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番外 指に絡まる一筋さえも 26


 夢の続きを思い出した。
 すぐ間近にありながら、どうしても見えなかった、檻の中の少女の顔。
 自分の手にかかって殺されることを望んだ彼女の面差しは、美しい緑の双眸を持つ、愛しい少女のそれ。
 そのままだった。


 きぃ……ぱたん
 扉が再び閉じられ、部屋は暗闇を封じ込める。
「……な……で」
 擦れた女の声が、部屋を満たす冷たい冬の空気を震わせた。
 ――扉が閉じる間際。
 部屋の外へすでに滑り出ていた女の身体を、強引に引き戻した。驚いたように振り返る、廊下の明かりに照らされた女の瞳には、どこからそんなに溢れ出てきたのかと訝ってしまうほど、大粒の雫が溢れていた。
 闇に沈んで、なお、その涙は輝きを失わず、次から次へと女の頬を滑り落ちていく。
「……ヒノト」
 エイの呼びかけに、彼女は答えない。先ほどの気丈さはどこへやら、下唇を噛み締めて、顔を歪めている。その苦しげな表情さえ、美しいと、エイは思った。こんな状況で抱くべき感想ではなかったけれど。
 泣きに膜張った瞳の収まる瞼を、煙るような睫毛が飾っている。幾度となく、無意識に触れた、柔らかい頬。絹糸のような長い銀の髪――昔は、短かったのに。
 引き結ばれた、熟れた果実のような唇。震える、華奢な肩。しなやかで、柔らかい身体は、優美な曲線を描いている。
 エイは改めて女を見つめた。生まれて初めて出逢った女を、確認するかのように。
 しかしエイに手首を囚われた女は、初めて会う女でも、ましてや久方ぶりに会う女でもない。
 彼女はずっと傍にいた。ずっと、傍にいた、女なのだ。
 彼女は扉の前で、涙に濡らした頬を、引き攣らせて笑った。
「……そこで、引き止めるなぞ、反則じゃろう、エイ」
 ごとりと、蓋が開く。
 ずっとずっと、封じ込めていた、記憶の蓋。
 エイは女を強く抱きしめたまま崩れ落ち、床の上に座り込んだ。もがく女の身体をさらに強く引き寄せる。エイに放すつもりがないと理解し、彼女が身動きを止めたのは、冷えていた床が体温で暖まったころのことだった。
「……放さんか、馬鹿が」
「放しませんよ」
 低く紡がれた彼女の懇願を、エイは即座に拒絶した。
「放さない……私のもとを離れるなど、馬鹿げたことを口にしなくなるまで」
「ばかげたこと?」
「馬鹿げたことですよ。そうでしょう? 私は、さっきも言った。……貴女は、ここに、いるべきだと」
 この、手の内にあるべきだ。
 ずっと、そう思っていた。この腕の中に、彼女は常にあるべきだ。
 瞼を閉じながら、エイは思った。
『お前の中には、檻がある』
(カグラ)
『お前は一体誰を』
(私が、捕らえていたのはこの子だった)
『その檻の中に、入れるつもりだ――……?』
(もうずっと、私が檻の中に、封じ込めていたのは、この子だった――……)
「何を……勝手なことを……」
 エイの衣服の裾を握り締め、ヒノトは呻く。
「おんしは、いつもそうじゃった。妾の気持ちなぞ、少しも考えずに、いつも勝手に……」
「そうです」
 彼女の言葉に、エイは同意する。
「私は貴女の気持ちなど、考えたことがない。いつも私の都合です。貴女を、この国に連れてきたことも、そう。貴女を、宮城においたことも、そう」
 あの、榕樹の小国で出逢ったときから、ヒノトは自分にとっての、民の代表者になった。だからこそ、自分は彼女を連れ帰ったのだ。自分の傍にいたほうが、彼女は幸せである。それは所詮、自分の独善に過ぎない。何も知らぬ彼女を捕らえ、彼女から祖国で生きるという可能性全てを、エイは摘み取ったのだ。
「……私の下を離れることを許さない。それも、私の都合です」
 手足の位置を多少入れ替えて、ヒノトの身体が冷えぬように抱きなおす。彼女はもう、逃げる素振りを見せなかった。それに満足しながら、エイは続けた。
「不利益? それがどうかしましたか。貴女が一角の医者であるかどうかも……私の後見を実際に必要とするかしないかも、私にとっては関係がない」
 そんなもの、彼女が自分の傍を立ち去るための、理由にならない。
「貴女は私の下にいるべきです」
 先ほどとは異なり、ある種の確信を抱いて、エイは断言し、拘束する手に力を込めた。
「なぜなら」
 華奢な肩に広がった、銀の髪に指を差し入れる。滑り落ちていこうとする髪を指に絡め、強く握りこみながら、エイは囁いた。
「この指に絡む、髪、一筋さえも、貴女は私のものだからです。――永遠に」
 いつしか、彼女の笑顔は自分にとって一つの指針となった。
 いつしか、彼女の存在は自分が政に関る意味となった。
 いつしか、彼女は、自分の全てになってしまっていた。
 ――……彼女を、『檻』に入れたのだ。
「本当に……」
 額をエイの肩口に押し当てて、ヒノトが呻く。
「本当に、勝手じゃなぁ、エイ。……ずっと、子供扱いしかせんかったくせに。妾を、玩具か何かと勘違いしておるのだろう」
 エイの衣服の上に爪を立て、彼女は叫ぶ。
「貴方が必要としているのは、貴方なしに生きていられない何かだ、エイ! それは私でなくてもいい……私という、女でなくてもかまわない!! いい加減、気付きなさい!!!」
 ヒノトは、エイの肩を突き放すように強く押した。動く気配のなかった彼女に、多少なりとも油断していたのだろう。その身体を逃すことはなかったものの、エイは、ヒノトに上半身を起こすことを許した。
「身代わりの利く身で貴方の傍にいることがどれだけ辛いか!! 苦しいの。苦しくて苦しくて狂いそうなの!! 私でなくてはならないわけでもないくせに。そんなふうに言うのはやめて!!」
「身代わりなどどこにもいませんよ、ヒノト。貴女の身代わりなど、どこにも居ない」
「嘘!! だってずっと、私を見ていなかった!! 貴方が見ていたのは、貴方が望んでいたのは、あなたに庇護される何かだった! 私じゃなかった!! 私を、望んでいるわけじゃなかった!!」
 見ていなかった。
 彼女を、ずっと、本当の意味で、見ていなかった。
 それは認めよう。認めざるを得ない。
 生まれ育った祖国から引き離すことで、自分は彼女を『檻』に入れてしまうことに成功した。しかし無知な少女は黙って囚われ続けていても、男の歪んだ独占を受け、成熟した暁には、檻からの解放を望むだろう。
 例えば、カグラが、自分という男を知って、父親の『檻』からの解放を望んだように。
 例えば、自分の殺してきた少女達が、男達の独占と強欲を受け続けたその果てに、自らの死で以って解放を望んだように。
 もし、自分が彼女に女を望めば、この歪んだ感情全てをさらけ出すことになる。その狂気に、この女が耐えられるかどうか――耐えられぬ、だろう。
 そして、この『檻』から、抜け出そうとするだろう。
 そうならない、ために。
 彼女を、失わない、ために。
 この、醜い独善と執着を、彼女に、知られぬようにするために。
 自分は、己が狂気と共に、彼女が『女』であるという事実そのものを。
 封殺、したのだ。
「望まれてもいないというのに、貴方の傍などで生きることなんて私にはできない」
「望まれていないから、私の傍で生きていけないと、いうのですか?」
 ヒノトは唇を引き結んだ。肯定と、いうことだろう。
 愚かな、と思う。そんなこと、あるはずがないというのに。
「私が望むのは、貴女です」
 女の泣き歪む緑の目を見下ろし、その濡れた頬に手を添えながらエイは言った。
「他の、誰でもなく――私の愛する唯一の女」
 ――あぁ、全て思い出した。
 あの、美しい黄金の光に彩られた初夏の日に、自分は悟った。自分は彼女なしに、もう、生きられぬのだと。彼女が自分の生殺与奪、全てを握る。この手を、離したくないと。離すことなど、できないと。
 その日から、自分は彼女が、『女』であることを、忘れた。
 手を出してはならない。犯してはならない。
 聖域のように。
 彼女に『少女』を求めたのだ。
 記憶の混濁もそのためだ。認識しているのは過去の彼女で、現在の彼女ではない。だからこそ、思い出せなかった。ヒノトの顔が。
 思い出しては、彼女が、もう後戻りのできぬほどに、愛している女だと、気付いてしまうので。
 彼女が、自分の下を離れる可能性のある、女だと、気付いてしまうので。
 そうなれば、彼女を学院などに送り出したりもできなかっただろう。
 けれどそれでは、彼女が不幸になる。自分は決して、彼女が不幸であってほしいと望んでいるわけではない。むしろ逆だった。学びたいことを自由に学び、友人を得て、笑っていてほしい。
 彼女が幸せであるようにと、尽くすこと。
 それが、自分の都合で振り回し続けている彼女への。
 唯一の良心なのかもしれなかった。
「……うそ」
「嘘じゃありません」
 ヒノトは、頬に触れているこちらの手を握り締めて、小さく頭を振った。
「……どうしていまさら、そんなことをいうの? どうして、いまさらそんな風にいうの!? 貴族のお姫様を迎えることは、もう、決まったことでしょう? もう……変えられないことでしょう!? もう遅いのに!!」
 全部、遅いのに。
 彼女は徐々に言い募り、そして最後には、エイの胸に顔を伏せて泣き崩れた。
「もう、貴方の傍に、いられないのに……」
 貴族の女を尊重するなら、確かにヒノトの存在は邪魔なのだろう。この政略結婚に望んだ利益も、手にすることができなくなるかもしれない。それを、彼女は危惧しているのだ。
 いつもそうだった。彼女は誰かのために身を引いた。自分を常に犠牲にすることを厭わなかった。命を差し出そうとすることもままあった。
 それでも、思い返せば、彼女がそのように泣き叫ぶ様を見るのは、初めてのことだった。彼女はいつも、じっと堪えたように泣くのに。養母が殺されたときでさえ、感情の高ぶりを見せても、嗚咽を必死に堪えていた。常に気丈に振る舞い、涙を殺し、自分に笑いかけてきた。
 その、笑顔の裏に。
 彼女はどれほどの涙を、仕舞いこんだのだろう。
「遅くはないですよ」
 嗚咽に震える肩をゆっくりと撫で擦りながら、エイは囁いた。
「貴女が私の傍に留まる。それに邪魔になるというのであれば、全部辞めてしまいましょう」
「……やめ、る?」
「えぇ。……貴女がいなくなるというのなら、左僕射という地位も何も要りません。貴女を失えば、全ては意味を為さなくなる。昔、言いませんでしたか? 私はこの地位に、執着しているわけではない、と。ですから、全て辞めてしまいましょう」
「……そんなこと、ラルトが許さない」
「では、逃げましょうか。どこか、遠くへ」
 面を上げたヒノトは唖然とした表情を見せ、そして小さく、笑った。
 子供の戯言を微笑ましく思っている。そんな笑い方だった。
「冗談を」
「信じられませんか?」
「信じられない」
 ヒノトは即答した。
「私は貴方がどれほどこの国を愛しているかも、ラルトに忠誠を誓っているかも、そして政に心血を注いでいるか知っている。それを、全て捨てる? 冗談をいうな。第一それら全てを捨てて貴方に生きていてほしいなどと、私は思わない」
 先ほどのか弱さをどこへと追いやってしまったのか。ヒノトは涙を滲ませたままの瞳で、まっすぐにエイを射抜いた。挑むような眼差しだった。
 ヒノトは言った。
「全部を捨てられるほどに、貴方が私を愛しているだなんて、信じられない。私は、私を愛していない男の下でなんて生きられない」


 愛していると、彼は言う。
 女として、一人の存在として、愛していると、彼は言う。
 嘘だと思う。
 嘘だと、これは夢だと、脳裏のどこかで冷めた自分が囁く。これは夢だ。目が覚めたら学院で、賭けに負けたことを嘆いて泣き疲れた自分が、部屋の姿見に映っている。アリガが自分を慰めるために、紅茶を入れてくれているのだ。もしかしたら、手を繋いで、隣で眠ってくれているのかもしれない。
 エイは、こんな風に人を引き止めたりしない。こんな風に人を愛したりしない。知っていたのだ。誰かを愛することを無意識に避けていたこと。恐れている節すらあった。彼の鈍さは、生来の性格に加えて、彼が無意識にそう望んでいるのだということも、判ってしまっていた。
 それでも自分の存在一つで彼の心が休まるというのなら、傍にあり続けたかった。
 けれどもう遅い。
 ぜんぶぜんぶ、おそい。
 権力を選び、地位を選び、たとえ彼が愛情を抱くことがないとは判っていても、それでも妻として迎えた女を、彼は性格ゆえに大切にするだろう。その傍で生きることなど、できない。自分を、愛していない、そのことを生き地獄のように痛感させられ続ける、彼の傍で、など。
 生きることは、できない。
 そう思って、覚悟を決めたのに。
 ようやっと、彼の傍を離れる決心をしたのに。
 それなのに。
 彼は自分のために、全部捨てる、などと、言うのだ。
 いまさら彼は、愛しているから、傍を離れるな、などと。
 戯言を、言うのだ――……。
 沈黙が、訪れる。
 いつの間にか、虚空に霧散する吐息が、とても白くなっていた。気づけなかったのは、感情が昂ぶっていたためだろう。夜も更けて、更に外気温が下がったようだ。
 エイの膝の上に抱きかかえられているヒノトは、さほど冷たさを覚えることはない。が、床の上に腰を落とす彼のほうはひどく冷えているだろう。
 何かを思案している様子の彼の顔をぼんやり見上げていると、唐突に、身体を横抱きに抱えあげられた。
 ふわふわ、ふわふわ、揺れる身体に、あぁやはりこれは夢なのだろうと、虚空を見つめる。目を閉じて、再び目を開けば、きっとそこは、学院の、寝台の上。
 浮遊感から解放された自分は、確かに寝台の上に横たえられていた。
 しかしそこは学院のそれではない。都の屋敷にある自室の、柔らかい寝台。縁に、男が腰掛けている。愛する、男が。
 敷布の上に広がるヒノトの髪を梳きながら、彼は言う。
「私を愛していない男の下では、生きられない、ですか」
 それはつい先ほど、ヒノトが口にした言葉だった。怪訝さに瞬いたこちらに、彼は微笑む。
「どうしたら、信じますか?」
 愛していない、男の下では、生きられない。
 裏を返せば、愛している男の下なら、生きられるだろう、と。
 だから、自分の愛を、信じろと。
 見たことのない、熱を帯びた眼差しでこちらを見下ろして、彼は問う。
「貴女に口付ければ信じますか? それとも今、犯せば? 鎖に繋げば? 何をすれば、貴女を愛していると、貴女は信じる?」
 エイの問いかけに、ヒノトは瞳の焦点を動かし、嗤いを含んだ、か細い声で呻いた。
「……ひどい、男」
 本当に、ひどい。
 愛していなかったくせに。優しさで、ただこちらの愛情だけ掻き立てて、愛してなどくれなかったくせに。女としてみなかったくせに。
 いざこちらが、離れようとすると、気に入った玩具を手放すことを嫌がる子供のように、むずがる。
 彼から政治を奪うか、それとも気が狂ってでも傍にいるか、選べと、愛情を盾に彼は言う。
 なんて、なんて。
 ひどい。
「でしょうね」
 エイは否定しなかった。その微笑も囁きも、あまりに甘かった。こんな男でも、糖蜜のような声で囁くことができるのかと、驚いたほどだった。
 逃れられない。
 こんな風に甘く甘く、自分を閉じ込める男から、逃れられるはずがない。
 樹液に固められる蟲のように、逃れられるはずが、ない。
「信じるなんて、簡単」
 嗤って、囁く。
「……ぎゅっとして」
 昨夜と同じように、ヒノトは懇願した。一つ違うのは、こちらから彼に腕を伸ばさなかったことだった。
 ヒノトの懇願に、エイの目が細められる。彼は笑みを消し、手を伸ばしてきた。
「壊れるほどに、抱きしめて」
 その懇願に、従ったのか。こちらの身体を抱く彼の腕の力が強まる。痛みさえ覚えるその強さに、これが現実の出来事なのだとヒノトはようやっと認識した。
 彼の匂いを吸い込みながら、ヒノトは目を閉じる。
 ――あぁ。
 自分は、この男の下に閉じ込められる。
 甘く耳朶を震わすこの声に、壊れ物を扱うように髪と肌に触れてくるこの指に、毛布のように自分を包むこの熱に。
 囚われ続ける。
 永遠に。
「ずっとずっと、離さないで」
 一度囚われると、決めたのだもの。
 だから二度と解放しないで。
「私の名前を呼んでいて」
 初めて出逢ったとき、柔らかく、こちらの名前を呼んでくれたのと同じように。
「私が、狂わないように」
 ずっとずっと。
 自分が、ここに在ることを、確かめて。
「貴方の、愛に狂わないように」
 名前を呼ばれる。存在を、許される。そうやって、貴方の愛の大きさを、確かめていけるように。
「貴方への、愛に、狂わないように」
 たとえ貴方の傍にどんな別の女がいたとしても。
 それでも、貴方が名前を呼ぶ限り。
 この腕が、自分を、抱きしめる限り。
 きっと、狂わない。
「愛している、エイ」
 ヒノトは、呪縛をかけるように、口付けを強請る甘さで、そっと男の耳に囁いた。
「私のほうが、ずっと」
 貴方よりもずっとずっと。
 ――私のほうが、貴方を、愛している――……。


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