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番外 指に絡まる一筋さえも 22


 王立病院は都の中心部にある。元々は貴族の区画寄りの場所にあったのだが、市民が利用しやすいようにと、ヒノトがこの国にやってきた年にラルトが位置を動かしたのだ。そのとき移転の祝典を見学した。いつかはこちらのほうで働けたら、と、思ったことを思い出した。
「ヒノト、何見てるんだ?」
 背後から怪訝そうに覗き込んできたツツミを一瞥し、ヒノトは答えた。
「うん? あぁ保育室」
 大きめにとられた窓から見えるのは、女たちと生まれて間もない赤子の姿だ。出産を終えた母親と赤子が、数日滞在する部屋である。
「すっげぇなぁ」
 口笛を吹きながら、ツツミは感嘆の言葉を漏らした。
「産婆呼ぶんじゃなくて、妊婦を先に集めちまうっていう考えが」
「画期的だけど、いい考えよねぇ」
 ヒノトとツツミの間から顔を出し、口を挟んだのはリンである。
「だってそうでしょ? 妊婦は精神不安定になりやすいもんだし。同じ不安を抱えてる人が集まれば、心強いものね」
「だなぁ」
「ヒノトはどう思う?」
「……うん」
「……おーい。ヒノト!」
 ぱちん、と目の前で拍手(かしわで)を打たれ、ヒノトはぱちくりと瞬きを繰り返した。瞠目しながら傍らを見やると、眉間に皺を寄せた友人達の姿。
「……なんじゃおんしら。どうしたその顔?」
「いや、どうしたは」
「こっちの、台詞なんだけど……。何、見てたの? あ、保育室っていう回答はなしよ?」
 リンの問いに答えるべきか否か、ヒノトは視線を彷徨わせながら黙考する。しかし結局、ヒノトは怪訝そうな友人達に肩をすくめてみせてその場を離れた。移動する間際、ちらりと視界の中を過ぎる、幸せそうな家族の姿。
 夫婦と思しき若い男女と、生まれたばかりの赤子。
 皇后が、出産したときのことを、思い出す。
 慌てて追いついてくる友人達に、ヒノトは呟いた。
「幸せそう、と、思っただけじゃ」


 愛する男に愛される。
 そのことが単純に、羨ましくて羨ましくてならなかった。
 一人の女として求めてもらえる。
 そのことを切望した。
 けれど切望すればするほど絶望していく自分に、嫌気がさしていた。
 自分の愛する男は、甘く名を呼んでその腕の中にこちらを仕舞いこみながら、冷たく突き放してしまうのだから。


「で、ヒノトは結局どうすんの?」
 甘味処に三人で入り、注文した茶や菓子一式が届くのを待つ間、そう切り出したのはリンだった。
「誰かに後見してもらってるんだよね? その人と話したの?」
「いや、まだ……」
 ヒノトは否定に首を振った。エイとは朝食と夜、顔を合わせて話をしているが、大抵が学院の話や彼の仕事の話で終わってしまっている。ウルが言った通り、いつも以上に多忙を極めているらしく、彼の朝は早いし夜は遅い。昨日の夜も、本殿に泊まっていけばよいのにと思えるほどに遅かった。ヒノトが出立する前日だけ休みを取っているらしい。彼の多忙さはその休みのために、仕事を切り詰めているせいもあるのだろう。
「面倒だよなぁ」
 頭の後ろで手を組み、椅子の背に重心を移動させてツツミが言う。
「誰かに後見してもらうとさ。アリガも言ってたけど、これこれこうしたいんで、許可くださいって言わなきゃいけねぇんだろ?」
「うーん。まぁ、便宜上な」
「でもヒノトは、結構したいようにさせてもらってるんでしょ? 何迷ってるの?」
「うん……」
「やっぱ王立病院か宮廷医だよなぁ。施設もいいし、働きやすそう。俺田舎ぜーったい無理だもん」
「お館様は、なんて言ってるの? 都で働けって?」
「いやじゃから、まだそういう話は一切してないんじゃ」
『……はぁ!?』
 こちらの発言に、ツツミとリンは揃って呆れの眼差しを寄越してくる。無理もない。自分達がこの都に帰省している理由は、学院卒業後を家と相談するためにあるのだ。だというのにその目的を果たさぬまま日数が過ぎていく。呆れるのも無理はないだろう。
「そんなもの、さっさと済ませておくべきじゃない? だって王立病院に来たいから、見学だってしたわけでしょ? それとも、お館様が許してくれない?」
「……妾が都で働くことが、希望なんじゃ、とは、思う」
 事情を知らぬツツミとリンに、どう噛み砕いて答えるべきか、ヒノトは慎重に言葉を選んだ。どうせいつまでものらりくらりと、答えを逃げているわけにもいかないのだ。
「妾としても、こちらで働きたい」
「なら、それでいいじゃない」
「希望は合致してるわけだろー? 何で言うの、躊躇ってるんだよ?」
 答えに窮し、結局ヒノトは笑って誤魔化すことしかできなかった。アリガがいれば、とても楽なのに。事情を知っている彼女は上手い言い訳を考えてくれる。けれどそうやってツツミとリンを往なしたあと、彼女はヒノトを叱咤するだろう。
 このままでは、逃げていては。
 駄目ではないか、と。


 王立病院移転の式典からの帰り、自分は男にあそこで働きたいと言った。宮城で働けば、いろいろと男の邪魔になることもあるだろう。しかしあそこでなら、男の傍で生きられるし、自分を育ててくれた女の意思を継ぐことができると思ったのだ。そのとき男は、それはいいですねと、微笑んで自分に同意した。
 けれどそのためには、まだまだたくさん学ばねばならぬこともあるでしょう。がんばってください。
 そういって、男は自分の背を押した。
 時は流れて、貴方もずいぶんと成長しましたね、と、男が言った。貴方も、医者なのですね、と。
 皇后が孕んだ命を堕ろすか否かで、口論したときだった。言葉はどこか寂寥を含み、しかし確かに、ヒノトの成長を認めていた。
 だというのに。
 いつから、男は自分を、完全な『少女』としか、見なくなってしまったのだろう。
 いつから、自分達の関係は、こんな風に歪んだのだろう。
 望めばきっと、傍に在ることはできる。
 しかしこのままの形では、歪んでいくしかない。
 そのことに。
 自分は、もう耐えられない。


「ヒノト」
 揺り起こされて、ヒノトは瞼を押し上げた。リンとツツミたちにあちこち連れまわされて、楽しかったけれども、疲労困憊になって帰り着いた。大量に口にした甘味のせいで起こした胸焼けから、夕食は辞退したのだ。そしてそのまま、長椅子で横になり――いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。夢現に幾度か呼ばれた記憶がある。しかし結局、自分は起きなかったのだろう。家人が気を遣ったのか、毛布が掛けられている。
「……エイ?」
 目を擦り、瞬きを繰り返す。ぼやけた視界の中に、この屋敷の主の姿があった。
「……起きてください。部屋に移動しましょう。風邪を引きますよ」
「……今日は、早いなぁ……」
「そこまでいうほど、早くはないです。もう、眠っていてもおかしくはない時間です」
 苦笑しながら、彼は窓の外に視線を移す。彼の闇色の瞳は、光を映さない。本当に、月の光すらもないような時刻のようだ。エイの肩ごしに、女中をしている中年の婦人の姿が見える。ちっとも起きようとしないヒノトを、案じているのだろう。ふっくらとした面差しに、困惑の色が見えた。
 エイが、再び身体を揺する。
「ヒノト」
「……眠い」
 エイの手を押しのけて、ヒノトは毛布に包まった。朝までこの場で眠ってもいい。そう思っていた。それは結局、逃げのようなものだったのかもしれない。目覚めれば未来について、話さなければならない。答えを、先延ばしにするための睡魔。
 エイの嘆息が、聞こえる。
 ふわりと、身体が浮いた。
「寝ぼけていてもいいですから、つかまっていてください」
 横抱きに持ち上げられて、耳元で囁かれる。
「ひりきなくせに……」
「これぐらいの腕力はありますよ」
 筋肉痛になっても知らない。そう嗤いながらも、嬉しかった。大人しく腕を首元に回す。それを待ちかねたように、エイがゆっくりと歩き出した。
「病院の見学へ行っていたのでしょう? どうでした?」
「うん。……すごかった。いろいろ、かっきてき、じゃなぁ……」
「昔、移転の式典に行ったことがありましたね。あれからずいぶんと中身は変わっているはずです。数年前、かなり組織を改革しましたから。あぁいう突飛なことを考えられるの、陛下得意なんですよね。実行に移される閣下も閣下ですけど」
「……らるとが、かんがえたのかぁ……」
「の、ようですね。……あそこで働きたいのですか?」
 エイの問いに、薄く瞼を上げて逡巡する。こつり、こつりと、緩慢に響く靴音。上下する景色も、ゆっくりと流れている。ヒノトの部屋への扉まで、まだずいぶんと距離があった。
「……うん……」
 再び瞼を下ろし、頭の側面を彼の肩口に擦り付けるようにして、ヒノトは頷いた。
「……あそこじゃったら、きっと、たくさんのひとを、すくえる」
 一人でも多くの人を救えという、義母の遺言を、果たすことができるだろう。
 そして、この都にいられる。
 傍にいられる。
 この男の、傍に。
 いつから自分は、そこまでこの男の傍らを切望するようになったのだろう。
 昔、自分の恋はまだ幼かった。後先考えずに、彼に迷惑をかけるようなこともたくさんできた。
 今は、もうできない。
 ただ、傍にいたいと願うと同時、それが果たされない時もあるだろうと、知っている。
「えぇ。きっと」
 エイも同意を示し、その頭が小さく縦に振られたことが、気配でわかった。
 エイが立ち止まる。ヒノトの身体を抱えたまま、彼は器用に扉を開けた。凍えた部屋の空気が頬を撫で、やがて、身体がゆっくりと、冷えた寝台の上に下ろされる。
「エイ」
 ヒノトの呼びかけに、掛け布と毛布を持ち上げるエイの手が止まった。薄く開いた瞼の向こうに、怪訝そうに首をかしげる男の姿がある。
 その手に触れながら、ヒノトは尋ねた。
「……あと、どれぐらい、妾は傍にいられる……?」
 その問いの意味を判りかねるというように、エイの目が細まる。ヒノトは目を閉じた。判らぬのなら、それでもよかった。寝ぼけた人間の世迷言だとでも思ってくれればいい。
 エイは無言のまま、丁寧にヒノトの身体に手にしていた毛布らを掛けてしまうと、その手でヒノトの額に触れた。寝台に腰掛け、ヒノトの額をゆっくり撫でる。その感触に、砂の詰まったような瞼をヒノトは再び押し上げた。
「……そうですね」
 指先が、額から頬へと移動し、その親指が、唇に触れた。
「貴女が」
 指先が唇の縁をなぞり、やがて温かな手のひらが、ヒノトの頬を優しく包み込む。
「望むのなら」
 甘い毒のような熱を宿す手は、頬を離れると、寝台の上に広がるヒノトの髪を梳いていった。
「いつまでも」
 暗闇の中。
 男の指先から、零れ落ちていく。
 銀の髪が、さらさらと。
 さらさらと。
 落ちていく髪を。
 指先が、握りこんだ。
「……ヒノト」
 髪を指に絡めたまま、エイが呼びかけてくる。ヒノトは眉をひそめながら、彼の呼びかけに応じた。
「……なんじゃ?」
「……貴女は、幸せですか?」
 問いかけてくる男の瞳は暗い。蝋燭も招力石も灯されぬ部屋の闇よりもさらに暗く。
 そして、泣きそうだった。
「幸せですか? ヒノト。 私が貴女を連れてきたこと……私の、選択は、ずっと、間違っていなかったですか?」
 何故、そのようなことを尋ねてくるのだろう。
 何故、そんな風に泣きそうな顔をしているのだろう。
「貴女のことを、不幸に、してきませんでしたか?」
「エイが……」
 自分を。
 不幸にする?
 馬鹿な。ヒノトは嗤った。エイに手をとられ、この国にやってきて、早くも八年にさしかかろうとしている。その間、自分は幸福だった。あのままでは殺されるだけであっただろう自分のちっぽけな命は、彼によって救い出されたのだ。衣食住が保証されるだけではない。学ぶことを許され、我侭を許され、友人達に恵まれ、愛する男に、たとえ女としてではなくとも、大切に庇護されてきたこの月日を、不幸と思ったことはない。
「妾を不幸にしたことなど、ないよ。……ただ……」
 ただ。
 自分が、我侭になっただけだ。
 冷めた食事では味気ないと思うようになってしまったのと同じ。学ぶだけでは物足りないと思うようになってしまったのと同じ。医療の道に携わるだけではなく、認められたいと思うようになったのと同じ。
 この男に、女として愛されたい。
 ただ、その望みだけが、叶わない。
 それは不幸ではない。不幸とは、呼べない。
「ただ?」
 ヒノトの回答を待ちかねて、エイが首をかしげる。その目が、あんまりにも切実そうだったので、ヒノトは微笑んで、エイに言ってやった。
「おんしが、どんな選択をしても、それが妾のためだというのなら、幸せじゃよ……」
 解けていく。
 男の指から。
 髪が、零れ落ちて、敷布の皺の狭間に埋没する。
 寝台の軋む音が響く。顔に影が差し、男の気配を、すぐ間近で感じた。しかし、彼は自分に触れない。女と見做して、彼が自分に触れてくることはない。
「……貴女が、望まずとも」
 立ち上がったエイが、ヒノトを見下ろしながら囁く。
「……いつまでも」
 傍に。
 そんな風に、嘯く彼を、ヒノトは寝台に仰臥したまま見つめた。彼の夜色の瞳はもう、途方にくれた子供のような感情を宿してはいなかった。
「おやすみなさい。また明日」
 ありきたりな就寝の挨拶を残して、男は寝台から離れる。まもなくして響く、扉の開閉音。
 部屋が、闇に閉ざされた。
「ふ……え」
 ヒノトは両手で顔を覆った。そしてそのまま、胎児のように身を丸めた。
 男から与えられた熱が、零れる雫に乗って、逃げていく。
 いつまでも、傍にいるなど。
 あぁ。そんなことができるはずがないではないか。何の地位も持たぬ小娘が、ただの庇護される立場として、お前のような立場の男の傍に、いつまでも留まれるはずがないではないか。
 そしてそれ以上に。
 屈辱と嫉妬に、苛まれたまま、自分が正気で生きられるはずもないのに。
「だからお前は、馬鹿だというんじゃ、エイ」
 そして自分の唯一の不幸は、この涙をあの男が意味を汲んだ上で、拭わないこと。
 ただ、それだけだった。


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