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番外 指に絡まる一筋さえも 25


 今朝方も、ヒノトの様子は変わりなかった。
 いつも通りだった。あまりにも何事もなかった。何事かあっては困るのだが――本当に、身構えていたこともあって、何か肩透かしを食らったような気分を、エイは味わっていた。結局、就寝の挨拶が別離の言葉のように響いた気がするのも、エイの思い違いということだろう。
 こんなものか、と納得し、出仕する。貴族の女を妻に迎えることが決まったからといって、日常が何か大きく変化するわけではなかった。執務室で行われる朝議、下官たちとの会議、大臣たちとの会合、業務の視察、報告書の整理、懸案事項への提案、処理。こなすべきことは次から次へと沸き起こる。特に今日は、一つの町にも匹敵する規模の宮城を、あちらこちらへと移動することが多かった。
 ようやっと、残すところ会議が一つだけという頃には、日も暮れる寸前となっていた。本格的な冬を前にして夕暮れは早い。それでもこれから会議となると、帰宅は夜半になるだろう。それが終われば終了というわけではない。提案された策を元にして方針を決め、報告書も作成しなければならない。決定となれば、実行するための人材も割り振らなければ。
「エイ!」
 回廊を歩き、指折りでやるべきことを数えていたエイは、聞きなれた声に足を止めて振り返った。
「閣下」
 廊下の向こう側から駆けてくるのは、この国の宰相である。彼はエイが歩み寄る間もなく、隣に並んだ。そのまま歩けという意味か、指で道の先を示唆してくる。
「お疲れ様です」
「お疲れ様ぁ。あー今日だるかった! 俺ようやく終わったよ」
「これから執務室へ戻られるところですか?」
「うん。エイは会議だったっけ?」
「はい」
 こきこきと首の骨を鳴らしながら、宰相はぐったりとして呻く。
「まったく、この時期がいっちゃん嫌だよね。超絶的に忙しい」
「ですね。来年のことを考えるのが面倒です」
「だよねぇ。今年のことと来年のことを平行してやらにゃだめだしさぁ。あぁ、めんどー」
 本気でげんなりとした様子の宰相に、エイは小さく噴出した。どうやら何か、嫌なことでもあったらしい。そうでなくてはこれほどまでに物言いが増えることもないからだ。
「頭痛いねぇ」
「閣下も頭痛を覚えることがあるのですね」
「あのね、それどういう意味さ? そりゃぁ俺だって頭痛ぐらいしょっちゅうだよ」
 エイは苦笑を漏らした。冗談に対して、宰相が真剣に頭痛の種を数えだしたからだった。
「……あぁそういえば、頭痛、よくなったの?」
 執務室に戻ってから検案する事項をぶつぶつと暗唱していた宰相は、突如立ち止まって面を上げた。
「ずっと痛いっていってたじゃん」
「え? えぇ……」
 微笑みながら、エイは曖昧に回答を濁す。
「多少はましになりました」
 ヒノトが帰ってきた日のことだ。確かに一度、頭痛は治まった。しかし徐々に、消えたはずのそれが頭の片隅を侵食し始めている。
 心配そうな面持ちの宰相に、エイは笑顔を作った。
「ご心配おかけして申し訳ありません」
「あーいやいいよ」
「……一体、何なのでしょうかね……」
 いつの間にか沈んでしまった窓の外に視線を投げて、エイは知らずのうちに独りごちていた。
 これほど痛いと、何か病を患っているのかと、危惧さえしたくなる。
 誰か、教えてほしい。
 飢餓にも似た。
 この、痛みの正体を。
「カンウ様!」
 唐突に、回廊の静寂を、男の声が引き裂いた。
 刹那、歩き出そうとしていた自分たちの前に、一人の男が立ちはだかる。エイは驚きに瞠目し、傍らの宰相もまた目を剥いて、突如姿を現した男の名前を呼んだ。
「ウル?」
 一体どこから走ってきたのだろう。この宮城を全力で一周してきたのではないか。そう思わせるに十分なほど、彼は汗だくになって息を切らしていた。体力のあるはずの彼が、このように肩を大きく揺らし、空気を求めて喘ぐのは珍しい。息苦しさにか、腹部を押さえてその場に膝を突いたウルを、エイは慌てて腰を落として支えた。
「う、ウル!? 一体どうし……」
「お戻りください!!」
 彼はらしくもなく、ひどく興奮しているようだった。
「お屋敷に、お戻りくださいカンウ様……っ!!」
 一種の武術を極めている彼の握力は、単なる文官のそれとは異なる。型がつくのではないかというほどの強さで腕を握り締められ、エイは痛みに顔をしかめながら、その指を引き剥がすべく手を添えた。
「ウル、落ち着いて」
「とりあえず、深呼吸しなよ」
 口を挟んだのは宰相だ。
「君らしくもない。落ち着いて、順を追って話すんだ」
 困惑の表情で、エイの副官を見下ろしながら彼は言う。その口調は命令に近い。そこでようやっと冷静さを取り戻したのか、ウルは宰相の忠告通り、深く息を吸い込んだ。それに伴い、エイの腕に食い込んでいた指の力が弱まっていく。
 呼吸を整えたウルは、床の上に両手をつき、項垂れながら呻いた。
「……ヒノト様が、お屋敷を、出て行かれると」
 内容は、実に突拍子もない。
 ウルの言葉の意味を理解するには、少しの間を要した。
「……え?」
 彼の言葉に対する反応らしい反応を返すこともできず、エイはただ、瞬きを繰り返して目の前の副官を見下ろすことしかできなかった。一方、冷静だったのは宰相だ。彼はエイの傍で腕を組んだまま、小さく首を傾げて続きを催促した。
「それで?」
 宰相の追求に、ウルは答える。
「もう、戻らぬと。あのお屋敷にも、この、都にも。今回を最後に、出て行かれると。……何を、申し上げても、出て行くとおっしゃって、聞かれないのです……」
 呻いた彼は、面を上げ、エイに懇願した。
「カンウ様。お願いいたします。お戻りください」
 低く、唸るようでいて、どこか敬虔な祈りにも似た響きを宿す声音だった。
 尋常でないウルの様子に当惑する一方で、理性が冷静に、この場を離れるわけにはいかないと囁く。仕事が待っている。この場を離れる必要などない。なぜなら。
『あの娘が自分のもとを離れるはずがない』
 胸の中から湧き上がる、ウルの言葉への否定。
『あの娘が、解放を望むはずがない』
 喉の奥から競りあがる、仄暗い感情。
 なぜならあの娘は――……。
 檻の中の少女が、自分を見上げている。
 顔のない、少女が。
「お戻りください!!」
 ウルが、言葉を待ちかねるというように、エイの身体を揺さぶって叫んだ。
「このままでは貴方は、あの方を失ってしまう……っ!!!」
 いまだかつて、彼がこれほどまでに、声を荒げ、何かを訴えるなどということが、あっただろうか。
「……貴方様は、それで、いいのですか……!?」
 その声音は、泣きに震え、掠れていた。
 項垂れる肩が震えている。その、手の震えはやがてエイの身体を生々しく侵食していった。
 ヒノトを失う。
 その、恐怖と共に。
「いきなよ」
 戦慄していたエイに声をかけたのは、宰相だった。
「……閣下?」
「いいから、早く立って、屋敷戻りなって。ウルがそんだけいうんだからさ。ヒノトを失いたくないんだったら、早く行ったほうがいい」
「ですが」
「会議は俺とウルでどうにかするし。早くいきなよ。……あぁいうのは、一度失うと、ものすごく、しんどいよ」
 もう、生きられないぐらいに。
 そういって宰相はエイの腕を引き上げ、背を押した。
 歩き出すことに、まず躊躇を覚える。しかし一度踏み出すと、意識を置き去りにして、先ほどまで向かっていた先とは逆の方向へ、身体は駆け出していた。
「大事なものを、間違えたら駄目だよ、エイ」
 背に、宰相の声が掛かる。
「間違えたら最後。俺達は……」
 この、虚偽の仮面を被り、常に取捨選択を行わなければならない光と闇の世界で。
 狂うしか、ないのだから――……。


 急に戻った自分を、家人たちが驚いて迎える。今日は遅くなると、事前に伝えてあったからだ。仕事が早く済んだのかという彼らの質問を受け流して、エイはヒノトの場所を尋ねた。家人たちは皆一様に首をかしげる。湯浴みを終えてから、彼女の姿を見かけたものはいないらしい。
 居間、書斎、と、彼女の部屋へ向かうまでの道筋にある部屋を順繰りに覗いていく。いつもと同じようでいて、どの部屋も異なっていた。特に変化が顕著だったのは書斎だ。本棚に並ぶ書籍の中から、ヒノトのそれだけが、まるで櫛の歯が抜け落ちたように欠けていた。斜めに傾いだ、置き去りにされる書籍を一瞥し、扉を閉じる。
 等間隔に配置された光源が廊下を明るく照らし出している。窓の外は暗く、廊下の明かり全てを吸い取っているかのようだった。
 ヒノトの部屋の扉を叩く。返事はない。しかしそのまま立ち去るつもりはなかった。気配が、あったからだ。
 扉を開く。廊下の明かりが暗闇を切り裂いて、窓までの細い道を渡した。光の道は、エイを探していた少女の下へと導き誘う。
「……ヒノト?」
 椅子を寄せ、窓枠に頬杖をついて、窓の外を眺めていた少女は、エイの姿を認めると、とん、と椅子から床の上に降り立った。
「エイ、おんし、今日は遅くなるのではなかったのか?」
 小さな顔が傾ぎ、長い髪がさらりと揺れる。逆光で、彼女の表情は読み取れない。今宵は明るい月が出ているようだった。
 エイは扉を閉じながら、窓辺に立つ少女の下へと歩を踏み出した。一歩一歩、昨夜詰めることのできなかったその距離を、縮めていく。
「……この屋敷を、出て行くつもりだと、聞きました」
 立ち止まる。
 こつり、と、響く靴音に、自分の引き攣った声が混じた。
「冗談ですよね?」
「いや? 冗談ではないが」
 ヒノトは肩をすくめて、顔半分を覆う髪を指先で掻きあげた。
「ウルから聞いたのじゃろう? 本当じゃよ。おんしも見たかもしれんが、妾の荷物はすべて纏めた。この七日を以って、妾はこの屋敷を出て行く。ウルが勘付かなければ、最後の日にでも挨拶をしようと思っていたものを。告げ口しおって」
「報告というんです。そういうのは」
 つい先日彼女から言われた同じ言葉をそっくりそのまま返しながら、エイは小さく頭を振った。彼女の言葉全てを、否定したかったのかもしれなかった。
「何故です?」
「何故?」
 エイの問いがおかしくてならないというように、ヒノトは笑って鸚鵡返しに訊きかえしてくる。
「何故、妾がこの屋敷を出て行くかということか?」
「それ以外にないでしょう?」
「なんじゃ。おんし、理由がわからんのか」
 小馬鹿にしたようにヒノトは鼻を鳴らした。挑発的ですらある。腕を組んだ彼女は、表情を消して口を開いた。
「おんしが高貴な女を娶るというのなら、妾は邪魔となる」
「邪魔?」
「エイ、貴族に限らず女というものはな、自分の男に別の女の影がちらつくのを厭うものよ。せっかく貴族の姫君を迎え入れるのに、わざわざ不和の理由を作ることもなかろう?」
「ですが貴女は」
「子供だろうが老人だろうが関係ない。己が領域に、女という性別をした存在が入り込むことを許せんのよ」
 女とは、嫉妬深い生き物だから、と、ヒノトは笑った。言葉を探すエイに口を挟む隙を与えまいとするかのように、すかさず彼女は口を開く。
「妾は、もう一人で生きていけるよ、エイ。自分の食い扶持は自分で稼げる」
 そして微笑んだ彼女は、明瞭な声音で、エイに言葉を突きつけた。
「もう……おんしの後見は、いらんのじゃ」
 反論の余地を許さぬ、物言いだった。
 暗がりに浮かび上がる緑の双眸は、揺らぎなく、彼女が決して冗談を口にしているのではないことが窺える。
 それはヒノトが自分に対して初めて見せる、徹底的な、拒絶だった。
「感謝しているよ、エイ」
 絶句して立ち竦むこちらに、彼女は先ほどと打って変わった柔らかな声音を紡いだ。
「おんしがいなければ、妾は死ぬしかなかったのじゃから。リヒトの死に立ち会った。ただそれだけで、妾に手を差し伸べ、衣食住を保証し、学ぶ機会を与えてくれたこと、本当に、感謝している」
 違う、と思った。
 違う。断じて、ただヒノトの養母であったリヒトの死に立ち会った、ただそれだけの理由で彼女をこの国に連れ帰ったわけではない。
「感謝している。だから、おんしに迷惑が掛からぬうちに、妾は去るとするよ」
 ヒノトの微笑は優しい。その声も。
 言葉が、出ない。
 言うべき言葉が、見つからない。
 けれど違うと思った。
 何が違うのかは判らない。ただ、思った。違う、と。
 こんなことは、間違っている。
「……ヒノト」
「あぁもちろん!」
 エイの呼びかけに、ヒノトは能天気とも呼べるほどに明るい声を上げ、手を顔の前で振ってみせた。
「いつまで掛かるかはわからんが、妾に掛かった金は必ず返すし。一人で生きていくにしても、おんしの迷惑にならんようにする。都も出るから、心配な……」
「そんなことをする必要はない!!」
 冷えた指先を力の限り握りこんで、エイは叫んだ。爪が食い込んだのかもしれない。鈍い痛みが手のひらを侵食していく。
 静かだった部屋に自分の声は、よく反響した。ヒノトがきょとんと、目を丸めていた。
「……金を返さんでいいのは、確かに楽じゃが、それでいいのか?」
「そうではありません! そういう、意味ではなくて――……」
 ヒノトらしくない、察しの悪さに、エイは歯噛みした。それとも、演技だろうか。どちらにせよ、苛立つことには変わりがない。
「何故、貴女がここを出て行かなければならないのですか!?」
 憤りから声を荒げるこちらとは対照的に、ヒノトの反応は冷ややかだった。
「今、理由を説明したと思ったが」
 腰に手を当て、呆れを混じりの嘆息を零しながら、ヒノトは言う。
「エイ、一ついうておくが、妾は強要されてここを出て行くわけではない。ほかでもない、妾自身の意思でここを離れるのじゃ。おんしに、ただ世話になってばかりというのも、どうかと思うておったしな。……迷惑をかけてよしとするほど、妾は恩知らずではない」
「私は貴女の存在を、迷惑だと思ったことは一度たりともない!!」
 ヒノトの言葉に半ば被せるようにして、エイは絶叫した。彼女を迷惑だと思ったことは、いまだかつて、ただの一度もない。それがたとえ、どんな状況――自分の生命が揺るがされるような事態にあってもだ。それをそのように言われることは、エイにとって我慢ならないことだった。
 唸るようにして、エイは繰り返す。
「迷惑などと、一度たりとも、思ったことはない!」
 そして腹の底から競り上がってきた感情に突き動かされて、断言する。
「……貴女はここに、いるべきなんです!」
「……何故?」
 ヒノトの問いかけは、ただ、過熱していくばかりのエイに、水を浴びせかけるかのように冷静だった。
「どうして?」
 彼女は感情一切をその顔から消し去って、小首を傾げる。
「妾はもう自分一人で、生きていくことができるのに?」
 ――身一つでこの国につれてこられた彼女には、庇護者が必要なはずだった。
「医者として身を立てることが、できるのに?」
 ――医療を志ながらも、まだまだ半人前のはずだった。
「……妾がいたほうが、不利益に、なるのに?」
 ――その存在が、ただエイを救うだけのものであった、はずだった。
 ただ、天真爛漫な、か弱い立場の少女であったはずだった。
 ヒノトは、嗤った。
 喉を震わせ、おかしくて、たまらないというように、彼女は身体をへし折る。その様子に、エイは慌てて彼女の顔を覗き込んだ。
 刹那。
 頬に、衝撃が走った。
「……っ!?」
「しっかりしろ、エイ・カンウ」
 拍手を打つ勢いで、エイの頬をその小さい両の手で挟んだヒノトは、噛み合わせた歯の隙間から搾り出すようにして呻いた。
「おんしが高貴な女を娶るということは、おんしの地位を、ひいてはこの国の内政を、磐石とするためのもの……判っているはずじゃろう?」
 目を合わせ、まっすぐにエイを見据えて、ヒノトは続けた。
「ラルトは身分なき女であるティアレを皇后とし、ジンが妻とするシファカはそれなりに立場あるものだとしても、所詮は遠き小国の人間じゃ。この国は古き国。由緒正しき姫君を馬鹿にされておっては、古参の者たちも納得しまい。せめて誰か、古きものを立てるように、妻に迎えることが望ましい。ラルトもジンも、形だけの妾(めかけ)をとるつもりはないじゃろう。残るはイルバとおんしじゃが、若く、そして何よりもこの国の出身であるおんしを皆選ぶ。中には、他国の血が入るものを厭うものもおろうて」
 そう。
 皇帝と宰相を含めた、あの執務室の権力者四人の中に、貴族の女を迎え入れることには、意味がある。だから皇帝も自分に貴族との婚姻を勧めたのだ。その意図を汲むことぐらい、造作もなかった。
「エイ。判っておるじゃろう? どうあっても、妾はおんしにとって邪魔になる。おんしは、その道を選んだ……判っている、はずじゃろう!?」
 判っている。
 彼女の言う通りだ。
 判っている。
 何一つ、反論できない。すべて、彼女の言う通りだ。
 絶句する傍らで、エイはぼんやりと思った。
 驚くべき聡明さを見せ、こちらの置かれた立場を案じて、真摯に訴えかけてくる――……。
 ――この、『女』は、誰だろう?
「互いに頭を、冷やそう」
 女は言った。
「妾はもう、リンの家に泊まるとするよ。また都を離れる前に、一度挨拶に寄る。……宮城に、顔をみせよう」
 その、華奢な手が、エイの顔の輪郭を確かめるように頬を撫ぜ、落ちた前髪に指を通す。柔らかな指先からは、薬草のものか、心を安堵させる甘い香りがした。
 呆然となるエイに、彼女は微笑む。
「……おやすみなさい、エイ」
 その言葉を最後に、手が、離れていく。
 すっと伸ばされた背が遠ざかり、衣擦れの音が響く。女の動きはきびきびとしたものだった。しかしまるで時間が引き延ばされたかのように、エイの目には緩慢に映った。
 扉が、開く。
 その光の向こうに、女の影が、吸い込まれていく。
 エイは、叫んだ。
「ヒノト!」


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