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番外 指に絡まる一筋さえも 18


「すまん」
 フベートから戻り、休暇を切り上げ、出仕して第一日目。
 執務室で顔を合わせた皇帝の、第一声がそれであった。
「……はい?」
 眉間に皺を刻み、口元を引き結ぶ皇帝に、エイは首をかしげる。何故、出仕の挨拶を前に突如皇帝に謝られなければならないのか、理由がさっぱり判らない。休暇中に何かあったのかと、同じく執務室で書類の処理をしている宰相に目を向けるが、彼も口元を引き結んでいる。右僕射に至っては苦笑すら浮かべて、エイから目をそらす始末だ。
「……えーっと、何があったのでしょうか?」
 躊躇いがちに尋ねると、皇帝が盛大な嘆息を零しながら書類の束を手渡してきた。怪訝さに眉をひそめながら、皇帝に渡す予定だった報告書を小脇に抱えなおし、渡された書類をぱらぱらと捲る。
 そこに記述されていたのは、エイも無論、名を知る貴族の、一人娘に関してのことだった。
「……調査をすればいいんですか?」
 エイの部下には、暗部出身のものが多くいる。エイ自身の副官であるウルを筆頭に、彼らの中には諜報をとりわけ得手とするものもいて、官吏の内部調査を請け負うことも多い。しかし皇帝は組んだ手に額をこすりつけるようにしながら、低い声音でエイの言葉を否定した。
「いや、あのな。ただ単純に……会ってきてほしいんだ」
「……はぁ、それは何故?」
「悪い」
 エイの問いに、皇帝は再び謝罪を返す。
「見合いの話、一つ、断りきれなかった」
「…………はぃ?」
 皇帝の言葉の意味を、咀嚼するには少々時間を要した。
「……見合いって……えーっと、いわゆる、結婚を前提で男女が顔を合わせるアレですか」
「そう、それだ」
「何故、私が?」
「俺達の中で、未婚がお前だけだから」
 手から顔を上げた皇帝が、珍しく視線を泳がせながら呻く。
「俺もジンも妾を取るつもりがないって、いい加減あいつらもわかったんだろう」
「ちょうど、エイはイルバと違って適齢期だしねぇ」
 書類で自らを扇ぎながら、そう口を挟んできたのは宰相である。
「前からちらほらとはあったんだけど。最近特にうるさくてさぁ」
「え? そうだったんですか?」
 仕事での会食の席で、侯爵たちから娘だの妹だのを紹介されることはままある。しかし直接的な話を耳にしたことは、いまだなかった。ということは、そういった話がエイの耳に入らぬように、皇帝たちが手を回してくれていたらしい。おそらく以前、結婚の話題になったときに、まだ興味がない旨を彼らに伝えていたからだろう。
「……誰か一人ぐらい、迎えたほうがいいんですかねぇ?」
「そうだなぁ」
 エイの問いに、皇帝が頬杖を付きながら応じる。
「確かに、誰か貴族の女を娶ったほうが、地位的にも落ち着くことは落ち着くが。お前は特に市井の出だし、貴族の後見を得ておくにこしたことはない。仕事がやりやすくなるのは確かだ」
「そうですか。判りました」
 エイは頷いて、皇帝から手渡された見合い相手の女の資料を小脇に抱えなおした。代わりに、皇帝に手渡すつもりだった報告書を、利き手に持ち替える。
「こちら、カジャの港の報告書です。改築工事はうまくいったようですね」
「あ、あぁ……」
 エイの書類を引き取って、皇帝はなにやら曖昧に頷く。彼のらしくない言動を訝りつつ、エイは続けた。
「あと、休暇ついでにフベートの街を視察したのですが、そちらについて纏めたものも入れておきましたので。お暇なときにご確認いただければ」
「……うん」
「あと春待ち祭りの件ですが、市民からのほうから企画が持ち上がっているのですが、そちらについて担当も交えてお話したいのですが、いつまとまったお時間空いていますか?」
「半刻程度なら明日の昼から。厳密な時間はまた後でいう」
「判りました。それでは、私これから会議に行って参りますので。戻りましたら、また休暇中のお話、お聞かせ願います」
「……わ、判った」
「はい」
 会釈して扉のほうへとつま先を向け、ふと、そういえば、休暇中についての謝辞を述べていないということにエイは気がついた。突然、妙なことを皇帝が口にするものだから、言いそびれてしまったのだ。
「陛下、閣下、それからイルバさんも、休暇中、ありがとうございました」
「う、うん」
「お、おう」
 宰相も右僕射も、なにやら複雑そうな表情を浮かべて、エイの謝辞に応じるべく片手を挙げている。彼らの表情に引っかかるものを覚えたが、会議の刻限も迫っている。エイは焦りを悟られないように笑顔の奥に押し込めながら、丁寧に礼をとった。
「それでは、失礼いたします」


 ぱたん、と、静かに扉が閉じられる。
 その閉じられた扉の向こうに、音はすべて吸収されてしまった。そういっても過言ではないほど、室内は重苦しい沈黙に満ちていた。
 三人で扉を凝視し、どれほど経ってからだろう。
 まず、口を開いたのはイルバだった。
「……ふっつーに、見合い話、うけとっていったな。あいつ」
 もう少し嫌だとかなんだとか反応を見せるかと思っていたというのに、左僕射は見合いの資料を普通に受け取り、普通に携えて、普通に、実に何事もなかったかのように、執務室を退室してしまった。と、いうことは、令嬢に会うつもりがあるということだ。会えといったのは、ラルトのほうなので、彼にとってみれば皇帝からの命令程度にしか考えなかったのかもしれない。
 しかし、それにしても、エイの反応は淡白すぎる。ヒノトのことは、頭になかったのだろうか。
「……ねぇ、どうするよ? エイがふつーに、あの見合い話の子、娶っちゃったら」
 ジンが冷や汗を流しながらラルトに問う。この見合い話もその気になれば職権乱用で潰すことのできた話だ。しかしそうしなかったのは、一種の賭けのようなものだったのだが――……。
 左僕射の反応は、ラルトたちの期待をすがすがしいほどに裏切ってくれた。実に、悪い意味で。
「確実に、ティーたちに殺されるな。俺達……」
 満面の笑顔で憤る最愛の女を思い浮かべて、ラルトは呻いた。なんてことをしてくれたんですか。そんな声がまざまざと聞こえてくるようだ。
 その幻聴から逃れるように耳をふさいで机に突っ伏したラルトに、ジンは追い討ちをかける。
「何でエイに、貴族との結婚での利益なんか滔々と語ったりしたのさ!?」
「俺のせいか!? 訊かれたらそう答えるしかないだろうがっ!? じゃぁお前だったら、訊かれたらなんて答えるんだ!?」
「……多分俺も、ラルトと同じように答えると思う」
「だろう!?」
「あぁああぁぁどうしよう!? 俺達本気、殺される!」
 皇后と宰相夫人の、ヒノトに対する友情には、並々ならぬものがある。
 ヒノトは、皇后にとっては、周囲すべてを敵に回しても、腹の中の子供と彼女の身を案じ続けた親友であるし、宰相夫人にとっても、水煙草の中毒から救った医師であると同時、査定の時期の苦悩を心身共に支え続けた恩人だ。そのヒノトの、エイへの思慕を知り尽くしている彼女らに、貴族との結婚をエイにそそのかしたようなことが知れたら――……。
 殺されるより、もっと恐ろしいことが起こりそうである。
 頭を抱えて呻く皇帝と宰相に、イルバの目線は、呆れを通り越し、実に冷ややかだった。
「……なんつうか、馬鹿か? お前ら」
 イルバにとって確かにエイがあのような反応を返すことは驚きだったが、予想の範疇ではあった。無論、ラルトとジンも大騒ぎしてはいるが、それは心の安寧、というより、血の雨を防げるか否かが掛かっているからである。驚きは少ない。期待を裏切られて、落胆してはいたが。
 エイの、あの男女関係への鈍感さは、異常ですらある。他人のそれに対してはさほどでもないのに、自分のこととなると、まるで現実のものではないかのように、意識から切り離してしまうのだ。
 エイは過去を語らない。そもそも、この部屋に集まる四人の間で過去語りの場を持つことは皆無に等しい。互いに背負うものが、他人の目に悲惨としか映らないからだろう。笑い話にも酒の種にもならない。
 イルバもエイと同じ市井の出だった。経歴としては似たところがある。しかし、虫けらのように生きていたとはいえ、己の幼い頃の生活は、エイほどではなかったに違いない、と、イルバは考えていた。呪いの災禍に呑まれていた国の最下層の民の生活は、今も耳にするだけで吐き気を覚えるほどだ。それを十数年でここまで復興させたラルトの手腕にも頭が下がるし、ここまで這い上がってきたエイの辛酸を思うと、イルバは胸苦しくなるのだ。
 スリをして生きていたのです。そんな風なことを、左僕射は笑って言う。しかしもっと、もっと、目を背けたくなるようなことにも手を染めてきたことは想像に難くない。
 彼の下には暗部出身の人間が多くいる。それは彼の人柄に集まってきたと同時に、同じ匂いのするエイに、彼らが安らぎを覚えているからにほかならない。
 温和で、怒りを表すこともほとんどない。頭は切れ、仕事に手を抜くこともなく、求められれば非情を演じることもある。しかし素の彼は生真面目で、純朴ですらある。恋愛方面においては、不得手を通り越している。
 彼の生きた軌跡を思うとき、彼の性格は、とてつもない、歪みの表れのようにも思えるのだ。
「てか、俺が妻娶ったらだめなのか」
 仕事と割り切ってしまえば、貴族の女を妻とすることなぞ、イルバにとっても些細なことだ。エイの淡白な反応も、つまりはそういうことだった。もっとも、壮年も終わりに差し掛かっている自分に嫁がされる女は、たまったものではないだろう。イルバ自身も、失ってしまった娘より年下の女を妻とはしたくないところだ。
 しかし、貴族の女を、権力の頂点に在る四人の間に入れることには、意味がある。だから、イルバがその役を請け負う。そうやって、エイのことは放置しておく。そのほうが一番、穏便に事が終わりそうな気がするイルバだった。
 思わず漏れたイルバのつぶやきに、ラルトとジンは聞き捨てならぬと反応を示す。
「それは駄目だ」
「絶対駄目」
「……なんでだ?」
 ラルトとジンの全否定に、イルバは眉をひそめる。
 イルバが独身で放置されているのは、彼の存在が、この国最強と謡われる女官長の心の安定にかかわるからである。それが当人には、理解不能な事柄だった。
 ラルトとジンは、何故この部屋には、自分のこととなるとこんなにも朴念仁になる男が二人も揃っているのかと、同時にため息を零した。
 女官長がいれば、それは二人ではなく四人ですと、訂正を入れたことだろう。


 会議を滞りなく終え、本殿の中に与えられている個室に戻ったエイは、席について皇帝から手渡された、見合い相手についての資料を斜め読みしてみた。
 ラルトに紹介された女は、貴族の中でも名家中の名家、ダムベルタ家の令嬢である。記されている名前にも、見覚えがあった。一度会ったことがあるのだろう。しかし顔は思い出せなかった。会えば、判るだろうが。
 ジンに、適齢期といわれて、あぁそんな年齢だったのだと、エイは時の流れに驚いていた。思えば自分も二十代後半。妻を娶らず――つい先日、コリューンからも指摘されたことではあるが、確かにこの年齢で妻一人いないということは、多少不自然だった。
 この水の帝国においての一般的な結婚年齢というものは、身分や職によって多少異なる。一番早いのは農業や小売業を生業とするものたちだった。夫婦となったほうが、税率が安くなるし、仕事の効率もよいからだろう。無論、恋愛する時間があるから、というのも理由の一つだ。
 次に早いのが貴族階級。女性のほうが婚期は早い。これは政略の一環として、早くから婚約関係を結んでいるからである。男性は個人によって差がある。女好きであれば早いし、そうでなければ遅い。それでも、二十代半ばに差し掛かるころには、正妻どころか妾を持っていてもおかしくはない。ちなみにこの国では、身分関係なく、重婚が認められている。税を納めることができさえすれば。
 次が商人。最後が、エイを含む、知識階級。特に、宮廷で働く官吏はその多忙さとあいまって、極端に早いか、極端に遅いかのどちらかである。端的に言ってしまえば、出会いがないのだ。ところがエイほどでなくとも、ある程度の地位まで登り詰めれば、こういった見合い話は自然と舞い込んでくるものだった。
(確かに、今まで耳にしなかったっていうことのほうが不思議なんですよね)
 二十代後半という年齢であれば、正妻程度は娶っていてもおかしくない。むしろ、この位に就いていて、娶っていなくては不自然だ。
 しかしあまりそういった話が話題に上らぬのは、他でもないラルトやジンの結婚が、遅かったせいもある。ラルトはすでに身罷った正妃が一人いたのでそうでもないが、特にジンにおいては、異例中の異例だった。そしてその二人は、妾を持たぬと公言している。これに頭を痛めた国内外の貴族は多かっただろう。あわよくば、寵姫の位をと、娘に望んでいたものも多かったはずだ。
 イルバは既婚者だったが妻子を失って、再婚するつもりもないようだった。女官長との関係も、男女のそれというよりかは兄と妹のようだと、エイは客観的に見ている。当人達が語らないので、実際のところはわからないが、少なくとも、彼らの間に男女関係はないように思える。そして、イルバ自身も女遊びをするようなことはない。
 つまるところ、四人とも非常に、女っ気がないのだ。
 ひとまず、エイは見合い相手の資料を机の脇に置いた。
 四人で使っている執務室ではなく、こちらの部屋に戻ってきたのは、調べ物があったからだ。席から立ち上がり、棚に並ぶ書籍の題名を目で追う。梯子に登り、高い位置にある棚から目的の本を数冊引き出したところで、軽い叩扉の音が響いた。
「失礼いたします」
 許可を待たず入室してきた男は、茶の髪に墨色の瞳をした、エイよりもわずかばかり年嵩の男。
 副官のウルだった。


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