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番外 指に絡まる一筋さえも 15


 城下の施設を廻る研修を終え、仮宿を与えられている城に戻る。友人達と言葉を交わしながら廊下を進んでいたヒノトは、目にした町の様子を回想していた。
 かつて医療国家として名を馳せていたことは伊達ではないらしい。少人数ながら優秀な医者が常駐する小さな医院が点在するほどにまでは、国の状態は回復していた。無論、文字通り血の滲むような、王の努力もあっただろう。しかしこうやって少しずつでも、国が国として成り立とうとしている様を確認すると、安堵を覚える。自分の生まれ故郷に、いつまでも復興の兆しが見えないということはひどく辛いことだ。かつて故郷を失ってしまった右僕射を見て、ヒノトはそれを知っている。
「あれ、ねぇあそこ」
 廊下の向こうを横切る女に先に気が付いたのは、ヒノトではなく友人の一人である。彼女はアリガやヒノトの肩を叩き、耳打ちした。
「ねぇ、道変えたほうがいいかな」
「そのようじゃな」
 友人の提案に、ヒノトは足を止めて同意した。廊下の向こう、数人の女官と護衛らしき兵士に傅かれて道を行くのは、どう見ても高貴な人間――他国からの来賓だったからだ。
 緩やかに波打つ豊かな蜂蜜色の髪を背に流し、足音もなく颯爽と歩く妙齢の婦人。肌の色はヒノトと同じ小麦色。その横顔は端整で、遠くを見据える瞳は、夏に萌える緑のような、深みを帯びた翡翠の色をしていた。
(王族)
 この大陸のどこかの王族だ。その瞳を見るだけで、わかるものはわかる。
「こっちからでもいけるよね」
 アリガが迂回路を指差して踵を返す。その後に続こうと、ヒノトもまた身を翻し――……。
「あ、ねぇヒノト」
「……っ!?」
 かしゃんっ
 急に振り返った友人の手がヒノトの顔の前をかすめ、掛けていた眼鏡が落下した。不運なことにそれは研磨された石畳の上を滑り、避けようとしていた女人の足元で止まる。婦人は立ち止まり、追従していた女官が慌ててそれを拾い上げた。
「無礼者!」
 眼鏡を握り締めて、女官が叫ぶ。
「陛下の道中を邪魔立てするとは何事ぞ!」
「す、すみません!」
 眼鏡を握り締めて叫ぶ女官に、ヒノトの眼鏡を弾き飛ばしてしまった友人が慌てて叫ぶ。その女官の傍らで、ヒノトは膝を付き、その場にひれ伏して頭を垂れた。
「申し訳ありませんでした」
 ヒノトに倣って、友人達もその場に膝を突く。その気配を感じ取りながら、ヒノトはただ、身を伏せ続けた。
「私の不注意です。……なにとぞ、お許しを」
「それでも!」
「待て、リニョン」
 激昂する女官を押しとどめたのは、沈黙を守っていた婦人のほうだった。彼女は女官と護衛を下がらせると、手に持っていた扇の先をヒノトに向けて、静かに命じた。
「その、銀の髪の。面を上げなさい」
 ヒノトは一度逡巡し、結局は命ぜられるままに面を上げた。毅然とした佇まいは、単に王族に連なるというだけではないだろう。女王、もしくは皇后。どこかの国の頂点、それに近い地位の女に違いない。纏う凛とした雰囲気が、『友人』に似ていた。
「……名前は?」
 おもむろに、婦人は尋ねる。訊きながらも女の声音には、覚えるつもりなどないという淡白さがある。婦人の持つ扇の先が、目をそらさぬようにと、ヒノトの顎先を固定していた。
 脅えに、友人達が身体を強張らせる。
 ヒノトは婦人を見上げたまま、淡々と答えた。
「ヒノトです」
「姓は?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
「出身は?」
「リファルナですが、今はブルークリッカァに」
「……そう」
 婦人は、扇を収めた。ヒノトを睥睨しながら、呟く。
「お前、緑の目をしているのだね」
「……はい」
 ヒノトは頷いたが、婦人はそれ以上、追求してくることはなかった。豪奢な刺繍の施された衣装の裾を翻して、その場を離れる間際、女官に向かって彼女は命じる。
「それを返して差し上げなさい、リニョン」
 女官は何かを言いたげに口を曲げたが、結局は命令に従って、手の中の眼鏡をヒノトに返却した。すでに遠くなりつつある背中を追いかけ、その場を去っていく。
「……び、びっくりしたね……」
「ごめんヒノトぉ」
「いや、かまわんが……」
 嵐のように人々が去って、緊張の解けた友人達が半泣きになりながらヒノトの腕に縋り付いてくる。あの迫力に、圧倒されてしまったのだろう。
「あーびっくりした」
 飄々としているのは、胸に手を当てながらそう呻いているアリガと、あの雰囲気に慣れているヒノト自身のみだった。
「眼鏡、大丈夫だった?」
「うむ。壊れとらん」
 返された眼鏡を掛けながらヒノトはアリガの問いに答える。軽く足元の埃を叩いた親友は、貴婦人たちの消え去った方向に視線を向けながら呻いた。
「君の何が気になったんだろうね」
「さぁ」
 ヒノトは嘯く。何事もなければいいと、祈りながら。
「なんなんじゃろうな」


 しかし、何事もなく、終わるはずはなかった。
 最後の夜に王の餞別として行われた小さな宴の後、長い研修も終了し、いよいよ明日には東大陸に戻るとあって、研修生たちは浮き足立っていた。最後の半日は自由時間だ。観光であれば、もう少し大国がよかったと不平を漏らすものもいれば、昼寝をして過ごすと早くも主張しているものもいる。無論、町を観光して帰るものもいるだろう。ヒノトはそのどれでもない。
 墓を、参るつもりだった。
 これを逃せば、もう二度と、足を踏み入れることのないだろう。
 養母たちの、墓を。
 いくら以前よりは復興したとはいっても、通り一本外れた先の治安は昔とそう変わりないだろう。荷物の中に隠し持っていた護身用の短剣――カ・エンジュとよばれる、医療の民の紋章が入った、養母の形見を確認していたヒノトは、突如部屋に響いた声に面を上げていた。
「失礼いたします。……ヒノト様は、いらっしゃいますか?」
 満腹感と開放感に浮かれる部屋に足を踏み入れた男は、赤毛の、柔和な雰囲気を纏う男だった。頭には被り物をし、そこから垂れている刺繍の施された美しい布で、顔の半分を隠している。
 彼はヒノトの顔を知っているはずだったが、探すふりのためか、研修生達全員を見渡すようにして声をかけていた。
 皆の視線が、一斉にヒノトに注がれる。
「……私ですが」
 何か用か、と無言で問う。男は微笑んだ。
「はい。王陛下が、ぜひとも最後に挨拶を、と」
「……私だけ? 何故?」
「最初も最後も、宴に出席されなかったのは貴方だけでした。陛下がお声をかけてられていないのも貴方だけです。もし、体調がよろしいようでございましたら、最後に一目お会いしたいとの、お言葉でございます」
 言い方は婉曲的だが、拒否は許さぬという口調だった。
「わかりました。参ります」
 ヒノトは微笑んだ。
「少し外に出ていただいても? 服を着替えますので」


 短剣、簪、細い紐。その他、人を殺す武器になりそうなものは全て荷物の中に置き去りにした。
 帯も細いものから柔く幅広のものに取替える。装飾品も一切持たない。飾り気のない身なりに、アリガはそんな簡素な装いで王を訪れてよいのかと怪訝そうに尋ねてきた。これでいいのだと、ヒノトは笑って答えてやった。


「お久しぶりです、ヒノト様」
 案内役を命ぜられているらしい男の後に付いて、奥へ奥へと進む。兵士すら巡回しない再奥に招かれた後、彼はようやっとそのように口を開いた。
「久しぶりじゃな、カシマ。皆は息災か?」
 王に最も近しい男は、ヒノトの問いに小さく頷いた。
「はい。カラミティ様が残念がっておられました。どうしても此度、アハカーフのほうへと赴かなければならず、貴方とお会いすることができなかった」
「あぁ、うん」
 この国の御殿医として招かれた知己を思って、ヒノトは微笑む。
「カラミティならばまた、会う機会もあるじゃろうて」
 カラミティはこの国を終の棲家と決めたようだが、もとはバヌアという、もうこの世に存在しない島国の出身――水の帝国の、右僕射と同じ――だった。バヌアは諸島連国の領土に位置する。彼女が里帰りする際に、水の帝国に寄ることはそう難しいことではない。
「元気でと、伝えてほしい」
「かしこまりました。……ヒノト様」
「うん?」
 樹の根と根の間に挟まれるようにして存在する一枚の扉の前で立ち止まったカシマは、申し訳ありませんが、と前置いた。
「護身用の短剣など、今お持ちでは? こちらで預からせていただきたいのですが」
 彼が意図する剣とは、エイ経由でヒノトにもたらされた、養母の毒の短剣のことだろう。
 ヒノトは扉を見つめたまま、嗤った。
「置いてきた。なんならここで裸にでもなってやろうか? 針一本、見つからぬであろうよ」
 その言葉の含む意味を、悟ったらしい。カシマは恭しく頭を垂れる。
「……貴方様は、やはり、ご自分のことを」
「うん。ドルモイ、といったか。あの男に聞いた」
 もう、何年も前のこととなる。
 ヒノトがエイと初めてであったあの時。ヒノトがこの国を出るきっかけとなった事件。ドルモイというかつての王の近習が、王に対して謀反を起こした。彼はヒノトを捕らえて言ったのだ。
 ヒノトは、かつてこの国が王を失い、滅びへの道を歩む切欠ともなった、呪われた子供なのだと。
「不思議じゃな」
 ヒノトは呟いた。
「呪いのことなど何もわからぬと思うておったのに、こうやって、この城に立ったとき、全て判ってしまった。……これが、呪いなのじゃな」
 血が、騒ぐ。
 殺せと、何かが囁く。
 これは、誰の声だろう。
 この、身体をじわじわと侵食する衝動は、一体何なのだろう。
「お飲み物は、申し訳ありませんが、一切ありません」
「うん」
 互いに毒を入れることを防ぐためだ。無論、ヒノトは毒など持ち歩いてはいない。これから相対する相手もそうだろう。けれど、警戒だけは怠ってはならないのだ。
「大丈夫です。殺すために、貴方を招いたわけではありません」
「知ってる」
「……会いたがっておられました」
「うん。……妾もじゃ」
 カシマが、扉を開いた。
 その先にいた青年は、長椅子から立ち上がって、久しぶりだ、と微笑んだ。
「イーザ」
 ヒノトは名を呼んだ。この国を統べる、王の名を。
 短くした銀の髪に、小麦色に似た、浅黒い肌。濃い緑の双眸。
 あぁ、どうして貧民窟で生きていた頃、この男と自分を、赤の他人だと思えていたのだろう。身体を形作る色も、目の形も、こんなにも似通っている。
 イーザ・ムサファ・リファルナ。
 この、榕樹の小国リファルナを治める、若き王。そして――ヒノトの、異母兄だった。
 通された部屋は、客室というにはあまりに簡素な部屋だった。木の根が壁から突き出るその部屋には、神話か何かの絵柄を織り込んだ絨毯が敷かれ、長椅子が配置されていることを除けば、調度品らしい調度が何もない。本当に、椅子と、部屋の隅に揺れる<灯り>と<消音>の招力石しかないような有様だった。燭台すら、置かれていない。
 部屋の奥へ進み、イーザから距離を置いて、ヒノトは立ち止まった。
「本当に、久しぶりじゃな。元気しておったか? イーザ」
「うん。やぁ、綺麗になったね、ヒノト。お兄さんにかわいがってもらってる?」
 ヒノトは許可を得ず乱暴に長椅子に腰を落としながら、兄に凄んだ。
「冗談ぬかせ。殴るぞ」
「あれ?」
 対面の椅子に腰を下ろしているイーザが、実に意外そうに目を丸めて身を乗り出す。
「かわいがってもらってないの?」
 長椅子の肘掛に頬杖を付いて、ヒノトは言葉を吐き捨てた。
「おんしのかわいがる、が一体どういった定義で吐かれているものか、妾にはわからんが、あやつは今現在妾の後見人で、それ以上でもそれ以下でもない」
「……うわぁ、最悪」
 この世の終わりだといわんばかりに、イーザは天を仰ぐ。
「僕ですら、もうすぐ子持ちになるのに、まだ手ぇつけてないんだぁ……」
「あぁ、子持ちになるのか? おめでとう?」
「ありがとう。はぁ、何やってるんだろうお兄さん。ヒノトを幸せにしてねって頼んだのに」
「何阿呆なことをあやつに言ったんじゃ? まったく」
 ヒノトが盛大な嘆息を零すと、イーザは子供のように笑った。ヒノトの知る昔の彼も、幼子のように笑う少年だった。
「……で、何故、わざわざ妾を呼んだ? 兄上」
 本当ならば、自分達は、このように相対すべきではない兄妹だった。自分が妹だと知っているとも、彼に告げるつもりもなかった。けれどこの場に現れた、人を殺すための道具になりうるもの全てをそぎ落とした自分の姿を見て、彼は全てを悟っているのだろう。兄と呼んだヒノトに対して、イーザはとぼけた様子を見せることはなかった。
「……ヒノトに、会いたいっていう人がいてね」
「……妾に、会いたい人?」
「うん。……カシマ」
「はい」
 イーザの傍に控えていたカシマは、イーザの指示に従い、部屋の奥、榕樹の根の影に隠れた扉を開けた。小さな扉は、子供がくぐれる程度の大きさだった。その縁に頭を当てないように僅かに身をかがめ、そして姿を現したのは――……。
「紹介するよ、ヒノト」
 イーザとヒノトの二人を、上座から見下ろすような形で佇む婦人を示し、イーザは言った。
「こちらは、ラティスメーア女王陛下」
 双獣の王国ウル・ハリス。南大陸でも一、二を争う大国の、絶対君主。
 女王、ラティスメーア・サリア・ツィード、だと。


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