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番外 指に絡まる一筋さえも 29


 平原を、一組の男女が、歩いている。
 水面が光を照り返し、平原の縁を彩る。空は澄み渡り、風がゆったりと、二人の髪と身につける衣装の袂を揺らしていた。
 男は黒髪黒目の、東大陸の民と判る容貌をしていた。派手さはないが、温和さを滲ませる端整な顔立ちだった。男は穏やかな眼差しで傍らの女を見つめ、何事かを囁きかけている。その囁きに応じて、女は怒ったり、拗ねたり、そして笑ったり、していた。
 女は南大陸の民の特徴をよく残す面差しをしていた。長い銀の髪を風に遊ばせ、表情をよく映す萌ゆる緑の瞳が印象的だった。男の囁きに応じて、その表情はくるくると移り変わる。ただ、男を見つめる瞳には、愛情が常に溢れていた。
 二人は手を繋いで、ゆっくりと、歩いていく。
 水に祝福された、古い古い、土地を。


(あぁ、あの人だ)
 雑踏の音に、現実へと意識が引き戻される。瞬きを繰り返した後、瞳は一人の男を捕らえていた。東大陸からの客人と思わしき、若い男を。
 男は視線を巡らしながら、町を歩いている。何事かを考えているのか、注意深く歩を進めてはいるものの、心ここにあらずといった感じだ。
(そんなにぼやぼやしてたら、あぁ、ほら、スられた)
 財布を盗られてしまったことにも気づいていない。犯人は彼もよく知る常習犯だ。その腕前は神業的で、勘がよい人間だとしても、気づかないことのほうが多いのは確かだ。それにしても、男はあまりに間が抜けている。
 何をそんなに、憂鬱そうな顔をしているのだろう。
 先ほど視たときは、あんなに穏やかな顔をしていたのに。
 とはいっても、それは遠い未来のこと。視えた男は、今、現実に見ている男よりもかなり年嵩だった。二人は、同じ人物に違いなかったけれども。
 そして視えた男の傍らで笑っていた女は、おそらく――彼の知己である。ずいぶんと様変わりしていた。男に愛されているのだろう。端々まで磨かれ、上質の衣を纏って、美しく成長していた。
 まるで、一枚絵のような、幸せな光景。
 そんな未来を視たのは、生まれて初めてのことだった。
(あ、こっちにきた)
 男は人を避けて、彼のほうへとやってきた。彼の傍らで、男は壁を背にし、通りをじっと眺め始める。時折、こぼれる嘆息。けれど、その眼差しには曇りがない。
 彼は微笑んで、男に声を掛ける。
「お兄さん!」


 そして男は『少女』と出逢い、『少女』は愛の名の下に、自ら永遠に閉じ込められる。
 指に絡まる、その髪の、一筋さえも。
 男が形作る。
 柔らかな、檻の中に。


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