BACK/TOP/NEXT

番外 指に絡まる一筋さえも 24


 彼の報告を耳にしたとき、あぁ、とうとうこの日が来たのだな、と思った。
 何年も覚悟を決めてきたことだったので、自分はきちんと笑うことができた。できていたと、思う。
 少なくとも、自分は泣かなかった。泣くことはできなかった。これ以上泣いたら、目を腫らしてしまう。
 泣くのは、学院に帰ってからにしよう。
 アリガに、駄目だったと報告して、慰めてもらおう。向き合う前に、負けが確定してしまったのだ、と。
 自分は、遅かったのだ、と。
 深い悲しみを拒絶するように、思考があまりにも冷静で、笑えた。


 異変に気づいたのは、<網>だった。
 <網>はありとあらゆる情報を拾い上げるが、その全てをウルに伝えるわけではない。何か知りたいと願わなければ基本報告はないが、例外なのは、<網>が見張っている人物が、日常から逸脱した行動をとり始めたときだ。
 <網>は、ウルに至急確認を取るように、と告げてくる。予定に問題がないことを確認すると、仕事を中断して、ウルは宮廷を抜けだした。


 片付けをしたい、とヒノトは家人に告げた。古くなってしまったものを、処分したいのだ、と。
 学院から戻ってくるときの、荷物もあるから、整理をしたいのだ。そのように理由を付け加えると、家人はもちろんいいですよ、と頷いて、手伝いを買って出てくれた。手垢のついた書籍を纏め、もう着られなくなってしまった衣服を処分し――これは、家人が娘にやるのだといって、持って帰っていった――家人の見ていない場所で、残った荷物をすべて一つの箱に纏め上げる。
 もともと荷物の少ない部屋だ。何せ自分は身一つでこちらへとやってきたし、あまり贅沢しすぎるのも、養母と共に死んでしまった兄弟達に気が引けた。箱の中には、置き去りにしていた僅かな衣服と、医学書と、リファルナから持ち込んだ、細々としたものだけが、残されていた。
 養母の書いた水煙草の処方箋を指先で撫でる。血と泥がこびり付いたそれは変色していて、紙も少し脆くなっている。それをそっと小さな箱の中に仕舞いこんで、蓋をしたところで、ヒノトは人の気配に面を上げた。
「……ヒノト様……」
「ウル?」
 驚きに立ち上がって、ヒノトは思わず呻いた。息を切らして戸口に佇んでいるのは他でもない、エイの副官である。こんな日中に、訪ねてくるような人物でもない。突然の来訪者に、女中や警備も困惑の顔を見せている。ヒノトは手振りで家人たちを下がらせ歩み寄ると、ウルを部屋の中に招き入れた。
「早く中に入れ……」
 扉を閉じながら、ヒノトは上背のある男の顔を見上げた。
「おんし、こんなところで、何をしておるんじゃ?」
「それはこちらの台詞です! 貴女様は……一体何をしていらっしゃるのですか!」
「何って……」
 ウルの叫びに、ヒノトは言葉詰まりながら思考を巡らせる。しかし彼の意図する行動が何を示しているのか、ヒノトには理解できなかった。
 しかしウルは意外な回答を、ヒノトに即座、提示したのだ。
「<網>が知らせてきました! 荷物をすべて処分されて、一体、どこへいこうとおっしゃるのですか!?」
 家人には、片付け、としか伝えていない。
 すべてといえる量を処分しているところを、彼らに見せたわけではない。逆をいえば、見えぬ場所で、ヒノトは荷物の大半を処分した。もうどうあがいても使い物にならないものは捨て、そうでないものは売り、もしくは譲り。
「……<網>は、そんなこともわかるのか」
 遠く離れた、こちらの行動まで、<網>は拾い上げてしまうのか。
 ぽつりと呟いたヒノトに、ウルは苦々しく呻く。
「その気になれば全てがわかります。それをしないのは、単純に術者である私が壊れてしまうからですし、生活を覗き見られてよい感情を抱くひとなどいないでしょう。つまりは、そういうことです」
「よく、気が狂わんな」
「狂いそうなときもありました。けれど、狂わずにすんだ。私を救ったのは、貴女様とカンウ様です」
 吐き捨てるように一息に告げ、一度ウルは言葉を切った。小さく頭を振って呼吸を整え、彼は静かに言葉を再開する。
「笑い転げる貴女様と、それを見守るカンウ様のお二人の生活を、見守っていることが私の幸せでした。何もないところから立ち上がり、何もないところに幸せを見出し、ただ、手をとって支えあう貴女様とカンウ様のお二人が、私にとって人間の美しさそのものだった」
「ウル」
「出て行かれないでください、ヒノト様。カンウ様には貴女様が必要です。本当に、必要なんです」
 悔しげに肩を震わせる男の腕を、ヒノトは擦った。この男も傷を負っているのだろう。体躯はヒノトよりも一回りも二回りも大きいというのに、とても頼りない子供のように思える。
「……ウル、もう遅い」
 ヒノトは微笑んだ。
 そう、もう遅い。
「エイは、選んだのじゃから。……本当に、政治馬鹿じゃなぁあの男は」
 ウルは違うと言いたげに頭を振り続ける。
「違う……あの方が選んだのは、貴女様です」
「違わない。あの男は、一つの夢を選んだのじゃ。この国を、少しでも笑顔溢れるものにする。少しでも、皆が自由に学べる世界に、未来を選び取れる世界にする」
「違う」
「ウル」
 ヒノトは、ウルの袖を握り締めながら、子供を諭すような口調で問うた。
「ウルは、妾に狂えと?」
「……どういう、意味ですか?」
 面を上げたウルにヒノトは微笑みかけ、その場を離れた。換気のため、開け放たれた窓に手をついて、ヒノトは軽く伸びをする。
「妻がおるのにエイの下に留まり続けるなど、妾にはできんよ。エイの醜聞にかかわるから? いいや。エイのために? いいや。……他でもない、妾のために」
 振り返って、窓枠に腰掛ける。扉近くに呆然とした面持ちで立ち尽くしたまま、ウルはこちらを見つめていた。
「妾でもなんでもない、しかも身分も後ろ盾もない医者の女。そんな女が、あやつの下にいては、確かにあやつの醜聞になる。邪魔になる。それも確かじゃ。けれどな、妾はただ、耐えられんだけなのじゃよ。政治だけならまだ許せる。けれど、あやつが、他の女を抱くなどと。それを、間近で見ていなければならないなどと」
「ヒノト様……」
「妾はあやつを独占したい。妾はこんなにも、強欲じゃ」
 己の胸に手を当てて、ヒノトは嗤い、ふと思い立って、ウルに質問を投げかけた。
「ウル、おんしは、レイヤーナという女性のことを知っておるか?」
「……前、皇后陛下」
「うん。その死の真相も、おんしなら知っておるじゃろう?」
「……自殺、されたのでしたね。心の病を得て」
 前皇后レイヤーナ。皇帝と宰相の幼馴染にして、二人の寵愛を受けた女。
 彼女もまた、二人を愛していた。愛しすぎていた。それゆえに、政治に没頭する彼らに耐えられず、心の病を得て、幽閉されていた塔の上から身を投げたのだという。
「妾はなんとなく、その人が何を思っていたのか理解できる。実際は少し違うかもしれないが……それでも、思う。あぁ、苦しかったのじゃろうな、と。先へ先へといってしまう男たちに自分は本当にふさわしいのか。半人前の皇后である自分は、彼らに縋ることしかできないのに、彼らを愛することしかできないのに、彼らを独占することもできない。それが歯がゆいのに、けれどそれ以上前にも後ろにも進めない。……妾と、同じ」
「同じじゃありません」
 きっぱりとヒノトの言葉を否定するウルに、ヒノトは即座、言い放った。
「同じじゃよ。半人前の医者であった妾が、エイの傍にいることしかできなかった事実と何が違う?」
「同じじゃありません。貴女様は今、立派な一角の医者であられる」
「そう。そうなるように、妾はエイの傍を離れたのじゃ」
 こちらの言葉の意味を、理解しかねたらしい。ウルは表情を険しくして首をかしげる。
 ヒノトは窓の外を見た。初冬の、空気の澄んだ空。
「あのままエイの傍にいれば、妾は半人前のままじゃった。それでは、いつかエイが、こんな風に貴族の後ろ盾を得るときに、そのまま留め置かれてしまう。貴族の姫君と妾が顔を合わせることはないじゃろうが……それでも、妾は耐えられん。しかし出て行こうとしても、半人前のままじゃったら、それを理由にエイが妾を引き止めるじゃろう。ウル、おんしは、エイに妾が必要なのじゃといったな。そうなのじゃろう。妾も否定はせん。しかしあやつが必要としているのは、あやつに庇護される頼りない何かじゃ。妾という一人の女ではない」
 思い当たる節があるのだろう。今度はウルも、否定しなかった。
「……妾は、そんな状態で、エイを突っぱねることなどできん。エイと向き合うにしろ、そうでないにしろ、妾はどうしても、一人前の医者になることが必要じゃった」
 だから学院へ行った。
 あそこを卒業すれば、どこへ出ても恥ずかしくない技術と知識を身につけることができる。死に物狂いで勉強した。
 誰からも認められる存在になれば、エイに、言い訳を与えない。
 ヒノトという存在が、半人前であり、庇護されなければならないという理由を、彼に与えない。
 そうすれば、一人の女として、彼も自分と向かい合ってくれるかもしれない。賭けのような、気持ちだった。
 しかし、賭けは負けで終わった。
「エイが貴族の女を妻として迎えるのならそれでいい。しかしこの屋敷は出て行くよ。都も離れる。エイの邪魔にならぬどこかへ行く。彼の噂の届かぬところへ」
 ただ、国だけは離れない。
 ウルに向き直り、ヒノトは微笑に目を細めた。
「狂わないように。嫉妬で、狂わないように。半人前の妾であったなら、エイに望まれるまま、庇護される対象として留まることもよしとしたじゃろう。けれど妾はきっと、病んでしまう。女として見なされないだけでなく、あやつが別の女を傍らにおく姿を目にし続けるなど妾には無理じゃ。そしていつか、彼に貴族の女を娶らせた、政治を憎み、彼の周囲も憎み、レイヤーナという女性と、同じような罪を、犯してしまうのではないか。毒を盛り、エイを殺して、身を、投げる――……」
 その未来は、あまりにも鮮やかに、思い描くことができた。
 そしてそのことに、自分で戦慄したのだ。
「エイを手にかけるようなことをしたくない。彼から、夢を奪ってしまうようなまねはしたくない。けれど、それ以上に……」
 ヒノトは、小さく頭を振った。視界を徐々に覆い始める、白い霞を取り払いたかったからだ。
「私は、狂っていく自分の姿を、彼に見られたくなかった。……自分勝手、でしょう?」
 本当に、愛ゆえに献身的であろうとするならば、どこまででも彼の傍にいるべきだ。
 けれど自分はそれを選ばない。
 保身のために。
 弱い選択だと、人は嗤うだろう。
 けれど、それでもその醜さを、彼の前にさらしたくは、なかった。
 なかったのだ――……。
 期限を切った。この帰省中、彼が最後まで自分を女として見ないのであれば、もうそれで、終わりにしようと。
 このまま傍にいても、ただ、不毛なだけだから。
「そんなこと、わかりません」
 今にも泣き出しそうなほどの悲痛さを宿して、ウルが呻いた。
「貴女様が狂われるかどうかなど……わからないのに……」
「ウル」
「ヒノト様。あの方は、本当に貴女様を愛していらっしゃるんです。一人の人間として貴女様を愛している。あの方が、貴女様に接するときだけ、どれだけ柔らかい顔をされ、どれだけ優しい声を紡ぐか。何よりも貴女様を優先され、貴女様だけを傍に置いて……私はずっと見ていたのに……!」
 見ていたのに。
 歯噛みしながらそう繰り返して、顔を覆ってしまう彼を、ヒノトは小さく笑った。
「愛しているというその言葉、おんしからじゃなく、あの男から直接聞いてみたかった」
 嘘か真かは知らない。
 けれどもし本当なら。
 あの男から、一度でも、愛しているという言葉を耳にしていれば。
 自分はたとえ気が狂っても、あの男の傍にいることを、選んだだろうに――……。
「ヒノト様」
「でももう遅い」
 すべては決した。
 あの男は政治を選び、自分は敗北を喫した。せっかくあの男が手に入れた後ろ盾を壊すことができるほど、自分は恩知らずでもない。最下層の民として生まれたあの男が、どれほど苦労をしてその地位と周囲の信頼を勝ち得ていったか、自分もまたずっと見ていたのだ。
 貴方のために生きるよ。
 ただ、それが遠い場所である、だけで。
 あぁ、泣かないと。
 決めていたのに。
 頬を。
 あの男が。
 触れた頬を。
 雫が滑り落ちる。
 ヒノトは呟いた。
「もう、遅いんじゃよ……」


BACK/TOP/NEXT