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番外 指に絡まる一筋さえも 20


「秘密ですよ」
 唇にほっそりとした白い指先を当て、皇后が囁いた。
「秘密だよ」
 皇后に同意するように、後の宰相夫人も微笑む。
『貴女だけに教えてあげる、ヒノト』


 それがいつだったのか、明確な日付は覚えていない。しかし蒸し暑い夏の日の昼で、池に面した縁側の影に、自分達はいた。魔除として吊るされた風鈴が涼しげな音を立てて揺れていて、甘い涼菓子を囲み、それぞれが各々の勉学に勤しんでいた。
 その話題が出たのは、何が切欠だったのだろう。ただ、二人がほぼ同時期に命を落としかけていたときに、夢を見たのだといった話だった。彼女らが見た夢の内容は、彼女らの愛する男たちにも告げていない、小さな秘密だという。
 それは、罪人として葬り去られた、皇帝の前の后についての夢だった。
 『友人達』の秘密を共有し、その后に興味を抱いた。彼女を知る女官長にそれとなく話も聞いてみた。聞けば聞くほど、彼女に親近感を抱いた。
 彼女の末路は、いつか自分の辿り行く道なのではないかとさえ思う。
 その、行く末こそが。
 自分を駆り立てた理由の一つでもあるのだ。


「ヒノト様!」
 馬車を降りると、久方ぶりに会う男が待ちかねたように手を振った。屋敷の使用人の誰かを呼ばなくてはならないかと思っていたのに。思いがけない迎えに、ヒノトは驚きながらも顔を綻ばせる。
「ウル。なんじゃ、おんしが迎えにきてくれたのか」
「はい」
 ほんの僅かな荷物だけを携え、馬車の前で足を止めていたヒノトに、後見人の副官は笑顔を見せながら駆け寄ってきた。
「……わざわざおんしが迎えにくるなぞ、今暇なのか? 宮城は」
「いいえ。忙しいですよ」
 少し距離をあけて立ち止まり、荷物を引き取ったウルは、さらりとヒノトの言葉を否定する。
「多忙も多忙です。年末の祭りの準備も始まりますしね。カ……お館様なんて、てんてこ舞いですよ」
「あぁ、もうそんな時期か……」
 毎年、年末に行われる祭りは、国を挙げての行事となる。誰も彼もがその準備に奔走するのはヒノトもよく知るところだった。都にいた頃は、ヒノトもまたその手伝いに駆り出されていたものだ。
「それなのに、抜け出してきてよかったのか?」
「えぇ。ちょうど街に仕事で来ていたのです。<網>がヒノト様の到着を知らせてきましたので、お迎えに上がりました」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 ウルはさぁ参りましょうと、促してくる。彼に頷いて、ヒノトは馬車の周辺でまだ迎えを待っている友人達に手を振った。
「またな! また七日後に! ツツミとリンはまた明後日!」
「まったねーヒノト!」
「ごきげんようヒノト!」
「じゃぁねぇ!」
「また明後日ね、ヒノト! 約束忘れないでよ!」
「じゃぁなー!」
「うん、また!」
 次々に手を振り返してくる友人たちに微笑んで、ヒノトは踵を返した。道の少し先で待っていた彼の元に走り寄る。
「待たせたな。すまなんだ」
「いえいえ。お気になさらず。……学院生活は楽しそうですね。アリガ様とお会いしたときにも思いましたが、よい友人の方々に恵まれたようで」
「うん。本当によいやつらじゃ。あちらへ行ったことに後悔はない」
「さようでございますか」
 ヒノトの断言にウルが微笑んでみせる。
「それはよかった……」
 そう呟く彼の声音には、寂しさとも、安堵とも付かぬ、複雑な色が滲んでいた。


 都の移動手段は、水路と陸路の、二通り。山の麓のなだらかな丘陵に建造された街では、区画を分けるようにして水路が通る。ヒノトが抵抗なくこの国をすぐに愛することのできた理由は、この豊かな水にあるのかもしれない。生まれ故郷であるリファルナでは、大小様々な川が土地を縦横無尽に走る。あの国でも、小舟が移動手段の一つだった。建物の造りや歩く人々の顔立ちが違うとはいえ、豊かな水に支えられた土地には、共通の文化がある。全く異なる生まれの自分とエイの根幹が、どこか同じところにある気がして、嬉しかったのだ。
「……ますます栄えていくな……」
 ゆったりと水路を移動していく小舟の縁に頬杖をついたまま、流れ行く風景を観察していたヒノトは、三年近く離れていた第二の故郷とも呼べる街の盛栄に深い感慨を抱いた。エイに連れられ、この土地に初めて足を踏み入れたときを思い返す。そのときも、十年も満たぬ前には、地獄のように荒れ果てていたのだということが信じられぬほどに整っていた。今は、もう数百年も繁栄が続いていたかのように街は活気に溢れ、整然と建物が立ち並ぶ。
「陛下の治める国ですからねぇ」
 ヒノトの独り言に、間延びした声でウルが応じる。おっとりとした口調だが、そこにあるのはこの国の頂点に対する確固たる信頼だ。皇帝ラルト・スヴェイン・リクルイトは在位十五年をとうに過ぎ、かつて誰からも見放されていた国は、世界の中でも屈指の繁栄を誇る国として名を轟かせている。その手腕と人柄は、下に仕えるものたちに、絶対の信頼と忠誠を抱かせるに相応しいものだ。
「ですけれど、陛下の目の届かぬ場所に、手足となって動いていらっしゃるのはカンウ様です」
 そう付け加えるウルは誇らしげだ。なんだかんだといって、彼もまたヒノトとは別の形で、あの脆い男を愛している。だからこそ、以前の上官であった宰相ではなく、エイの元に残ったのだろう。
「相変わらず休んでおらぬのじゃろう?」
「えぇ。ですので、開口一番、まず休んでくださいと命じてさしあげてくださいね。本当にあの方は、ヒノト様のお言葉でないと、言う事を聞かないんですから」
 まるで小姑のようなウルの物言いに、彼の苦労が忍ばれるようである。ヒノトは思わず口元に手を当てて、くすくすと笑いを零した。
「苦労しておるな」
「えぇ。本当に。働きすぎですあの方は。何を、急いてらっしゃるのですかね」
「政治馬鹿なんじゃろう」
 縁から手を伸ばし、水路の水に指先を浸しながらヒノトは呟いた。
「所詮あの執務室に集まる四人は、政治馬鹿の集まりよ。エイも例外ではない。寝ても覚めてもそればかりじゃ」
「ですかねぇ」
「うん」
「あの方がきちんとお休みになられないので、私もおちおち休んでいられませんよ」
 はぁ、と盛大な嘆息を零すウルに、ヒノトは笑い、水から手を引きながら問うた。
「あやつは今日どうしている?」
 仕事なのはわかっている。居場所はどこか、という意味だ。都の外へ視察に出ている可能性もある。宮城での仕事であっても、立て続けに会合などが入っていれば、屋敷に帰宅するのは夜分遅くなるだろう。
 さすが長い付き合いなだけある。ウルはヒノトの問いの意味を違えたりなどはしなかった。
「午前は街のほうで、年末の祭りの打ち合わせを。街の人が大きな催し物を企画していまして、警備やらなにやら、段取りを決める会議に出席されています」
「うん? そんな細かいことまであやつは見ているのか?」
「いえ、担当はきちんと別にいますよ。その報告と差異がないか、視察をされているだけです」
「あぁ、なるほどな」
「もう宮城に、お戻りになられたころでしょう」
 宮城のほうに視線を向け、ウルは微笑んで言う。ふと思い当たって、ヒノトは口先を尖らせた。
「ちょっとまて。おんし、その視察に同伴せずによかったのか?」
「スクネが付いていますので問題ありません」
 エイの部下で、立場上はウルの副官、そして、実質的にはエイの副官まがいのこともしている文官の名を、彼は口にした。
「動けないカンウ様の代わりに、ヒノト様の様子を見て伝えるのも、私の役目かと。今頃は宮城で様々な報告書を、裁いていらっしゃることでしょう」
「……まったく。ご苦労なことじゃなぁ」
 その台詞は、エイとウルの両方に向けて吐いた。相変わらず仕事馬鹿であるエイと、お節介焼きなウルに。
「……ヒノト様」
「うん?」
 ヒノトに向き直ったウルが、恭しく頭を垂れる。一体どうしたことかと目を剥いたヒノトの手をとりながら、彼は続けた。
「本当に、お帰りを、お待ちしておりました――……」


 ウル曰く、エイが倒れたのは、一月ほど前だという。
 それからというもの、頭痛が治まらないらしい。だというのに、エイは変わらず心身を酷使し続けているようだ。一体そこまで自分を痛めつけて何が楽しいのか。仕事が好きなのはわかるが、もう少し自分の体を労わってほしい。だから手紙に、耳にたこならぬ目にたこができるほど、身体を厭えとかいているのに。
 ヒノトは屋敷の自室で、窓辺に椅子を置き、窓枠に頬杖をついて夜空を眺めながらため息をついた。帰宅は早いだろうというウルの予想を裏切って、エイはなかなか戻らない。仕方がないので、ヒノトの好物を揃えて待っていた家人と共に夕食をとった。湯浴みを終え、彼らを下がらせてしばらく経つが、エイの戻る気配は一向にない。おそらく、急な案件につかまったのだろう。
 けれど、それでよかったのかもしれない、と思う。
 久方ぶりに都に足を踏み入れたはいいものの、どんな顔でエイと会えばいいのかわからない。何せ以前エイがわざわざ学院を訪ねてきてくれた際に、追い返すような形で彼を見送ったのだ。苦笑に彩られた彼の顔を今でも思い出すことができる。手紙でのやり取りを続けているとはいっても、直接顔を合わせることとそれとはまた話が別だ。ただいま、ということはできるだろう。しかしその後、普通に彼と接することができるという自信が、ヒノトにはなかった。
 エイと出会ってから、もう何年が経っただろう。しかしこれほどまでに長い間、彼と顔を合わせていないのは初めてだった。
 会わないわけにいかない。彼と向かい合うために、この都に戻ってきたのだから。
 それでも。
 足が竦む。
 逃げ出したくなる。
 彼が、永遠に自分に少女を望んだ末、自分が選ぶだろう未来に、体が打ち震える。
 ヒノトは苦渋に目を閉じ――そして突如部屋に響いた控えめな叩扉の音に、椅子から滑り落ちる勢いで身体を跳ねさせた。
 いつの間にか中天にあった月の姿が見えなくなっている。時刻は深夜を過ぎた。旅の疲れから、椅子に座ったまま転寝をしていたらしい。肩がひどく冷えていた。
「……はい?」
 凍えた肩を自分で抱きながら椅子から立ち上がり、返事する。ヒノトを転寝から覚醒させた音は、幻であったのではないかと思うほど、扉は重苦しい沈黙をヒノトに返した。気のせいか、と、橙色の炎を揺らめかせる燭台のほうへ、つま先を向けたヒノトは、背後から響いた蝶番の軋む音に、足を止めた。
「……ヒノト?」
 柔らかく紡がれた男の声に、息を詰めて振り返る。
「エ――……」
 暗闇を穿つ光の筋の向こう側に、愛しい男の姿を見つけたヒノトは、反射的に名前を呼んで駆け寄りそうになった。
 踏鞴の音で、ふと、我に返る。もう一歩更に踏み出したところで、ヒノトはどうにか衝動を押さえつけることに成功し、立ち止まった。
 両手を胸の前で組んで握り締め、下唇を噛んで俯く。まるで彼を拒絶しているようだと思いながらも、ヒノトはそうせずにはいられなかった。
 以前、思った事がある。
 彼の姿を見つけて我を失い、衝動の赴くまま抱きついてしまうなど、それこそ『子供』ではないか。
 学院まで自分を訪ねてきた彼を一目見た瞬間、ヒノトは抱いていた矜持も覚悟も、何もかも放り投げて彼に駆け寄っていた。愛しくてならなかった。その温度を感じたかった。夢幻でもいい。その姿を確認するために、抱きしめたい。その衝動に抗えなかったのだ。
 しかしながら自分は、一人の女として見做されるためにこの場に戻ってきたのであって、これ以上彼に庇護されるべき子供として見られるためではない。ならば衝動に突き動かされるまま彼に抱きつくなど、あってはならないことだった。毅然と前を向いて、ただいま、と帰宅を告げるのだ。そう胸中で確認した間は、幾許もなかっただろう。
 次の瞬間、面を上げたヒノトは、突如身体を包み込んだ熱に、驚きから瞬いた。
「……おかえりなさい、ヒノト」
 唇が触れるほどの近さで、囁かれる。
 息苦しくはないが、自由に身動きをとることはできない。やんわりとした力で、エイの腕はヒノトの体を拘束している。しかし、力なくも確かにこちらの動きを奪うその抱き方に、何か、特別に誂えられた檻に入れられているようだと、ヒノトは思った。
 瞬きを繰り返し、そろりと息を吐き出す。その呼吸音が空気を震わせると同時、自分の腰を抱く彼の腕に、力が込められた。夜気に冷えた体に、彼の体温がひどく温かい。
 すぐ目の前にある男の肩口に顎先を埋めながら、ヒノトはくぐもった声で呻く。
「エイ……」
 ヒノトを抱きしめたまま、エイは微動だにしない。ヒノトに体の熱が移るのを待っているかのように、彼は長い間、そうしていた。
「エイ?」
 震える指先を彼の背中に触れさせる。そこでようやっと、エイは面を起こした。
「……すみません。少し、疲れていて。温かかったのでつい」
 それは、嘘だった。ヒノトの体は冷え切っていて、それが彼にわからなかったはずがない。
 それでも彼は自分の行いを恥じているような表情を見せ、そしてヒノトを拘束する腕の力を緩めた。呆気にとられて、思わず半眼で呻く。
「……あのなぁ、妾は抱き枕ではないぞ?」
「すみません。……眠っていましたか? 起こしてしまいました?」
「いや。起きておった。寝ようかと思って蝋燭を消しにいこうとしたところじゃ。……遅かったな」
「えぇ。帰りがけに問題が起こって、少し引き止められてしまいまして」
 そう事の次第を説明して、彼はヒノトの肩越しに、窓の外を一瞥した。月の光を失った夜闇はことのほか暗い。その色を写し取ったのか、エイの双眸はまるで深淵のように光を宿さなかった。
 もともとの仕事が長引いたのか、それとも引き止められてからが長かったのか。どちらでもよいことだ。重要なのは、彼の顔色にこびりつくようにして在る、疲労の色である。
「疲れているならまっすぐに部屋に戻って寝ろ」
「そのつもりだったのですが、部屋から蝋燭の明かりが漏れていましたので……」
 エイの発言に、ヒノトは胸中で舌打ちをした。つまり、自分が間抜けにも蝋燭に火を灯したまま転寝をしてしまっていたせいで、彼はこちらに赴いたことになる。少し考えればわかることだ。彼は眠っている様子の自分を、わざわざ起こしに来ることはないだろう。
「あぁ……そうか。すまん」
「いいえ」
 頭を振って、エイは微笑み、ヒノトの頬に触れた。
「よかったです。顔が見れて……」
 その、柔らかい表情に、ヒノトは下唇を噛み締めて、俯いた。
 なんだこの男は人がこれだけ色々葛藤して、そして我慢しているのに。
 その存在と些細な仕草一つが、こんなに簡単に覚悟を打ち砕いてしまう。
「アホウ」
 ヒノトはエイの首に腕を回しながら、目元を彼の肩口に押し当てた。出会ったばかりのころはまだ痩身ともいえた彼の身体は、年を重ねて成熟し、完成されていった。今はしっかりとした厚みをもって、ヒノトを受け止める。
 彼は、弓を引く。政治の才の次に彼が恵まれているのは弓の才能だ。その才能が作り上げた、衣服越しに感じる、華奢などと到底いえない、確かな骨格と筋肉。
「ウルに聞いたぞ。おんし、先日過労で倒れたのじゃって。それみてみぃだから妾があれほど休めと手紙に毎回書いてやったのに、おんしは口先ばかりでちっとも休んでおらんではないか」
「あぁ、ウル、告げ口しましたね?」
「こ、れ、は、報告というんじゃっ! ……馬鹿じゃな。……頭痛がひどいのじゃろう」
「平気ですよ」
「早く寝ろ」
「貴方が私を離してくれなければ、眠りになどいけません」
 くすくすと笑いながら、エイがヒノトの体を抱き返してくる。彼のほうこそが、じゃれ付いてくる子供のようだと、ヒノトは思った。
「酔っ払っとらんよな?」
「今日は酒は口にしていませんが?」
「……ならいいが」
 その発言が本当かどうかは、今追求すべきことではないだろう。嘆息し、ヒノトは瞼を閉じて囁いた。
「ただいま、エイ」
 腕の中は変わらず温かい。まるで、この世界のすべてから守るように、優しくヒノトを包み込む熱。
 あぁ。
 この腕の中で息絶えられるなら。
 これほど幸福なことはないのに。
 同じことを、前、学院の門の前で彼に再会したときも思ったのだ。
「えぇ」
 ヒノトの心中を知らぬまま、エイは条件反射のようにヒノトの体を抱く腕に力を込めて、先ほどと同じことを口にする。
「……おかえりなさい、ヒノト」
 これが。
 帰省第一日目の、夜の終わりだった。


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