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番外 指に絡まる一筋さえも 19


「あぁウル。ちょうどいい。手伝って」
「はい。調べ物ですか?」
「うん」
 片手に持ちきれなかった書籍をウルに手渡し、足場を確認しながら梯子を降りる。梯子を上る前に、せめて上着を脱げばよかったと思う。重苦しい衣装は動くには邪魔だった。
「昨日話していました、残りの報告書をお持ちいたしました」
「あぁ、ありがとう。昨日も。悪かったね、掃除手伝わせてしまって」
 上着を脱いで畳みながら、エイはウルに礼を述べた。休みの最後の日、エイがフベートから戻ったと知ったウルは、急ぎの報告書だけ携えて、エイの屋敷を訪ねてきたのである。フベートから戻ってきたのは一昨日の夜だった。本当はあと三日ほど休暇を申請していたから、そのつもりでウルも火急の用件だけエイの耳に入れるべく屋敷を訪ねてきたのだ。
 しかし仕事をしたのはほんの僅かな間だけだ。昨日は丸一日を使って、ヒノトの帰省の準備をしていた。ウルは、それを手伝わされたというわけである。
「いえ。それは全くもって構わないのですが」
 エイから畳まれた上着を受け取りながら、ウルは苦笑を浮かべて言った。
「というか、改めて貴方様が掃除をする意味、あったんですか? 片付いているように思いましたけれど」
「一応、いつでも帰ってきていいようにはしてあるからね。最初はただ、フベートからの土産物を片付けようとしただけなんだけど。家人がヒノトの服を虫干ししているのを見て、つい手伝ってたら」
「はぁ……なるほど。それがなぜか大掃除に発展してしまったわけですね?」
 エイの屋敷はその位を戴くもののそれとしては、恐ろしく手狭なものだ――とはいえども、数組の家族が住める程度には広さがある。あくまで、一般的な貴族にしてみれば、小さな別宅程度にしかみなされぬような屋敷、という意味である。以前はもっと大きな屋敷を下賜されていたが、あまりにも帰らないので、領地を返却することになった際に同時に返した。今の屋敷は、いくつか条件を見て絞り込んだ中で選んだ訳だが、結局のところ、ヒノトが気に入ったから買ったようなものである。
 使用人は庭師の老人が一人、料理人と女中を勤める中年の夫婦の計三人。警備は宮廷から別途に派遣されていて、三人は住み込みだった。手狭な上に、エイ自身が自分で身支度を行うのでそれだけの使用人で足りてしまっているのだが、さすがに屋敷をひっくり返すとなると、人手不足となる。そこに、折よくウルがやってきたというわけだ。
「そういえば、頭痛のほうはいかがです?」
「あぁうん。……多少はましかな」
「ひどいようでしたら、掃除は家人に任せて休まれればよかったのですよ。また無理をしてと、ヒノト様が帰ってきたら怒られてしまいますよ」
「大丈夫。ウルが黙っていてくれたら判らない」
「何が大丈夫なんですか。大体、私がヒノト様に報告をしなくても、家人の皆様が絶対言うんですから」
 三年も留守にしていれば、その間のことについて報告したいことが山とあるはずです。そんなふうに、ウルが呟く。エイは苦笑せざるを得なかった。
「でもなんというか、昨日は本当、片付けをしていたほうが、気が休まったんだ」
 目的の資料を探すべく、書籍をぱらぱらと捲りながら、エイは弁解した。嘘ではない。身体を動かしていたせいだろうか。本当に家人に混じって片付けを行っていたほうが、落ち着いたのだ。
 何よりも――……。
「あぁ、本当に、ヒノトが、帰ってくるのだな、と、思って……」
 ヒノトの部屋は、家人が定期的に手入れをしてくれている。しかしあのように、片付けられている衣服を出し、部屋に空気を通し、彼女の菜園を念入りに整える。その一連の行為は、エイに彼女が帰ってくるのだと再認識させた。
「……さようですか。なら、よかったです」
 副官は表情を緩めて、ぽつりと呟いた。
「早く帰ってこられないですかねぇ」
「そうだね」
 ウルの呟きに、エイは同意する。
「……早く、会いたいな」
 顔が見たい。
 そう、強く思う。
 相変わらず、ヒノトの顔は思い出せないままだった。出会ったばかりの顔なら、まるで輪郭を写し取ったかのように、瞼の裏に思い描けるのに。
 それが、苦しい。
 だから早く彼女の顔をみたい。彼女の、笑う顔が見たい。
 いつものように、エイと、鈴を転がしたような声で、名前を呼んで。
 そうすれば、この頭痛も、治まるような気がするのだ。
「……もう、あちらを出発されたころでしょう」
 ウルの言う通りだった。ヒノトが記載した日付は間近に迫っている。そろそろ学院を出発している頃合だ。一人旅ではないらしい。彼女と同じように、都へ帰省する友人達がいて、馬車に乗り合わせて戻ってくるのだという。何事もなく、到着すればいいと思う。
「……カンウ様?」
「うん?」
 先ほどとは打って変わった、ウルの低い声色に、エイは怪訝さから面を上げた。机の傍に佇む彼は、その顔を何事にか引き攣らせている。失礼いたします、と断りを入れて、彼は机の上においてあった書類の束を手に取った。
「……こちらは、何ですか?」
 ウルが掲げてみせたのは、朝方にラルトから手渡された資料の束である。物珍しい類の資料が置いてあったから、驚いたのだろう。副官の声色の変化の理由に目星をつけ、エイは再び手元の書籍に視線を落とした。頁を繰りながら、彼の問いに応じる。
「あぁ、見合い相手の資料」
「……みあい?」
「うん。陛下が会って来いって」
「……会うんですか?」
「とりあえずは。どうやら知らない間に結構見合い話が来ていたらしくて。私に興味がないことを見越して、断り続けてくださっていたようだから」
「……奥方として、迎えられるのですか?」
「さぁ」
 ウルの問いに、エイは肩をすくめた。
「どうだろう。貴族のご令嬢を無碍にはできないけれど……陛下には、勧められたけどね」
 そこまで言って、ふとエイは思い立った。そういえば、会うにしても段取りを整えておかなければならない。屋敷を突如訪ねていくのも不躾すぎる。ダムベルタの家とはそれなりに親交もあるが、令嬢と会うとなると話が違ってくる。名前と、一度会ったことがあるという事実だけで、いつどこでどのようにして会ったかすら、思い出せないのに。
 ウルに手はずを整えてもらおうと、エイは書物の頁を埋める文字から視線を上げた。
「あぁウル、ちょうどいいから、それなりに段取りを……」
 そして依頼の言葉を最後まで言うことなく、思わず、息を詰める。
「……ウル?」
「あぁぁあぁなたって方はっ!!」
 普段滅多に声を荒げることのないウルの怒声じみた叫びを、エイは久しぶりに耳にした。その声量に面食らい、思わず立ちすくんで瞬く。一方のウルは興奮からか、呼吸に肩を大きく揺らし、複雑そうに口元を引き結んでいた。
「……何をしていらっしゃるんですか! こんなときに! ヒノト様が、帰ってこられるんですよ!? そのことを口にした舌の根も乾かぬうちにっ!!」
 ウルの話の繋がりがさっぱり見えない。エイは眉根を寄せて疑問を口にした。
「……何の話?」
「お見合いの話ですよ!」
 エイの問いに、間髪いれずに即答したウルは、興奮しているのだと自覚したのだろう。呼吸を整え、頭を振りながら謝罪してきた。
「申し訳ありません……」
「いや、それはいいのだけれど。……何を怒ってるのか教えてほしい」
「怒っているんじゃありません。呆れているんです」
 噛み付くことをどうにか堪えている。そんな印象を与える低い声音で、ウルは答えた。
「……カンウ様。確認させていただきますが、本当の本当に、お判りいただけてないのですよね? 振りではありませんね?」
「ウル、君が何を話そうとしているのか私には皆目見当がつかないし、何故ヒノトとお見合い話がつながりを持つのか、理解できない。申し訳ないけど」
「そうですか……」
「だってそうだろう? ヒノトはヒノトで、見合い話は陛下からのお話だし、いってみれば仕事の一環に過ぎない」
 その二つが何故、一つの話に繋がるのか理解に苦しむ。
 ウルが、落胆のようなものを滲ませて肩を落とした。その顔には、苦渋の表情が浮かんでいる。彼がそのような表情を見せることは、彼が声を荒げることに次いで珍しかった。
「ウル?」
「……このようなこと、あまり、申し上げたくはないのですが」
 噛み合わせた歯の間から、搾り出すようにして紡がれた声は掠れている。それが憤りの為か、それとも彼の言う呆れの為かエイには判らない。
 ただ一つ明白なのは、彼がひどく、焦燥のような苛立ちを覚えているということだけだった。
「貴方様は、まるで、物乞いに貴方の要らなくなったものを押し付けるような優しさをお見せになる。物乞いは貴方様の優しさに感謝するでしょうが、同時に自尊心をひどく傷つけられるでしょう」
「……何のたとえ話?」
「貴方様の、残酷さについてです」
 吐き捨てるように、ウルが答える。さすがにその物言いには苛立ちを覚えたが、彼の顔に浮かぶあまりの切実さに、エイは毒づきたくなるのを抑えた。
「貴方様の優しさは、無関心さ故のものではないかと、私は近頃思えるのです。カンウ様。私には時折、貴方様の目には、何も映っていないように思えるのです。その眼差しが、とても虚ろに見えることがある。あまりにも、貴方様は無関心がすぎることがある。ここ数年、それが特にひどい」
「……何が言いたい?」
「貴方様の目に、ヒノト様は、きちんと映っていますか?」
 ウルは、今にも泣き出しそうだった。
 それほどまでに、目元を歪めていた。
「陛下や閣下、イルバ様は、いいでしょう。私やスクネも構いません。けれどヒノト様は――ヒノト様だけは、きちんと見て差し上げてください。あの方を思いやってあげてください」
「私はヒノトを蔑ろにした覚えはない」
「知っています」
 ウルは大きく頷いた。
「貴方様がどんなにあの方を慈しみ、大切にしているか。知っています。ヒノト様のことを口にされるとき、貴方様がどれほど柔らかい顔をされ、どれほど優しい声をされるか……私はずっと、見てきたのです」
「なら何故そんなことをいうんだ?」
「貴方様は確かにヒノト様を大切になさっている。けれど本当の意味であの方を、きちんと見ていらっしゃらないと、思ったからです」
 でなければ、そんな風に切り離して考えることなど、できはしない。
 苦々しく、搾り出すようにしてウルが呻く。
「カンウ様。貴方様は、ヒノト様をきちんと見ていらっしゃるおつもりですか? 自覚はないのですか? 何故、あの方が貴方様に何も言わず、一人で決めてこの都を発たれたのか。考えたことはおありですか?」
「ウル、それは」
「こんな……こんな形をとられては、あの方があまりにも、可哀想すぎる……」
 目元を押さえて、エイは訴えた。
「残酷すぎます」


 見合い話の何がウルを刺激したのかはわからない。
 エイに対して苦言を述べたことを詫びた彼は、一度気持ちを落ち着けてくるといって退室していった。エイの前に彼が再び姿を現したのは夜の帳が下りてからだ。そのときの副官はいつもどおりの彼であり、エイが結局頼みそびれていた、見合いの段取りを整えてくれていた。日取りは、翌日の夜だった。
『お前はなんて残酷なんだ』
 お前はあまりにも優しく、そしてあまりにも、残酷すぎる――……。
 どうして。
 誰も彼もが。
 自分をそのように表現するのだろう。
 しかし、何故か反論できない。
 ダムベルタの家へと招かれる道中の馬車の中、頬杖をついてエイは黙考していた。
 馬車の窓から見える月は、冴えた光で夜を照らしている。修繕された、歴史を感じさせる古くも荘厳な通り。そこに並ぶ、貴族の屋敷の門。屋敷自体は、庭に植えられた木々の向こうに隠れて見えない。時折高い垣根の狭間から、屋根が覗く程度だ。
 玻璃の向こうに広がる空間は、劇場の舞台か何かのように整然としていて、美しく、そして遠い。
 自分ひとりを置き去りにして、宴が行われているかのような疎外感がある。
 ウルは言った。この目に、きちんと自分達が映っているのか、と。
 映っていると、エイはあの時断言してやることができなかった。何故か、できなかった。理不尽なことを言われたと判っている。憤るべきでもあった。しかし、できなかった。反論の言葉すら浮かび上がってこなかった。
 何かが囁いていたからだ。
 その通りだ、と。
 ヒノトの顔が思い出せない。こうやって考えてみると、ヒノトだけではない。周囲の人間全ての顔が脳裏の中でおぼろげである。人の記憶など所詮曖昧といってしまえばその程度だが、ひどく違和感があった。世界全てを、体感しているのではなく、玻璃一枚を隔てて観ているという感覚。
 それを、今、自覚している。
 いつから、こんな風になったのだろう。思い返しても、もうその境目が判らない。
 頭痛がしている。
 ずっと。
「閣下、到着いたしました」
 馬車が停まり、御者がそっと囁いても、エイは窓に嵌った玻璃に側頭部を押し付け、瞼を閉じていた。御者は沈黙してこちらの動きを待っている。揺り起こしに来ないのは、こちらが眠っているわけではないと、気配で悟っているからだろう。
 疲れている。
 本当はこんな風に親しくもない貴婦人など会いたくはない。大体、貴族は相手にするだけでも労力を要する。その歴史が古ければ古いほど、名があれば名があるほど。
 生まれながらにして誰からも敬われる存在であり、財力を持つ。それゆえに、貴族は自尊心と階級意識が強い。しかし彼らもただ豪奢な生活を送るわけではない。
 彼らの存在は、たとえるならこの国の血管のようなものだ。末端ならすぐに治癒できる傷も、太い動脈であれば命に関わる。その一族で領地を治め、農民を統制し、税を回収して国に収める。彼らにも彼らならではの役割がある。
 それが、貴族というものだ。
 だからこそ、扱いが非常に難しい。特に、自分のような何も後ろ盾なく、ただこの智のみで引き立てられ権力を与えられた男など、血と家を尊ぶ貴族からしてみれば、唾棄すべき存在のはずだ。しかしこのわが身に与えられた権力が、彼らに愛想笑いと媚を売らせる。彼らの笑顔の裏にある真意を読み解き、双方に利益があるように――できることなら、こちらに利潤が多いことが望ましい――取り計らわなければならない。
 その煩雑さには、閉口したくなるばかりだ。
 それでも、この左僕射という地位が必要だった。
 ヒノトのために。
 この地位に固執しているわけではない。ラルトやジン、イルバと共に、政に携わっていくことは至上の喜びであるけれども、自分がこの地位についているのはあくまで左僕射という位が、この国を豊かにするという点において、最も深く携わることのできる場所だからだ。
 彼女の手を守りたいと思った。あの手が二度と人を失うことに嘆かないものであってほしいと思った。あの手が何も奪うことなく、ただ人を救うためだけの手であればと思った。彼女が、笑い、そして自由に学べる世界がほしかった。
 いつからか、彼女はそんな風に、自分にとっての『意味』になった。
 だというのに、誰も彼もが、自分の行いが、彼女にとって残酷だという。
 一体、自分の何が、彼女をそんなに不幸に見せるのか判らない。実際、彼女の口から不幸だという言葉を聞いたことはない。それでも、ウルのいう通り、何も言わず自分の手から離れることを彼女が決めてしまったという現実が、すべてを表しているようにも思える。
『不幸になるだろう』
 幻聴が、聞こえる。
『――お前が、その檻の中に』
 かつて、自分に愛を説いて病に没した女の声が、聞こえる。
『閉じ込めない、限り――……』
 エイは、目を開いた。
 身体を起こし、身支度を整える。その気配を悟った御者が、素早く回りこんで馬車の扉を開けた。彼に礼を言いながら馬車を降りる。冬へと向かっていく厳寒な澄んだ空気を肺に吸い込むと、エイは夜空を仰ぎ見た。
 貴族の女など、別に妻として迎えたいわけではない。
 それでも、それが、より自分の仕事をし易くさせる手段だというのなら。
 自分の手の内にある少女の生きる国を、より整えてみせるための、後ろ盾となるのなら。
 エイは口元を引き結び、上着の裾を翻して、開かれた屋敷の門の向こうに望んだ。
 月は、青く冴えて、まるで劇場の舞台装置の一部のように、エイの影を克明に行く路に刻んでいた。


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