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番外 指に絡まる一筋さえも 1


 初夏、徐々に汗ばんだ陽気へと移り変わり、日差しは突き刺さるように眩しい。しかし日陰にさえ入ってしまえば、その暑さもずいぶんと和らぐ。木陰は初夏の陽気から逃れるにうってつけの場所だった。
「いいよ」
 本殿の裏庭に一組の男女がいた。風の通る古い大木の影、その幹に腕を組んだまま背を預け、気軽に頷いたのは亜麻色の髪と瞳をした美丈夫だ。この宮城に勤めるものなら誰もが知っている。皇帝と並んで天賦の政治の才を持つ、宰相である。
 彼と相対し、安堵に顔を緩めて見せたのは小柄な少女だった。短い銀の髪を風に揺らし、肉厚の緑の葉を思い出させる目を笑顔に細める。
「本当か?」
「うん。いいよ。君には借りもあることだしね」
 宰相がこのように、安請け合いすることは珍しい。この宰相が無条件に頼みを聞き入れる相手といえば、二人しかいない。一人は彼の恋人。一人は彼の主君。そして少女は、無論そのどちらでもない。どちらかといえば、接点は薄いほうかもしれなかった。
「ただし、条件はあるけどね」
「条件?」
「一、理由を説明すること。二、そのときが来たら、俺には定期報告をいれること。三、とりあえず、俺のかわいいお姫さまには釘を刺しておいてほしいこと。俺、いじめられるのやだもんね」
 男の最後の言葉に、少女は笑いながら頷く。
「判った。そうしよう。おんしには、迷惑なぞかからぬように、する」
 少女と男の恋人は友人だったが、少女が男に依頼したことはもちろん彼女の耳には入っていない。
「俺を選んだこと、間違ってない。人選に自信もっていいよ」
 男の皮肉に、少女は笑った。それに同調するように、木の梢が大きく揺れて音を立てた。

 男と少女の結んだ密約は、それ以後、誰にも知られることはなかった。
 執行された、春の日まで。


指に絡まる一筋さえも


「うぅううん……」
 昇降口の掲示板の前で、大勢の人間が足を止めて顔をしかめている。ヒノトもまた例外ではなく、腕を組み、唸り声を上げている一人だった。原因は張り出されている掲示にある。一枚の紙には、達筆な文字でこのように記されていた。
『三年生は各自、進路相談の時間割を担当教諭に今日中に申告のこと。なお、進路決定相談のために一時帰省するものは担当に許可をとった後、事務に申告してからの帰省を原則とする』
「進路決定かぁ。今日中って、今からすぐってことじゃんかー」
 ヒノトの傍らで足を止め、呻いたのは友人の一人だった。視線を動かすと、そこにはヒノトと同じように並んで掲示板を眺めている級友たちの姿がある。
「リン、ツツミ。アリガも」
 名を呼ばれた三人は、そろってヒノトに向かい合い、笑顔を向けてきた。
「やぁね、面倒」
 唇に指先を当て、嘆息するのはリン。ヒノトよりも一つ年若く、はしゃぐことの好きな娘だが、皮肉な物言いをすることがある。外見は黒髪黒目。典型的な東大陸の民の容姿をしている。
「お前はまだいいだろー。家業継ぎますっていや終わりじゃねぇか」
 リンを半眼で睨め付けながら呻いたのはツツミだ。年はヒノトより二つ上。実家が医者であるリンと異なり、彼もヒノトと同じく就職先を探さねばならない口だ。面倒な進路相談を、幾度も重ねなければならない。
「まぁ、大切な面談だし、そういわずに。さっさと時間割申告しにいこう?」
 二人の間に立って、肩をすくめてみせたのはアリガ。身長も高く、中性的な雰囲気をかもし出す上に容貌も異国のそれであるので、一見しただけでは性別年齢ともにさっぱり不詳だが、年はヒノトと同年。低いかすれた声をしながらも、れっきとした女性である。ヒノトの友人たちの中では老成さをにじませる、最も気の合う人間、親友だった。
 アリガに促されてヒノトは歩き出した。ヒノトと同じように、掲示板の前に集まっていた生徒も一人二人とその場を離れ始める。皆、いつまでもこの場で屯していられるほど、暇ではないということだ。
 古い校舎は、何百年か前に建てられ放置されていた屋敷を改築したものだという。石造りと木組みを組み合わせた外観は、東大陸の建築様式に囚われぬもので、少し異国情緒の漂うこの建物を、ヒノトはとても気に入っている。
 最先端の医療を学び研究する場所として、ふさわしいではないか。
 医学には、文化のように大陸という区切りは必要ない。人を救う手段はどれも平等に、検証されるべきだと、ヒノトは思っている。
 学院。正式名称は恐ろしく長いので、皆そのようにこの場所を呼ぶ。医療を志すもののための全寮制の学び舎である。
 デルマ地方の隣、ガランと呼ばれる、ダッシリナとメルゼバの国境に近い地方に位置するこの学院は、その両国と、そしてブルークリッカァ、三国の協定に基づいて設立された。にもかかわらず、水の帝国領内に建てられた理由までは、ヒノトの知るところではない。
 身分分け隔てなく入ることを許される上に、奨学金制度も整うこの学院の生徒の数は、入学当初、決して少なくはないものだ。しかし学年があがるにつれて徐々に脱落者が増え、最終学年である三年時には、十五人編成の学級が二つしか残されなかった。
 ヒノトはそのうち一つに在籍している。ということは無論、ヒノト自身も学院卒業の先を決めるべく、担当教諭に相談しに行かなければならないということだ。
(さて、どうするか)
 ただ単純に進路を決める、それ以上に。
 この学院から出るということは、ヒノトにとって、一つの覚悟を伴う、頭の痛いことであった。


「じゃぁ、一回目は明日のこの時間でいいのね?」
「はい。お願いいたします」
 ヒノトの申告した時間を、担当の教諭はさらさらと時間割の中に書き込んでいく。さっそく面談を明日に組み込んだわけであるが、かといってヒノト自身、希望の進路があるわけではない。リンは家業を継ぐためにこの学院に来ているわけであるし、ツツミはもともと皇都にある王立病院の勤務が希望だ。彼らのように、すでに希望が決まっていたら楽だったのに。
「ヒノト、貴方も王立病院希望?」
 予定表を片付けながら、教諭が尋ねてくる。胸の内を見透かされたようで、どきりとしながらヒノトは目を瞬かせた。
「いいえ、特にそういうわけではないです」
「あらそうなの? じゃぁ宮廷医?」
「……なんでそんな風になるんですか先生?」
「その二つが、一番就職に難しいところだから。でも貴方ほど優秀な子だったら、どちらでも大丈夫でしょうけれど」
 かつて優秀な外科だったが、加齢による手の痺れから一線を引いたという彼女は、厳しい教諭としてこの学院に名を響かせている。その彼女に褒められたことに気恥ずかしさを覚え、ヒノトは口先を尖らせた。
「そんな風に持ち上げて、卒業試験に落ちたら先生のせいですよ」
「あら、貴方が褒め言葉一つでそんなふうに舞い上がってしまう子だとは私も知らなかったわ。手だけではなく人を見る目も老いてきたのかしら」
 眼鏡をはずし、これみよがしにきゅっきゅと拭いて見せる担任を、ヒノトは笑った。
「何をおっしゃりますのやら! 視力は衰えても、人を見る目は老いません!」
「そうそう。そんな風に笑ってなさいね。貴方らしくもない」
 柔らかく微笑む老女に、ヒノトは息を詰めた。眼鏡の奥、案じるように目を細める担任は、椅子をきしませながらヒノトに向き直り、首を小さく傾げて見せる。
「昔から、将来の話になると暗い顔をする子だったわね、ヒノト。進路のことがそんなに心配? さっきも言ったけれど、貴方ほどの腕と知識があれば、引く手数多。好きなところにいけるわ。私が保証する」
「先生」
「もしそれでも不安に思うのなら、私が昔勤めていたところに紹介状と推薦を出してあげてもいい。フベートの田舎だけれど」
「いいですね」
 どうにかぎこちなく笑みを取り繕って、ヒノトは言った。フベートも水の帝国の一地方。田園風景の広がる美しい土地だ。
 エイの、生まれた土地。
「悩み事があるのなら、おっしゃりなさいね。秘密は守ります。私、医者だもの」
 医者には守秘義務がある。生徒であるヒノトを患者に喩える教諭がおかしくて、ヒノトは少しだけ笑った。
「大丈夫です」
 ヒノトの悩みなど、教諭に相談するにしてはあまりに稚拙な内容すぎる。ただ、彼女の好意だけはありがたかった。
「ありがとうございます、先生」
「……ならいいけど」
「それでは失礼します」
「あぁちょっとまって」
 軽く会釈し、退室に踵を返しかけたヒノトを、担任があわてて呼び止める。
「まだ何か?」
「一つ伝言を頼まれていたのよ」
 ヒノトを呼び止めるために浮かせていた腰を、椅子に落として教諭は言った。
「伝言、ですか?」
「そう。面会人が来ています。貴方の用事が終わったら会いたい、だそうよ。図書館で暇を潰しているから、と、言っていて。すぐに貴方をよびだてするようなことをしなかったのだけれど」
「面会人? 名前は聞かれていますか?」
「貴方と同じぐらいの年の女の子だと聞きましたけれど。名前までは」
「……私と、同じぐらいの」
 外部から自分に面会に来るような人間は限られている。しかもそれが女となると。
「図書館ですね。ありがとうございます」
「えぇ」
 再度会釈をして部屋を出る。図書館のほうにつま先を向けながら、ヒノトは来訪者に大体の見当をつけた。図書館で暇を潰すからなどというような、同じ年の面会人となると、たった一人しかいない。おそらく間違いないだろうと思うと同時に、こんな田舎くんだりまで何の用事だと、ヒノトは顔をしかめていた。


「ほぇえぇぇ……すごい蔵書の数」
 上司に言われて初めて足を踏み入れた学院は、医学書だけならば大陸一の蔵書数を誇るという。一冊、なにげなく棚から引き抜いて、開いてみる。意味不明の言葉が羅列される書籍に、微笑んだ。内容などどうでもよい。書籍、というだけで、自分にとっては意味あるものなのだ。
「一番簡単なの、ためしに読んでみようかなぁ」
 どうせ彼女が自分の来訪を知ってこの場にやってくるのは、もう少し後になるだろう。
 見慣れぬ自分の姿に対する不審の視線をものともせずに、ひとまず初級編の医学書を探して棚の前を右往左往してみたのだった。


「あ、ヒノト」
 図書委員として番をしていた級友の一人が、ヒノトの姿を見かけて駆け寄ってくる。
「どうした? 蒼白な顔をして」
「なんかねぇ、図書館、中に入らないほうがいいよ? 変な人がいるの」
「変な人?」
「うん。年は私たちと同じぐらいなんだけど……学院の生徒じゃない、なんか見慣れない人」
「……瓶底眼鏡をかけたおかっぱの娘か?」
「え? やだ何ヒノト、知り合い?」
 嘆息して、ヒノトは級友の横を通り過ぎた。逃げるように図書館を出る生徒たちと逆行して、ヒノトは静謐堅牢な建物に足を踏み入れる。勉強のための空間をかねている図書館内部は広い。個室にはまだ多くの人が残り、研究や試験勉強に勤しんでいる。それらを横目に奥へと進んだヒノトは、ようやっと旧知の姿を見つけた。
「キリコ」
 ささやくような声量も、図書館内部ではやけに響く。ヒノトの呼びかけに気づいた娘は、音を立てて椅子を引き、立ち上がると、大きく手を振った。
「やほー! ヒノト! ひさしぶりっ!」
 ヒノトは無言のまま彼女に歩み寄ると、その頭を遠慮なしに殴った。
「図書館では静かにせんかっ! 馬鹿もんがっ!!」


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