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番外 指に絡まる一筋さえも 21


 朝、顔を合わせるなり突きつけられたのは、錠剤らしきものの入った小瓶だった。
「ほれ!」
 鼻先に文字通り叩きつけられるようにして差し出されたそれに、思わずエイは押し黙る。その小瓶越しに、ヒノトの不機嫌そうな顔が見えたからだった。
「まったく、帰ってきて早々、調合をやるとは思わないんだわ!」
「……何の薬ですか?」
「頭痛薬!」
 つんけんどんな物言いが、あまりにも短気を起こしているときの彼女らしくて、エイはつい笑ってしまった。そんなこちらに、彼女はますます表情を険しくさせる。
「おんしな」
 腰に手をやり、右足のつま先をかつかつと鳴らしながら、忌々しげに彼女は呻いた。
「長旅から帰った人間に早々、労働させておいて、悪いと思わぬのか」
 薬を作ってほしいと、彼女に頼んでいたわけではない。大体、頭痛のことは彼女には告げぬつもりであったのに。ヒノトに対してひどく口の軽い副官が恨めしい。
 ヒノトの手から小瓶を受け取って、エイは微笑んだ。
「助かりました。ありがとうございます」
「……白々しい」
「本当ですよ」
 頭痛は、実は治まっていたのだけれど。
 しかし彼女の好意が嬉しくて、それも黙っておいた。どうせこの場で、治まった旨を彼女に伝えたところで信じてもらえないだろう。エイがヒノトに対してよく嘘をつくことを、彼女はよくも悪くも理解している。無論その嘘は、体調や忙しさに限ってのことだが。
 以前、酒で疲労をごまかしていないかと問われたときも、その観察力の鋭さに舌を巻いた。ヒノトは時折、そんなふうに、エイのごまかしを暴いてしまうのだ。
「本当に、おんしは妾がおらんと駄目なのじゃな」
「えぇ。本当ですね」
 皮肉とも取れる彼女の呟きに臆面なく頷いたら、遠慮ない回し蹴りが足を直撃した。


「なんだか、機嫌いいですねぇ。今日のカンウ様」
「……そう?」
「はい。そうみえますよぉ?」
 イルバに手渡すつもりだった資料を、書斎まで代わりに取りにきた彼の副官は、エイの問いに大きく頷いた。
「頭痛がひどいらしくて、憂鬱そうな顔をしてるんだーって、イルバ様仰ってましたもの。よくなりました?」
「……あぁ、うん」
 頷きながら、自分の頭痛の話題はどれほど周囲に広がっているのだろうと、エイは口元を引き攣らせたくなった。机の端に置かれた小瓶を一瞥し、言葉を付け加える。
「……よい薬をもらったので。今日は大丈夫」
「そうですか。よかったですねぇ」
 えへへ、と幼く笑ってそう言う彼女に、エイは微笑み、ありがとう、と言葉を返しておいた。
 イルバの副官キリコ・ミラーの年齢は、ヒノトと一つ違いだったはずだ。そのためか、イルバの元に彼女が配属されて以来、彼女はヒノトとは深い親交がある。
「ヒノト、帰ってきたんですよね? カンウ様」
 案の定、資料を抱えなおした彼女は、そんなふうにヒノトのことに触れてきた。
「うん。昨日にね」
「七日間でしたっけー、都にいるの。ヒノト、暇そうですか? 宮城までくるのかなぁ?」
「今日は暇そうだったけれど……」
 今朝の食事時に確認した、滞在中のヒノトの予定を思い起こしながら、エイは答えた。
「寝て過ごすといってたね。旅の疲れがたまっているようだったから。けれど滞在中、それほど暇なわけではないみたいだ」
「今日暇ならこっちに来てほしい! アタシ、今日は忙しいんですよね……。本殿から抜けないでいいなら時間作れそうなんですけど。明日は時間空いてそうですか? 彼女」
「明日は学院の友人と王立病院の見学へいくといってたね」
「えー! 明日だったら時間つくれそうなのにぃぃぃ!!! ヒノトひどい! 会いに来てくれないと、アタシもティアレ様もシファカ様も泣いちゃうんだぞ!」
 その場で派手に地団太を踏む娘に、苦笑しながらエイは言ってやった。
「……そのうち、訪ねるとは思うよ。さすがにヒノトも挨拶ぐらいにはこちらに来るだろうし」
「うぅ。挨拶だけじゃなくておしゃべりしたい。一緒にお菓子食べて騒いで枕投げしたい」
「……枕投げ」
「彼女が訪ねてきてもアタシが暇じゃないときがあるんですよねぇ。お手数ですが、ヒノトの予定、また訊いて教えていただいてもかまいませんか?」
「うん判った。訊いておくよ」
 キリコの非常に豊かな感情表現に苦笑しながら、エイは請け負った。何はともあれ、それだけ会うことをヒノトが切望されているというのはよいことである。ヒノトもまた、彼女達に会わずに学院に戻ることはないはずだ。自分がキリコ達との橋渡しになるのは、具合がいいことなのかもしれない。
「……そういえばカンウ様」
 先ほどとは打って変わって低められたキリコの声音に、エイは書類に落としかけていた視線を戻した。
「うん?」
「……ダムベルタのお姫様、奥様として迎えるって本当ですかぁ?」
 躊躇を見せ、上目遣いでこちらの顔色を窺うようにして放たれた問いに、エイは瞬いた。全く、自分の情報はどこまで広まっているのだろう。
「……イルバさんから聞いた?」
「いーえ。うちの家、ダムベルタ家とお付き合いがあるので、そこ経由で」
「……あぁそうか。ミラー家も名家だった……」
 つい忘れがちだが、キリコの家も貴族であり、名家中の名家だ。キリコだけではなく、イルバの部下には何代も当主を遡れるような人間ばかりが付いている。とはいっても、誰もが奇人変人の異名をほしいままにしている、一風変わった人種ばかりだったが。
 常識の通じない人種を掌握しているイルバに対して頭が下がると言い放ったのは、ウルである。ちなみにその彼は、この身振り手振りの大きい右僕射の副官を、大の苦手としていた。
机の上に両肘をつき、手を組んでエイは微笑む。
「うん。多分、そうなりそうかな」
 決定事項になりつつあることだ。この二、三日中――ヒノトがいる間にも、決まりそうな事柄。
 昨日も帰ろうとした矢先に、急な呼び出しを食らって、否、招待を受けて、ダムベルタの家に寄らなければならなかった。どうにか理由をこじつけて辞去したはいいものの、そのときにはすでに夜半。帰宅は深夜を廻ってしまった。うぬぼれかもしれないが――ヒノトは、自分の帰宅を待ってくれていたようだった。彼女には、本当に申し訳ないことをしたと思う。
「……そうなんですかぁ」
 落胆のような色を滲ませて肩を落とすキリコに、ふと思い立って、尋ねてみた。
「……君も、私をヒノトに対して残酷だと思う?」
 誰も彼もが、自分をそのように形容する。この政略結婚は、ひどくヒノトを傷つけるだろう。そのように自分の副官は予言する。皇帝や宰相に何気なく尋ねてみたが、彼らもまた否定はしなかった。曖昧に笑って言葉を濁す皇帝達を見て、少し気持ちが揺らいでいる。
「残酷? この政略結婚が? ……うーん」
 意見を仰がれたキリコは腕を組んで視線を彷徨わせたが、結局は力なく頭を振って、判りません、と答えた。
「だってアタシ、ヒノトじゃないから。貴方様の行いがヒノトに対して酷いかどうかは、彼女が判断することだと思いますし」
 これまでと異なる趣の発言に虚を突かれ、エイは身体を起こした。居住まいを正して、キリコの言葉に耳を傾ける。しかし続けて吐き出された彼女の問いは辛辣だった。
「それに、カンウ様ご自身が、ヒノトにとって残酷だって、思われてないでしょう?」
 だからそんなこと訊いて来るんですよね。浮かべられる笑顔は無邪気なれども、細められた瞳は鋭さを宿している。エイは苦笑してみせた。
「えぇ。……何故、皆がそのようにいうのかが、私にはわからない」
「何故ですか?」
 この問いに、答えるべきかどうすべきか迷った。
 しかし結局は答えることにした。キリコの瞳が、皆のようにどこかへ彷徨うわけでもなく、糾弾するわけでもなく、ただ、ごく自然に、回答を求めていたからだった。
「……ヒノトのためだから」
 囁くような声量で、エイは言った。この私室には自分と彼女二人しかいないうえ、盗聴を防ぐ意味合いで招力石が下げられている。声を低める必要など無論ない。
 それでも、大きな声で堂々と公言することは、憚(はばか)られるような気がしたのだ。
「この地位を保持するのも、確固たる後ろ盾がほしいのも」
 彼女のためだ。
 最後まで、言葉にすることは躊躇われ、エイは静かに目を伏せる。
「だから何故、残酷だといわれるのかがわからない」
 彼女のための行いが、彼女を傷つけるという。
 彼女を不幸にするという。
 何故。
 何故。
 何故。
 エイは今朝も会った、笑うヒノトの顔を瞼の裏に思い描こうとした。そして苛立ちに奥歯を噛み締める。
 あぁ、やはり。
 ヒノトの顔が思い出せない。
「……アタシ、本当にわからないです」
 間を置いて、キリコがそっと口を開く。
「ヒノトにとって、それが残酷なのか、どうか」
 瞼を上げると、表情を消して、真っ直ぐにこちらを見つめてくる彼女がいた。
「でもアタシ、ヒノトはカンウ様の選択全てを許すと思うんです。貴方様が良かれと思ってしたことを、あの子は決して拒まない。その道があの子のためを思って採択されたというのなら、あの子はそれを幸せとして受け止めて、生きていくでしょう」
 抑揚のない、淡々とした、しかし決然とした声音だった。
「当人の幸せは当人だけしかわからない。他人からみて不幸なことが、本人にとっては幸せなこともあります」
 背筋を伸ばし、瞬きもなく、ただ相手の目を見据えて言葉を紡ぐ姿を見て、確かに彼女はイルバの副官なのだなと、妙な感慨を抱く。
 黙り込んでしまったこちらが、気分を害したと勘違いしたらしい。はっと我に返った風のキリコは、片手で口元を抑えながら、空いた手をぶんぶんと上下に振った。
「あわわわわすみません偉そうなことをいいました!」
「いや、いいよ」
 まるで水に濡れてしまった猫のようなしょげ方だ。項垂れるキリコのその様子に、エイは笑った。
「……ありがとう」
 何のてらいもなく、率直に意見を口にしてくれたことに謝辞を述べる。キリコは照れくさそうに笑って、ぺこりと頭を下げた。
「すみません。長々とお邪魔いたしました」
「あぁ、いえいえ」
「ありがとうございました! 失礼いたします!」
 くるりと踵を返し、焦った様子でキリコは退室していく。彼女の姿が扉の向こうに姿を消したことを確認して、エイは手元の書類を取り上げた。
 と。
 がちゃっ
「――!?」
「あ、すみません」
 閉じたと思った扉が叩扉の音もなく、突如再び開いたことに、驚いて書類を取り落とす。床に滑り落ちたそれを拾い上げつつ、扉を一瞥すると、退室したはずのキリコがひょっこり首だけを覗かせていた。
「えーっと、一点、言い忘れていました」
「……それは構いませんが、何かあるのでしたら一応部屋に入ってきなさい」
 驚きから、うっかり素の口調で忠告してしまったためか、思いがけず自分の声が冷ややかに響く。
「あ、はい! ごめんなさい! 申し訳ありません!!」
 キリコもまた顔色を変え、慌てて再入室を果たし、扉の前で直立した。別段、腹を立てているわけではないのだが。硬直する娘を安堵させるために、エイは微笑んで、努めて優しい口調で彼女に尋ねる。
「それで、言いたいことって?」
「はい。えっと……ヒノトの、こと、なんですけどね?」
 前で手を組み、こちらの顔色を窺いながら、キリコはおずおずと切り出してきた。
「彼女が幸せかどうかは、彼女に訊いたほうが一番手っ取り早いと思います。他の人に、あれこれ訊くよりも」
「……そうだね」
「言いたいことは、あの、それだけです!」
 ぶん、と空気を裂く音が聞こえそうなほどの勢いで頭を下げた彼女は、あたふたと扉にしがみつく。そんな、逃げるように退室しなくとも、と、エイは苦笑しながらヒノトの友人を呼び止めた。
「キリコ」
「は、はい!」
「……ありがとう」
 一瞬、キリコはきょとんと目を丸めたが、頬を紅潮させると、表情を引き締めて再び丁寧に会釈した。その仕方は実に優雅だ。落ち着いてさえいれば、彼女の仕草も貴族出身のそれらしく見えるのだが。
 静かに閉じられる扉をしばらく眺めていたエイは、小さく微笑んで、机の隅の小瓶に指先で触れた。無意識だった。
 玻璃の小瓶はひやりとしているはずだというのに、どこか温かみすら覚える。
 それはおそらく、この小瓶に宿った少女の気配のせいだ。
 早朝の一幕を思い返して、微笑みかけ――顔を引き攣らせる。
 瞼を閉じて、その場に伏す。書類にこびり付く墨の匂いを吸い込んで、エイは自嘲に嗤った。
 エイの選択を、皆、ヒノトにとって残酷だと述べる。
 しかし本当に残酷なのは、政略で妻を迎えることでも、貴族の血を道具のように手に入れようとすることでもなく。
 彼女の顔を思い出せないことなのではないかと、ふと、思った。


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