ」
「というか、あやつら妾を遊び相手か何かと勘違いしているのではなかろうか。おかげで上の階にいくのが遅れたわ」
「サイドウのジーさんたち、ヒノトには優しいからいいじゃん。俺が遅れたら大目玉だぜー。男と女で扱いが違うんだから、ジジぃたちは」
「その代わりツツミは、ばあ様たちからは受けがよいじゃろう。現金じゃなぁ、あの人たちも」
 世間話を交わし、くすくすと笑いながら食堂に入る。昼もすでに回ったというのに、食堂は回診を終えた学生たちで溢れていた。数種類ある定食を物色しながら、列に並んだヒノトたちに、手を振ってくるものがいる。先に食堂の席についていたらしい、リンとアリガだった。
「お疲れ。遅かったんだね、回診終わったの」
 昼の食事を受け取り、リンの隣に腰掛けると、向かいの席ですでに食事を終えているらしいアリガが笑った。
「今日は子供たちがすこぶる元気でなぁ。終わらせるのに手間取った」
「へぇ。でもいいことよね。私の担当のライさん、今日も痛い痛いって呻いて寝台から降りようとしないのよ。あのままじゃ歩けなくなっちゃうのに」
 どうやって歩かせようかなぁ、と、卓の上に頬杖をついてぼやくリンも、また食事はすでに済んでいるようだった。
「そういやヒノト、お前も来月、帰省することにしたんだって?」
 ようやく食事を手に入れてきたツツミが、アリガの隣の椅子を手前に引きながら尋ねてくる。
「あぁ」
 箸で煮しめを口に放り込みながら、ヒノトは頷いた。
「帰ることにした」
「あらそうなの?」
 意外そうに首をかしげたのは、リンである。
「ということは、三年ぶり? 今まで一度も帰ってなかったのに、帰るの?」
「進路を決める前に、一応いろいろ報告したりする必要もあるし。もしかしたら、卒業したらもうあちらには帰らんかもしれんし」
「田舎に就職するつもり?」
「さてなぁ」
 どうだろう。
 そんなに先の未来ではないはずだというのに、まるで霧の中のように予想がつかない。曖昧に笑うヒノトに、リンとツツミは顔を見合わせる。事情を知るアリガだけが、黙って茶碗に口をつけていた。
「ま、帰るときゃ、俺たちと一緒に帰ればいいよな?」
「ねーヒノト、都に帰ったら、一緒にあっちでお茶しましょうよ! おいしいお店知ってるんだから!」
 リンもツツミも都近郊の出である。特にリンに至っては、都の街中出身だった。彼女らは共に、来月帰省の申請を出しているのだ。示し合わせて、もとよりあちらで遊ぶつもりだという。
 帰省の予定を確認しあうリンとツツミを見守りながら、箸を動かす手を早める。今日の予定をざっと脳裏で確認しつつ、手元の問診表を撫でた。時に皆で賑やかに騒ぎつつ、こうやって仕事をしている間はすべてを忘れられる。昔、逃げるように仕事に没頭する皇帝を叱責したことがあったが、人のことは言えないなと、ヒノトはこっそり自嘲の笑みを浮かべた。
「あー食った食った!」
「やめなさいよぉ、そのみっともない仕草! おっさんよ!」
 リンとツツミは、共に研究室に用事があるらしい。食事を終えた二人は、何事か口論をしながら、それでも連れ立ってその場を離れていった。仲がよいのか悪いのか、よくわからない二人である。
 取り残されることしばし、ふと、今まで沈黙していたアリガが面を上げた。
「ヒノト、帰る前に、気をつけなきゃいけないこととか教えておいて」
「え? あぁ、うん。そうじゃな」
 ヒノトが留守の間、担当の患者の大半はアリガが診ることになっている。帰省まで、あと半月程度。同じ部屋で暮らしてはいても、互いの患者や研究の都合から、共に過ごす時間は短い。それでも暇を見つけて、患者についてはアリガに説明しておかなければならなかった。
「帰省することは、先方には連絡したの?」
「あぁ……先日来たキリコに、手紙を託けておいたから……」
 キリコは結局、あの後ヒノトの友人たちの酒盛りに参加して、場を大きく盛り上げ、翌日の早朝に帰っていった。酒の入っていた友人たちの大半は、キリコが誰なのか確かめることもなかったようだ。嵐のように去っていた女の正体に首を捻りつつ二日酔いに苦しんでいた友人たちを、介抱したのは無論、ヒノトとアリガである。
 今頃、キリコは都に帰り着いているだろう。
 エイは、手紙をもう読んだだろうか。
「大丈夫なの?」
「……何が?」
 栞の挟んである医学書を開きながら尋ねてくるアリガに、ヒノトは問い返した。
「アレから、会ってないんだろう? フツーに、顔見ることができるのかい? 会話できるのかい?」
 あのときの別れ際でさえ、マトモに顔、見れてなかったじゃないか。アリガは茶に口をつけながら、そう付け加える。
「わからん」
 ヒノトは渋面になりながら、冷めた焼き魚を箸で突っついた。そんなヒノトに咎めるような眼差しを寄越して、アリガは言う。
「定期的に会わないから、余計にしんどいんじゃないか。そもそも、あの時追い返さなければよかったのに。すがればよかったのに。行かないでってさ」
「そんな我侭言えるか」
「何でいえないのさ? 我侭を言うのはこちらの勝手だけど、それを叶えようとするのは相手の勝手さ。難しい立場なのはわかるけど、そんなことを気にするから、身動きとれなくなるんだろう?」
「アリガ」
「っていうのは、まぁ、部外者だからいえることだって、私も判ってはいるけどね」
 アリガは本に視線を落としたまま、ぼそぼそと独りごちる。彼女の弁解じみたその呟きに、ヒノトは微笑んだ。
 食事は苦心しながらも、どうにか終えることができた。冷えた昼食は、味がしない。昔は、たとえ冷えていても、お腹いっぱい食べられるだけで満足だったのに。一食だけでいい。お腹いっぱい食べて眠りたいと、昔は思っていた。それだけで幸せだと。けれど今は温かいほうがいいなどと、欲が出る。
 エイとの関係も同じだ。昔は、傍にいるだけで満足だった。幸福だった。
 けれど今は、それだけでは駄目だ。
 駄目なのだ――……。
 箸を置き、手を合わせながら、ヒノトは呟いた。
「早く、会いたいなぁ」
 本の頁を捲りながら、アリガが応じる。
「相手も、そう思ってるよ」


 学院に来て、よかったと思えることが二つある。
 一つは医学について、打ち込めることだ。すべてを忘れて、ただその道だけに没頭するということが、これほど楽で充足感を与えるものだと、ヒノトはかつて知らなかった。知識と技術を身につけ、その道に自信を持てるようになれたことは、育ての母の死に報いられたような気にもなれた。いつまでも半人前で、ただ庇護される立場であるということは、本当に辛かったのだ――そこから、ようやっと抜け出すことができた気がした。
 そしてもう一つは、新しい友人たちの存在だった。ヒノトの立場を何も知らない、医療という同じ道を追求していく同胞。そこには何の気負いもない。
 その友人たちの中でも、アリガの存在は特に救いだった。アリガもまたヒノトと似た立場で、天涯孤独ながら貴族の老夫婦の援助を受け、学院に入った学生だった。物をよく知った同じ年の友人は、何をするにも気が合ったし、それ以上に、ヒノトがエイのことを相談できる、たった一人の存在だった。
 何故、相談してくれなかったのかと、遠方から訪ねてきたキリコは、ヒノトに問うた。
 相談できるはずがないではないか。彼女らは確かに大切な友人だったが、あまりにもエイに近すぎる。ヒノトが危惧することを打ち明けたとして、複雑な立場と自分との間に、彼女らが板ばさみになるようなことは、避けたかった。それは彼女らを苦しめるかもしれないという理由からではない。
 絶望することが怖かった――迷うことなく、彼女らが立場を選んだ、そのときに、あの場所で、友情を失うことが怖かったのだ。もしそうなれば、もう自分は、あの場所には帰れないだろうから。二度も帰る場所を失うことは、ヒノトにとって耐え難いことだった。
 アリガは唯一、ヒノトとエイの関係を、遠い国の物語のように口にする。ヒノトの味方であり続ける。
 とはいえ、アリガは最初から、ヒノトの親友としてあったわけではない。
 きっかけはそう。
 エイの、来訪だった。


BACK/TOP/NEXT