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番外 指に絡まる一筋さえも 27


 ものは試し、と、婚約の破棄をまず皇帝に願ってみた結果。
「あぁいいぞ」
 皇帝はあっさりと、エイの願い出を受諾した。
「…………は!?」
 度肝を抜かれてその場に立ち尽くしているエイの目の前で、皇帝は先日提出した届出と燐寸を取り出す。そして止める間もなく、彼は燐寸に火をつけて、届出を手早く燃やしてしまった。
「……えーっと」
 何がどうなっているのか、とこめかみを押さえながら呻いたエイに、皇帝が笑いかけてくる。
「あぁ、お前がこのまま結婚したら、どうしようかと思った」
「勧められたのは陛下じゃないですか」
「いや、そうなんだが。まさかお前がこんなにあっさり受諾するなんて思ってもみなくてな」
 肝を冷やした、と嘆息を零す皇帝に、エイは呆れながら眉間に皺を刻んでみせる。
「……陛下? 一体、どういうことなんですか?」
「つまりな」
 エイの冷ややかな視線を受け流した皇帝は、笑顔で解説を始めた。
「ダムベルタとの婚約は、断ってもいい方向で動いてたんだ。断っても断らなくても、利益のある家を選んだことには変わりないし、政治的に言えばお前が婚約してくれたほうが利潤は多かったんだが、俺たちの心の平穏具合でいったら、断ってくれたほうがものすっごく助かった」
「……えぇーっと」
「あ、安心しろ。断ったからといってダムベルタの家とお前が気まずくなることはない。近々あの家は人が総換えとなる。地方にいた分家が本家になって、都にくる。入れ替わりに、都にいた人間が地方へいく。俺とあの家の現当主が行った取引については、後でまた教えてやろう。いろいろ面白いから」
 心からの晴れやかな笑顔を見せて、あーよかったほっとしたーと、盛大にのたまう皇帝に、エイは発言すべき言葉を見失って愕然とするしかなかった。
「……もう、本当に、どういうことなのか教えてください。経緯を」
 エイは説明を求めて、言葉をどうにか搾り出す。執務机に頬杖を付いた皇帝は、承諾に頷いた。が、その前に、と彼は付け加える。
「何故、婚約の破棄を願い出たのか、教えてくれ」
「……言わなければ駄目なんですか?」
「俺の見当違いの理由で、お前がこの婚約の破棄を願い出ていたら、お前にもう一回ダムベルタの家へいって届出書いてきてもらわなきゃいけないからな。……燃やすの早まったか?」
 陶器の器の上で山を作っている灰を見つめながら、皇帝が自問する。しかし、エイが望んでいた回答を口にする気配はない。本当に、エイが理由を述べなければ、続きを話すつもりはないようだ。
 天井にぐるりと視線を巡らし、エイは仕方なく、早口で述べた。
「ヒノトが嫌がるからです。以上」
「……ヒノトが嫌がったら、せっかくの婚約を破棄するのか? どうしてヒノトが嫌がると嫌なんだ?」
「……そこまで私に言わせますか」
 絶対、揶揄されている。なんとなく、そんな気がする。
 エイは肩をすくめ、嘆息混じりに呻いた。
「ヒノトを愛していますので。彼女に嫌われたくはないんですよ、私」
 貴族の女を迎え入れることにはエイの地位を確立するだけではない意味がある。それを理解しているヒノトは、このまま妻を迎え入れても構わない、と言った。
 が、そもそも自分が嫌だ。二人の女に構えるほど、自分は器用ではない。愛してもいない女など、ないがしろにしてしまうに決まっている。それならば変にこじれてしまう前に、恨みを買ってでも、先に婚約を破棄してしまったほうがましだと思ったのだ。
「お判りでしょう? 陛下。陛下がティアレ様……皇后陛下が嫌がることを、しようとなさらないのと同じです」
 意趣返しに低く唸る。皇帝は、満足そうに微笑んだ。
「さて、全ての始まりは、キリコが、ヒノトから学院へ行った理由を聞き出すことに、成功して帰ってきたことだった」
 灰をざらざらとくず入れに捨てながら、皇帝はそう切り出した。
「お前も知っている通り、キリコのことは、そもそも、イルバの提案だった。学院の卒業も間近ということで、イルバがキリコにヒノトの様子を見に行かせて、これからどうしたいのか……それから、何故、学院へ突然行くことを決めたのか、理由を探らせようと提案してきたんだ。ジンは理由を知っていたが、絶対に口を割ろうとはしなかったからな」
「……前から思っていたのですが、どうしてイルバさんはそう思ったのでしょう?」
 わざわざ右僕射が動かずとも、ヒノトは学院卒業と共に都に戻ってくる。それを、彼は待てなかったのだろうか。
「俺の代わりに動こうとしたんだろう」
 皇帝は答えた。
「陛下の代わりに、ですか?」
「そう。しいて言えば、ティーの、代わりに、か」
 エイの問いに頷いて、皇帝は続ける。
「ヒノトが学院へ行くことを決めて、一番衝撃を受けていたのは誰だかわかるだろう? キリコもシファカさんも、無論衝撃を受けていたが、ティアレはヒノトと付き合いが長かった。ヒノトは、ティアレにとって初めての友人だったんだ」
 皇帝の話を聴きながら、エイは、皇后の心中が手に取るように判った。理由も何も聞かされず、学院への入学を一人で決めたヒノトに対して、あの時ばかりは激昂した。それと同時に、落胆した。彼女に頼られなかった自分に。
 その落胆は、絶望といってもよかったかもしれない。
「事前に相談されなかったことにも相当落ち込んでいたし、手紙で理由を婉曲的に催促しても、ヒノトは何も語ろうとしない。学院卒業を前にして届いた手紙の中さえ、ヒノトが学院へ行くことを決めた理由は書かれていなかった。手紙に理由を記さないのは、当然といえば当然なんだが、話題に触れることすらない。ティーは、ひどくがっかりしてた。友人として、望まれていないんだろうか、とな」
 手紙の中に理由を記載しなかったのは、万が一紛失した場合に備えてのことだろう。ヒノトはそのあたり、非常に頭がよく回る。決して、皇后の追求をないがしろにしたわけではないはずだ。
 しかし、状況が状況であるだけに、皇后がそのように勘繰っても仕方がないのかもしれなかった。
「俺としても、ヒノトが学院へ行った理由は、気になるところだった。できれば自分でも様子を見に行きたいぐらいだったが、この通りだ。暇がない。ティーはヒノトへ会いに学院を訪ねたいと、俺に再三強請ってきたが、俺は許可を出さなかった。ジンも同じだ。シファカさんに、許可をださなかった」
 ヒノトが都を離れていたこの三年ほどの間に、水面下でそんな攻防が行われていたのか。それに比べて、自分はどうであっただろうかと省みる。ヒノトが学院へと発った理由を、エイは死に物狂いで追求したりはしなかった。
 それは、どんな理由で一時都を離れたのだとしても、いずれは自分の下に戻ってくると、思い込んでいたからかもしれない。
 理由を、知る必要など、ない、と。
「そういった経緯を、イルバはシノから耳にしていたんだろう。都に戻るのか、そうでないのか、せめてそれだけでも知るのは悪くない。そういって、あいつは提案してきたわけだ。キリコを、動かそうと」
 ヒノトが戻らない可能性まで考えて、右僕射は彼女の凱旋を待たず、行動を起こしたのだ。
 彼の人選は抜け目がない。キリコはヒノトの親しい友人の一人だ。皇后や宰相夫人たちの事情にもよく通じている。そして単独行動を厭わない。賑やかだが、沈黙を守るべきところは弁えている。ヒノトも彼女のそういう部分をよく知っている。事情を話しやすい相手だっただろう。
「果たして、キリコは理由を持ち帰ってきた。……俺はヒノトの聡明さに頭が下がる思いだったよ。貴族をないがしろにすべきでない、か。確かにこの国の頂点には、俺とジンを除けば、まったく貴族が入っていない。その意味を彼女はよく理解していた」
「……それは、私も思いました」
 彼女の鋭さには、時折感服させられる。宰相がよく、彼女を部下として持ちたかったと口にする。冗談でもそのようなことを滅多に述べない彼の言が、ヒノトの聡明さを証明していた。
「と、まぁ、そこまではよかったんだが」
 物思いにふけりかけていたエイを、皇帝の声が現実に引き戻した。
「キリコの最大の失態は、まずティーとシファカさんに、この件を話してしまったことだ。何せキリコの帰還を二人揃って待ち構えていたらしいから、仕方がないといえば仕方がないんだが」
 何故、皇后と宰相夫人に先に報告してしまうことが、最大の失態とまで言われなければならないのか。疑問に思って、エイは眉根を寄せた。皇帝の、言葉の歯切れが悪い。
「キリコの報告を耳にした彼女ら二人は、血相を変えて俺とジンに掴み掛かって……」
「掴み掛かって?」
 言いよどむ皇帝に、エイは続きを催促する。皇帝は苦笑に低く喉を鳴らすと、頬杖をついたまま嘆息した。
「妾を取れ、といってきた」
 そのあまりにも衝撃的な発言に、エイは唖然と叫ぶ。
「め、めかけ!?」
「冗談じゃないぞ」
 頬杖を付いたまま、皇帝は低く呻いた。
「お前がもたもたしてるからこっちは大慌てだ。ティーとシファカさんは、ヒノトがどれだけお前を愛しているか知っていたからな。その上、あの二人はヒノトがこれ以上ないほどに好きなんだよ。女の友情を舐めるな」
「……いえ、舐めてなどはいないんですが。……なんというか、大変でしたね」
「人事のようにいうな。全部はお前のせいだぞ」
「う。すみません」
 身を少し引いて謝罪する。皇帝はまぁいい、と上目遣いにこちらを見据えてきた。
「で、少しは意識して進展してもらわないと、と、思って、見合い話を出したら、お前はあっさり承諾するし。……どうしようかと思った」
「お手数おかけいたしました」
「いーや。なかなか楽しかったしなぁ。ジンとイルバにもいろいろ動いてもらったし。もう一回、ひと悶着起こさないか?」
「起こしません! ご自分のところで悶着を起こしてください陛下」
「それは嫌だ」
「あーもー……」
 人の色恋事に盛大に首を突っ込む、この国の最高権力者たちに頭を抱えながら、エイは呻いた。
 本当に、実は暇なのではないだろうか。この人たちは。
「八年かぁ。鈍いなぁ。長すぎだろう」
「放っておいてください!」
「エイ」
「はいなんで……」
 からかわれ続ける腹立たしさから、皇帝の呼びかけに対してぞんざいな返事しかけたエイは、向けられる穏やかながらも真剣な眼差しに、思わず居住まいを正した。皇帝もまた頬杖から顔を離し、手は机の上で組んだまま、微笑んでこちらを見上げている。
「……陛下?」
 一般的に言えば。
 国の頂点に立つものは、民を睥睨する。
 しかし、彼はいつも、自分たち民人を、見上げている。
 理想の、敬愛する、我らが皇帝。
「俺達の姿は、見えるようになったか? エイ」
 実に唐突な皇帝の問いの意味を。
 今のエイにとって、理解することは、容易かった。
「……陛下」
 少し前までの自分は、同じことを問われても、何のことだと首をかしげるばかりだっただろう。しかし、今なら判る。
 長く、自分の目には、世界が映っていなかった。
 自分は、ヒノトと向き合っていなかったばかりではない。彼女を取り巻く世界、全てから目を背けていた。向き合えば、封殺した狂気も事実も、全てが暴かれてしまうので。
「……全部、知って」
「見えない時期っていうものは、誰にでもあるものだ」
 エイの言葉を遮り、皇帝は言う。
「特に、こんな世界に身をおいているとな。色んなものから目を背けたくなる時期は、必ずある。俺にもあったよ」
 けれど、と、皇帝は言い置いて続けた。
「そんな俺を支えてくれていたのは、ジンであり、そして、お前だった。盲目だった俺を、長く長く、支え続けてくれていたのは、他でもない、お前だったんだ。エイ」
 皇帝は、熱を込めて、そう語った。
 身に余る言葉に、エイは間誤付きながら息を呑む。
「少しでも、お前に借りを返すことができて、よかったよ」
 そういって、微笑む皇帝に、エイはたまらず腰を折って頭を下げた。
「……ありがとう、ございました……」
 皇帝が頷いたことが、気配でわかる。
「幸せになれよ、エイ」
 そしてこれからもよろしく頼むと、笑いを含んだ声で、彼は話を締めくくったのだった。


 執務室を後にし、自分に与えられている個室のほうへと歩き出すと、音もなく付き従う影があった。
「ありがとう」
 その影に向かって囁くと、影の主は、小さく首を傾げる。
「はて、なんのことですか? カンウ様」
 とぼけることの上手い男だ。エイは嘆息し、足を止めた。唐突だったにも関らず、斜め後方を歩いていた副官は、先ほどと同じだけの間合いを取って立ち止まる。
「ウルの言うとおりだった。私は、色んなものが見えていなかったんだね」
「気づいていただけて、なによりです」
 ウルは皮肉すら含む満足げな笑みをエイに向けてきた。苦笑しながら、エイは繰り返す。
「ありがとう」
「感謝されるいわれはないのです、カンウ様」
 エイの謝辞に、面映そうな表情を浮かべて、ウルは言った。
「私は私の幸せのために、動いただけですからね」
「自分の幸せのため?」
「はい。そうですよ」
 大きく頷いたウルは、エイに歩を進めるように促す。エイは歩き出しながら、少し後方を付いて歩く副官の言葉に耳を傾けた。
「私は、貴方様とヒノト様のお二人が、ご一緒されているところを見ることが好きなのです。もっとも、それに気づいたのは、ヒノト様が学院へと発たれた後だったのですから、皮肉なことです」
 ヒノトが、学院へと行かなければ、それに気づかなかっただろうと、ウルは付け加える。
「ヒノト様の、お見送りはなされなくてよかったのですか?」
 丁度、ヒノトは学院に向けて都を離れている頃だろう。エイは窓の外を見つめ、今朝方、ヒノトと交わした会話を思い返しながら、ウルの問いに答えた。
「あぁうん。いらないって言われてしまった。仕事をしっかりして来いと」
 彼女を見送る程度の時間ならば作れる。そう言ったのに、すげなく断られてしまった。少し、彼女の愛情を疑いたくなる。邪魔だとまで言われれば、引き下がるしかあるまい。
「手厳しいですね」
 くすくすと笑うウルに、エイは肩を落としながら同意した。
「本当に」
「あぁ、それでも、お寂しいでしょう」
「そうだね。でも、仕方がない」
 学院卒業のためだ。こればかりは仕方がない。ここで彼女を拘束したとしても、何にもならない。むしろただでさえ歪んでいるこの愛情が、互いを病ませてしまうものになるだけだ。
「あと少しだし」
 彼女と離れているのは、もう僅かな間。つかの間の別離もまた一興だろう。
「戻ってくれば、もう二度と」
 もう、永遠に。
 離すつもりなど、ないのだから。
 エイが飲み込んだ言葉を、ウルは催促しなかった。こちらの言葉に宿る暗い情念に、聡い彼が気づかなかったわけではないだろう。しかし副官は眉をひそめるどころか、気取った様子すら見せず、明るく言った。
「さて、それではヒノト様が戻ってこられるまで、またしっかりカンウ様が倒れられないように見張らなければならないですね!」
「いや、倒れないから」
「お休みも定期的に取ってくださいよ」
「これからの忙しい時期に、そんな暇、あると思ってる?」
「大丈夫です。私が作って差し上げましょう!」
「というかね、ウル、君もいい加減休もうよ。女房役ばかり買ってでてないで」
「カンウ様が休まれたら休みます! 遠慮なく!」
「君もスクネみたく、子供作ってくるといいよ……」
 げんなり呻いたエイに、副官は笑顔だけを向けてくる。思わず、天井を仰ぎたくなった。
 無言のまま歩を進めていたエイに、ウルは言う。
「道中、何事もなく、学院に到着されるとよいですね」
 心から紡がれる副官の言葉に、エイは微笑んで頷いた。
「本当に」
 そして、彼女が早く戻ってくるといい。
 そのときには、自分はまた、力の限り、彼女を抱きしめるのだろう。


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