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番外 指に絡まる一筋さえも 5


 コリューンによってその地位を引き摺り下ろされ、後に処刑された前領主には、娘がいた。その娘がエイに会いたがっていると遣いが来たのは、老師が死に、館を閉めて、都への出立の準備に追われていたころのことだった。
 無論、前領主の娘とやらに、面識はない。何ゆえ見ず知らずの娘が自分に会いたがるのかと首を傾げながら、エイはそれでも召喚に応じた。コリューンの顔を立ててのことだった。
 招待状を持って城に入り、先を行く女官の背を眺めながら階段を昇る。案内された先は、城の一角にある塔の最上階だった。見張りの兵が一人、階段を上りきった場所に立っている。廊下の先には扉が一つ。その先へと進むように、指示された。案内してきた女官は、そこで辞去していった。
 扉には、鍵が掛かっていなかった。
 慎重に、取っ手を回して扉を押し開ける。古い蝶番が女の悲鳴のように耳障りな音を立てた。扉の向こうにあるのは居間だった。花の活けられた小さな円卓と椅子がある広間の更に奥に、もう一部屋があるように見受けられる。誰もいない広間を歩いて、エイは奥へと向かった。
 奥は、寝室だった。
 天蓋付の寝台が一つ据え置かれている。壁際に位置する衣類などを収めていると思しき小さな箪笥。その上に置かれた水差しと高杯。家具といえばそれだけだった。殺風景な部屋だ。その部屋の、格子の嵌った窓辺に、女が背を向けて立っていた。
 挨拶を口にしかけたエイは、驚愕に身体を強張らせていた。
 女が、振り返る。
 彼女は、微笑んだ。
「久しぶりだ、エイ」
「……カグラ……」
 長い黒髪を背に落とし、白い上着の前を掻き合わせて立っていた女は、見間違うことなく、ここのところまったく姿を見せなくなっていた女、カグラだった。
「なぜ……いえ、どうして……あなたが?」
「聞かなかったのか?」
 エイの問いは、問いとなっていなかった。その様子がおかしいのか、口元に手を当て、くすくすと笑いながら彼女は続ける。
「以前の領主の一人娘が、お前を呼んだのだと。それは私のことだよ、エイ」
「……本当に?」
「嘘を言ってどうするんだ」
 人の話を信じろと、半眼でカグラは睨めつけてくる。エイは瞬きを繰り返し、師の遺言を思い返していた。
 ――立場。
 あの老人は、カグラの立場を、知っていたのだろう。だからこんな遺言を残した。
 エイは当惑しながら、ゆっくりと歩み寄ってくる女を見返した。
「カグラ」
 一定の距離を保って、女は立ち止まる。エイの呼びかけに、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「あぁ、よかった。もう二度と会えないかと思っていたんだ」
「……いったい、これは、どういう、ことなんです?」
「どういうこと、とは?」
 エイの質問を、そのままカグラは投げ返してくる。エイは胸中に次々と湧き上がる疑問の整理に努めるべく、一度唇を引き結んだ。そうしなければ、まともな質問を口にできそうになかったからだ。
「ま、一番の疑問は、何故娘である私が、お前たちに依頼して、父である領主をその地位から引き摺り下ろそうとしたか……と、いったところだろう。違うか? エイ」
「……そうです」
 そう、カグラの言う通りだ。
 カグラが前領主の娘だというのなら、何故彼女はコリューンを支援し、そして自分とコリューンを引き合わせて、革命のお膳立てなどしたのだろう。前領主の夫人は、ずいぶん昔に病没したのだと聞いた。たった二人だけの、血の繋がった家族のはずであろうに。
「貴族の血の繋がりなど、呪いのようなものよ」
 エイの心中を読み取ったかのように、皮肉に表情を歪めてカグラは言った。
「お前たちのような市井の家族というものの定義がどういったものか、私は知らない。だがな、エイ。あるときは憎悪となり、あるときは束縛となり――……私たち古い血の人間たちは、禍々しい因習に絡めとられている。兄弟が多ければ、権力を求めて互いを蹴落としあう。親子ですら、その命を奪い合う。それは決して、食うに困った母が子供の未来を案じて奪う、そんな親心からではない。互いの腹を探り合って、猜疑心から殺し合いを演じるのだ。……都へ行くのだったら、覚えておいて損はないぞ。あそこは特に古い奴らが寄生しているからな」
 くつくつと、嘲笑に喉を鳴らすカグラに、エイは尋ねた。
「……貴女の父は、貴女を愛さなかったのですか?」
 権力を奪うのではないかと、彼女の父は彼女の存在を、恐れたのだろうか。
「その、逆だ」
 カグラは静かに首を横に振り、エイの言葉を否定した。
「父は私を強烈に愛していた。愛しすぎていた、というのだろうな。狂っていたよ。あれほど愛していた私の母を、自らの手で殺めたことが悪かったのだろう。母は権力に惹かれた両親によって父に売られた下級貴族の女よ。婚約者もいたというのに、引き裂かれて父に嫁いだ。その不満がずっと燻っていたのだろうな。不義を働いた母を、父は許すことができずに、怒りに任せて殺してしまった。それ以来、父は私に強烈な執着を覚えた。……エイ、この部屋はな。父が身罷った後に私に与えられた部屋ではない。窓という窓に格子の降りたこの部屋は、元より私の部屋なのだよ」
 カグラに言われて、エイは改めて部屋を観察する。不要な装飾品を省いたあまりに殺風景な部屋は、まるで牢獄のようだ。彼女の言う通り、部屋に明かりを取り入れる窓には全て、鉄格子がはめ込まれている。
「この部屋、が……?」
 逃げられぬように。
 まるで、檻のような。
「でも、貴女は、師に、私に、会いに来ていた――……」
 エイの呆然とした呟きに、カグラは微笑んだ。
「私には年恰好の似た乳兄弟がいてね。私を哀れんだ彼女は、時折私の身代わりを、買って出てくれていた」
「その子は?」
「死んだよ。彼女の親とともに、私の父によって殺された。父がその地位を失う、ほんの少し前の話だ」
「では、貴女が、しばらく姿を見せなかったのは」
「うん。彼女が殺されてしまってから、出られなくなってしまったんだ」
 彼女のために殺された乳兄弟の娘を思ってか、カグラの瞳が寂寥らしきものに細められる。かけるべき言葉が見つからず、唇を引き結ぶエイに、カグラは一転して明るい笑みを見せた。
「お前に会うために、外に出すぎたのが悪かったんだなぁ、きっと」
「……私のせいですか?」
「うん。お前のせい」
 エイの問いに即答したカグラは、くるりと踵を返した。寝台の上に腰を下ろし、整えられた掛け布を撫でながら、彼女は続ける。
「あんまりにも町に出すぎた。全部、お前のせいだ、エイ」
 自分が、何をしたというのだろう。
 思い当たる節は何もない。困惑から眉間に皺を刻んだエイを認めたカグラは、おかしそうに噴出した。町で会っていたころのように、彼女は腹を抱えて笑い転げる。
「まったく、嫌になるな。お前のその鈍さ」
 笑いから滲んだと思しき涙を、指先で拭いながらカグラは呻く。
「何がです?」
 エイの疑問に、カグラは答えるつもりなどないようだった。
「私は父から自由になりたかった」
 表情を消して、カグラは言った。
「父は、領主として無能だった。皇帝陛下はいずれ父からその権力を奪っただろう。そのとき、私はおそらく自由になれた。けれど、それでは、遅い」
「……どういう意味で……カグラ!?」
 突如身体を圧し折り、激しく咳き込み始めたカグラに、エイは慌てて駆け寄った。寝台の傍らに膝を突き、その顔を覗き込む。髪を乱しながら身体を跳ねさせるカグラの呼吸音には、かすかな喘鳴が混じっていた。
「カグラ?」
 ようやっと咳が収まると同時、女の白い手が、エイに伸びる。
 そのしなやかな腕がエイの首に絡みつくと同時、温かなものが唇に触れた。
 まるで、掠め取るような。
 口付け。
 初めて彼女と交わすそれは、鉄の味がした。
「こういう理由だ」
 エイの眼前に、赤く染まった手のひらを翳しながら、カグラは言う。彼女はその手をエイの唇に触れさせると、細い指で彼女自身の血を拭った。
「安心しろ、移るような病ではないから」
 自嘲に目を細めると、彼女は縋り付くようにエイに身体を寄せる。
「自由に、なりたかった」
 カグラは、エイの耳元で囁いた。
「一刻も、早く。父の檻の中から。皇帝陛下の沙汰など、待っていられなかった」
 華奢な女の身体を抱き返しながら、エイは呻く。
「……どうして、私だったんですか……?」
 何故、自分だったのだ。
 何故、自分を、巻き込んだのだ。
 何故、自分を――……。
「何故だろう。こんなにも、愛しがいのない奴なのに」
 エイを抱き寄せる女の腕に、力が篭る。
「お前は、あの館にいた奴らの中の誰とも異なっていた。私が出会った男の誰とも違った。お前のことは老師から聞いて知っていた。あの中で一人、闇市で働いていたというのに、あの中で一番、馬鹿で、真面目で、お人よしで……不思議だった。何故お前は、人の狂気に触れているはずなのに、そんなに綺麗でいられるんだろう。けれどな、私はふと思ったのだ。あぁお前も、もしかすると、ただ、歪んだだけなのではないかと」
「カグ」
「父の狂気に引きずられ、そのまま狂えていたのなら、どれほど楽だっただろう。けれど私はそうならなかった。そうなれなかった。私は、私を慕ってくれる彼女らのために、明るい娘であらなければならなかった。なぁエイ、私は、よく笑う女だっただろう?」
 カグラは正しい。実際、彼女はよく笑った。何がそれほどまでにおかしいのかと、思ったことは一度や二度ではすまぬほど、些細なことで、周囲を和ませる明るい笑い声をたてたものだった。
 カグラの言葉は理解できる。理解、できすぎてしまう。
 だからこそ、認めたくない。蓋をしていたい。
 脳裏の奥で、警鐘が鳴る。
 しかしながら、カグラの柔らかい声音は、エイの耳朶を甘く震わせた。
「平和ならば、殺さなくてもいい。犯さなくていい。奪わなくていい。逆を言えば、平和ならば、その行為は狂っている。人の狂気が、そうさせる」
 エイは、耳を塞ぐ代わりに瞼を閉じた。しかしその裏に、ぼうと浮かび上がるのは、エイがかつて身を置いていた闇市での光景。時に奪い、時に犯し、時に殺す、宴にも似た狂乱だった。
「エイ、覚えておくといい。狂気に触れた人間の中には、檻ができるのだという。自分が生きていく為の支え。現世と自分の魂を繋ぎとめておくための、要を、閉じ込めるための、檻が」
 お前の中にも、檻がある。
 カグラは、エイの胸元を指差しそう言った。
「父の中には檻があった。私はずっと閉じ込められていた。では、父の狂気に触れ続けていた私は? 私の中にも、檻はあったよ。エイ、お前と出逢ってから、私は、お前を檻の中に閉じ込めたくて仕方がなかった。私と同じように人の狂気にも触れているのに、それでもお前は、呆れるほどに、優しい――……」
「私は、貴女が思うような、そんな綺麗な人間ではない」
 僅かに頭を横に振って、エイは呻く。胸中で繰り返した。そんな、綺麗な人間ではない。
 エイの肩に伏せていた顔を、カグラは起こす。吐息が触れるほどの距離で、彼女は嫣然と微笑んだ。
「愛しているよ、エイ。お前を私の檻に閉じ込めると同時、お前の檻の中に、入ってみたかった。それが叶わぬのなら、せめて、お前の檻に、誰が入るのか見届けたかった。けれど私には、それすらも、できそうもない」
 こほ、と咳を繰り返し、カグラは再び血を吐いた。僅かな量だ。しかし、病魔が彼女を確実に蝕み、その生が終わろうとしていることは明白だった。
 カグラを愛していたか、と問われたならば、否、と答えるだろう。
 好いてはいたが、それは友人としての愛情だった。恋情ではない。
 それでもエイは、紅を刷いたような唇に触れ、玻璃細工のように繊細な身体を強く抱きしめた。
「あぁ、ほら」
 カグラは涙に濡れた頬を寄せて、囁いた。
「お前はこんなにも優しく――……そしてあまりにも、残酷すぎる……」
 きっとお前を愛した女は、私と同じように幸福で。
 そして不幸になるのだろう。
 お前が、檻の中に、その女を閉じ込めない限り。


 お前は誰を、その檻の中に入れるつもりだ? エイ――……。


 ぼやけた視界に、天井の木目が映る。
 頭痛を覚えて低く呻き、手で目元を覆ったエイの鼓膜を、男の声が震わせた。
「おぅ。起きたのか」
「……イルバ、さん?」
 首を動かして、エイは声の方向を確認した。窓辺に立っていた男が、エイの呼びかけに頷いて応じ、歩み寄ってくる。縦縞模様の袍を身につけ、白い上着を肩にひっかけた、体格のよい壮年の男だ。長い赤毛を乱雑に首元で結わえ、粗野な雰囲気をかもし出しているが、目を逸らさせない魅力の備わる男だった。
 イルバ・ルス。水の帝国で第四位の権威を持つ冢宰<右僕射>が、彼である。
 寝台に横になったままのエイの傍らで立ち止まり、腕を組んだイルバは、髪の色と反する藍色の双眸を柔らかく細めて笑った。
「気分はどうだ?」
「……最悪です」
 大丈夫だと答えるべきだったかもしれない。しかし今のエイには余裕がなかった。まるで二日酔いのように、頭がひどく痛む。最悪の目覚めだ。
「水でも飲むか? もってきてやろう」
「ありがとうございます……」
 謝辞を口にしながら、緩慢な動作で身を起こす。彼の行為に甘えて、エイは差し出された水を頂戴した。
「丸一日寝てりゃ、結構すっきりしたろ」
「すっきり、っていうんでしょうか、これ。……丸一日? 今日はいつですか?」
「お前がぶっ倒れた夜の翌日、の、夜」
「う……わぁ」
 倒れた上にそのまま昏睡してしまったなんて。体調管理も仕事の上だというのに。
 生まれて初めての失態に、エイは寝台の上で頭を抱えた。
「仕事終わって、俺も屋敷に帰りがてら、様子見に来たんだよ。ちょうどよかった。少し話せるか? 医者に診てもらってからでいいからよ」
「いえ、今すぐでかまいませんよ。何用ですか?」
 イルバは水差しを寝台の傍の棚に置くと、手近な椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「とりあえず、ラルトから休めって命令。命令だかんな、破るなよ」
 体調が戻るまで、出仕するなということだ。エイは嘆息した。
「あきれられたでしょうね、陛下」
「そうでもねぇさ。あいつもよく倒れるぎりぎりまで無茶するからな。昔、過労で胃をやっちまって、シノにそれみたことかと説教されたことがあるらしい。むしろお前に無理をさせてた自分を責めてたぞ」
「気になさらないでください、と、お伝えください」
「あぁ」
 伝えておく、と皇帝への伝言を預かって、イルバは頷いた。
「まず、それが一点目。で、それに伴って、メルゼバとの国境街道整備の件、俺が引き継いだかんな」
「すみません」
「まぁこの件はもともと俺んとことお前んとこと管轄が被ってたし、八割がた終わってる。円滑にいくだろ」
 宰相と右僕射が不在だった折は、エイは外交内政両面にかかわることが多かった。しかし人員がそろってからは、大抵、左僕射であるエイが内政業務を、右僕射であるイルバが、外政業務を引き受けている。国境街道整備は外交にもかかわってくるので、もともと二人で監理していた事業である。
「これだけ、期日が迫ってたしよ。先に報告しとくわ。ほかにも俺が引き継いだものがいくつかあるんだが、またまとめてこっちに報告を寄越す。具合がいいときでいいから、目を通しておいてくれ。ウルが処理してるもんもあるけど、ウルじゃ裁可とれねぇやつはラルトが見てるから。そこらへんは、また後で確認しといてくれや」
「本当にすみません。ありがとうございます」
 申し訳なさに萎縮しながら、エイは頭を垂れた。
「礼はジンにもいっておいてくれ。俺の管轄、いくつかあっちに回ったからよ」
「あぁ、はい。わかりました」
「以上が、二点目だ」
 そういうと、イルバは懐に手を差し入れた。引き出されたのは、白い封書である。照明の落とされた部屋において、その輪郭は鮮やかだった。
「で、これが三点目」
「これは……?」
「ヒノトからの手紙だ」
 まだ届いていなかった、今月分の手紙。
「元気そうだったってよ、ヒノト」
「元気そう、だった?」
 エイはイルバの表現に眉をひそめた。まるで、誰かが彼女の様子を見てきたといわんばかりの。
 無言のエイの追求に、イルバは肩をすくめる。
「お前には悪いと思ったが、実は先日、うちのキリコをガランに遣って、ヒノトの様子を見に行かせてたんだ。そろそろどうしたいか決める時期だろうが、お前んとこのウルよか、同年代で女のキリコのほうが話し易いだろうって思ってよ。そいつはキリコが預かってきたんだ。今朝戻ってきた」
 イルバの言葉を聞きながら、エイは手紙を裏返す。
 封書には、見慣れた筆跡で署名がしてある。
「……今読んでも?」
「あぁ」
 許可を求める必要などないというように、手紙を開封するよう、イルバは顎でエイに促した。
 乾いた音を立てる紙片を開きながら、エイは無言で文字を追う。いつも通りの挨拶から始まり、手紙には近況が書き連ねてある。端々に挿まれる、こちらの様子を尋ねる内容。ちゃんと休んでいるか。倒れないようにしろとの彼女からの諫言に、エイは苦笑した。今このように寝台の上に寝そべる自分を見たとしたら、彼女はどのように説教するのだろう。
 ざっと流し読みしていたエイは、最後の一文に、息を詰めた。
『来月に、一度帰ります』
 そこには、進路相談のために許可を取って一度帰省する旨が、何気なく、簡潔に記されていたのだ。


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