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番外 指に絡まる一筋さえも 16


 睥睨してくる蜂蜜色の髪の女を、椅子から立ち上がって迎え、ヒノトは礼をとるため、無言のまま腰を折った。いつまでそうしていただろうか。女王から、言葉が下された。
「面をあげよ」
 命令に従い、ヒノトは背筋を正した。女王は真っ向からヒノトを見据え、そして問う。
「何故、口を利かぬ?」
「許可なくば、恐れ多くも女王陛下の御前で、口を利いてはならぬと耳にいたしましたゆえ」
 ウル・ハリスではそのようだと聞いている。水の帝国の皇帝であるラルトの、家臣に対しての寛容さは破格だろう。彼は家臣というよりも、部下として、同じ目的のために仕事を行う同胞として、エイを初めとするものたちを扱っているから。
 許可なしに、王と口を利いてはならぬ国のほうが圧倒的に多い。王が自ら家臣に声を掛ける国も少ないと聞く。そういった国では、大抵、王はまず言葉を紙にしたため、側近がそれを代弁して、家臣に王の意図を届けるのだ。
 ヒノトの回答に、ラティスメーアは鼻を鳴らした。
「イーザ、何故、この娘ではなくお前が王なのだ? こちらのほうが、よほど礼儀がなっている」
「うーん。教育の違いかなぁ」
 ラティスメーアの言葉に、頬を掻きながらイーザが呻く。
「ブルークリッカァで、いい教育受けてるんだよ、きっと」
「お前も留学してこい。その間、この国は妾が面倒をみてやろう」
「ラティス様、それ、侵略っていわない?」
 イーザの訴えに、ラティスメーアは無言のまま笑みに口元を歪める。そして手に持っていた扇を、ヒノトのほうに向けて軽く振った。
「座れ。この部屋では無礼講だ。自由に口を利くがいい」
「この国は、曲がりなりにも僕の国なんだけど、貴方が許可をだすの? ラティス様」
「黙れイーザ。……ヒノト、といったか。昼は、すまなんだな」
「……いえ。私のほうこそ、申し訳ありませんでした」
 昼での回廊の一件のことを、いまさら持ち出されるとは思わなかった。彼女からの謝罪に頭を垂れ、椅子に腰を下ろして、しかし、とヒノトは考える。大国の女王が、自分に会いたがっていたのだと、イーザは言った。いまさら、会いたいと望まれる理由が、ヒノトには判らなかった。
(この、目のせいか……)
 イーザ達と同じ、この国の、否、この南大陸の王族に見られるという、深い、緑の目。
 東大陸ではまず見ることのない色だ。あちらにいると、この色の持つ意味を、つい忘れがちになる。
「ブルークリッカァにいるのだったな」
 ラティスメーアはそう切り出した。
「はい。あちらで医学生をしています」
「うん。そういえば、妾の国も見てきたのだろう? 視察がくるとの報告は聞いていた。どうだった?」
「色々と、ずいぶん異なるので勉強になりました。……医者は、王の所有物なのですね」
「王だけではない。民も何もかもすべてが妾のものだ。東大陸とは、ずいぶん様式が違うだろうな。この国とも、同じ大陸の国とは思えぬほどに、違うがね」
 ウル・ハリスもブルークリッカァも、そしてリファルナも、基本は王や皇帝を頂点に戴く国だ。しかしその執政の仕方も、権力のあり方も全く違う。ウル・ハリスはまず王ありきの国だった。国の領土、作物、生きる人、すべてが国王の所有物として定められている。
「所有物の境界をどこに定めるかは王次第。妾は妾の所有物を、妾の体だと思っている。誰も好き好んで自らの体を傷つけたいとは思わんだろう。ぞんざいには扱うかもしれん。しかしその程度には、妾はあの国を愛している。そういう意味では、イーザや、まだ合間見えたことのない、かの有名な現リクルイト皇帝陛下と近いところに妾はいるのであろうよ」
 意識が近いからこそ、こんな小国に妾がいる。そう言って、ラティスメーアは微笑んだ。
「恐れながら、女王陛下は」
「ラティスでいい」
「……ラティス様は」
 ヒノトはイーザを一瞥し、ラティスメーアに問うた。
「私と会いたいと思われて、この席をイーザに請われたのだと聞きました。何ゆえに……?」
「おや、判らなかったのか?」
 気だるげに長椅子の背に重心を預ける女王は、意外そうに瞬いた。
「その眼の意味を知らぬというわけではあるまい? 妾と同じ色の眼をした女が、平民と共にふらふらしている。驚いた。あの女は誰かと、妾はすぐにイーザに尋ねた」
「尋ねたっていうか、言わないと縁を切るって。脅迫だったよ、アレは」
「そうしたらこやつが、お前は妹なのだというからな」
 イーザの主張をさらりと無視し、ラティスメーアは続ける。
「この国の王に、生きた兄弟がいるなどと、前例がない」
 そして彼女は、美しく紅の刷かれた唇を笑みに吊り上げた。
「兄弟を殲滅してから、たった一人が王座に登る。それがこの国の慣例だ。だというのに、妹が生きているなど」
 このリファルナが建国されてからというもの、王は玉座にあるうちは、ただ一人として兄弟を持たない。皆、殺すからだ。
 一つの椅子を取り合って。
 殺しあう。
 一つの椅子を望まぬものすら。
 王になる者は、殺してしまう。
 王は、自らとその子孫以外に、血族を許さない。
 それが、この国の呪いだった。
 それを、ヒノトはようやっと知った。
 兄弟というよりも、イーザは、ヒノトが貧民窟で生きていた頃からの友人だ。喧嘩友達ではあったが、殺したいなどと思ったことはただの一度もない。しかしこうやって、自分と彼の間で立場が線引きされたその瞬間から、奇妙な感覚が付いて回っていた。
 彼を、殺したくなる衝動。
 自分達がまだ少年と少女だったころ、その衝動は気のせいかと思えるほどだった。しかし今、はっきりと自覚できる。生きていてほしいのに、幸せであってほしいのに、同じ空間において相手の存在を許せない。
 これが、呪いかと、思う。
 理由も仕組みも分からない。ただ世界には、布陣のように呪われた国が据え置かれている。リファルナもその国の一つだ。気の遠くなるような時を重ね、ようやっと呪いから解放された水の帝国は、非常に稀有な国なのだ。
「お前は後見を得て、医学を修める為に水の帝国へ渡ったのだと、イーザから聞いた」
 ラティスメーアの言葉が、ヒノトの意識を思考から引き戻した。
「優秀でなければこうやって他国を廻って研鑽を重ねるなど、できぬだろう。実力なき者に金をかけたりなぞしまい。あの国は実力主義だと妾は聞いている。それを鑑みれば、お前の勉学は順調のようじゃないか、ヒノト」
 自分が優秀なのかどうかは判らない。しかし成績の面だけをいうならば、自分は確かに教師達の覚えもよい。医学を修める。その目的は、ある意味では果たされつつあった。
「ヒノト、お前は医学を修めた暁に、この国には戻ってくるつもりなのか?」
 呪いを知らぬわけでもないだろうに、ラティスメーアはそのように問いかける。
イーザの緊張が、見て取れるようだった。
「いいえ」
 意地悪げな微笑を浮かべるラティスメーアを真正面から見据えながら、ヒノトは否定を口にした。
「この国に戻ってくるつもりは露ともございません。この国に足を踏み入れることも、此度が最後となるでしょう」
 もし、この国を訪れる機会が、あったとしても、きっと自分はそれを拒否するだろうと、ヒノトは思った。
「それは、呪いのため?」
「それもあります」
 ラティスメーアの問いにヒノトは頷いた。この国に死すまで足を踏み入れない。それは、呪いに引きずられないためだったからだ。呪いがなければ、時折帰省する程度は、構わないと思っている。
 しかしそれでも。
「私はもう、水の帝国以外で、生きるつもりはありません」
 あの国以外に、己が躯を埋めるつもりはない。
「それは何故?」
 怪訝そうに、ラティスメーアは、その美しい柳眉をひそめた。
 ヒノトは答える。
「それは、私の最も愛する男が、あの国で生きることを望むからです」
「……愛する、男」
「私の後見をしています。私をこの国から連れ出してくれた男です。冢宰の一人として、あの国を平らかにするために、リクルイト皇帝陛下と共に、政に心血を注いでいます」
 ラティスメーアに解説する口調はあまりに抑揚がなく、まるで、書物か何かを読み上げているかのような淡白さだった。そのことに、自分で自分を嗤いたくなる。
「……その男が、お前に、水の帝国で生きることを望んでいるのか?」
 ラティスメーアの問いに、ヒノトは静かに頭を振った。
「いいえ。もし私がこの国に戻りたいと望めば、あの男はそれを受諾するでしょう。あの男にとって、私は、あの男が、『後見する少女』。それ以上でも、それ以下でもない」
 つい先ほど、イーザに説明した言葉そのままを、ヒノトはなぞった。
「少女? お前は女ではないか」
 女王は、こちらの言葉の中に、ある種の歪みを感じ取ったらしい。ヒノトの沈黙に、彼女は苦い表情を返してきた。
「お前を愛しもしない男のために、お前はあの国で生きることを決めたというのか? ヒノト」
「愛しもしないという言葉には語弊がある」
 ヒノトは静謐な声音でラティスメーアの誤認を指摘した。
「あの男は、確かに私を慈しんでくれている。大切にしてくれている。あの男は、ただ、私に少女を望むだけ」
 ヒノトは瞼を閉じた。いつもいつも、優しく手を握り返してくれる男のことを、思い返す。
 彼の優しさを思って笑みを浮かべ、彼の残酷さを思って苦痛を抱く。
「私を、ただ、女として、見なさないだけ」
「……それでも、その男の傍にいることを望むのか」
 ヒノトの心中を慮ってか、ラティスメーアの浮かべる表情は苦々しい。
「えぇ」
 その彼女に、ヒノトは微笑みかけた。
「あの男の生きる国が、私の国です。私の生きる国です。彼があの国で生きたいと望む限り、私もあの国で生きる」
「一つ、尋ねてもよいか、ヒノト?」
「……何でしょうか?」
 組んだ膝の上に、祈りの形に組み合わせた手を置いて、ラティスメーアは躊躇いがちに問うた。
「その男に、妻や恋人は?」
「いませんよ」
 ヒノトは笑ってしまった。一度、冗談で、『友人達』と彼が男色なのではないかと騒いだことがある。その際に、蒼白になって全力否定してきた男の姿を、思い出したからだった。
 それほどまでに、彼の周囲には女の匂いが全くなかった。
 しかし、覚悟しなければならないことはある。
「その男は、いつかお前以外の女を愛し、お前に、傍を離れろというのかもしれぬ。お前を、追い出してしまうのかもしれぬ」
 もしくは、その地位ゆえに。
 妻を娶るときも、来るだろう。
「その時、お前はどうする?」
「私は姿を消しましょう」
 彼が望む望まぬにかかわらず、そのほうがいい。
 もう、ずっと、覚悟し続けていることだ。
「それでも、お前はあの国で生きるというのか?」
 ヒノトの胸中は穏やかだった。おそらく、表情もほとんど変化あるまい。対してラティスメーアの表情は、当事者でもないというのに、苦しそうだった。ヒノトの、心中を代弁するかのように。
「彼が、あの国が少しでも平らかにあるようにと、望むから」
 昼夜、身を削るようにして働いて。そうやってあの国が、少しでも平和であるように、人々の笑いが溢れるようにと、望むから。
「ならば私は、私の持てる知と技、全てを使って、私のやり方であの国が平らかであるように尽くします」
 ヒノトは、泣く代わりに、口端を持ち上げた。
 見ていられないとでもいうように、ラティスメーアは、僅かに睫毛を伏せる。
「それほどまでに、その男を愛しているのか」
「はい」
 思い返す。
 二月ほど前、忙しい時間の合間を縫って、学院まで会いにきてくれた彼。
 別れの際に、自分の髪に触れた、彼の指。
「あの指に絡む、この髪の一筋さえも」
 温かくて、泣きそうになる。
 あの手を、愛している。
 あの手につながる、全てを、愛している。
「私はあの男のものなのです」
 狂った恋だと。
 女王は、嗤わなかった。


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