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番外 指に絡まる一筋さえも 3


『殺しておけ』
 背後から響いた命令に、首をわずかに動かして振り返る。そこにいた男は、この奴隷市を貴族の何某から任されている男だった。
『そいつ、どっからか病を引き受けてきやがった。もう使い物にも売り物にもなんねぇ。餌の無駄だ。殺せ』
 男が指し示した先には、檻がある。
 少女が一人、押し込められた檻。
 命令に背く理由を、持っていなかった。男の指示に小さく頷いて、腰に挿している短刀を鞘から抜く。小ぶりの拵えであるはずの刃は、傍目から見ればまだ少年の手に大きく不釣合いだ。しかし、扱う当人からすれば、すでにしっくりと馴染んでいた。
 檻の中の少女は、自分もまた力に飽かせて犯したことのある少女だった。売り物の少女たちは、暇な男たちのいい慰み者だった。自分はそれを彼女らに自ら望んだわけではない。しかし男たちに誘われれば拒否はしなかった。犯すことも脅すことも殺すことも躊躇わなかった。それが、何もない自分が生き残る最善の策だったからだ。
 檻の中の少女が、気だるげに面を上げる。
 少女は、病を得たもの特有の浅く早い呼吸を繰り返し、ひび割れた唇を動かして何事かを紡いだ。
 祈りの、言葉だろうか。
 鎖の音を響かせ、鉄格子の傍に自ら這い寄った少女は、殺してくれといわんばかりに目を閉じる。
 どこか恍惚とした表情を浮かべてすらみせて。
 それが。
 わかるのに。
 少女の、顔が見えない。
 檻の中の少女の、顔が見えない。
 刃を振り下ろす手を止める。
 脳裏に、穏やかな女の声が響いた。

『お前の中には、檻がある』
 ――お前は誰を、その檻の中に入れるつもりだ? エイ……。


「カンウ様!」
「――っ!?!?」
 揺り起こされて我に返ると、すぐ傍にあったのは男の顔。エイは瞬きを繰り返しながら、その顔の主、自分の副官の名前を呼んだ。
「……ウル?」
 安堵したような表情を見せる男の手をゆっくりと押しのけて、エイは身を起こした。軽く頭を振って周囲を見回す。ここが執務棟にある、自分に与えられた個室だと認識するのに、時間はかからなかった。
「……カンウ様。お休みになられるのでしたら、せめて仮眠室に入って寝台の上に横になられてください」
「……あぁ、ごめん。転寝してたのか」
 執務机の上に臥せって、寝入っていたらしい。自分の体に押しつぶされてくしゃくしゃになってしまっている書類をつまみ上げ、エイは思わず嘆息をこぼした。
「転寝、というような感じではありませんでしたよ」
 肩をすくめ、呆れ顔でウルは反論した。
「いくら起こしてもなかなか気づかれませんでしたし。……ひどい、うなされようでした」
「うなされて?」
「何か、悪い夢でも見てらっしゃったのですか?」
「……そうかもしれない」
 ひどい頭痛に、こめかみを押さえながらエイは呻いた。確かに奇妙な夢を見ていたような気がするが、内容はさっぱり思い出せない。ただ、胃の辺りに鉛を仕込んだような、不快感だけが意識を支配している。
「お疲れなのでしょう」
 戸棚の中から茶道具を引き出しながら、ウルは言う。
「顔も青いですよ。ここのところ、忙しかったですしね。お茶を淹れましょう。それを飲んで、今日はもうお休みになられてください」
「でも、まだこれ処理し終えてないし。これだけやってから」
「駄目です! 一度きちんと寝てからになさってください。……まったく、ヒノト様がいらっしゃらなければ、ろくに休もうともなさらないのですからこの方は」
 エイが後見をしている少女の名前を出され、思わず苦笑が漏れる。ウルは素早く茶を用意してしまうと、その茶碗を叩き付けるようにしてエイの前に据え置いた。
「ヒノト様の等身大人形でも作りましょうかねぇ。見張りのために」
「ウル、それはさすがに……」
「冗談ですよカンウ様。何、真に受けてらっしゃるんですか」
 冗談だとわかってはいても、ウルの目がやけに真剣みを帯びていたので、つい口を挟んでしまった。これ以上、副官からお小言を頂戴しないために、エイは黙って茶を啜る。それほど自分は休んでいないだろうかと、脳裏で最近とった休暇を計算しかけ、やめた。そもそも、休暇自体をここ半年、否、それ以上、頂戴していないということに気がついたからだった。
(ヒノトがいないと、休まない、ですか……)
 確かにヒノトがいた頃は、彼女と過ごすためにできる限り休暇を消化しようと試みていた。多忙を極めていたために、どこかに出かけようといった類の約束はほとんど反故にしてはいたものの、半日の休みをとってゆっくりと過ごすことは、ままあったのだ。三年前の春、彼女が突如、学院への入学を決めて都を去って以来、休暇をとるということ自体を失念しがちだ。ウルの物言いが増えるのも無理はなかった。
「ヒノト様から、お手紙はきましたか?」
 茶道具の片付けに入ったウルから声がかかる。処理しかけの案件について記された書類を眺めていたエイは、茶碗から唇を離して首を横に振った。
「いや、今月はまだ来てないよ」
 この三年間、ヒノトは全く帰省していないが、手紙は月に一度欠かさず来る。そろそろ来る頃合だが、今月の手紙はまだ届いていなかった。
「ヒノト様も、今年で学院卒業ですねぇ」
「そうだね」
 ウルのつぶやきに、エイは相槌を打った。学院は三年まで。年明けの春には、ヒノトも学院卒業となる。
「卒業後、ヒノト様がどうなさるか、今までの手紙に書かれていませんでしたか?」
「書いてあったらとっくの昔に報告しているよ、ウル」
 机の引き出しの奥に仕舞われているヒノトからの手紙の束を、茶碗を置いて思い返す。毎回送られてくる決して少なくはない紙の束には、ヒノトの近況や彼女の新しい友人たちの話、こちらの近況がどういったものかを尋ねる旨が記されている。しかし、将来どうしたいかといったことには、彼女は一度たりとも触れたことがない。
「でも、ここに帰ってくるだろう?」
「でしょうね」
 微笑んでウルは同意したものの、少し間をおいて、ですが、と、付け加えた。
「ヒノト様は、全てご自分で決めておしまいになられますからねぇ」
 彼女は、いつも何も言わない。
 何も言わずにすべてを決めてしまうようになったのは、いつの頃からだっただろうか。
 エイは軽くこめかみを揉み解しながら、過去を省みた。
 宰相が無事婚儀を挙げた後、内輪だけの小さな祝いの席で、何かのついでのようにヒノトはこの都を発つのだと口にした。あの時も、ヒノトはエイに対して相談も何もなかった。それより前はどうだっただろうか。記憶を遡ってみたはものの、思い出すことができなかった。
 思い出すことが、できない。
 ヒノトの、顔すら。
 そのことに、エイは愕然となった。
(おもい、だせない?)
 茶碗を握り締めて、自分に一番近しい少女の顔を、思い出そうと試みる。三年はいくら長い月日とはいえ、忘れるなどと薄情なことあってたまるものか。しかし、大まかな特徴は思い出せても、脳裏に描く輪郭はどうにもぼやけてしまう。
 奇妙なことだった。
 ヒノトの故郷である小国リファルナで出逢った頃の彼女の顔は、今もはっきりと思い出せるのに、三年前の別れ際、否、二年前の春先での彼女の姿が、霞がかったようにひどく不鮮明だ。最後に会ったときの彼女の顔こそ、覚えていてしかるべきだというのに。
 思い出せない。
 顔がない。
 顔が、見えない。
 少女の顔が。
 檻の中の。
「カンウ様?」
 いつの間にか、すぐ傍らに、ウルの顔がある。
 彼は眉間に深く皴を刻み、案じるようにこちらの顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? 本当にお顔の色が悪い。気分が優れないのではないですか?」
「大丈夫――……」
 笑顔を取り繕ってはみたものの、確かに胃が重たかった。嘔吐感ともまた違う、不快感が絶えず渦巻いている。
 これはウルの言う通り、もう横になったほうがいいのかもしれない。
 そう思い、空になった茶碗を置き、立ち上がろうとした、その瞬間だった。
 網膜を焼く光が視界を満たし、音がすべて消え失せる。指先の感覚を見失うと同時、体中の熱が一瞬にして奪われた。浮遊感が体を取り巻き、そしてそのまま平衡感覚を失って、墜落する。
 しばらくして身体を襲った、叩きつけられたかのような衝撃。
 意識が途絶える寸前、遠い記憶の中にしかいない、女の声を聞いたような気がした。


 せめて、お前の檻に、誰が入るのか見届けたかった。
 しかしそれすらもできそうにない。
 だから私は、お前に楔を打つよ。
 愛しているよ、エイ。
 あいしている。
 ずっと。


 その女は、師である老人を訪ねて、時折、館にやって来た。粗末な身なりをしていたが、艶やかな黒髪を背に落とし颯爽と歩く姿は、彼女が農民ではなく、もっと高い身分の人間だと告げていた。さまざまな憶測が飛び交ったが、最終的には彼女の身分などどうでもよく、衣服の下に隠される日に焼けていない白い肌が、どれほど滑らかかなどといった下世話な推測を交わすにいたっていた。若い男たちの会話など、所詮その程度だ。
 同じように師に拾われ館で教育を受ける朋輩たちの、そういった話にエイはまったくといっていいほど興味がなかった。と、いうのもこの館に来るまでの、経緯が関係しているのかもしれない。
 皆、スリを働いたところを勘の鋭い師に捕まり、そのまま養われ子となった。エイも例外ではない。しかしスリや恐喝をして生計を立てていた少年が大半を占める中、エイだけが売春婦や奴隷を扱う闇市で働いていた。
 堕ちるべきところまで堕ちて、殺しは無論のこと、拷問、強姦、窃盗といったものごとはひと通り経験しつくしていたし、同じ市で働く男たちによる、『つまみ食い』に散々つき合わされていたエイは、いまさら女の体などに興味はなかったのだ。
 スリをしたのは気まぐれだった。エイもまた闇市で働き始める前まではスリで生計を立てていて、師にそれを仕掛けたのは、腕が鈍っていないか確かめる意味合いもあった。はたして、エイは捕まった。闇市から足を洗い、物静かな老人の下で学びながら暮らすようになったのは、それからまもなくのことだった。
 老人がエイに教えたのは、基本的な読み書きから始まり、この世界の成り立ちと、この国は病んでいたのだ、という事実だった。平和ならば殺しも拷問も強姦も窃盗も、せずによいのだと、教えられたことは衝撃的だった。ならばどのようにして病んだ国を、更正させることができるのか。老人が教える、政治、という新しい世界に、エイは没頭していた。それが、老人を訪ねてくる女への興味をエイが失っていた、一番の理由といわれればそうなのだろう。
 なにはともあれ、幾度か女を見かけることはあっても、言葉を交わしたことなどなかった。
 館の裏手を掃除していたエイが、ほんのささいな失敗から、片付けていたはずの納戸をひっくり返したところを目撃されるまでは。
「はははははははははっ!」
 頭上で弾けた女の笑い声に、エイはぎょっとなりながら天を仰いだ。館の二階の窓から顔を出していたのは、件の女である。来ていたのか、と思うと同時に、女の笑いの原因を悟ってげんなりとなった。
「……見ていたんですか?」
「見てた見てた!」
 女は笑った。これ以上面白いことはないとばかりに。
「老師が言っていた通りだな、エイ! 頭は切れるのに、妙に抜けているところがあるんだなぁ!」
 思いがけず間抜けでびっくりしたぞ。女は一層軽やかな笑い声を転がして、そう付け加えた。
「盗み見も趣味は悪いですけれどね」
 エイは女に背を向け、納戸の片付けを再開しながら呻いた。負け惜しみだ、と思いながら。
「盗み見じゃないぞ。たまたまふっと目をやったら、お前が見えたんだ」
 今回初めて口を利くというのに、女はやけに馴れ馴れしい。そのことに些か不快感を覚えながら、エイは女を見上げた。
「私の名前をご存知で」
「うん。老師の自慢の弟子だろう?」
「自慢かどうかは知りませんが」
「とびきり優秀だと聞いた」
「皆が不真面目なだけです」
「謙遜するんだな」
「正直に言っているだけなのですが」
「……硬いやつだ」
 呆れた表情で述べてくる女と、エイはそれ以上言葉を交わすつもりはなかった。黙々と作業を続けることしばし、女の呟きが耳に届く。
「面倒だな、この距離」
 そして明るい女の声が、エイに投げかけられた。
「待っていろ。今降りるからな、エイ」
 驚きに、二階の窓を確認するが、女の姿はすでにない。
 困惑から立ちすくんだエイの元に、一階に降りてきた女が駆け寄ってきたのは、それからすぐだ。
「ずっと、お前と話がしてみたかったんだ!」
 そう言って女は、花のように笑ってみせた。


 歴史の影には女有りとは誰が言ったのか。あながち間違ってはいないと、エイは思う。
 少なくとも、自分の人生の転換期には、確かに幾人かの女がいた。
 一人は母。もう一人はヒノト。
 そして、エイのその後の人生に、ある意味でもっとも大きく影響を与えた女が、師の元に出入りしていた女。
 カグラだったのだ。


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