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番外 指に絡まる一筋さえも 4


 学館、というものがある。
 もともと、貴族の子息用として存在した学び舎だが、新しく位についたばかりの皇帝が制度を刷新して、平民でも入学できるようにした。とはいえど、ある一定の学力がなければ内容についていくことができないし、体力もいる。推薦状も必要となる。結局、師のもとで学ぶ少年たちの中で学館への入学を許されたのは、エイ一人だった。
「弓の成績は?」
「優」
「槍は?」
「良」
「ほかは?」
「訊かないでください」
「……お前、本当に間合いのあるものばっかり得意なんだなぁ」
「根が臆病なんですよ。放っておいてください。最低の合格の線は越えているんですから」
「上を目指さないのか」
「苦手なんですと、何度言ったらわかるんですか」
 エイが学館に通っていることは、師から聞き及んでいたらしい。言葉を交わすようになって以降、毎日とはいわずとも、カグラはよく帰り道でエイを待ち伏せした。その日もカグラは館への帰途についていたエイを捕獲して、町の通りへと引きずっていった。茶屋の一角を陣取って、学館の話をエイにねだるのはいつものことで、その日が普段と違っていたのは、茶を注文したことぐらいだろうか。いつもは白湯だけを頂戴して、店の人間に白い目で見られる。だが今日は注文したことに安堵したのか、店主は早々に店の奥へ姿を消していた。
 茶屋の窓からは遠くに城を望むことができる。フベート領主が住まう城だ。頬杖をつき、ぼんやりとその古城を眺めながら、エイは付け加えた。
「あと一言弁解させていただくなら、学館には武官志望の人も山のようにいますし、成績は彼らと同じ判断基準での成績ですからね。それでも優が一つあることを褒めてくださいよ」
「前半は本気で言い訳だな」
「……カグラと話すと疲れます」
 ぐったりと肩を落とすと、向かいの席に座るカグラは楽しそうに笑った。何が楽しいのかと、いつも疑問に思う。
 親しくなればカグラは意外に若い。エイよりも幾許か年嵩か、同じ年程度だろう。妙な老成さを宿す瞳と、その冷たささえ宿す端整な造作の顔立ちとは裏腹に、カグラは豪快に笑った。エイといるときの彼女は、まるで子供のようによく笑い転げた。その理由の大半は――エイの行動をあげつらうようなものばかりだったが、当初は不快感を覚えこそすれ、今はもう慣れてしまって、どうにでもしてくれという気分である。
「でもまぁ、人間誰しも一つぐらい欠点がなければかわいげないな」
「えぇそうでしょうね。ありがとうございます。別に貴方にかわいく思っていただく必要はないですが」
「かわいいかわいいかわいい」
「嫌がらせですか」
「そりゃぁもちろん。かわいいよ、エイ。どちらかというと女装してもいけそうな顔しているものな」
 白い指が顎に添えられ、強引に正面を向かせられる。相対したカグラは実に楽しそうに、薄い唇を曲げていた。まったく、自分は彼女の玩具ではないのだが。エイは嘆息しながら、その手を押しのけた。
 師からもできるかぎり、彼女にはよくするように言われているし――エイ自身も、何かしら理由をつけて自分を訪ねてくる彼女を嫌いにはなれない。邪険にするつもりはない。それでも、我慢の限界というものはあるのだ。
「特に用事がないのなら、私はもう帰りますよ」
「あぁ待て」
 腰を浮かしかけたエイの衣服の裾を、カグラは珍しく真剣な面持ちで強く引いた。
「悪かった。からかいすぎた。待ってくれ。エイ、今日はお前に会わせたい奴がいるんだ」
「……会わせたい人?」
 うん、と首を縦に振った彼女は、視線を店内に廻らせた。客はエイたちを除いて誰もいない。完璧に閑古鳥が鳴いている。別にこの茶屋だけではない。領主のお膝元の町でさえ、人通りは確かにあれども少なく、鬱屈とした雰囲気に包まれている。
 皇帝が代替わりをして、数々の制度が改革され、無能な官僚は追いやられたときく。とはいえど、国すべてにおいて徹底されているというわけではない。フベートは水の帝国内でも田舎に位置する地方だ。皇帝の救いの手が届くには遠く、現在も前皇帝時代からの領主による搾取が続いていた。
 目抜き通りから一歩外れれば、浮浪者たちが栄養失調から膨らんだ腹を抱えて折り重なっている。年端もいかぬ童女が痩せた身体で春を鬻(ひさ)ぐ。そういったことが端々に残る地方。それがフベートだった。
 茶屋に男が一人暖簾を押し分け入ってきたのは、カグラがエイを引き止めてすぐのことだった。
「遅くなってすまない」
 歩み寄ってきた男は、カグラに謝罪し、エイに不躾な視線を寄越した。
「この、男? 若すぎないか? カグラ」
「能力に年齢も出自も関係ない。それがお前の信条だったのではないか? コリューン」
 エイの内情を代弁するかのように、カグラはむっとした表情を浮かべ、冷ややかな口調で言葉を男に叩き付けた。コリューンと呼ばれた男は渋面になり、まずエイに向かって丁寧に頭を下げる。
「……初対面だというのに、失礼をした」
「いえ。気になさらないでください」
 侮られることには慣れている。生れ落ちたその瞬間から。
 エイが浮かべた微笑に、コリューンは表情を緩めて椅子に腰を下ろした。
「紹介しようエイ、こっちがコリューン。コリューン、こっちがエイだ」
「初めまして」
 差し出された男の手を、エイは困惑を押し殺しながら握り返した。握手を交わしながら、改めて男を観察する。
 短く髪を刈り揃えた、無骨な感じのする男だった。年は、三十路に届かず、といったところか。身なりはよいともいえず、かといって格別悪いわけではない。ようするに、普通だ。しかし薄い茶の瞳には叡智が見て取れ、身のこなしには隙がない。
 得体の知れぬ男と自分を引き合わせて何をしようというのだろう。意図を探るべくカグラへと視線を動かす。
 目が合った彼女は、嫣然とした微笑を浮かべて、エイを誘った。
「エイ、領主を、この男と一緒に引き摺り下ろしてみないか?」


 皇帝と宰相の手によって移動を余儀なくさせられた領主たちが多い中、フベートの領主だけはその指示を待たずに交代が起こった――民生による、領主交代劇である。
 首謀者はコリューン・タクト。フベート地方に籍を置く、一貴族の妾腹の子として生まれた彼は、その人望と才知によって、城に勤めていた下級官吏や下級貴族、暴利を貪られていた民衆たちを味方につけ、交代劇を成功させた。新しく領主として奉じられた男はコリューンの腹違いの兄である。異母弟と異なり病弱だが、その病ゆえか情に厚く、そして政治の才に優れる彼は、以後、病没するまでフベート地方をよく治めていく。
 コリューンは交代劇の後に皇帝のお膝元、都の宮廷で一時官職を戴いていたが、数年後にはフベートへと戻り、この兄を助け働くこととなった。
 交代劇の最中、コリューンを補佐した少年の名前は、記録には残っていない。


 カグラがいなければ、この領主交代劇に一枚噛もうなどと、エイは思わなかっただろう。
 エイが学館卒業と同時に農奴の出身でありながら、都の宮廷に官吏として取り立てられたのは、コリューンの推挙が大きい。カグラに出逢わなければ、彼女がコリューンとエイを引き合わせなければ、エイが、フベートの領主交代劇に参加しなければ。
 エイは左僕射の位に就くことも、そしてなにより、ヒノトに出逢うこともなかったのである――……。


「カグラを見なくなりましたね」
 交代劇が終わり、穏やかな日々が戻ってから、カグラの姿を見なくなった。
 否、カグラは、エイをコリューンと引き合わせた後から徐々に姿を見せる回数を減らし、交代劇に人々が沸き立つころには、完全に音沙汰なくなっていたのである。
 新しい皇帝の治世は、今までと異なって民衆に優しいものだと判り始め、また交代した領主もその皇帝から正式にフベート地方に奉じられたとあって、町は今までなく活気付いている。しかし、エイの暮らす館は消沈していた。館の主である老人に、死期が近づいていたからだった。
 この頃にはエイの朋輩たちは皆、職を見つけて館を去っていた。老人の寝室の空気を入れ替えていたエイの口から何気なく漏れた言葉に、寝台の上の老人が反応する。
「エイ」
「……はい、老師?」
 老人は手招いてエイを呼び寄せると、大きく吐息を零した。手を振るその僅かな動作にすら、体力を使ってしまうらしい。エイは老人の口元に耳を寄せ、辛抱強く言葉の続きを待つ。
「都で仕官するのなら、姓がいるだろう」
「……そうらしいですね」
 官吏になるために、必ず姓がいるということではないが、あったほうが響きがよい。そのようにコリューンから助言され、考えている最中である。
「カンウという名前をやろう」
 老人が、何を思ってその姓を口にしたのかは知らない。ただ、エイは静かに頷く。
「ありがとうございます。そうします」
「エイ」
「はい」
「……立場というものに囚われるな」
「はい」
「お前を正面から見据えてくれるものには、立場隔てなく、心を以って応じろ」
「……私はそんな、大層な人間ではないですよ、老師」
 まるで、エイが上の人間だとでも言わんばかりの忠言に、エイは苦笑する。だが、その言葉がもっと別の意味を以って吐かれたのだと知ったのは、この寡黙な老人が死んだ後のことである。
 そう。
 カグラと再会したとき。
 老人の遺言となった言葉の本当の意味を、エイは思い知ることとなったのだ。


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