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番外 指に絡まる一筋さえも 28


「見送りにくるとか! 見送られたら離れられんじゃろうがっ! なぜそういうことがわからんかあの男は!!」
「あーうん。相手はただ単純に、少しでも長く会いたかっただけだと思うんだけど。あ、お酒みっけ」
 こちらが懸命に話しているというのに、アリガは適当に相槌を打ちながら、ヒノトの荷物を勝手に物色している。荷物の中から藁半紙に包まれた瓶を引き出した彼女に、ヒノトは呆れた眼差しを向けて訂正を入れた。
「酒ではないぞ、苺の果実水」
「……この季節に苺? まぁいいけど」
「エイがくれた」
「おいしいの?」
「うん。うまかったぞ?」
「あぁ、飲んだんだ。私も飲んでいいの?」
「おんしへの土産じゃからな」
「あ、そうなんだ?」
 ありがとうと礼を言う前に、彼女はすでにその瓶を抱え込んでいる。手放すつもりはないようだった。
「あ、その瓶についてる招力石は返してくれ。借り物じゃから」
「了解。土産これだけ?」
「ずうずうしいのぅ。他にもあるぞ。後で渡してやるから」
「はいはい。ありがと」
 適当さのにじみ出る返事をヒノトに寄越したアリガは、立ち上がって部屋を出て行く。どこへ行くのかとヒノトが首をかしげて間もなく、彼女は高杯を二つ、手に持って現れた。
「酒でないのが非常に残念でならないけどね。祝杯といこうか、ヒノト」
 そう言ってアリガは、床に足を投げ出した状態で寝台の縁に背を預けるヒノトに、持ち込んだ高杯のうち一方を手渡してくる。散らかり放題の床の上に、器用に空間を作った彼女は、ヒノトに向かい合う形で腰を下ろした。
 栓を抜き、果実水の瓶の口を、彼女はヒノトの杯に向かって傾ける。淡い紅色のとろみを帯びた液体が、ゆっくりと杯を満たしていった。
「綺麗な色だ」
「じゃな」
「君の襟元にある色と同じ」
「は? …………っ!?!?」
 一瞬、理解しかねて眉根を寄せたヒノトは、アリガの言葉の意味を咀嚼すると同時、高杯を持たぬ手で指摘された場所を押さえた。ぱくぱくと口を動かすこちらを、友人は実に楽しげな様子で見返してくる。
「もう少し襟元を詰めておいたほうがいいね。もっとも、それに気付いているのは私ぐらいなものだろうけどさ。注視しないと、わからないぐらい、もう薄まってるし」
「あ、のな」
「あと、当分髪は下ろしておけば? 念のため」
「アリガ!」
 羞恥に声を荒げたヒノトに、アリガはおかしくてたまらないという風に笑い声を上げる。けらけらと笑い転げる彼女を、ヒノトは忌々しく睨み付けた。
「そんな目をしないでよ。怖いなぁもう」
 笑いを収め、身を起こしたアリガは、床に置いていた瓶を再び取り上げながら言った。
「いいじゃないか。愛されていて。言っただろう? 男があんな目で見つめる女を、愛していないはずがないのさ」
「そんなこと言われても、妾には判らん」
「自覚あるくせに」
「だ、ま、れ」
 ヒノトが何を言っても、アリガは笑うばかりだ。これ以上何を言ったところで揶揄の対象となることは目に見えている。ヒノトは嘆息して、口を噤むことに決めた。
「いいね、やっぱり」
「……何がじゃ?」
 床にもう一つの高杯を置き、それに向かって瓶を傾けるアリガに、ヒノトは尋ねた。アリガはなかなかヒノトの問いに答えようとしない。高杯を薄紅で満たした友人は、雫を切るため瓶を軽く捻るようにして起こした。
「あの男を愛しているのだといった君は、とても美しかった」
 アリガはようやっと、こちらの問いに答える気になったらしい。瓶に栓をはめながら、彼女は言う。
 アリガが語るのは、こちらがこの学院でエイと再会した、あの夜のことだ。彼と別れた自分は、アリガに向かって叫んだ。あの男に庇護される子供ではなく、あの男を支える女になりたい――あの男を、愛しているのだ、と。
「けれど、それは悲恋に感傷を覚えて、美しいと感じるのと同じ」
 ことんと、瓶を置いて、アリガはその代わりに、床の上から高杯を取り上げる。
「私は君に幸せになってほしかったよ、ヒノト」
 杯を掲げながら、友人は笑う。
「だから、いいね。愛されている君は、とても可愛らしい。見ている私も、自分のことのように嬉しい。幸せに、なれる」
 一見、からかわれているようではある。しかしそれが、彼女の心からの祝福であると、ヒノトは知っている。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 唸るようにして口にしたヒノトの謝辞に、アリガは微笑んだ。
「本当、よかったよね。学院に来て、準備を整えた甲斐はあったわけだ。学院に来なくとも、遅かれ早かれ想いは通じたんじゃないかとは、私は思うけど。そう思うと、君が学院に来た意味はなかったのかなぁ?」
「何を言っておるのじゃおんしは」
 友人の言葉に、ヒノトは半ば憤慨しながら呻いた。
「別にエイと向かい合うためだけに、妾は学院へ来たわけではない。……まぁ、八割方、それが理由だったことは否定せんが」
「残り二割は?」
「普通に医学を修めるためじゃよ。妾にとって、やはりこの道は捨てられんものじゃもの」
「捨てられないものなのに、二割なんだ?」
「うるさいな! まったく!」
「ま、私も、似たようなものだけどね」
 アリガは肩をすくめると、一度は掲げていた杯を膝の上に落とした。彼女の視線は伏せられ、長い睫が目元に影を落とす。
「アリガ」
 一人、報われぬ場所に取り残された友人の名を、ヒノトは呼んだ。
「学院に来たことを、妾は後悔していない。来て、よかったと思っておる。何度過去をやり直しても、妾はここにくるじゃろう。リンやツツミ、たくさんの、友人達。そして……なにより、おんしと、出会うために」
 アリガは、伏せていた視線を上げた。ヒノトをからかっていたときの余裕は微塵も見られない。薄い微笑を唇に刻んで、彼女はヒノトを見上げている。
「ありがとう。たくさん支えてくれて。気の狂いそうなこの恋を、ずっと見守ってくれていて。妾が、間違えないように、送り出してくれて」
「私は何もしていないよ、ヒノト」
 アリガは言った。
「君が思ってくれているようなことを、私は何もしていない。君が頑張ったんだ。他でもない、君が」
「そうなのかもしれん」
 同意を示すべく、一度言葉を区切って、ヒノトは頷いた。
「しかし妾を正気であるよう、引き止め続けてくれていたのは、おんしじゃ。この、狂った愛を、ただ受け入れて見守ってくれていた。それだけで、とても、救われた」
 自分のエイに対する恋情は、おそらく多くのものには受け入れられないだろう。傍目からはただ狂っているとしか、見えないのだから。薄ら寒さを覚え、距離をとるのが、普通。
 そんな自分を、アリガは見捨てなかった。時に叱咤し、時に励まして、エイの下に送り出してくれた。
 この得がたい友人の存在を、自分はこの学院において何よりも幸福に思う。
「君にそんな風に言われるだなんて、光栄だね」
 照れくさそうに、アリガは言った。
「お后様たちに、恨まれそうだ」
 そこまで呻いて、はた、とアリガは何かを思い出したようだった。
「……あぁヒノト、そういえば、帰省の最中に、お后様たちとは会ったのかい?」
 友人の指摘に、ぎくりとなる。
 そのこちらの様子に、アリガがきょとんと目を丸めてみせた。
「……会わなかった?」
「いや、会ったことは、あった……んじゃが」
 言葉を濁しながら、ヒノトは視線を彷徨わせ、『友人達』と再会したときのことを思い返した。
 帰省の最中、彼女らと会えたのは結局一回。かなり短い間のことであった。
 都を出立する日の午前、ヒノトは久方ぶりに宮城へ出向いた。無論、『友人達』に挨拶と、ことの次第を報告するためである。が、予想していないではなかったが、『友人達』は公務中だった。仕方なく、面会することなくヒノトは宮城を後にした。
 問題は、その後である。
 馬車に荷物を積み込んでいた最中、広場に轟くほどの大声でヒノトの名を呼び、飛び跳ねながらやってくる影があった。周りの迷惑、というよりも、恥を考えずにそのようなことをする知り合いは、たった一人しかいない。右僕射の副官、キリコである。
 彼女の行動にも呆れたが、彼女が連れてきた人間にも、もっと呆れ返った。町人の簡素な身なりでヒノトの前に現れた二人組の女は、本来ならばあのような場所に現れるべき人物ではなかったのだ。
 『友人達』こと、水の帝国の皇后、および、宰相夫人。彼女らは腕の立つ奥の離宮の女官を一人連れていたものの、まともな護衛すらつけていなかった。完全に、お忍びである。
「……実に、短い時間じゃったが……」
 出発の時間まで間もなかったので、そのときは本当に、別れの挨拶を交わすだけで精一杯だった。
が。
 話が無論、それだけで終わるわけがない。
「ただ、学院を卒業してから、説教は確定しておる」
「説教?」
「うん。……いろいろと、その、ほら、何も言わずに、出てきたもんじゃから。キリコには言うたけど……うーん」
「ははは! つまりなんで相談してくれなかったんだって、泣き落としされるわけだ!」
 アリガの言う通り、都に戻った暁には、まず宮城に、強いていうなら、奥の離宮に出向けといわれた。公務中だからといって帰るな。泊まる用意をして、来い、と。
 満面の、これ以上ないほど綺麗な笑顔で、この国の最高権力者の妻達から脅迫された日にはもう、眠ることすらできない。
 都から学院までの道中、夢に見るほどの恐ろしさであった。
「あぁぁあぁぁ、頭が痛い……」
 『友人達』は、この国で最も怒らせたくない二人組である。どうやって彼女らを宥(なだ)めようか、ヒノトは今から頭が痛かった。
 呻くヒノトに、アリガはさらに笑い声をあげる。
「方々から愛されてて、大変だねぇ」
「ありがたいんじゃが、ありがたくないぃいぃいぃ」
 自業自得であるし、本当に彼女達に嫌われてしまっているのならそのような呼び出しを食らうことはない。どこか安堵してはいるものの、怖いものは怖かった。
 皇帝と宰相が、彼女らを怒らせないように細心の注意を払っている理由がよく判る。
「ま、何はともあれ、乾杯しないかい? 喉が渇いた」
 そういって、アリガは再び高杯を掲げ持つ。ヒノトも彼女に倣って、手元の高杯を持ち上げた。
「アリガ、何か助けがいるときは言うのじゃぞ。妾は決して、おんしを置き去りにしたわけではないから」
「知ってるよ、ヒノト。けれど今はその話は置いておこう? 私は今単純に、君の幸せを祝いたいんだ」
 アリガは微笑む。
「君の幸福が、永遠に続きますように」
 ヒノトはその笑みに応じた。
「貴女の行く末に、絶えず幸福が訪れますように」
 そして軽く高杯の縁を合わせ、二人揃って一息に中身を呷った。
「あぁおいしい。君のお館様は、いい趣味してるよ」
「じゃろう? ……あぁ、会いたくなってきた」
「あと三月ちょっとじゃないか。我慢我慢」
「うー」
 唸るヒノトの目の前で、アリガは早くも二杯目を頂戴しようとしている。
「その間に、お館様が心身穏やかならいいね。……まぁ、君が早く帰ってこないかそわそわしてるんだろうけどさ」
「そうかぁ?」
「そうだよ。君だって早く帰りたくてうずうずするくせに」
 たまにはこちらの言うことも信じろと主張する友人に、ヒノトは笑い声を立てながら言った。
「じゃぁ、そういうことにしておこうか」


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