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番外 指に絡まる一筋さえも 23


 思い出せうる最も古い彼女の笑顔は、初夏の日差しに照らされた廊下でのものだ。あの時、この国は幸福へ向かって歩き出そうとしていた。様々な経歴を持つ者たちが集い、各々の決意を以ってこの国で生きることを選び、未来へ踏み出そうとしていた。自分もまたその一人だった。
 廊下は黄金の色に染められて、外では萌ゆる緑が風に揺れていた。人々の笑いが遠くに聞こえる。空は澄み渡り、庭を通る鑓水が、陽の光を乱反射し、まるで宝石を撒いたかのようで。
 その廊下を、二人で歩いていた。
 自分は敬愛する皇帝にその決意めいたものを口にしたあと、右僕射として着任した男の下へと向かっていた。彼女は『友人』の女たちの下へと向かっていた。僅かに重なる時間を、共に歩いて過ごしていた。
 その時間の終わりに、彼女は言った。己がいないと、お前は本当に駄目なのだな、と。
 その通りだと思った。だから頷いてやった。彼女は困惑し、呆れの表情を浮かべたものの、出会ったばかりの頃に見せたような、屈託のない笑顔を自分に向けてみせた。
 その笑顔を見たとき、思ったのだ。
 あぁ、これは。
 自分の手の内に、あるべきだと。
 そしてこれが、自分の記憶に残る、彼女の最後の笑顔となった。


 ――彼女が笑ってくれても、その姿を、記憶に留めていられなくなってしまっていた。


「左僕射殿」
 呼びかけに、目を開く。眠っていたわけではない。周囲で人々の動く気配、囁き声、衣擦れの音。そういったものはきちんと記憶に留まっている。しかし、意識がどこか遠くへと沈んでいたことは否定できぬことだった。
「調印を」
 そういって差し出された紙を、エイは引き取って見つめた。文面を黙読する。そこには、自分が、後々この家の娘を妻として娶ることを同意する旨が書かれている。要するに、婚約の証のようなものだ。
 自分が、女を妻として迎える。あまりに現実感のない響きに胸中で嗤いながら、エイは筆記具を静かに紙面に滑らせた。


「わかった」
 エイからの報告と調印した届出を受け取った皇帝は、静かに頷いた。
「また後で、目を通して受理の印を押しておこう」
 そういって届出の書類を机の奥へ仕舞いなおしてしまう皇帝に、エイは目を瞠った。
「今すぐではなく、ですか?」
 エイの問いに、僅かに首をかしげながら皇帝が目線をあげる。
「今すぐがいいのか?」
「いえ、そういうわけではないですが。別に急ぎはしませんし」
 左僕射ともなると、婚約一つとっても皇帝の承認が必要となる。朝方、ダムベルタの家へと寄って、手続きを行い、届出を済ませたわけだが、こちらに見合いを勧めてきた手前、すぐに受理するかと思っていたエイの予想を裏切る皇帝の反応に、疑問を抱いただけである。
「ヒノトにはこの件、伝えたのか?」
「確定してからのつもりでしたから、これからです」
 不確定なものごとを、安易に彼女に伝える気はない。それでなくとも、気が重いのだ。それはおそらく、ダムベルタ家から戻ってきた自分を迎えたウルの、これ以上ないほどの不機嫌さに圧力を覚えているからだろうと、エイは思っている。
「……今日の夜にでも、伝えようとは思っています」
 気鬱とはいえ、伝えぬわけにはいかないだろう。丁度帰ってきているわけでもあるし、彼女が学院に戻ったあとに、手紙で伝えるというのもおかしな気がした。
「そうか」
 皇帝は小さく頷くと、机の上に両手を組んでおいた。
「彼女はこっちで働くつもりなのか?」
「昨日話した限りでは、王立病院勤務が希望のようですが」
「あぁ、そうなのか。宮廷医じゃないんだな」
「リョシュン殿もいますから、今朝も勧めはしましたけれど。ですが、昔からあまり宮廷医にはなりたくなかったようです。御殿医の人たちのこともありますし……」
 ヒノトは気丈に振舞っていたが、当時、リョシュンの傍に見習いとして侍ることは、御殿医たちの嫉妬を招くものでもあったようだ。口さがないことを言われたり、多少の嫌がらせを受けたりといったこともあったらしい。もっともこれは、ヒノトが学院へ行ってから知ったことであるのだが。
 しかし、いくら嫌がらせまがいのことを受けようと、本当に御殿医を希望しているのであれば、屈せず立ち向かおうとするだろう。ヒノトはそういう娘だ。
「こちらで勤めてくれれば、俺個人としてはすごく助かったんだけどな。ティーが喜ぶ」
 皇后はヒノトに宮殿での勤務を希望していたのだろう。そのことが、皇帝の口ぶりから窺い知れた。
「確か、王立病院は勤務に推薦状がいるようにしてあったな」
「医師として働いている人間の推薦状が必要です」
「リョシュンに書かせる?」
「それはおやめください陛下。それこそヒノトが嫌がります。……学院のほうから推薦状は出るようです。試験も、あちらでやるようですね。ヒノトの成績ならば、勤務を始めるには問題ないようですよ。逆に引き抜きが来ているほどらしいですから」
 ヒノトの手紙ほどの頻度ではないが、学院から定期的に通知のようなものが送られてくる。彼女の学院生活を、客観視したものが綴られた報告書だ。ヒノトの成績は群を抜いていて、学院に付属している医院の患者たちからも評判はよく、どこの病院へ行っても問題はないとの太鼓判を押されている。
「そうかぁ。成長したなぁヒノトも」
 感心したように、皇帝は大きく頷いた。その言葉に、エイは何か、違和感のようなものを覚える。
「せいちょう……?」
「あぁ。学院の医療水準は世界的に見ても高いものだ。その内容と過酷さについていけずに、脱落者が多いことは、お前も知っているだろう、エイ」
「あ、はい」
「そこで一角の医者として認められることは、一流を名乗れるということだ。あの、リョシュンに叱られてばかりいた子が、よくがんばったものだな」
 学院入学前、リョシュンに頻繁にお小言を食らっていたヒノトの姿を思い出しているのだろう。皇帝は、思い出し笑いに顔を緩める。
「もう、立派に、一人前の医者というわけだ」
「一人前……」
 皇帝の言葉を知れず反芻しながら、エイは、ここのところしばらく消えていた鈍い痛みが、頭を侵食していく感触を覚えていた。
 どうしてだろう。
 事実は皇帝の言うとおりだというのに、そこはかとない違和感を覚える。
 指の先から冷えていく。脳裏の奥で、警鐘が鳴り響く。息が詰まり、景色がすっと、遠ざかっていく。
 深淵に封じ込めた何かが、頭を擡げている。
 蓋が、開こうとしている。
 開けてはいけない。
 気づいてはいけない。
 もし、気づけば。
 もし。
『私は、父から自由になりたかった』
 父親の呪縛に苛まれていた女が、父を失ってなお牢獄の中に囚われ嫣然と微笑む。
 ――ありがとう。貴方が私を、殺してくれるのね……。
 恍惚とした表情を浮かべて、少女達が自分の振り上げる刃を待つ。
 顔のない、少女達が。
 頭痛が、する。
 気づくな。
 頭が、痛む。
 気づいたら。
『おんしは、ほんとうに、妾がおらねば、だめなのじゃなぁ、エイ』
 ばさささっ……
「エイ?」
 鳥の羽音と皇帝の呼びかけに驚いて、エイは居住まいを正した。
「……は、はい!?」
「……どうしたんだ? 鳥に驚いたりして」
「え……あ、すみません」
 天窓で骨休めをしていたらしい鳥は、大きく翼を広げて空を往く。
 その軌跡を目で追いながら、皇帝は言葉を続けた。
「鷹か。こんなところまで来るなんて、人馴れしたやつだ」
 その姿が空の彼方に消えたのは、まもなくのことだった。
「……昔、人に飼われていたのやも」
「かもしれないな。檻の中から、逃げ出したのか」
 エイの呟きに、肩をすくめて同意した皇帝は、さて、と机の上の書類を手に取った。
「それじゃぁ、話を戻そう」
 皇帝の言葉に、エイは慌てて手元の報告書に視線を落とす。話といっても、ヒノトの話題へと戻るわけではない。今、自分がここにいるのは、明日の会議の打ち合わせのためなのだ。
 報告書の一枚目を繰っていたエイの耳に、話を切り出す皇帝の声が届く。
「それじゃぁまずは、来年度の街道の整備についてだが……」


 記憶から失われてしまった、彼女の顔の中に、自分は何を封じ込めたのだろう。
 何を直視することが恐ろしくて、彼女の顔を見失ってしまったのだろう。
 声が、聞こえる。
『お前は、一体、誰を――……』


 その日は早めに帰宅することができた。夕食の席に間に合ったことに、家人たちもヒノトも嬉しそうな顔を見せる。彼女の顔に安堵したものの、一瞬後に、その記憶を見失った。慌ててヒノトの腕を取って彼女を振り返らせる。驚きにその深い緑の双眸を見開いた彼女は、怪訝そうに、それでも笑って、エイの頭を撫でた。小さく柔らかい手が、こちらの頭を撫でるのは初めてだった。
 不快ではないのでそのままにしていたら、ますますヒノトは表情を険しくして、真剣に大丈夫か、と尋ねてくる。大丈夫だ、といってやった。ヒノトは無言で目を細める。嘘つきめ、とその顔に書いてあった。
 彼女が踵を返すと、やはりもう彼女の顔を思い出せなくなってしまっていた。何かの病のようだと、エイは思った。
 食事の仕度が整い、ヒノトと向かい合って席に着く。並べられた心づくしの料理をとりながら、キリコが会いたがっていた旨を伝えた。
「うーん。妾も会いたいんじゃが……実は時間が……できれば、出立の日の午前に、本殿に寄っていこうとは思っておるよ」
「本当に忙しいみたいですが、一体何をなさっているのですか?」
「うん? リンについては言うたよな? 実家が町医者をしておるのじゃが、そこへ見学に行かせてもらったり……あと、アリガに頼まれていることとかもあって。まぁ、いろいろとな。やることがある。そのための帰省じゃから」
「そうですか……。キリコにはそのように伝えておきます。残念がりますよ」
「うん。妾も残念」
「枕投げをしたかったそうで」
「……枕投げ?」
 それからも、会話は続く。明るい雰囲気だというのに、どこか上滑りしているような感覚がまとわりついている。
 食事も終わりに差し掛かったとき、エイは意を決し、話を切り出した。
「ヒノト」
「うん?」
「私、結婚することになりそうです」
 するのだ、と。
 断定的な表現を使わなかったのは、結局一日中不機嫌そうだった、ウルの顔が過ぎったからだった。
 ヒノトは瞠目し、そして瞬いた。唇を引き結び、まるで時を止めたように、微動だにしなくなる。
 あまりに長い間。
 彼女はその髪一筋すら、揺らさなかった。
「……貴族の、姫君と?」
 永遠にも思えた一瞬の間を置いて、食事を再開したヒノトが尋ねてくる。エイは頷いた。
「えぇ」
「恋愛と政略、どっち?」
「後者です」
「ふぅん。……大変じゃなぁ、おんしも」
「……いいえ」
 かちゃかちゃと。
 陶器の、触れ合う音をさせて、ヒノトは食事を進める。髪に隠れて、その表情は見えない。
 しかし、一瞬。
 泣いているのかと。
「ひ、のと」
「うん?」
 呼びかけに応じて面を上げたヒノトは、いつもの彼女だった。呆れたように、彼女は笑ってみせる。
「なんじゃどうした?」
「……い、いえ」
「あ、おんし食べないんじゃったら、その牡蠣、もらってもよいか?」
「どうぞ……」
 ヒノトに請われるまま皿を差し出す。彼女は箸を使って取り上げたそれを、口の中に綺麗に収めた。
「ありがとう」
 にこりと微笑んで、ヒノトは礼を述べてくる。
 それからも何事もなかったように箸を進め、茶を飲み、彼女は食事を終えた。
 あまりにもいつも通りなヒノトの態度に、エイは肩透かしを食らったような気分を味わう。ウルから散々脅されて、彼女にこっぴどく怒られるような気すらしていたのに。何故、怒られるのかは、判らないけれど。
「さて、ご馳走さまでした」
 両手をあわせ、食事の終わりを告げると、ヒノトは椅子から降りた。そのままエイのほうに歩み寄ってきた彼女は、すこし照れくさそうに笑って、こちらに腕を伸ばしてくる。
「エイ」
「……はい?」
「ぎゅっとして?」
 いつもとは異なる物事の請い方に、何か悪戯をけしかけてくるのではないかと、エイは危惧した。しかし体を寄せてくる彼女は少し震えているようにも思え、結局伸ばされる腕を黙って取る。
 請われるまま、小さな身体を抱き寄せる。エイが椅子に腰掛けているため、抱きしめるというよりも抱きしめられているような位置だ。こちらの首に腕を回し、その腕の中に擦り付けるようにして顔を埋める彼女にエイは急に不安に駆られた。
 やはり。
 泣いているのでは。
 ないかと。
 強引に、彼女の顔を自分のほうへと向かせる。ヒノトは驚きの表情を浮かべてはいたが、その頬は泣いていなかった。
「……おんしな、大人しく抱きしめさせろ」
 目を合わせたヒノトは呆れらしきものに顔をしかめ、エイの頬を力いっぱい引っ張ってくる。
「いたたたたたっ! 何するんですか!?」
 怒鳴るエイから逃げるように、ヒノトはひらりと身を翻す。その身軽さは、猫のそれに似ている。手を伸ばしても、すり抜けていくのだ。
 頬を微かに赤くして立ち上がったエイを、ヒノトは笑った。
「おんしそんなので、きちんと夫をやっていけるのか? 貴族の姫君の扱いは大変じゃろうて」
「余計なお世話です!」
「先に女の扱いをラルトとジンに学んできたほうがよいぞ、きっと」
「あぁもう! 放っておいてくださいよ!」
「エイ」
「なんですか!?」
「おめでとう」
 扉の前に佇む娘は、エイの婚約を祝って微笑む。
 後ろで手を組み、小鳥のように、首をかしげてみせて彼女は続ける。
「これでおんしも、立派な上流階級の一人」
 貴族の後ろ盾を得る。それは、これまで逃げてきた貴族との付き合いを深めることに他ならない。
「がんばれよ」
 気苦労のほうが多い。それを判った上で労う、ヒノトの言葉。
 ありがとうと、応じるべきだ。
 応じるべきなのに。
 何かが。
 違う。
「ヒノト……?」
 この距離は、何だろう。
 数歩歩けば、詰められるはずなのに。
 なのに、足のすくむ、この距離は、何だろう。
 戸口に佇むヒノトは笑っている。いつもの彼女なのに。予想通り、やはり悪戯を仕掛けてきた。無邪気で、天真爛漫で、短気で、けれど、屈託なく、笑ってくれる少女。
「……ヒノト?」
 エイの呼びかけに、ヒノトは答えない。ただ、笑みを、深くするだけ。
「おなかがいっぱいになったら、眠くなったわ」
 腹部に手を当てながら、ヒノトは言う。
「湯浴みをして寝る。おんしも、たまに早く帰ったのじゃから、はように休めよ」
 そして彼女は踵を返し、手を振った。
「お休み、エイ」
 ぱたぱたという、遠ざかる足音にまぎれて、就寝の挨拶が響く。
 そう。
 眠りの、挨拶。
 だというのに、どうしてその言葉が、別れの言葉のように響いたのか。
 エイはこの湧き上がる奇妙な感覚の回答を探しながら、再び椅子の上に腰を下ろし、顔を両手で覆ったのだった。


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