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番外 指に絡まる一筋さえも 2


 キリコ・ミラーは、水の帝国で第四位の権威を持つ、右僕射と呼ばれる冢宰、イルバ・ルスの副官である。
 年はヒノトよりも一つ年下。黒目に視力の悪さから厚い眼鏡をかけて、一房だけ赤く染めた黒髪を、ざっくりと耳の辺りで切り揃えている。抜けるような白い肌を持つ娘だ。頬にそばかすの残るあどけない顔立ちをしている上、奇人変人の異名をほしいままにしているが、一応、水の帝国宮城に勤める、非常に有能な文官の一人である。
 本当に、一応。
「おんしはな、もうちょっと周囲の目とかいうものを気にせんか! 初めてきた場所でうろうろするでないっ! 大体図書館を散らかすな! 叫ぶな! おとなしく面会室でお茶でもしとれっ! それでも文官かっ! 常識ぐらいは持て!」
「ふえぇえぇぇヒノトがいじめるぅううぅ」
「いじめとらん!」
 場所は移って、寮にあるヒノトの部屋。居間の床の上に正座させたキリコを頭上から怒鳴りつけたヒノトは、腰に手を当て盛大なため息をついた。
 キリコを殴ったその足で、彼女を連れてここまで戻ってきたはいいものの、後で司書や図書委員の友人たちに謝りに行かねばなるまい――最後に目撃した、図書館の惨状を思い出す。本を読むなら読むで大人しく読書にいそしめばよいのに、キリコときたら、読んだ本を片付けずに片端から机の上に積み上げていくのである。散らかり放題だった部屋の一角を片付ける羽目になっただろう友人たちに、謝罪しても謝罪しきれない。
「お疲れ様、ヒノト」
 くすくす笑いながら茶を淹れてきたのはアリガだ。二人一部屋が原則の寮において、彼女がヒノトの同居人となっている。淡白な物言いとは裏腹に、彼女の気配りは非常に細やかだ。円卓の上に置かれた茶は飲み頃に冷ましてあって、乱暴に椅子に腰掛けながら茶碗を受け取ったヒノトの喉をよく潤した。
「お客様もどうぞ」
「あ。ありがとうございまーす」
「アリガ、そいつに茶など出す必要はないぞ!」
「そんなわけにいかないだろう? ヒノト。君の客だ。皇都から来たんじゃないのかい? 遠方からの客をねぎらわないほど、私は失礼じゃないつもり」
「そうだよそうだよ、ヒノトはもう少しお客様をいたわりなよぅ!」
「……客なら客らしく、大人しくしておれ馬鹿もんが」
 頬杖をついて憎憎しげに呻くヒノトを意に介した様子もなく、キリコは歯を見せて笑っている。
「アタシも椅子に座っていーい?」
「いいよ」
「妾よりも先に答えるなアリガ!」
「やっけに好戦的だねぇヒノト。怖い怖い」
 急須を盆ごと円卓の上において、アリガは肩をすくめる。その口元には揶揄の笑み。どうやら、こちらとキリコのやり取りが楽しくて仕方がないようだった。
「そんな風にやり取りするヒノトは滅多に見られないからいつまでも観賞しときたいところだけど」
「面白いことなど何もないぞ」
「うん。君の機嫌損ねるだけみたいだから、席をはずすよ。茶菓子は棚の上の籠にあるから勝手に食べていいよ」
「というか、あれはもともと妾が買うてきたやつだというに」
「あれ、そうだったっけ?」
 首をひねる友人に、ぐったりと疲れてヒノトは手を上下に振った。もう、今日は夕方から疲れることが多すぎる。
「夕飯も食べてくる。しばらくは病棟にいるけど、その後は多分リンたちの部屋にいるから。話が終わったら呼びに来てよ」
「わかった。ありがとう」
「じゃ、ごゆっくり」
 ひらひらと手を振りながら、アリガは笑顔で扉を閉める。その彼女を見送って、ヒノトはさて、と身を起こした。
「何の用事じゃ?」
 茶をすすりながらこちらのやり取りを見つめていた旧知は、ヒノトの問いに不快そうに眉をひそめて見せた。
「いきなり何の用事? って冷たいねぇヒノト。ヒノトに会いたかったっていう理由だけじゃ駄目なの?」
「単純に会いにきてくれただけならば、な」
 何せキリコとはほぼ三年ぶりの再会となる。この学院に来て以来、ヒノトは一度も帰省していない。知り合いとは、手紙で近況をやり取りする程度に留まっている。その間、たった二人を除いて、ヒノトを訪ねてきたものはいなかった。そしてそれはキリコも例外ではない。本当に会いに来てくれただけだというのなら、どれほど嬉しかっただろう。
 だが、そうではなく、何か用事があって遠方から訪ねてきたことぐらい、わかるのだ。
「多忙なおんしが何の連絡もなく突然来るなど、誰かの差し金以外に考えられるか」
 ヒノトは呻いた。
「こちらに来れるほどの長期の休暇が急に取れるほど、暇ではなかろうて」
 文通相手には無論キリコも含まれている。もし彼女がただ遊びにきただけだというのなら、事前に報告があってしかるべきだろう。
 しかし、キリコの来訪には何の前触れもなかった。
「暇だって言ったら?」
「おんしの無能さが露呈して、とうとうイルバから首をきられたと思う」
「うぅううぅぅ、アタシ、まだ三行半は突きつけられてないもん……」
「知っておる。おんしは間違いなく有能じゃよ」
 非常に残念な事実だが、と、胸中でこっそり付け加える。
「だから、多忙なはずじゃろう。そんなおんしが、何か用事がなければ、こちらに来るか」
 誰の差し金か、などと、首謀者は彼女の直属の上官である右僕射か、もしくはさらにその上である宰相、皇帝、どちらか以外にないのだが。
 空の茶碗に茶を注いでいるヒノトに、キリコは微笑んだ。
「どうしてヒノトって、お医者さまなのかしら。その頭の回転のよさ、ぜぇえったい、アタシたち側だと思うんだけどなー。一緒にお仕事したら楽しそう」
「冗談。おんしらと仕事なぞしておったら心労で死んでしまうわ。第一、医者にこそ機転は求められる。否、医者だけでない。何事にも機転は重要で、機転のよいものが文官ばかりに集まってたまるものか」
「ううん。そういうものかぁ」
「で、本題に戻るが」
 ヒノトの茶碗と同じく空になっていたキリコの茶碗に、茶を注ぎいれてやりながらヒノトは問う。
「突然、どうした?」
「お察しのとおり」
 満たされた茶碗を受け取って、キリコは言った。
「ある日突然イルバ様が、ヒノトの様子見て来いって言ったの。朝礼に行ったら、アタシの旅支度が、でんってイルバ様の執務机の上にのっかってるんだもの。アタシ真顔で訊いちゃったわよ。旅にでも出られるんですかって。そしたらイルバ様、即答で、お前がな、っておっしゃるのよ。もーアタシびっくりしたのなんの!」
「どうして」
 長くなりそうだったキリコの話を途中で打ち切って、ヒノトは言葉を続けた。
「妾はもうすぐ学院を卒業する。何故、今更?」
「だからでしょー」
 椅子の背に重心を預け、子供がよくするように、ぷらぷらと足を揺らしながらキリコは言った。
「ぶっちゃけいえば、学院卒業したらどうするつもりなのか、探りいれてこいってことよぉ。学院卒業は安泰なんでしょ? ヒノトの成績、主席だって聞いてますよん。皇都に戻ってくるつもりなのかどうか、それだけでも確かめておきたいってトコロだとおもいまっす」
 ヒノトは無言のまま茶碗に口をつける。学院を卒業したら、どうするのか。今日は、どこもかしこもその話題ばかりだ。頭が痛くなる。
 口を閉ざしたこちらに、キリコは笑みを消して身を乗り出した。
「っていうかね、ヒノト、アタシ達、なぁんにも聞いてないんだから」
 先ほどの間延びした声音はどこへやら。柔らかいながらも相手に威圧感を与える声で、キリコが囁く。政治家の声だ。ヒノトは視線を上げた。
「忘れもしないわ。シファカ様の査定が終了して、婚儀も終えて。……すぐだった。内々のお祝いの席で突然、学院に行くことにした。手続きは済んでる。十日後には都を出る。……もぉ、驚きなんてもんじゃなかった。涼しい顔してらしたのは、宰相閣下だけ」
 眼鏡の奥で細められるキリコの黒い瞳を見つめ返しながら、ヒノトは昔に思いを馳せる。三年、正確には二年半ほど前だろうか。友人が無事、宰相の妻として迎え入れられたのは春先のことだった。その翌月、ヒノトは都を後にして、設立されてまだ数年の、この学院に入学した。
 誰にも、相談しなかった。自分で調べ、自分で考え、自分で決断した。
 ヒノトの学院行きを当時知っていたのは、手続きに一役かってくれた、宰相だけだった。
「なぁんにも、知らなかった。リョシュン様の元で、学び続けるものだとばっかり思ってたもん。そしてまだ、アタシは知らない。アタシ達は、知らない。……どうして、ヒノトが何も言わず、都を後にしたのか」
 都を去る折、ヒノトはその理由を説明しなかった。本格的に医療を学びたいのだ。追求にはそのように答えた。だが誰もが納得したわけではない。当時、ヒノトが師として仰いでいた御殿医の長、リョシュン・タクハクは名医中の名医だったし、宮廷医は医療の最先端をいく集団だ。本格的に医療を学ぶ場所として、不足はない。
 納得しなかった人々の中で特にエイは――ヒノトの後見人である男は、激怒した。普段温和な彼が怒りを爆発させることなど、そうそうあるわけではない。何故、都を去るのか、何故、相談の一つもなかったのか、何故、彼を差し置いて、宰相に手続きを依頼したのか、何故、宰相は自分に断りなくヒノトの依頼に応じて手続きを進めてしまったのか。
 ありとあらゆることに激怒し、そして嘆き悲しんだ。結局は自分を送り出してくれた男の傷ついた顔は、今でもありありと思い出せるほどだ。
「アタシ、ヒノトと出会って、宮廷で一緒だったのは、確か一年ぐらいだった」
「……そうじゃな」
 キリコと顔を合わせたのは、彼女が右僕射イルバ・ルスの副官として着任したときが初めてとなる。それから少しして、宰相の現在の奥方の査定――宰相夫人にふさわしいかどうかの審査――が始まり、一年後、彼女は正式に祝儀を上げた。そしてすぐにヒノトは出立したわけであるから、確かに共に都で過ごした時間は一年強となる。
 キリコは、単なる旧知ではない。
 その一年の間に、友情を育んだ相手に他ならない。
 それでも。
「ヒノト、アタシね。その一年の間に、ヒノトにすっごく助けられたよ。女で若輩で、変人だって。馬鹿にされてたアタシが、今どうにかイルバ様の副官として、周囲に認められて、お仕事できてる。それは、ヒノトのおかげだと思ってる」
「買いかぶりすぎじゃろう。それは、キリコ、おんしが」
「聞いて」
 ヒノトの言葉を静止して、キリコは言葉を続ける。
「たった、一年。それだけでもね、ヒノトが何も言わずに学院に入ること決めちゃって、宮城からいなくなったのは、すっごく衝撃的で、寂しかった」
 友達だった、はずなのに。
 今にも泣き出しそうな様子で下唇をかみ締めて、彼女は付け加える。
「アタシですら、そうだった。同じぐらいの長さのシファカ様も、寂しかったと思う。そして……何年も、ヒノトに助けられていた、皇后陛下は、もっと」
「キリコ」
「寂しかったに違いない。ずっとずーっと、寂しかったに決まってる。悲しかったに決まってる。ヒノトに助けられてばっかだったアタシ達、みんなヒノトに頼られないことが悔しくて悔しくて、悲しくて、寂しかったよ」
 ヒノトは俯いた。彼女たちを信頼していないわけではない。しかし彼女らには自分の立場は決して理解できぬと思ったことも確かだ。
 だがそれ以上に、決心が鈍ることが、恐ろしかった。
 それだけなのだ。
「もういいでしょ? もう、話してくれてもいいでしょ? ヒノトが何を思って、都を離れ、何を思って、学院に入り、そして、これから、どうしたいのか」
 ヒノトの手をそっと握り、キリコは真摯に請う。
「もう、教えてくれても、いいでしょ? ヒノト」


 理由など、ひどく幼稚で口にしたくもない。
 中途半端な自分に飽いていた。確固たる自信をつけたかった。その為にはあのぬるま湯のようなやさしい空間から抜け出す必要があった。
 だが、本当の理由は。
 結局のところ。
 ただ、逃げ道がほしかっただけなのかもしれない。
 この苦しい恋に。

 ――気が狂うほど、一人の男を愛していた。


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