番外 指に絡まる一筋さえも 17
「昔、私には友人がいた」
間を置いて、ラティスメーアはそう切り出した。
「この国の女だった。父王が身まかり、妾が年若く女王になったばかりのときに、あの女は妾の国にやってきた。幾度か、交流を持った。人の気持ちを汲み取ることに長けた女だったよ。献身的な、優しい女だった。私にとって姉のようだった」
何故、ラティスメーアがそのような話を口にしているのか、ヒノトには判らない。ただ、彼女の言葉を阻むことも憚られ、ヒノトは黙って耳を傾けた。
「もう死んだ女だ。妾がこの国を訪れるのも、その女の墓に詣でるために他ならない」
確かに、大国の女王がこのような小さな国にいることはおかしくはないが、稀なことではある。外交の名目ならば、イーザのほうがウル・ハリスに出かけるべきだろう。ラティスメーアがこのような小国をわざわざ訪れるのは、そういった理由があるからなのだ。ヒノトは納得した。
「その女と最後に会ったのは、もう二十年ほど前になる。そのとき、女は子供を孕んでいた。男と愛し合って宿った命だが、周囲には望まれぬ子供だと、女は言った。子供を孕んだことを知っているのは、男と、あの女の実の妹と、そして、妾だけだと」
ラティスメーアは真っ直ぐにヒノトを見つめている。その瞳は、何かを懐かしむように細められている。
「男の孤独を支えたいのだと、彼女は腹を撫でて言った。男のためになら、何を投げ打っても構わない。……そう、お前と同じことを言ったな。……髪の一筋に至るまで、この身はもうあの男のものだと」
血とは、争えぬものだと、女王は言う。
一体誰のことを語っているのか、明確な答えを、告げぬまま、彼女は笑う。
ヒノトは、唇を動かす。しかし、思ったように上手く、声を紡ぐことはできなかった。
ラティスメーアが紡ぐ、とある女の人生の断片。
それは、おそらく、自分が初めて耳にする――……。
「妾の国にある、医療の施設のいくつかには、あの女の手が入っている。お前も、多分見ているだろう」
「ラティス様」
「私の友人は、真の医者であったよ。最後は皆に憎まれたようだったが、あの女は、確かに、人を愛して、ただ人を救うためだけに尽くした、医者だった」
ただ、その最後に尽くした人が、たった一人だったと、いうだけで。
生みの親を、ヒノトは知らない。
実母の妹だったという養母は、結局ヒノトに何も語らず、死んでしまった。
誰も、実母の生き様を、知るものなど、いなかった。
「妾には数人の夫と、それらとの間にそれぞれ子供がいるが、あのようにたった一人を愛するという感覚はついぞわからぬままだった」
「それでいいのではないのですか? 貴方は、女王なのですから」
「それでも、すこし羨ましくはあるよ」
ヒノトの言葉に、ラティスメーアは目を細めた。
「……見てみたいものだ。お前が、そこまで愛するというその男を」
彼女の微笑に、ヒノトは思わず苦笑する。
「馬鹿ですよ」
その言葉に、女王はきょとんと目を丸めた。
くすくす笑いながら、ヒノトは続ける。
「そして、間抜けで、阿呆です」
「ついでにいうと、すっごく鈍いってところかなぁ」
今まで沈黙を保っていたイーザが、口を挟む。
「鈍いというか、手が遅いというか」
「でも、優しい男です」
けなされ続けて、当の本人も海の向こうでくしゃみ一つしているだろう。ヒノトは件の男の弁護に回った。
「とても」
優しい男だ。
そして、その優しさが、ヒノトにとってあまりに残酷だった。
ラティスメーアは扇を畳み、立ち上がった。
「面白い話だった」
衣装の裾をさばきながら、彼女はヒノトに微笑みかける。
「もう、会わぬだろうな」
ラティスメーアの言葉に、ヒノトは頷いた。
「はい。もう会わないと思います」
「息災で」
踵を返し、元の扉のほうへと向かって歩きながら、女王は言う。
「幸せであることを祈っていてやろう」
ヒノトは、その背を見送りながら目礼した。
「ありがとうございます」
ウル・ハリスの女王の姿が、小さな扉の向こうに消える。ヒノトも、嘆息して長椅子から立ち上がった。
「……さて、妾もいくぞ」
せっかくの再会だというのに、昔話すら口にすることはなかった。しかしイーザはヒノトを引き止めない。
「お兄さんによろしく」
にこりと毒のない笑顔で彼は言った。
「……当分、会うつもりはないがな。会ったときには忘れず伝えよう」
「うん。……っていうか、何でそんなに時間掛かってるのか、僕にはさーっぱり理解不能。すぐ近くに女の子が無防備でいるのに、手を出さないなんて男の風上にもおけないよぅ」
「ふん。聞き捨てならぬ台詞じゃな。サブリナに対して不義を働くなよ」
「もっちろん。僕はサブリナ以外の女を抱くつもりも子供をもうけるつもりもないね」
「だいたいな、あの男の考えることなど、長年一緒にいる妾ですら判らぬというのに、貴様なんぞにすぐにわかってたまるものか」
低く呻くヒノトに、イーザは手足をばたつかせてけらけらと笑い声を上げる。この男は本当に王なのだろうかと、疑いたくなるような仕草だ。ヒノトは呆れに嘆息した。
が、笑いを収めた彼は、鋭さの宿る眼差しでヒノトを見据えてきた。虎や豹の類を思い起こさせるその目は、確かにこの呪われた国を統べる王にふさわしいものである。ヒノトは緊張に口元を引き結んだ。殺されるかもしれない。脳裏の隅を過ぎった、馬鹿馬鹿しくも起こりうる予測に、肌が粟立つ。
「ヒノト」
やがて表情を微かに緩め、不敵な笑みに口元を彩った青年は、厳粛とも取れる声音でヒノトに告げた。
「いつかもし、君に姓が必要なときがあったなら、カ・エンジュの銘を継ぐといい」
古き、医療の民の名前。この国の、根幹に連なる名前。
もうそれは、この国には必要ないと、王は言う。
だからその血を継ぐ、お前が持っていけと。
「僕は、リファルナの銘を継いで生きていく」
その、呪いも。
業も。
すべて。
兄は一人で、持っていくという。
ヒノトは笑った。
彼に全てを押し付ける。そのことを、申し訳なく、思いながら。
「そんなもの、妾はいらん」
簡素な衣服の裾を絡げ、踵を返して、扉のほうへとヒノトは歩き出す。
イーザの赤毛の近習が控える扉を潜り抜けながら、ヒノトは一度だけ、彼を振り返った。
「この思いと、知識と、そして、ヒノトという、この身だけで充分じゃ」
あの国で生きるためには。
知れず、受け継いでいた母達の精神と。
医療の知識と。
この体一つで、充分だった。
それだけあれば、自分はあの国で、エイのために、生きていける。
イーザは微笑んだ。
「さようならヒノト」
ヒノトも微笑む。
「さようならイーザ」
この世界に残された、たった二人の血族の。
これが、永遠の別離だった。
呪われた血が二つに分かたれ、受け継がれていく。
その意味を知るものが現れるのは、遠い未来の話。
翌日、リファルナを出る準備だけ整え、アリガにだけ墓参りの意図を告げると、早朝に城を出た。街へ出るための船頭と、それからの馬は、イーザが内々に手配をしてくれていた。
養母の墓は、あの庵の跡地にある。とはいっても、墓石もない。柵が設けられ、誰も立ち入らぬ場所となったそこは、花々に埋もれていた。
判ってくれるだろう。
養母ならば。
かつて暮らした場所に立ちながら、ヒノトは空を仰いで目を閉じた。
他でもない彼女が、自分の命を、あの男に――エイに、託したのだから。
*
「……と……ヒノト」
友人の声と体を襲った振動に、ヒノトは瞬いて目を擦った。すぐ目の前に、友人の顔がある。
「……リン?」
「ヒノト、起きて。もう、検問を過ぎたわ」
リンの言葉の意味するところに、頭は急激に冴えていく。身を起こし、窓の外を見やると、流れる景色は緩やかな丘陵ではなく、町のものに移り変わっていた。検問を過ぎたと、リンは言った。つまり、都の最初の城門を過ぎたのだ。
馬車の窓に頬を付けると、そう遠くないところに、山脈、その裾野に広がる街、そして太陽の日を照り返して、宝石の屑を撒いたかのようにきらめく湾が見えた。
もう半日もしない間に、馬車は皇都に到達するだろう。馬車の中では、ほぼ六日に及んだ長旅の終わりを喜んで友人達が騒いでいた。
「あぁ、もうすぐね!」
楽しみだわ、と満面の笑みを浮かべる友人を微笑ましく思いながら――ヒノトは、目を伏せる。
楽しみだ。
そして同時に怖くもある。
都に帰省する期間は、七日。
その間に、未来がすべて決定付けられるのかと思うと、足が、竦む。
馬車は確実に、ヒノトを乗せたまま、都への道のりを踏破していった。